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奪われた帝国――日本人が知らないボリシェヴィキ革命

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回は「ロシア革命」がどのような革命だったのかまとめました。今後もう少し分かりやすいようにイメージを追加したり、要約したりしたいと思いますが、とりあえず、まとめたものをシェアしたいと思います。


革命の予感

ナロードニキ運動

19世紀中ごろ、ロシアではナロードニキと呼ばれる運動が知識人の間で活発化しました。ナロードはロシア語で「人民」を意味する言葉で、ナロードニキ運動は君主制を打倒し、人民のための社会主義国家の建国を目指すものでした。

ナロードニキ運動の代表的な指導者だったのが、ロシアの社会主義の父と呼ばれる作家のアレクサンドル・ゲルツェンとジャーナリストのニコライ・チェルヌイシェフスキーでした。

ゲルツェンはロシアからイタリア、フランス、スイスに移り住み、そこで1848年の革命の影響を受けました。この頃、彼はロスチャイルド家の協力によりロシアの資産を取り戻しています。その後彼ははイギリスに渡って第一インターナショナルの活動に参加し、そこでマルクスやバクーニンと知り合います。

1853年にゲルツェンはロンドンにおいて自由ロシア出版を設立しました。ロシア皇帝とロシア官僚の無能さを報道し続けた自由ロシア出版の定期刊行物はやがてロシアに密輸されたため、ロシア全土に彼の言葉が影響力を持つようになりました。

チェルヌイシェフスキーは学生時代に西欧の社会主義者やゲルツェンらロシアの社会主義者の影響を受け、後にサンクトペテルブルクで詩人のプーシキンによって創刊された『同時代人』という雑誌の編集長として活動しました。

1861年に彼らの言論活動が実を結び、ロシア皇帝アレクサンドル2世は中世から続いていた農奴制を廃止しました。しかし彼らは皇帝による改革は十分ではないとして、更なる改革を求め続けました。

秘密結社「土地と自由」「人民の意志」

また彼らが発起人となり、同年に「土地と自由」と呼ばれる政治結社が作られました。「土地と自由」はモスクワやサンクトペテルブルクなど十数都市のサークルの連合体でした。しかし翌年、チェルヌイシェフスキーら一部指導者がロシア帝国当局に逮捕されました。更にポーランドの革命家たちと協力して農民蜂起を計画しましたが失敗し、1864年には解散を余儀なくされました。

チェルヌイシェフスキーは、収監中に『何をなすべきか』という小説を書きました。多くのロシアの革命家たちがこの作品に触発され、レーニンにいたっては後にこの小説と同名の政治パンフレットを書いています。

1876年にアレクサンドル・ミハイロフゲオルギー・プレハーノフマルク・ナタンソンらが「土地と自由」を再組織化します。農村での煽動活動を重視したプレハーノフらはテロ活動を容認できないとして、1879年にこの組織から離脱しました。

残った会員は革命には暴力が必要だと考えていました。暴力を肯定する考えはイタリアの社会主義思想家でマッツィーニの信奉者、カルロ・ピサカーネの「行動のプロパガンダ」の影響を受けていると言われています。ピサカーネは暴力を用いることによって自分たちの大義に注目が集まり、大衆にもさまざまな恩恵をもたらすと考えました。

ミハイロフらテロ容認派も同年に「土地と自由」を解散し、新たに「人民の意志」という組織を結成しました。

「人民の意志」は1881年にアレクサンドル2世を暗殺します。アレクサンドル2世はそれまでにも何度か革命家たちによって命を狙われてきました。「人民の意志」は1879年にもアレクサンドル2世の暗殺を計画しましたが、失敗に終わっていました。

1880年にミハイロフが逮捕され、暗殺計画はアンドレイ・ジェリャーボフが指揮しましたが、実行する前に彼も逮捕されたため、代わりに妻のソフィア・ペロフスカヤが暗殺の指揮を取りました。

軍事演習の視察を終えたアレクサンドル2世が乗る馬車の下に一人目の暗殺実行犯が爆弾を投げ入れました。爆発によって馬車は傷つき、コサック兵の一人が致命傷を受け、のちに亡くなりましたが、皇帝は無傷でした。皇帝は驚き馬車から降りました。そこへ二人目の実行犯が更に足元に爆弾を投げ入れました。これによりアレクサンドル2世と二人目の実行犯が負傷し、その後両者ともに息を引き取りました。

この事件の後、「人民の意志」は1887年に更に父の後を継いだアレクサンドル3世の暗殺を企てましたが、こちらは失敗に終わり、指導者の多くが捕まったため消滅しました。この事件で爆弾の製造に関与して処刑されたのが、レーニンの兄であるアレクサンドル・ウリヤノフでした。

労働者運動への発展

同じころ、現在のウクライナのオデッサで、マルクス主義の影響を受けた南ロシア労働者組合が、1875年にエフゲニー・ザスラフスキーらによって創設されました。この組織も暴力による革命を肯定していましたが、翌年にはロシア当局による取締りによって消滅しました。

一方、サンクトペテルブルクでは1878年にステパン・ハルトゥリンらによって北ロシア労働者組合が創設されます。ハルトゥリンは1880年に「人民の意志」の指令により冬宮殿に潜り込みアレクサンドル2世の暗殺を企てました。彼は食堂の下に爆弾を仕掛けましたが、夕食の時間が遅れたために暗殺は失敗しました。この爆発によって11人が死亡しています。

1883年、「土地と自由」から離脱していたプレハーノフは、レフ・デイチやパーヴェル・アクセリロードらと共に、亡命先のジュネーヴで労働解放団を創設しました。

ウラジーミル・レーニンは青年時代にチェルヌイシェフスキー、マルクス、プレハーノフらの著作の影響を受けました。1895年に労働解放団のサンクトペテルブルク支部を作ろうとしていたユーリー・マルトフらと共に社会民主主義組織を創設します。この組織は労働者階級解放総同盟と改名し、後のロシア社会民主労働党の母体の1つとなります。

レーニンは仲間と共にスイスを訪問し、プレハーノフやパーヴェル・アクセリロード、マルクスの義理の息子であるポール・ラファング、その後ドイツで社会主義者のヴィルヘルム・リープクネヒトらと接触します。

しかし、その後レーニンは投獄され、1897年には母親や姉妹と共に東シベリアに追放されました。1900年に再びスイスを訪問し、労働解放団のプレハーノフやアクセリロード、マルトフらとともに、はじめはドイツにおいて『イスクラ』と呼ばれる政治新聞を発行しました。

同じ時期の1897年、現在のリトアニアのヴィリニュスにおいてユダヤ人による社会主義団体、ロシア・ポーランド・ユダヤ人労働者総同盟がアルカディ・クレーメルらによって設立されました。この組織は1901年にリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟という名前に変更されます。

当時ユダヤ人の間ではシオニスト運動が活発化していましたが、総同盟はシオニズムに反対の立場を取りました

ロシア社会民主労働党の結成

1917年、ロシア十月革命においてボリシェヴィキという組織が、当時のロシア臨時政府を打倒しました。ボリシェヴィキというのはロシア社会民主労働党と呼ばれる政党でレーニンが指導的役割を果たした派閥のことをいいます。

遡ること1898年、三つの組織の代表者が密かにミンスクに集まり会議を開きました。この会議は今日、ロシア社会民主労働党第一回大会として知られています。この会議は今日もソヴィエト・ロシアの最初の会議として数えられています。

参加した組織の1つはレーニンによって創設された労働者階級解放闘争総同盟で、サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ、エカテリノスラフのそれぞれの代表者が参加しました。

2つ目の組織は同じころに誕生したリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟で、アルカディ・クレーメルら3人が参加しました。3つ目はキエフの『労働者新聞』(ラボチャヤ・ガゼータ)で、こちらからは2名が参加しました。

会議の後、集まった代表者の9名の内8名が逮捕されるなど、壊滅的な打撃を受けました。ポーランドで第2回大会の準備が計画されましたが、こちらもメンバーのほとんどが逮捕されました。ロシア社会民主労働党の大会は『イスクラ』の編集委員会のメンバーたちの働きにより、1903年に復活します。
始めにベルギーで、のちにロンドンに移った第2回大会では、レーニンのボリシェヴィキとマルトフのメンシェヴィキという2つの派閥に分裂する結果となりました。後にレーニンと共に活動したレオン・トロツキーは当時メンシェヴィキに属していました。

ロシアでは1905年に血の日曜日事件が起こり、これがロシア第一革命へと発展しました。サンクトペテルブルクに戻ったトロツキーは多数の労働者の前で演説を行い、革命の商人と呼ばれたアレクサンドル・パルヴスと共に新聞を買収し、発行部数を大幅に伸ばしました。

ボルシェヴィキは同年にレーニンの指導のもと、ロシア社会民主労働党大会をロンドンで単独で開きました。レーニンは11月にサンクトペテルブルクに戻り、ボリシェヴィキの庇護者だったマリヤ・アンドレーエワの助けを借りて言論活動を繰り広げました。アンドレーエワはレーニンらボルシェヴィキ革命家たちと繋がっていた社会主義者で小説家のマキシム・ゴーリキの内縁の妻でした。

翌年、ストックホルムでロシア社会民主労働党の第4回大会が開催されました。この会議からグルジア出身で、後にロシアの権力を掌握するヨシフ・スターリンが参加します。

メンシェヴィキが多数派を占めたこの大会では武装強盗などを行わないことが合意されましたが、レーニンとスターリンはこの決定に反対し、強盗を継続することを話し合いました。1907年にグルジアのティフリスに戻ったスターリンは銀行襲撃を指揮して40名殺害するなど、犯罪行為を繰り返しました。

このため1908年にスターリンは逮捕され、その後1917年のロシア革命がおこるまで、彼は逃亡と逮捕、流刑を繰り返しました。1912年にシベリアに流刑となったスターリンは、後に革命で行動を共にするヤーコフ・スヴェルドロフと出会います。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシア社会民主労働党が所属していた第二インターナショナルで戦争容認派と反対派の対立がおこりました。

各国の戦争反対派は1915年にスイスのツィンマーヴァルトで会議を開きましたが、やがてツィンマーヴァルトの左派がコミンテルン(第三インターナショナル)に発展していきました。1916年に反戦活動をしていたトロツキーがフランスからスペインに追放され、更にアメリカに送還されました。

二月革命

ロシア第一革命

1904年に大日本帝国とロシア帝国との間で日露戦争が勃発しました。ロシア第一革命は日本とロシアとの戦争のさなかに勃発しました。

1904年12月、鉄道や大砲を製造していたプティロフという工場を中心にサンクトペテルブルクでは15万人にもおよぶ大規模なストライキが展開されました。22日、ロシア正教のゲオルギー・ガボン司祭は当時の皇帝ニコライ2世に嘆願書を届けるべく、労働者を引き連れて冬宮殿に向かいました。デモ隊に対する軍や警察の対応は一貫性がなく、混乱が続く中、各所で軍が独断で発砲し、多くの市民を殺害するという痛ましい事件に発展しました。この事件を血の日曜日事件といいます。

事件の結果、帝国内各地でストライキが勃発し、翌年の2月にはニコライ2世の叔父で大公のセルゲイ・アレクサンドロヴィチがロシア社会革命党のメンバーに暗殺されるなど、多くの暗殺事件が革命家たちによって引き起こされました。

ロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの作品である『戦艦ポチョムキン』の題材となったポチョムキンの叛乱もこの年6月におこりました。
5月の日本海海戦では、ロシアのバルチック艦隊が日本の海軍に大敗し、日露戦争の敗北が決しました。9月にアメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの仲介により日本との間にポーツマス条約が調印されました。アジアの新興国に敗北を喫したことで、ロシア国民の不満も高まりました。

ニコライ2世は8月にドゥーマと呼ばれる議会の招集を布告し、10月には十月詔書を布告して選挙権を拡大し、ドゥーマに一定の権限を与えることを約束しました。このように市民の不満や反発を和らげるための政策を数多く打ち出しましたが、一方で最終的には1万人を超える活動家が殺害されたと言われています。

革命家勢力の1つであるロシア社会民主労働党は、10月にサンクトペテルブルク・ソヴィエト(評議会)を組織しました。ソヴィエトはレオン・トロツキーアレクサンドル・パルヴスらが精力的に活動したことが知られています。初代議長のゲオルギー・フルスタレフ=ノサールが逮捕されると、トロツキーがソヴィエトの新議長に選出されました。この動きに対してロシア警察は12月にソヴィエトの会議中に建物を取り囲み、中に突入してトロツキーをはじめとする参加者をまとめて逮捕しました。

二月革命

1914年6月28日にサラエヴォ事件がおこり、オーストリア=ハンガリー帝国は最後通牒を発した上で、7月28日にセルビアに宣戦布告しました。このためセルビアを支持するロシアは30日に総動員を命じました。ドイツはロシアに対して総動員をやめるように要請しましたが、拒否されたため最後通牒を発し、8月1日にドイツはロシアに対して宣戦布告しました。

開戦当初、ロシア国民の多くは戦争を支持し、ナショナリズムが高揚しましたが、度重なる敗戦により数多くの兵士を失い、更に補給が十分に行き渡らず、軍の士気は著しく低下しました。ニコライ2世はみずから前線に出て軍を指揮しましたが、国内ではアレクサンドラ皇后とその寵愛を受けた怪僧グリゴリー・ラスプーチンが政治に干渉し続けました。皇后は自分の意に沿わない人物を次々に罷免したことから、政治家や民衆の不信を買いました。このためラスプーチンは1916年12月30日に不満を抱いた貴族たちによって暗殺されました。

1917年の3月にペトログラード(第一次世界大戦開戦直後、ドイツ風のサンクトペテルブルクという呼称はロシア風のペトログラードに改められました)のプティロフ工場の労働者がストライキを開始しました。8日には国際女性デーがあり、女性労働者の多くもデモ活動に参加しました。10日には街頭での集会が禁止されていたにも関わらず、25万人にもおよぶ人々がストライキを行いました。デモ隊は皇帝に代わり、より進歩的な指導者を求めました。

軍は街の中心部を封鎖しましたが、首都は完全に無秩序な状態に陥ってしまいました。ドゥーマ議長のミハイル・ロジャンコはニコライ2世から信頼されているニコライ・ゴリツィンに代わる新しい内閣の発足を求めました。ニコライ2世はこれを拒否し、逆にドゥーマに軍を派遣して解散させました。

ロジャンコはモスクワの大手製造メーカーやペトログラードの銀行家の支援を受けてドゥーマ政府臨時委員会を創設しました。ゴリツィンは内閣総辞職を決定し、ニコライ2世に辞表を提出しました。

ロジャンコはゴリツィン内閣の閣僚らを逮捕し、ペトログラードへの帰還を阻止されていた皇帝に対しては、陸軍大将やドゥーマ議員らが退位と譲位を要求しました。3月15日に、ニコライ2世は助言にしたがい退位を余儀なくされ、後継者に指名された弟で大公のミハイル・アレクサンドロヴィチがこれを拒否したためロマノフ朝は滅亡しました。翌16日にドゥーマ政府臨時委員会はゲオルギー・リヴォフを首相とするロシア臨時政府を樹立しました。

二重権力体制

ペトログラードが混乱していた3月12日、労働者と兵士を代表する機関として、1915年に創設された中央労働者団体を母体とするペトログラード・ソヴィエトが設立されました。この組織の議員の多くはロシア社会民主労働党のメンシェヴィキのメンバーでした。議長にはジョージア出身の革命家でメンシャヴィキのニコライ・チヘイゼが就任し、メンシャヴィキのマトヴェイ・スコベレフと社会革命党員となるアレクサンドル・ケレンスキーが副議長を務めました。

ソヴィエトは3月14日に、臨時政府となるドゥーマの先手を打ちました。ドゥーマの軍事員会の命令はペトログラード・ソヴィエトの命令・決議に抵触しない限り認められるという命令を発したのです。

ロシアは十月革命が起こるまで、旧ドゥーマの臨時政府とメンシェヴィキを中心とする社会主義者のペトログラード・ソヴィエトという二重権力体制になりました。ペトログラード・ソヴィエトの執行委員会の三人の議長であるチヘイゼ、スコベレフ、ケレンスキーの三人は秘密結社フリーメイソンのグランドロッジであるロシア人民の大東社のメンバーだったことが知られています。ケレンスキーは当時、ロシア人民の大東社の事務総長を務めていました。

一方で対立する臨時政府の閣僚に、ペトログラード・ソヴィエト副議長のケレンスキー、スコベレフに加え、立憲民主党のアンドレイ・シンガレフ、ニコライ・ネクラーソフ、進歩党のアレクサンドル・コノヴァノフ、無所属のミハイル・テレシチェンコなどロシア人民の大東社のメンバーが入閣していることは興味深いものがあります。

ボルシェヴィキ

二月革命が起こったことをスイスで知ったレーニンは喜びましたが、ロシアとドイツが抗戦中であったため、ロシアに戻る術がありませんでした。イギリス経由での帰国も模索しましたが難しいことがわかりました。

しかし、戦争の利害がレーニンのロシアへの帰国を現実にします。ドイツの東部戦線参謀長マックス・ホフマンは、スイスの亡命者をロシアに送り込むことによってロシアを破壊することを考えます。このアイデアは革命の商人と呼ばれたアレクサンドル・パルヴスとドイツの外交官ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウによるものだったとも言われています。

レーニンとドイツ政府との仲介役には、ポーランド・リトアニア王国社会民主党のヤーコフ・ガネツキー、ドイツ社会民主党左派で後にドイツ共産党党首となるパウル・レヴィ、ツィンマーヴァルト会議の主宰者だったスイス社会民主党のロバート・グリム、同党のフリッツ・プラッテンなどがいました。

渡航許可はロシアにいるドイツ人・オーストリア人の捕虜や抑留者との交換という形で行われ、プラッテンが責任者として同行し、許可なく乗り込むことができない封印列車という形で連れていくということになりました。

列車は後にコミンテルン執行委員会議長となるグリゴリー・ジノヴィエフや、財務人民委員となるグリゴリー・ソコリニコフ、秘密警察チェカの幹部となるアブラム・ベレンキー、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフ、イタリアの共産主義者アンジェリカ・バラバーノフなど、著名な多くのユダヤ人を含む革命家たちをロシアに運びました。のちにドイツ共産党を結成するべく暗躍したカール・ラデックは途中のストックホルムに残りロシア国外から活動をつづけました。

他方で革命当時ニューヨークで活動していたレオン・トロツキーもまた3月27日にグリゴリー・チュドノフスキーらとともにロシアに向けて出航しました。途中一行はカナダで拘束されましたが、ロシア臨時政府外相のパーヴェル・ミリュコーフからの要求により、イギリス政府はトロツキーを解放しました。

ニューヨークでトロツキーと共に行動していたニコライ・ブハーリンヴェ・ヴォロダルスキーらは4日後に日本経由の船でロシアへ出国しました。日本を訪問した革命家たちはニューヨークで共に活動していた片山潜の紹介により日本で堺利彦や加藤時次郎と面会します。

レフ・カーメネフやヨシフ・スターリン、ヤーコフ・スヴェルドロフらも流刑地からペトログラードに帰還しており、世界中に散らばっていた最も急進的な革命家たちがペトログラードに一挙に集結しました。彼らは二月革命中に兵士によって占拠されたバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤの豪邸を活動の拠点としました。

4月3日に帰国したレーニンはただちに10か条の四月テーゼを発表しました。ボリシェヴィキはここで臨時政府を支持せず、国家権力をソヴィエトが掌握すべきであることを示し、プロレタリアートによる共産主義体制へと移行し、新しいインターナショナルを創設することを主張しました。しかし実際には臨時政府に従属的な社会革命党とメンシェヴィキが支配するペトログラード・ソヴィエトにおいてボリシェヴィキは第3勢力の少数派でしかありませんでした。

七月蜂起とコルニーロフの反乱

7月16日、兵士や労働者のデモ隊がレーニンの四月テーゼの主張である「ソヴィエトに全権を」をスローガンに行進しました。デモ隊の多くは臨時政府や社会革命党、メンシェヴィキではなく、ボリシェヴィキの支持者でした。

このデモ活動がボリシェヴィキの指導者が主導したものなのか、自然発生的なものなのか明確ではありませんが、当のボリシェヴィキはデモ隊を支持することを拒否しました。ボリシェヴィキの本部であるクシェシンスカヤ邸で集結したデモ隊を前に、スターリンやスヴェルドロフらが制止を試みましたが、反発を買う結果となりました。

7月17日にもクロンシュタットの水兵をはじめとした多数の兵士や労働者が抗議活動を続けました。デモ隊はロシア臨時政府が置かれたタヴリーダ宮殿前で激しく抗議しました。

7月18日、軍当局が出動してデモ隊の武装を解除し、軍の部隊を解散させて、逮捕を開始しました。社会革命党とメンシェヴィキは反体制派への懲罰措置を敢行し、ボリシェヴィキのヴャチェスラフ・モロトフやカーメネフ、スターリンらが編集を担当していた機関誌『プラウダ』の事務所や印刷工場、ボリシェヴィキの本部を制圧しました。

レーニンはジノヴィエフらとフィンランドに逃亡することに成功しましたが、トロツキー、カーメネフら多くのボリシェヴィキ指導者は逮捕されました。臨時政府は首相のリヴォフが責任をとって辞任し、元陸海軍相のケレンスキーが新しい首相に就任しました。

この頃ロシア軍はルーマニアを援護するために、ドイツ・オーストリアとの東部戦線で攻勢を仕掛けましたが失敗に終わりました。このためロシア軍最高総司令官のアレクセイ・ブルシーロフが解任され、ラヴル・コルニーロフが新たに任命されました。

コルニーロフはペトログラードにおいてソヴィエトとボルシェヴィキ革命家から臨時政府を守る計画を立てます。ケレンスキーは9月2日にペトログラードとその周辺に戒厳令を発令して、ボリシェヴィキと戦うために軍団をペトログラードに派遣するというコルニーロフの提案を受け入れました。

ソヴィエト出身のケレンスキーにとってコルニーロフの行動は守旧派による反動、革命に対する反逆にも見えました。コルニーロフとのやり取りの中で反逆行為と確信したケレンスキーは、コルニーロフを最高総司令官から解任するという電報を送りました。

ケレンスキーの本心を掴みかねていたコルニーロフは新聞に掲載されたケレンスキーの声明に激怒し、最高総司令官の解任を拒否し、後任を言い渡されたアレクサンドル・ルコムスキーもこれを拒否しました。

9月10日にコルニーロフは全権を掌握し、偉大なロシアを救済すると宣言し、一方のケレンスキーはコルニーロフを反逆者であると正式に宣言しました。臨時政府はボリシェヴィキが組織した赤衛隊の力にも頼る必要がありました。赤衛隊は大多数の隊員は消極的だったものの十月革命前にはその数25万人にも及んだとされます。

元々流血を望んでいなかったコルニーロフは臨時政府側の参謀長ミハイル・アレクセーエフによってただちに逮捕されました。この後、臨時政府はトロツキーをはじめとするボリシェヴィキ革命家たちを解放し、10月3日にトロツキーはペトログラード・ソヴィエトの議長となり、25日に軍事革命委員会を創設しました。この機を逃さずに逃亡していたレーニンらも再びペトログラードに帰還しました。

ケレンスキーとコルニーロフはボリシェヴィキを排除したいという共通認識をもっていましたが、両者の想いは皮肉にもロシアをボリシェヴィキに明け渡すきっかけを生み出してしまいました。

十月革命

ペトログラード・ソヴィエトの武装蜂起

軍事革命委員会を組織したペトログラード・ソヴィエトではニコライ・ポドヴォイスキー、ウラジーミル・アントノフ=オヴセエンコらが委員会の書記局に任命され、社会革命党のパーヴェル・ラジミールが初代委員長に選出されました。ただし、実際に軍事革命委員会を指導していたのはソヴィエト議長のレオン・トロツキーでした。

10月23日、ボリシェヴィキによる中央委員会の会議が開催され、武力蜂起すべきかどうか投票が行われました。レフ・カーメネフとグリゴリー・ジノヴィエフは武力蜂起に反対する立場を表明しましたが、他のメンバーは賛成票を投じました。カーメネフが自分の意見を新聞に掲載させたため、臨時政府のケレンスキーもこのことを認識していました。

ペトログラード・ソヴィエトは軍事部隊や武器弾薬庫などに委員を派遣して軍などへのソヴィエトの影響力を拡大しようと試みました。11月6日、アレクサンドル・ケレンスキーは『プラウダ』から『労働者の途』と改名していた新聞の印刷所を襲撃させ、委員会に対する逮捕命令を下しましたが、印刷所は直ぐにボリシェヴィキ派の兵士たちが奪還しました。軍事革命委員会は更にペトログラードの電信施設を奪取し市内の通信網を掌握しました。

11月7日、ボリシェヴィキは臨時政府に対して武装蜂起を起こしました。ケレンスキーは抵抗する術がなく、アメリカ大使館から車を借りてペトログラードから退避しました。

軍事革命委員会のアントノフ=オヴセエンコ、グリゴリー・チュドノフスキーらは臨時政府の議会となっていたマリインスキー宮殿を占領し、その後に冬宮殿を包囲するという計画を立て実行します。

冬宮殿ではわずかな士官候補生や将校、女子大隊だけが取り残されているだけでした。海上ではかつてトロツキーとともにニューヨークで活動していたアレクサンドラ・コロンタイの夫パーヴェル・ディベンコらが反乱軍の艦隊を指揮しました。

軍事革命委員会の指導のもと赤衛隊はペトログラード全域をほぼ抵抗を受けずに管理下に置くことに成功しました。レーニンはペトログラードからロシア全土へ向けて臨時政府を打倒したと勝利宣言をしました。

冬宮殿では20時頃にチュドノフスキーが降伏するよう説得しましたが拒否されました。このため巡洋艦のオーロラが空砲を発射し、心理的に揺さぶりをかけました。アントノフ=オヴセエンコ率いる革命軍は日を跨いでから冬宮殿に突入し、残された兵士たちはほとんど抵抗することなく降伏しました。

新政府の樹立と憲法制定議会

11月7日、スモリヌイ学院で全ロシア労働者・兵士代議員会議が開催されました。選挙によりボリシェヴィキと左派社会革命党が過半数を獲得して勝利し、右派社会革命党とメンシェヴィキはクーデターに抗議し退席しました。
翌日まで持ち越した議会でカーメネフは冬宮殿の崩壊と臨時政府閣僚の逮捕を発表しました。「ロシアの全権は労働者、兵士、農民のソヴィエトのものとなった」と宣言しました。

2日目の会議ではレーニンがソヴィエト新政府の樹立を議会に宣言し、嵐のような拍手を受けました。レーニンは全ロシア中央執行委員会のこれまでの組織を解散し、人民委員会議(別名ソヴナルコム)を設立することを提案し、レーニンが初代議長となりました。

人民委員会議は立法権と行政権を分権せずに、立法・行政の権力機関として機能することになりました。メンバーの多くは、レーニンの死後、トロツキーと共謀した罪によりスターリンによって粛清されました。

この日の議会では私有地の国有化、地主の財産の没収、雇用労働の禁止などを規定を盛り込んだ土地令が採択されました。

9日には101人の中央執行委員会のメンバーが選出され、カーメネフが議長となりましたが、11月21日に党中央委員会においてレーニンと立場の近いヤーコフ・スヴェルドロフにその地位は引き継がれました。

11月25日、全ロシア憲法制定議会の選挙が行われました。この選挙はロシア史上初となる自由選挙であると認識されています。選挙の結果、ボリシェヴィキは第二党に甘んじ、ヴィクトル・チェルノフ率いる社会革命党に第一党の座を明け渡すことになりました。

選挙が開催されたのは第一次大戦中であり、革命によって混乱していた時期であったにも関わらず、4700万人の有権者が選挙権を行使しました。ボリシェヴィキは都市部での知名度とは対照的に、農村部では票を伸ばすことができませんでした。

憲法制定議会は翌年の1918年1月18日にタヴリーダ宮殿で開催されました。議会は右派社会革命党の指導者が支配しました。投票の結果、チェルノフが憲法制定議会の議長に選出されました。憲法制定議会はソヴィエト政府に対して反対の立場を取っており、ボリシェヴィキと左派社会革命党は休会中に特別会議を開き議会の解散を決めて退出してしまいました。

残った議員たちは議論を続けましたが、翌日、右派社会革命党の議員たちは、タヴリーダ宮殿がボリシェヴィキと左派社会革命党議員に封鎖され、議会が解散されているという事実に直面します。議会の解散はその日のうちにスヴェルドロフが議長を務める全ロシア中央執行委員会によって批准されました。こうしてロシアはボリシェヴィキ政権による独裁体制へと動き出していきました。

ロシア革命とユダヤ人

ロシア十月革命はユダヤ・ボリシェヴィキ革命という言葉で表現されることがあります。これに対してはそんなものは陰謀論だという批判もあります。革命以前のナロードニキ運動の頃からマルク・ナタンソンのようなユダヤ人が運動に参加していましたが、その活動の中心はロシア人によるものでした。

リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟のようなユダヤ人による第二インターナショナルに所属する社会主義政党もありましたが、革命の中心勢力ではありませんでした。

ペトログラード・ソヴィエトもユダヤ人が中心となって組織した議会ではなく、ロシア人民の大東社というフリーメイソンのグランドロッジが大きな役割を果たしました。

しかし『イスクラ』を発行し、ロシア社会民主労働党の党大会を主導したメンバーは、レーニン、アクセリロード、マルトフ、トロツキーなどユダヤ人が中心的な役割を果たしました。

もちろんボリシェヴィキとメンシェヴィキではその考え方に小さくない違いがあり、対立していたことは無視できないことですし、たまたま中心的な役割を担ったのがユダヤ人だったという表現も可能かもしれません。

また、レーニンがスイスからロシアへ帰国する際には、ドイツで活動していたアレクサンドル・パルヴスやヤーコフ・ガネツキー、パウル・レヴィなど、多くのユダヤ人活動家がドイツ政府との連絡役となりロシアへの帰国を支援しました。

その後、ペトログラードでボリシェヴィキを指導したトロツキー、スヴェルドロフ、ジノヴィエフ、カーメネフ、ソコリニコフなど、党の中央委員会のメンバーはユダヤ人が多数を占めました。

レーニンは一般的にはユダヤ人として認知されていませんが、レーニンの母方の祖父がユダヤ人であり、その自身の出自については彼の姉の発言などから自覚していたものと思われます。

また、ケレンスキーらペトログラード・ソヴィエトの指導者たちに限らず、レーニンやトロツキー、スターリンほか、ボリシェヴィキの指導者の中にはフリーメイソンが行うとされる合図、前裾に右手を入れる仕草をした写真を残していることからフリーメイソンだった可能性も否定できないでしょう。これについてはレーニンの父親の写真からも確認できます。

このあたりの情報は歴史としてではないにしても、都市伝説の1つとして頭の片隅に入れておいても問題はないでしょう。

ロシア内戦

ブレスト=リトフスク条約と赤軍の結成

ボリシェヴィキ新政権の外務人民委員に任命されたレオン・トロツキーは、ドイツを含む中央同盟国との間に和平交渉をするために、友人のアドリフ・ヨッフェをソヴィエト代表団団長に任命し、一団を派遣しました。中央同盟国はドイツのマックス・ホフマンらが交渉の中心となりました。

この交渉の内容がソヴィエトにとって屈辱的な内容であったため、トロツキーは署名に否定的で党中央委員会での投票を棄権しました。レーニンは国内の統一、さらに世界革命という理念のためにこの条約に署名することが必要であると考えました。このようなレーニンの態度は反対派からは軟弱に見え、左派社会革命党は厳しくレーニンを批判し、人民委員会議を辞任しました。

1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約が締結されました。ロシアは、ウクライナ、ポーランド、ベラルーシ、バルト三国、トルコとの国境地域の支配権を放棄し、さらにフィンランドの独立宣言を承認したことが確認されました。これによりドイツの影響下に入った地域は次々と独立国となりました。

トロツキーは外務人民委員を辞任し、1月28日の人民委員会議で布告された国内の反ボリシェヴィキ勢力に対抗する赤軍の創設に着手すべく陸海軍人民委員会に就任しました。

赤軍を労働者のみで構成するのは不十分であるとして、農民の徴兵を実施し、徴兵に反対する農民を銃殺することによって彼らを強制的に従わせました。強制的な徴兵は大規模に行われ、やがて赤軍は反ボリシェヴィキ勢力よりも数で上回ることに成功します。

一方、ボリシェヴィキに対抗する勢力は非常に多種多様で、統一的な集団ではありませんでした。彼らは互いに緩やかな協力関係を築くことで赤軍に対抗しました。こういった勢力は赤軍と対をなす表現として白軍と呼ばれています。

チェコスロバキア軍団と連合国の介入

1917年、イギリス・フランスなどの協商国は、地方の反ボリシェヴィキ勢力を支援するために、ロシアに介入することを決定しました。イギリスの軍需大臣だったウィンストン・チャーチルはボリシェヴィキを「ゆりかごの中で絞め殺される」べきであると表現し、ロシアを外部から徐々に圧迫することを考えました。

第一次世界大戦中、ロシア帝国内に居住していたチェコ人やスロバキア人の代表者たちは祖国の独立を目指し、ロシアと協商国への忠誠の証としてチェコスロバキア義勇軍を創設していました。捕虜となったチェコ人やスロバキア人の志願兵を編入し、1918年になると4万人にも達するチェコ軍団と呼ばれる巨大な軍事組織になるまでに成長していました。

ボリシェヴィキ政権が中央同盟国と和平交渉を開始すると、チェコ人の政治家で、後にチェコスロバキア初代大統領となるトーマシュ・マサリクはチェコ軍団をロシアからフランスへと移送することを計画しました。

ロシアの主要港がほとんど閉鎖されていたため、彼はウクライナにいる軍団を極東のウラジオストクまで移動させ、そこから輸送船を使って西ヨーロッパへと移動することを決定しました。ボリシェヴィキ政権とチェコ軍団との間にペンザ協定が調印され、ボリシェヴィキ政権は9700kmにも及ぶ大移動を許可しました。

ボリシェヴィキ政権はチェコ軍団がウラジオストクに向かう過程で白軍に加担するのではないかと疑い、一方のチェコ軍団はボリシェヴィキ政権が敵対する中央同盟国の圧力に屈するのではないかと疑っていました。

チェコ軍団はシベリア鉄道沿いで散り散りとなり、移動は思うように進まず、赤軍とチェコ軍団との間でトラブルが起こりました。赤軍は完全武装解除を命じましたが、チェコ軍団は武装解除を拒否するなど対立関係が強くなり、各所で戦闘に発展しました。

6月、ロシアのミハイル・ディテリフスが参謀をつとめたチェコ軍団はウラジオストクのボリシェヴィキ政権を打倒しました。7月になると連合国は立ち往生しているチェコ軍団の救出を名目に、シベリアにアメリカと日本を中心とする限定介入を行う決定をしました。

カスピ海の北を流れるヴォルガ川沿いのサマーラでは、チェコ軍団が都市を占領し、そこにボリシェヴィキ政権により議会を解散させられた社会革命党の議員たちがコムーチと呼ばれる憲法制定議会委員会を設立しました。

コムーチはピョートル・デルベル率いるシベリア臨時政府とともに全ロシア暫定政府を樹立し、自分たちこそが正当なロシアの最高権力の担い手であるとしました。11月18日に陸海軍大臣アレクサンドル・コルチャークが左翼政府に対してクーデターを起こし、自身を最高指導者として全権を掌握し、ボリシェヴィキ政権打倒を宣言しました。

ペトログラードから首都機能が移転されたモスクワでは、選挙で少数派となった左派社会革命党が7月に蜂起し、ドイツ大使を暗殺、秘密警察チェカの長官フェリックス・ジェルジンスキーを人質にとり、電信施設を占拠しました。また、ミハイル・ムラヴィヨフも東部のシンビルスクを占拠しましたが、蜂起はただちに鎮圧されました。

ドイツ軍撤退後のロシア内戦

1918年11月、ドイツでは、キールの水兵が反乱を起こしたことから革命へと発展しました。9日にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ帝国は滅亡しました。これによりフランスで休戦協定が結ばれ、中央同盟国の第一次世界大戦における敗北が決定しました。

ブレスト・リトフスク条約によってドイツに割譲された地域に新しくエストニア共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ベラルーシ人民共和国、ウクライナ国、ポーランド第二共和国という国家が誕生していましたが、ドイツが敗戦によって撤退したため、ソヴィエト政府がウクライナ、ベラルーシ、バルト三国を占領するために赤軍を派遣しました。

一方、連合国のフランス・ギリシャ軍はウクライナ南部に上陸し、オデッサなどを占領しましたが、フランス海軍でロシアへの介入に反対する兵士による反乱が起こるなどしたため、5月までに撤退しました。

対する白軍は東部のコルチャークが1918年12月にペルミを占領、多くの白軍がコルチャークの指揮下に入りました。ロシア南部では1919年1月、義勇軍とドン全大軍が合同して南ロシア軍を結成し、アントーン・デニーキンが司令官となりました。ドイツの支援を受けていた北西軍は、ドイツ撤退後にエストニアと協定を結び、ニコライ・ユーデニチを司令官として1919年10月にペトログラードを攻撃します。

東部では、ボリシェヴィキによる暴力的な徴発が反発を招き、農民たちが蜂起しましたが、蜂起は赤軍によって鎮圧されました。コルチャーク軍はウラル全域を掌握することに成功しましたが、赤軍の総司令官にセルゲイ・カーメネフが就任すると、赤軍はウラル地方から白軍を退けることに成功します。

敗れたコルチャーク軍は1919年11月に白軍の首都オムスクを放棄すると、過酷な冬の時期に、チタまでの2000キロを赤軍の猛追を受けながら退避しなければなりませんでした。コルチャークは先に列車でイルクーツクに向かいましたが、チェコ軍によって阻止され、イルクーツクで軍事革命委員会に引き渡され処刑されました。チタまで逃れた白軍は以後日本軍の支援を受けるザバイカル・コサックの統領グリゴリー・セミョーノフの傘下に入りました。

南部では赤軍が1919年の8月に南ロシア軍に対して反攻を仕掛けました上手くいかず、反対に南ロシア軍はウクライナの多くの都市を占領しました。しかし南ロシア軍はアナキストのネストル・マフノ率いるパルチザン軍に敗北すると、形勢は大きく赤軍に傾きます。

南ロシア軍は占領したウクライナの都市を次々に失い、やがてクリミアへと追い込まれました。1920年4月にデニーキンが司令官の職を辞し、ピョートル・ヴラーンゲリが総司令官に選出されましたが、もはや彼らに反攻する力は残されていませんでした。

北西軍はエストニアからの支援を受けていましたが、コルチャークはフィンランドとバルト三国の分離主義者の要求を拒否しました。これに対してソヴィエト政府はバルト三国との和平交渉を開始したため、北西軍は同盟国の援助を失う結果となりました。ユーデニチ軍は武装解除され、捕らえられた5000人が強制労働収容所に送られました。

内戦終盤

1919年1月、赤軍はベラルーシに進駐して白ロシア社会主義ソヴィエト共和国を設立、さらにポーランド軍に占領されていたリトアニアのヴィリニュスを制圧し、2月にリトアニア=白ロシア社会主義ソヴィエト共和国という緩衝国家を設立していました。

ポーランド軍は直ちにこの緩衝国への攻撃をはじめ、次々とベラルーシの主要都市を占領し、4月に再びヴィリニュスを占領しました。ポーランドの国家元首ユゼフ・ピウスツキはリトアニアの市民にポーランド・リトアニア連邦への復帰を提案します。ピウスツキ政権はかつてのポーランド・リトアニア共和国の最大版図の回復を目指す「ミェンズィモジェ」と呼ばれるポーランドをバルト海から黒海にいたる広大な領域に拡げる計画を立てていました。

ポーランドはさらに8月にはベラルーシ最大の都市ミンスクを占領し、1920年5月にはウクライナのキエフを占領しました。しかしソヴィエトはそこからの反撃に成功し、ミハイル・トゥハチェフスキーが指揮する赤軍はワルシャワ郊外まで迫ります。しかし1920年8月、「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれるワルシャワの戦いにおけるポーランドの勝利により赤軍は撤退を余儀なくされました。

1921年3月にポーランドとソヴィエトはリガで平和条約を結び、ポーランド・ソヴィエト戦争が終結しました。この条約により、ソ連は世界革命の目標を、ポーランドもミェンズィモジェの計画を中止せざるをえなくなりました。

南部ではヴラーンゲリ率いるロシア軍が赤軍相手に奮闘していたものの、ポーランドとソヴィエトの停戦後にミハイル・フルンゼ率いる赤軍の反撃によってクリミアへの撤退を余儀なくされました。1920年11月7日、フルンゼはクリミアへの攻撃を開始し、11日にはクリミア半島に侵入することに成功しました。

14日にヴラーンゲリらはトルコへ亡命しましたが、クリミアに残った兵士と民間人は、ゲオルギー・ピャタコフ指揮のもと、ハンガリー・ソヴィエトの指導者だったクン・ベーラやその恋人だったロザリア・ゼムリャチカらによって虐殺されました。

この後も極東ではしばらく白軍による抵抗が続きましたが、アナトリー・ペペリャエフのヤクートの反乱を最後にロシア内戦はほぼ終結しました。

ソ連と東アジア

極東共和国

ロシアで二月革命が勃発した頃、トロツキーと旧知の仲だったユダヤ人のアレクサンドル・クラスノシチョーコフがアメリカから日本経由でウラジオストクに帰国し、ボリシェヴィキの代表としてウラジオストク・ソヴィエトの議長となっていました。

十月革命の後、彼はハバロフスクに極東人民委員会ソヴィエトを設立し、ロシア極東全域を支配しましたが、チェコ軍団、日本、アメリカなど連合軍の介入により打倒されました。クラスノシチョーコフは逃亡中にサマーラで捕まりましたが、彼を拘束していたイルクーツクの地方政権が打倒されたため釈放されることとなりました。

赤軍の司令部にたどり着いたクラスノシチョーコフはレーニンに対して極東に民主的な緩衝国を建設するように提案します。レーニンはこれを受け入れて、クラスノシチョーコフを極東共和国の大統領とすることを認めました。

1920年7月に日本の遠征軍の由比光衛と極東共和国のクラスノシチョーコフとの間で協定が結ばれ、日本は極東地域から撤退することを決定しました。これにより日本の支持を失ったザバイカル・コサックのセミョーノフは赤軍から攻撃を受けて満州に逃亡することになりました。

ソヴィエトの傀儡国家だった極東共和国は、1922年10月にウラジオストクが陥落すると、ソヴィエトに統合されることとなりました。

モンゴルと共産主義

モンゴルは、清末期に西太后が行った改革により、中国化の脅威にさらされていました。1911年に辛亥革命が起こると外モンゴルでチベット人のボグド・ハーンが帝位につき清朝から独立しました。新政府は仏教による神権政治を行いながらも、近代的な国家を目指しました。

ロシア革命が勃発し、ロシア内戦が始まるとモンゴルは中国の北洋政府に軍事援助を要請しました。しかし実際にソヴィエトがモンゴルに侵攻してくることはなく、モンゴル政府は北洋政府に軍の撤退を要請しました。北洋政府は再びモンゴルを中国の支配下に置くためにこの要求を拒否しました。

北洋政府は徐樹錚を派遣して外モンゴルの植民地化・中国化を計画し、新しい条約を批准するように迫りました。モンゴル議会は圧力に屈しモンゴルの自治権の廃止が決定しました。

この頃、ボリシェヴィキの地下組織のメンバーとロシア領事館で働いていたドグソミーン・ボドーらのグループが度々接触し、中国への抵抗について議論しました。

役人のソリーン・ダンザンを中心とする民族主義的な東ウルガ のグループもまた徐樹錚に対して敵対心を持っていました。

ボリシェヴィキのメンバーはこの二つのグループに目をつけ、ソ連への招聘の話を持ち掛けました。1920年6月に両グループが会談し、モンゴル人民党を結党し、ダンザンとチョイバルサンが代表団として派遣されました。

2人は極東共和国の代表代行でユダヤ人のボリス・シュミャツキーと会談しました。シュミャツキーはモンゴル人民党のメンバーにモンゴル政府からソヴィエトに正式に援助を要請するように要求しました。なんとか要請の書簡を入手し、イルクーツクのコミンテルン極東事務局、ダンザンは更にオムスクのシベリア革命委員会、さらにモスクワへと向かいました。

当初ソヴィエト政府の反応はあまり良くありませんでしたが、白軍がモンゴルに侵攻するとソヴィエト政府はモンゴルへの攻撃を命じます。白軍は一度は中国軍に敗れましたが、再度攻撃を行いウルガ(現在のウランバートル)を占領し、ボグド・ハーンによる君主制を復活させました。

ウルガの陥落を知ったソヴィエトはモンゴル人民の解放を決議、モンゴル人民党はキャフタで会議を開き、ダンザンを中央委員会の議長に、ダムディン・スフバートルを軍司令官とし、臨時政府の最高責任者にボドーが就任しました。

1921年ソヴィエトと極東共和国の赤軍がキャフタに派遣され、白軍は数で圧倒的な劣勢に立たされ敗走しました。これによりボグド・ハーンは象徴的な立場となり、ボドーが首相に就任しました。

ボドーは翌年に国家転覆の陰謀の罪で処刑されましたが、1924年に、モンゴル人民党はコミンテルンの助言によりモンゴル人民革命党と名前を改め、モンゴルにソ連に続く第2の社会主義国家であるモンゴル人民共和国が建国されました。

朝鮮と共産主義

1910年に日本に併合された韓国ですが、ソヴィエトで1918年5月にクラスノシチョーコフの支援によりハバロフスクに韓人社会党が組織され、1919年に大韓民国臨時政府が創設されると、李東輝は上海に韓人社会党の支部を設立し、臨時政府の首相にも就任します。

オムスクでも1919年にオムスク共産党朝鮮部が、イルクーツクでも1920年1月にイルクーツク共産党朝鮮部が、シュミャツキーを顧問として設立されました。1921年、ハバロフスクの韓人社会党とイルクーツク共産党朝鮮部が合併して高麗共産党と改名し、韓国の活動家はイルクーツクと上海を拠点に活動しました。

高麗共産党は李東輝や金立らが中央委員を務め、上海のコミンテルン極東支部代表でユダヤ人のグリゴリー・ヴォイチンスキーと大韓民国臨時政府を仲介する役割を演じました。1925年に、ソウルで金在鳳らが朝鮮共産党を非合法組織として結成しました。官憲による弾圧により朝鮮共産党は継続的な活動ができず、やがてコミンテルンからの承認も取り消されました。

日本が連合国に敗れると、朝鮮共産党は再建され、その後継政党の朝鮮労働党が朝鮮戦争を経て北朝鮮を支配することになりました。

中国と共産主義

中国では1911年に武昌を皮切りに各地で武装蜂起がおこり、15の省が次々に独立を宣言しました。上海で孫文中華民国臨時大総統に選出されると、翌年の2月に宣統帝が退位し、清は滅亡しました。

1920年にソヴィエトからユダヤ人で革命家のグリゴリー・ヴォイチンスキーが中国に共産党を創設すべく派遣されました。ヴォイチンスキーは『上海クロニクル』の記者となり、そこでコミンテルンとしての活動を行いました。

1921年に、コミンテルンは中国各地の革命家たちを上海にあつめ、同じくユダヤ人のウラジーミル・ネイマンやオランダ人のヘンドリクス・スネーフリートらの指導のもとに中国共産党を創設しました。第1回共産党大会は僅か15名による大会でしたが、このとき長沙代表として参加した一人が毛沢東でした。

1923年に駐中国大使のアドリフ・ヨッフェと孫文との間で、中国国民党が中国共産党を支援する約束する共同宣言が署名されました。同年にコミンテルンおよびソヴィエト代表でユダヤ人のミハイル・ボロディンが中国国民党の政治顧問となり、孫文に中国国民党に共産主義者を入党させることを認めさせました。この時期の国民党と共産党との良好な関係を第一次国共合作といいますが、結成間もなかった中国共産党はこれにより農民と労働者の組織化が容易になりました。

1924年、ボロディンの進言により、広州に両党の軍の将校を要請する黄埔軍官学校が創設されました。またボロディンはソヴィエトからの武器の輸送を手配するなど両党を支援しましたが、1925年に孫文が亡くなると、国民党反共派がボロディンとの関係解消を求める声が強くなりました。

蒋介石は当初、ボロディンを擁護しましたが次第に関係は悪化し、1927年に蒋介石は国民党左派と共産主義者の粛清しました。ソ連のスターリンはボロディンに対して武装蜂起するよう命じましたが、この事を知った国民党左派の汪兆銘は共産主義と決別し、蒋介石と和解することを決めました。ボロディンは孫文の義弟である宋子文にの助けを借りて、モスクワに脱出することとなりました。

ソヴィエトによるアジア人の教育

ソヴィエトでは1918年に全ロシア中央執行委員会が煽動と宣伝のため計画が組まれ、1919年にソヴィエト党務中央学校が創設されました。同校は7月にスヴェルドロフ共産大学となり、当初はレーニン自らが講義を行うなど革命家の育成に力を入れました。

1921年にはヨーロッパの共産主義者を教育する西方少数民族共産大学を創設し、ポーランドの共産主義者ユリアン・マルフレフスキが初代学長を務めました。また同年にアジア人を対象とした東方勤労者大学が創設され、ユダヤ人のグリゴリー・ブロイドが学長を務めました。同大学はのちにスターリンが最高名誉学長に就任しています。

西方少数民族共産大学からはヨシップ・チトーなど多数の指導者を輩出し、東方勤労大学からも鄧小平や蒋介石の息子で中華民国総統となる蒋経国、ベトナム大統領となるホーチミンなどが学び、同校から日本共産党幹部も多数輩出されました。

1925年には東方勤労者大学に在籍していた大多数を占める中国人を教育する機関として、孫文の号を冠したモスクワ中山大学が創設され、初代学長にはユダヤ人のカール・ラデックが就任しました。留学生にはボロディンの指示により、中国共産党と中国国民党のエリートが選抜されました。

1924年にウラジオストクにも中国人学生を対象としたウラジオストク中国レーニン学校が創設され、ソ連生まれの漢民族や朝鮮民族が諜報員として訓練されました。極東ではウラジオストク以外にも多数のスパイ訓練学校が存在したと言われています。

1926年、コミンテルンの大会で国際レーニン学校が設立され、最高幹部の養成が行われました。同校でヨシップ・チトーをはじめ、ポーランドのヴワディスワフ・ゴムウカ、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカーなどのちに共産主義政府の首脳となる指導者が育成されました。

最後に

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