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自分の足かせになる思い込みについて

「お前は正解を求めすぎてる」
と言ったのは、私が新卒のときのチューターだった。

図星だった私は反発したくなったけど、何も言えなかった。

「薬学部ではさ、何にでも正解があっただろうけど。社会には正解はないよ」と彼は続けたのだった。


振り返って考えれば、本当にそうだと思う。薬学部では当然常に正解があり、薬剤師は正解を知っていなければならない。人命にも関わる。
薬学部だけではなく、高校までもそうだった。テストではいつも正解を求められた。


そのときはいまいちピンと来なかったけど、それからしばらくして、正解がないはずの問題について考え、次の行動に移せずにいたときに、チューターに言われたことを思い出した。
私はずっと、正解を探していた。これは正しいのかな?と、それを裏付けるための、あるはずのないエビデンスを探していた。

そして、間違えてはいけない、とも強く思っている自分に気づいた。


いま、大学院の授業を受けていて、発言点があるため発言を求められる。一言くらいは発するが、よく挙手するほうではない。
昔から、手を挙げるのは苦手だった。
間違えたら恥ずかしい、正解しないといけない、そう思っていたから。

そういうときに思い出すのはいつも、小学校低学年の頃の授業参観だ。
普段から挙手しないけども、親が見ていたってそれは同じ。親は挙手して発言してほしいだろうけども、沢山の人が見ている前で間違えるのは嫌だった。

そして帰宅すると、母は言うのだった。「なんで手を挙げないの?」と。
挙手しなくても怒られるけど、間違えても怒られる。だったら何も言わないほうがいいと思っていた。


大学院の先生は、「間違えたっていいんだよ。ここは学びの場なんだから。みんな同じ立場だし、ここは仕事じゃないんだから間違えたってなんのデメリットもない。それに絶対的な正解なんてないんだよ」と言う。

そこまで言われて、私はようやく気づく。間違いを恐れて踏み出せないことこそが、間違いなんだと。
自分の足かせになっているのは、絶対的な正解があるという思い込みと、間違えてはいけないという思い込みだ。

これまでの思い込みを変えていくのは簡単なことではないが、変われなかったらずっとこのまま。
より確からしい正解を見つけるために、間違えながら学んでいかないといけないのだ。

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