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摩耶さんの涙

「お前ら付き合っちゃえよ」
佐伯先輩が言ったその一言に、心臓が3センチくらい飛び跳ねた。その瞬間俺は、自分が彼女のことをどんな風に想っているのか悟ってしまった。

付き合っちゃえよ、と言うセリフは、言わずもがな、付き合ってもおかしくないような間柄の男女に対して使われるものだ。それは分かっている。問題は、そのセリフを言われたのが俺ではないということ。

付き合っちゃえよ、というセリフの対象である男女、真山先輩と摩耶さんは、佐伯先輩の言葉にそれぞれ違う反応を示した。

「だって。摩耶ー、俺ら付き合う?」
「ぜーったいいや!だって真山と付き合って、もしも結婚なんてしちゃったら、私の名前、まやままやだよ?なにそのギャグみたいな名前」
「しゃーねーな。俺が摩耶ん家に婿に行ってやるよ」
「絶対おことわりー!私決めてるの。真山にだけは捕まらないって」
二人のやりとりに、周りはみんな盛り上がったり、囃し立てたりしていた。
俺も手を叩いて笑った。摩耶さんの言った「絶対いや」の一言がやけに耳に残って、俺の気持ちを高揚させていた。我ながらオメデタイ少年である。

今思えば、俺はつくづく女心の分からない男だった。真山先輩と付き合うのは絶対にいや、と言い放った摩耶さんが、真山先輩との関係に「付き合う」を通り越して、「結婚」の2文字を持ち出したことの重みを、もっと認識すべきだった。そんなことを考えて今更何になるのだと聞かれても、答えは持ち合わせていない。あの頃を懐かしむには、少し時間が経ち過ぎた。スマートフォンの画面を見ながら、ため息をつく。

高校時代。何もかもが不完全で、それ故に愛おしく、完璧な世界だと思えた空間と時間。

✳︎

「お前、サッカー部入るよな?」
同じ中学で、同じサッカー部出身だった1個上の先輩、真山先輩にそう言われ、何も考えず、高校でもサッカー部に入った。熱心な部員だったかと言われればそんなことはない。俺より上手い奴はごまんといて、練習がバカバカしくなることも多々あったが、辞めたらモテなくなると思って、結局3年生で引退するまで続けていた。

サッカー部に入って出会ったのが、元マネージャーで、真山さんと同じく一学年上の先輩、摩耶さんだった。摩耶さんは1年生の頃、サッカー部にマネージャーとして入部し、日に焼けるのが嫌だという理由で3ヶ月で退部した。ただ、退部した後もなぜかサッカー部にちょこちょこ顔を出し、マネージャーの真似事をしたり、部室で漫画を読んでいたりと、いつの間にか別の形でサッカー部の一員のようになったらしい。だから俺が入部した頃には、半マネージャー、あるいは、なぜか部室に出入りする謎の女子の先輩、といった感じだった。

初めて部室で摩耶さんと会った時のことは、よく覚えている。

真新しい練習着を手に部室に行くと、摩耶さんが一人で雑誌を見ながらガリガリくんを食べていた。
「お、新入生?」
「え、あ、はい。あの」
「着替える?」
組んだ足を包むルーズソックスが、薄汚い部室の中で不自然に白く眩しい。小柄な摩耶さんが持つガリガリくんは、水色の文庫本のように見えた。
「はい。いいっすか?」
「いいよ、絶対見ないから。私もたまにここで着替えるし」
「え」
「え?何?」
「いや、別に」
摩耶さんは俺に背を向け、雑誌のページをめくる。俺は落ち着かない気持ちで着替えを始めた。
「ねえ、名前なんて言うの?」
そう言って摩耶さんは、ズボンを脱いで、パンツ一丁になったばかりの俺の方を振り向いたのだった。

✳︎

部活が終わった後、摩耶さんは、同じ学年の真山先輩や佐伯先輩らとつるんでいた。先輩たちの中に彼氏が居るんだろう。最初はそんなふうに思っていたけれど、誰からもそんな話は出なかった。気づけば真山先輩にさそわれて、俺も部活の後には必ずその輪の中に呼ばれるようになっていた。部活が終わった後の夕暮れの部室。気の合う仲間で集まって、くだらない話を何時間でもした放課後。その時間が、俺の高校生活の思い出のほとんどを占めていた。

摩耶さんには、あだ名で呼ばれていた。最初は名前の一部をとって、ユウくんと呼ばれていたが、ユウくんがいつしかユウポンになり、最終的にはポンだけが残った。


「ポンって呼び方あんまりっすよ。俺の名前一文字も残ってないじゃん。しかも犬みたいだし」
「なんで?ポンって呼ばれるの、きらい?私、わんこ大好きなんだけど」
「いや、嫌いとかじゃなくて…」
「じゃあ何?ポンはポンだよ。それにユウのこと、ポンなんて呼ぶの私だけじゃん。私だけの呼び方ってさ、なんかいいじゃん」

こんな言い方をされて、それ以上ポンと呼ばれることに不満を言えるはずが無かった。彼女だけの呼び方で呼ばれること。そして彼女がそれを、自分だけの特権として捉えていること。気まぐれに呼ばれる、「ユウ」という名前。そういった、なんてことない一つ一つの事象について、意味を見出そうとすれば何時間だって考えていられたあの頃。有り余る時間と体力の割に、真剣に考えるべきことなんて、彼女のこと以外ほとんどなかった。

俺は摩耶さんのことをはっきりと意識していた。でも、女性として好意を持っていたのかと問われると、あの当時はよく分からなかった。摩耶さんよりも美人な子は他にもたくさんいたし、性格だって、お世辞にも理想的とは言い難い。気も強ければ、独占欲も強い。周りの男子生徒たちを気軽に呼び捨てして、肩を叩いて、大声で笑って。俺がそれまで憧れてきた、おしとやかで癒し系の女の子たちとは正反対だ。かといって、摩耶さんは男っぽいわけでもなかった。雰囲気も人付き合いのスタイルも、カジュアルで男っぽいものを好むくせに、時々誰よりも女らしく見える時があるから困った。たぶん色々と、ズルい人だった。

好きかどうかはわからない。俺の好みとは正反対のはずの彼女を、それでもあの頃の俺は、校舎の中にいつも探していた。

✳︎

後輩の中で、一番かわいがられている自負はあった。摩耶さんは、休み時間にたまに俺のクラスにフラッと現れて、俺の席に堂々と腰掛けながら、
「ポンがクラスで一番可愛いと思う子はどの子?」
などと囁いたりする。ニヤニヤした表情は、憎たらしくて、そして、俺が一番好きな表情だった。俺は適当に、クラスで人気のある神谷さんの名前を挙げた。

「へぇ、ああいう子が好みか。覚えとこっと」

クラスメイトたちの視線も全く気にならない様子で、踊るような足取りで教室を出て行く摩耶さんを、見ないふりをしながら視界の隅ではしっかり捉えていた。

何しにきたんですか。そう聞くこともできたけれど、俺は一度もそうしなかった。用事があって訪ねてくるのと、用事もないのにわざわざ訪ねてくるのとでは天と地ほどの差がある。もし摩耶さんに、用事があってね、などと言われたら、俺はまあまあテンションが下がっていただろう。俺が覚えている限り、俺のクラスに来る時に摩耶さんが何か用事を持ってくることはなかった。俺が徐々に何かを期待したのも、無理はないはずだ。

でも俺は、意識すればするほど、摩耶さんの前で自然に振る舞えなくなった。


摩耶さんはいたずら好きだった。肩を叩かれ、振り向いた頬に人差し指を立てられたことがある。触れているのは摩耶さんの指先だけなのに、こんなにも体温を感じるものかと驚いた。何か気の利いたリアクションが出来たら良かったのだけど、自分の頬に身体中の神経が集まっていくようで、俺の口からは言葉が出なかった。
「クールだなぁ。反応してよ」
彼女は無邪気に笑っていた。子供のようだった。でもその目は、きちんとカールされたまつげと、濡れたような光を放つ透明なマスカラに飾られていて、そのアンバランスな魅力に目眩がした。摩耶さんの唇はいつもつやつやしていて、その唇を夕日が赤く照らしたのを見た時には、なぜだか泣きたくなった。

✳︎


社会人になり、雑談の始まりに天気の話題を出すのは平凡でダメなやつがすることだ、と上司に言われた。でもあの頃は、暑ければ暑いことを、寒ければ寒いことを、天気が良ければ気持ちが良いことを、単純に共有して、素直に反応するのが楽しかった。暑い夏の日に、部室で摩耶さんや先輩たちと過ごすのに、ガリガリくんと「暑い」「美味い」の言葉があれば十分だった。寒い日には、部室で缶のコーンスープを皆で飲んだ。校内の自動販売機のコーンスープは、俺たちのせいで毎日売り切れになった。小さな缶では体は少しも暖まらなかったけれど、摩耶さんにマフラーを奪われながら、寒い寒いと皆で言い合う部室は、ストーブもないのに、間違いなく暖かかった。

余計な物も言葉もいらない。ただ一日一日が、十分だった。

そんな日々を過ごしていたら、あっという間に1年半以上が過ぎていた。

✳︎

12月。俺は2年生になっていた。先輩たちは受験を間近に控え、あまり部室に顔を出さなくなっていた。3年生は夏休みの最後の試合をもって部活を引退していたので、当たり前と言えば当たり前なのだが、俺だけは時の流れと移り変わりについて行けず、部活の後、ひとり部室に残っては、コーンスープを飲んで、音楽を聴いて、誰かが来るのを待った。摩耶さんを含め、いつも集まっていたメンバーが時々顔を見せてくれることもあり、そんな時は、相も変わらず、くだらない話をした。

✳︎

学期末の試験期間に入り、部活は休みになっていた。勉強しなければならないと分かってはいるのだが、気の抜けたサイダーのようになっていた俺は、机に向かう気になれなかった。そして、部室に行った。なにか、自分の気持ちを浮き上がらせてくれるものがあるような気がして。

部室の入り口まで来た時、いつもと様子が違うことに気づいた。ドアが少しだけ開かれ、隙間から覗くパイプ椅子に、女子のものと思われる紺の鞄が置いてある。赤いアクリルの星のキーホルダー。何度も見た、その鞄。摩耶さんのものに違いなかった。

摩耶さんが来ている—?
自然と手が髪に行った。髪型を少し整えてドアを開けようとしたその時、中から話し声が漏れてきた。
何を話しているのかは分からない。ただ、深刻な雰囲気だけは感じられる。体が固まって動けない代わりに、耳の神経だけが研ぎ澄まされていく。

「結局………じゃん。……あたしの………なんだからね」
「分かってるよ」
「真山は分かってない!………!!」

そして次の瞬間、摩耶さんが飛び出してきた。
目があった瞬間、思わず、え、と口にしていた。摩耶さんの目からは大粒の涙がいくつもいくつも零れ落ちていた。夕日がその顔を照らし、目の縁も、鼻の頭も、涙も赤く染まっていた。もちろん唇も。まつげのカールとマスカラが落ちて、情けない表情で、怯えたような目で俺を見る摩耶さんは、今まで見た中でいちばん綺麗で、俺はやっぱり泣きたくなった。

——いつか摩耶さんに言われたことがある。
「ねえ、キミといるとさ、楽しくて笑っちゃうよ」
彼女がそんなことを言うものだから、もっともっと笑顔が見たくなった。彼女の笑顔を引き出すのが、いつも自分なら良いのにと思っていた。だからいつでもバカなことばかり口にして、肝心なことなど何一つ言えなかった。摩耶さんは俺の前で、いつも笑っていた——


摩耶さんが何も言わず走り去った後、部室から、真山先輩が出てきた。
「お、ユウじゃん。どした?今日部活ないよな?」
「あ、えーと、忘れ物して」
咄嗟についた嘘に、真山先輩は気づいただろうか。
「そっか。受験終わったら遊ぼうな」
すれ違いざま、俺の肩をぽんぽんと2度叩いて、真山先輩は去っていった。


摩耶さん、泣いてましたよ。俺はどうしてもその一言が出なかった。俺はその瞬間まで知らなかったのだ。女の人が、笑顔を見せる相手と、涙を見せる相手を分けていることを。そして分かってしまった。摩耶さんにとって、どちらの相手が大切なのかを。


その日から、先輩たちの卒業式の日まで、彼らに会うことはなかった。受験のため、3年生はあまり学校に来なくなっていたし、俺も部室に残ることはやめた。部活が終わると、自転車を飛ばして帰宅した。自転車を早く漕げばその分だけ、俺の身体に纏わりついた何かが削ぎ落とされる気がして、とにかくスピードを出して、自転車を走らせた。

卒業式の日は雨だった。2年生も在校生として出席しなければならず、俺は式の間中、体育館の窓からグラウンドを眺めていた。片隅に見える部室。あんなに輝いて見えたその空間は、薄汚れて、暗く沈んでいた。
式の後、涙ぐんで友達と写真を撮っている摩耶さんを、遠くからぼんやり眺めた。そして傘もささずに、走って家に帰った。

それ以来彼女に会うことはなかった。たまにあの頃のメンバーの中の誰かが、久しぶりに集まろうと連絡をくれることがあったが、俺は一人だけみんなとは別の関西方面の大学に進んでしまっていたし、そうでなくても、あの頃のように、お互いの存在と、少しの言葉さえあれば十分に満足できた時代には、もう戻れないのだと感じていたから、断った。


全てが不完全で、それ故に愛おしく、完璧に思えた高校時代。そこから卒業して10年以上が経った。


今朝、スマートフォンに届いたメッセージを見る。それは、真山先輩からのものだった。

「摩耶と結婚することになりました。結婚式の二次会にあのメンバー呼ぼうと思うんだけど、来れそう?」

《おめでとうございます。是非行かせてください》という書きかけのメッセージを、一文字一文字消していく。代わりに、《すみません。仕事で行けそうにありません。近々個別でお祝いさせてください》と打って、送信した。

摩耶さんのことを引きずっているわけではない。二人の結婚を喜ばしく思うし、いつかお祝いをしたいというのも本心だ。俺自身にも、今は大事だと思える恋人がいる。それでも二次会の出席を断ったのは、思い出の中の摩耶さんを、もう少しそのままに留めておきたかったからだ。

純白のドレスに身を包み、「まやままや」になった喜びを噛み締める摩耶さんはきっとすごく綺麗だろう。

でも俺にとっては未だに、あの日泣きながら真っ赤に染まっていた摩耶さんの方が圧倒的に真実で、美しくて、完璧だった。カールの落ちたまつげに、マスカラではなく涙が光っていた。つやつやの赤い唇が、悲しそうに歪んでいた。あの日、摩耶さんは、俺のことなどきっと目に入っていなかった。彼女の心を動かすのは、最初から最後まで俺ではなかった。

不完全で完璧、か。

小さく呟いて、空を見る。季節は冬に向かう途中。夕方にかけて、急に身体が冷えてきたのを感じた。自動販売機でコーンスープでも買って飲もう。俺はスマートフォンと、擦り切れた思い出をポケットにしまい、ゆっくりと歩き出した。空にはあの日と同じように、真っ赤な夕日が燃えていた。


おわり

〈あとがき〉

小悪魔的な女の子を書くのが結構好きです。自分とは正反対のタイプだからでしょうか。たぶん私が男の子だったら、小悪魔的な魅力を持つ女の子に片っ端から惚れて、アッサリ振られまくっていたのだろうな、と思うので、私は男に生まれなくて良かったのかも。

好きなのかどうかわからない。けれどもなんだかとても気になっていた相手の、言葉とか表情。これって、大人になってから振り返ると、下手に成就してしまった恋愛よりもなぜか思い出す頻度が多いような気がして。そういう小さな青春の一コマ一コマは、不完全だからこそ美しい、というものが多いな、としみじみ思って書きました。色んな人の、気になっていた人とのエピソード、聞いてみたいなぁ。身悶えるだろうなぁ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

西野市香



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