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ブルーベース(上)

腕時計を見ると、まださっき時刻を確認した時から3分しか経っていなかった。ただ立って人を待っているだけなのに、どうしてこうも疲れるのか。答えは明白なのだけれど、僕は敢えてそれを考えないようにしていた。考え始めると、イライラしてしまうことが分かっていたからだ。

もう何度目になるかかわからないくしゃみをした後、僕は観念して、読んでいた文庫本を閉じた。読書など、とてもしていられない。先ほどから、慣れない香りに鼻がひどくムズムズする。

顔を上げると、カラフルな服を着た女たちと、色とりどりの化粧品と、あちこちを照らす照明に目がやられて、遠近感がおかしくなっていた。目と目の間を揉みながら、僕は盛大なため息をつく。

東京銀座のとあるデパートの1階。化粧品売り場の中の、比較的人の少ない壁際に寄りかかって、僕は前方のコスメカウンターを眺めている。本当はそんなものを眺めていたくはない。僕は化粧をバッチリしている女性よりも、どちらかといえばすっぴんに近いナチュラルメイクの女性の方が好きだし、女装の趣味もない。化粧品というものに、いっさい興味がないのだから、デパートの化粧品フロアというのは、僕にとってはエレベーターに乗るために横切るくらいしか縁のない場所だった。

普段はページを開けば3秒で本の世界に没入できる僕も、こんな環境の中では内容が全く頭に入ってこなかった。フロアにはいくつもの化粧品メーカーのカウンターがあり、その全てに、色とりどりの化粧品がずらりと並べられていた。ご丁寧に、実際に鏡を前にして、化粧品を試すことができるスペースまであるのだが、そちらは順番待ちの列ができている。甘ったるい香りに、甲高い店員の声。混んでいる店内。ぶつかってきて、謝りもしないカップル…。この不愉快極まりない空間から、いち早く逃げたしたかった。

隣のビルの5階に、確か大きめの本屋が入っていたはずだ。こっそり移動してしまおうか—。そう思って、チラリと目の前の外資系化粧品メーカーのカウンターに目をやる。化粧品に興味のない僕でも名前を聞いたことのある、ハイブランドメーカーのカウンターだ。探すまでもなく、彼女の姿を発見した。なぜなら彼女は、何かを察したようにこちらを睨んでいたからだ。

僕がこの化粧品売り場に拘束されている理由を作った張本人、山中美貴は前髪をピンで留められ、首から下にケープをつけて、カウンターにちょこんと座っていた。ちょっと待て。いつの間にそのポジションについたんだ?どうやらこの後、販売員(美容部員と言うらしい)の手によって、化粧を施されるらしい。冗談じゃない。さらに時間がかかるということなのか。だから嫌なんだ、女の買い物に付き合うのは。美貴はさっき、隣のメーカーのカウンターで美容液とやらを買った。それに付き合っただけでも僕としてはかなり譲歩したつもりなのに、美貴が
「ねえ待って。こっちにも寄りたかったの。すぐ終わるから」
などと言って、今いるカウンターに吸い寄せられて行ってから、もうかなりの時間が経過している気がする。美貴の「すぐ」は信用しないようにと、脳内に刻み込んだ。

ケープにくるまれた美貴の姿は、少し間抜けだった。こちらを睨みつける様子は、なんだか、捕らえられて悪態をつくタヌキのように見える。僕は口の動きで美貴に伝えた。
「は・や・く・し・ろ」
本当はその後に「タ・ヌ・キ」と続けようかと思ったのだが、やめておいた。こういう時、美貴は恐ろしく勘が働く。そして恐らく、「早くしろ」の方ではなく、「タヌキ」の方に反応されてしまう。これ以上面倒なことになりたくないので、なるべく波風が立たない方を選んだ。
「う・る・さ・い・タ・コ」
と、美貴の口が動いた。
……。やっぱり「タヌキ」をつければ良かった。
これ以上時間がかかるなら帰る、と言おうとして美貴に近づいた僕の行手は、突然現れた美容部員の、ボリュームのある背中によって阻まれた。
「新作のリップとチークをお試しでお間違いないですね?今日はお時間は大丈夫ですか?」
甲高い声で美貴にまくし立てる店員、もとい、美容部員。その顔を見上げて、美貴がニッコリと微笑みながら言った。
「全然大丈夫です。似合う色を選びたいから、じっくりお願いします」
そして、美容部員の背中越しにちょこっと顔を覗かせたタヌキは言った。
「帰ったりしたら、タダじゃおかないから」
その顔を見て僕は思った。こいつはタヌキなんて可愛いもんじゃない。悪魔だ、と。

✳︎

今朝起きて、スマートフォンを見たら、美貴からおびただしい数の着信が入っていた。一番早い着信は午前3:22のものだった。どういう神経をしているんだろう。「幼馴染」というのは、お互いの睡眠を妨げる権利を与えられている存在なのか?いや、絶対に違う。しかしそんな常識は、美貴には通用しないようだった。僕は普段から、就寝中は着信音が鳴らないように設定している。そんな自分の周到さに感謝しつつ、仕方なく美貴に電話をかけ直した。このままの勢いだと、一日中電話とメールの着信音が鳴り止まないことが容易に想像できたからだ。

電話に出た美貴は怒りに満ちた声でまくしたてた。
「なんで電話に出なかったのよ。私が脂身たっぷりの焼肉をビールで流し込んで、死ぬほど酔っ払いたい気分だったってのに。一晩待ってあげたんだから、今夜は付き合ってよね。土曜日だし、どうせ暇なんでしょ」
どうせ暇とは失礼極まりないけれど、残念ながら僕は今日一日、予定がなかった。美貴の奢りで、かつ、銀座の高級焼肉店で、という条件付きで、僕は美貴の話に乗ったのだった。

だが、蓋を開けてみたらこうだ。そもそも、17時に銀座一丁目の駅で集合、と言われた時点で怪しむべきだった。夕飯を食べるにしては早いし、デートでもあるまいに、店に直接集合しないのもおかしい。電話を早く切りたいあまり、適当に相槌を打って、美貴の言うがままに約束をしてしまったが、そのせいで、僕は駅から焼肉店へ向かう途中のデパートに引き摺り込まれる結果となった。後から聞いた話だが、美貴は、途中でデパートに寄ることを計画に入れていた。曰く、
「土曜日の夕方のデパートなんて、カップルだらけじゃない。あんたも一応は男だし、彼氏に見られても困るけど、まあいないよりはマシかなって」
だそうだ。ほら、やっぱり来なければ良かった。

これまでの流れからもお分かりの通り、僕らは断じて付き合っているわけではない。その証拠に、美貴は一昨日の夜、彼氏に振られている。

朝の電話で「焼肉を胃に流し込んで、しこたま酔っ払う会」に僕を誘った美貴はその後、聞いてもいないのに事の全容を話し始めた。彼氏が浮気をしていて、それを問い詰めたところ、すでに彼氏の気持ちは浮気相手の方へ傾いており、あっさり別れを切り出されたということだ。世界中で3秒に1組のカップルが、同じような理由で別れているといっても過言ではないほどありふれた話で、僕はその、巷にあふれかえった別れ話に、適当に相槌を打ちながら、カルビやタンを堪能すれば良かったはずなのだ。というか、僕が聞かねばならない美貴の話は、もうその時点で9割は終わっており、それ以上でもそれ以下でもないのだ。例えばその先に、何か興味深い展開(例えば美貴と、その浮気相手の女が1対1で、夜の河原で戦うとか)が待っているのならともかく、美貴の話では、特にそういった面白い展開も期待できなさそうだった。

というわけで、僕の「美貴の話を聞く」という仕事はほぼ終わっているはずだった。後はひとしきり愚痴を聞き流して、最後には「まあ、また良い相手が現れるんじゃない」とかなんとか適当なことを言ってお開きにしてしまおうと目論んでいたのだが。結局、焼肉を食べながら話を聞くだけで良いと思っていた仕事に、女の買い物に付き合うという、一番苦手な類の仕事が加わってしまった。それも事前の説明もなしに。そしていま、僕は心身共に疲れ果て、完全に焼肉どころではなくなっている。

✳︎

目の前のカウンターでは、美貴が美容部員と談笑している。僕のいるこの壁際からは、二人が何を話しているのかは分からないけれど、きっとつまらない話に違いない。どうせ、春の新色がどうの、とか、ファンデーションの売れ筋だとか、そんなもんだろう。どうしてそんなものに夢中になれるんだろう。女って宇宙人みたいだと、時々思う。言葉は通じるのに、分からないことだらけ。住んでいる星が違うのだ。わかりあうことなんて、土台無理な話。

僕には、いま美貴が座っている、その先進的なデザインのカウンターが、真っ白な顔の宇宙人が経営するバーに見えた。店員も宇宙人なら、客も宇宙人。リップだの、チークだのといった甘いカクテルに酔いしれて、女たちだけの言葉で会話をしてる。まあ、リップやチークなんて、酒と違って、最終的には洗われて、排水溝に流れていくだけだけれど。

陶器のような白い肌にわざとらしい笑みを貼り付けて、美容部員が美貴の顔にベタベタと何かを塗りたっている。美貴はといえば、その一つ一つの作業に見入り、宇宙人の説明に熱心に耳を傾けている。まるでありがたい説法を聞くお婆さんのようだ。ここに僕がいる意味、本当にないと思うんだけど。後悔先に立たず、とはまさにこのことだ。

その後美貴は、たっぷり20分ほどかけて化粧をされて、さらに悩んだ挙げ句、化粧品を何点か買うようだった。僕はその間、同志たちの顔を観察していた。同志とは、僕と同じように壁際で、退屈そうな顔で連れを待つ男たちのことだ。彼らは背格好はバラバラなのに、顔がみな一様に能面のようで、実は全員兄弟なのではないかと疑うほど似ていた。どうやら男という生き物は、女の買い物が長引くと、能面のように無表情になるものらしい。僕もきっと、同じ顔をしていたことだろう。同志たちは、あくびをするタイミングなんかも同じで、見ていて面白かった。少なくとも、必死の形相で化粧品を選ぶ美貴を見ているよりは。

いい加減、家に帰ろう。コンビニで焼肉弁当とビールを買って、家で食べよう。その方がよっぽど心の平穏が保てそうだ。美貴には後で、急用ができたとでも言っておけばいい。僕は同志たちと7回目の盛大なあくびをした後、そう決心し、結局持て余すだけだった文庫本をポケットにしまった。バレないうちに去らねばならない—。そう思って気配を消しながら、出口に向かって歩いていたら、後頭部をはたかれた。
「今、勝手に帰ろうとしてたでしょ」
「濡れ衣だ。トイレに行こうとしてただけだ。ていうか叩くなよ。そんなんだから彼氏に振られんだ…ろ…」
僕は後頭部をさすりながら、振り向いて—


思わず押し黙ってしまった。

「嘘つき。トイレは全く反対方向よ」
化粧品の入った紙袋を3つ抱えて僕を睨みつける美貴のその顔は、僕が幼い頃から見知っているものとは全然違っていた。綺麗かと問われれば、イエスと言わざるを得ない。たぶん、世の男性たちから見れば、とても魅力的なのだと思う。別人かと思うほど大人びて、清楚で、艶やかで。特に、春を思わせるような淡い桜色で彩られた唇は、目を惹くという表現がピッタリだった。

すぐには言葉が出なかった。なぜなら僕は、知ってしまっているから。今日美貴に会った時点ですぐに分かった。今は上品なベージュのアイシャドーに覆われた瞼が、一晩泣いたせいで、赤く腫れていたこと。艶っぽく潤うピンクのチークの下には、昨夜寝られなかったために、血色の悪くなった青白い頬があること。化粧なんてまやかしだ。そうやって君はまた自分を隠し、また一つ、僕の知らない人になっていく。

その顔を見せるべき相手は、僕じゃないはずだ。心がひりつくような痛々しさを携えた美しさから、僕は目を離せずにいた。

つづく

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