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【ロシア社会民主労働党機関紙】『労働者新聞』ラボチャヤ・ガゼータ(1897年)

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回は労働者新聞の英語版Wikipediaの翻訳をします。

翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。

労働者新聞

労働者新聞』(ラボチャヤ・ガゼータ)とは、1897年にキエフで発行されたロシア帝国の違法な社会民主主義新聞である。ロシア社会民主労働党(RSDLP)の機関紙であった。編集者にはボリス・L・エイデルマン、P・L・トゥチャプスキー、N・A・ヴィグドルチクらがいた。

『労働者新聞』編集者ボリス・リヴォヴィチ・エイデルマン
『労働者新聞』編集者パーヴェル・ルキッチ・トゥチャプスキー
『労働者新聞』編集者ナタン・アブラモヴィチ・ヴィグドルチク

歴史

『労働者新聞』に所属する社会民主主義者たちは、労働者解放団サンクトペテルブルク労働者階級解放闘争同盟と連絡を取り続けた。また、第1回党大会の招集準備に協力した。

1897年9月3日(旧暦8月22日)と1898年1月1日(旧暦1897年12月20日:11月と表記)に2号が発行された。

1898年3月、ロシア社会民主労働党第1回大会が『労働者新聞』を党の公式機関紙として承認した。大会で選出された中央委員が逮捕され、印刷機が破壊されたため、1898年3月22日(西暦3月10日)に新聞の発行は停止された。編集者の手元にあった第3号は警察に押収された。

1899年、ユダヤ人労働者同盟の中央委員会は、この新聞の発行を再開しようとした。ウラジーミル・レーニンは、シベリアに亡命していたときから、未発行の第3号に向けて「わが綱領」、「わが当面の課題」、「緊急の問題」という3つの記事を書いた。

ロシア語版

労働者新聞』(ラボチャヤ・ガゼータ)は、キエフ社会民主主義者の違法印刷機関であり、ボリス・L・エイデルマン、P・L・トゥチャプスキー、N・A・ヴィグドルチクなどの参加と編集のもと、キエフで発行されていた。1897年8月に第1号、同年12月(11月と記されている)に第2号が発行され、合計2号が発行された。

歴史

編集委員会を代表して創刊号を持って海外に渡ったP・L・トゥチャプスキーは、労働解放団から新聞への協力の同意を得た。G・V・プレハーノフは編集委員会への手紙の中で、ロシア全体の社会民主主義機関としての『労働者新聞』を肯定的に評価するとともに、プロレタリアートの政治闘争問題にもっと注意を払う必要があると指摘している。その結果、『労働者新聞』第2号は、より明確な政治的性格を持つようになった。この新聞を中心とする社会民主主義者たちは、ロシア社会民主労働党の第1回大会の準備に取り組んでいた。1898年3月に開催されたロシア社会民主労働党第1回大会は、『労働者新聞』を党の公式機関紙とすることを宣言した。大会後、中央委員会のメンバーと『労働者新聞』の編集委員が逮捕され、印刷機が破壊されたため、組版の準備が整っていた新聞の第3号は印刷されなかった。1899年、『労働者新聞』の発行再開が試みられたが、レーニンが『何をなすべきか』の中で報告しているとおりである。

労働解放団のゲオルギー・プレハーノフ

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最後に

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