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ブルーベース(下)

「なにぼーっとしてんのよ。あんまり綺麗でビックリした?」
下から覗かれ、僕は慌てて少し距離をとった。美貴から慣れない化粧品の香りを感じるのが、なんとなく嫌だった。
「唇、なんかヌルヌルしてるよ」
「…あんたさぁ。その貧弱な語彙力でよく本が読めるわね。せっかく新色塗ってもらっても、見せる相手を間違えたら意味ないわね」
紙袋を僕に押し付ける美貴の顔には、すでにいつもの憎たらしい笑顔が戻っている。
「あーお腹空いた。早く行こ」
美貴は唇だけで微笑んで歩き出した。その唇は、先程は桜のように見えたのに、今はしずくに濡れたざくろの果実のようにも見える。普段僕の前で口紅などつけたことがない幼馴染。唇に色を乗せた瞬間に、こんなにも顔が変わるなんて、女ってのは怖いな、と思った。

✳︎

お目当ての焼肉屋に着くと、僕らはまずキムチとナムルと生ビールを注文した。冷えたグラスをさわると、表面の霜が溶けて、指の跡が残った。その指の軌跡の中に、ビールの細かな泡が立ち上るのが見えて、みずみずしいことこの上ない。春ももうじき終わる。僕は暑苦しい夏が苦手だけれど、ビールがうまいことに関してだけは、夏を許せる気がする。

目が合わないように注意を払いながら、向かいに座る美貴を盗み見ると、もうビールのおかげで先程の口紅はとれかけていた。僕は少し安心する。いつまでも、見慣れない美貴の表情のひとつひとつに動揺するのは疲れる。しかしなるほど。化粧品というのは、排水溝だけでなく、胃の中にも少なからず流れていくものだったのか。女性たちは、本当にカクテルを選ぶように化粧品を選ぶのかもしれない。

「でね、その女が、ブルベ冬なわけ」
突然美貴の声が耳に入ってきた。どうやら僕が考え事をしている間に、美貴の話は始まっていたらしい。適当に相槌を打たねばならない。気が変わって、奢るのやめた、などと言われたら困る。
「それ浮気相手の名前?なんか女子プロレスラーみたいだね」
「…ねえ、あんたさ、女性誌って読んだことある?」
美貴は、爬虫類とか、昆虫とか、とにかく女子が苦手なゲテモノが目の前に現れたときみたいな顔をしながら尋ねた。
「僕が?なんで?そんなもの読んでる暇があったら、太宰を読んでいたいね」
「だからあんたはモテないのよ」
「はあ?僕がモテないのと女性誌を読まないことと、何の関係があるんだよ。ていうか、僕がモテないってどこの情報だよ」
「だいたい分かるわよ」
けだるい表情で、美貴はグラスをあおった。今日はいつにもまして、ペースが早い。
「ブルベはブルーベースの略よ。ブルーベースってのは、肌の色味の分類の一種。私はイエローベース。さらにイエローベースの中でも春タイプ秋タイプに分けられるし、ブルーベースは夏タイプと冬タイプに分けられるの。浮気相手の女は、ブルーベースの冬タイプ」
ブルーベースの女、私きらいなのよ。そう呟きながら、網の上の肉をトングでいじっている美貴を見ていたら、力が抜けた。肉はすっかり焦げ付いて、小さくなっている。

女性を卑下するつもりは一切ないけれど、僕は女性のこういう部分が苦手だ。千差万別である肌の色というものを、たった4種類に分類するという時点で無理がある。そんなものに何の意味があるのだろう。女性たちは、自分がどこに当てはまり、どこに所属しているのかを異常に気にしている。血液型占いしかり、タイプ別性格診断しかり、何かしらの枠に入りたがるのだ。そういえば美貴は数ヶ月前には、動物占いにはまっていた。

美貴も、僕が知っている数少ない女性たちもみなそうだった。自分という人間を説明する言葉との出会いをこの上なく好み、そうして集めた「私はこういう人間です」という札を、いくつもいくつも吊り下げて、女同士で札についていくらでも語り合うし、裏では相手の札の下にある実態についての分析と批判を忘れない。そんなふうに、自分や相手にレッテルを貼って、分類して、何が楽しいのだろう。

「ねえ、今、私のことバカにしてるでしょ」

ハッとして美貴を見ると、完全に目がすわっていた。
「いっつも冷静なふりして、女っていう生き物を面倒くさいものを見るような目で見てさ。何考えてるのか知らないけど、その目、すっごくムカつく」
いつの間にか話題は僕のことになっている。 こうやって、僕が考えていたことを全部見透かしているような時が、美貴にはたまにある。まずいな、と思って下を向く。

今日僕は焼肉を食べながら、幼馴染の失恋話を聞く(フリをする)だけでよかったはずなのに、展開は僕の苦手な方へ進んでいく。僕らはただ、馬鹿話をしているのがちょうど良い関係なのに。

「女のこと、自分の理解の及ばない、宇宙人かなにかだと思ってるでしょ?」
美貴は4杯目のグラスを、音を立てながらテーブルに置いて僕を睨んだ。
「たしかに。カウンターで美貴に化粧をしてた女性は宇宙人に見えた」
「…何言ってるの?またそうやって自分の世界の物語の中に閉じこもるのやめてよ。いっつもいっつも、私のこと煙に巻いて。もう嫌…男なんて。よく分かんない」
美貴は机に突っ伏した。そんな様子を冷静に見てしまうのはなぜなんだろう。泣いているのか、酔っているのか、あるいはそのどちらでもないのか、触れて、聞いて、確かめても良いはずなのに。僕らの間にはいつから、こんなに距離が生まれてしまったんだろう。あるいはその距離を作ったのは、僕の方かもしれないけれど。

「ここで寝るなら、僕は帰るよ」
机に突っ伏したままの美貴から、返事はない。店内はとても賑やかで、グラスとグラスがぶつかる音に混じって、どこかのテーブルから一際大きな笑い声が聞こえた。それはとても近くで発せられている声のはずなのに、なぜだか僕には、それがとても遠く感じられた。このテーブルは静かだ。僕と美貴が作る静けさのせいだ。最新の注意を払って、作らないようにしてきた静けさだ。

僕は会計の紙を持って、静かにテーブルを立った。出口に向かおうと歩き出した僕のシャツの袖を、美貴が掴む。頭は突っ伏したまま、手だけが意思をもっているかのようだった。
「よりによってブルーベースの女なんだよ、浮気相手。ブルーベースの女に惑わされるなんて、サイテー」

もう今はほとんど色を失ってしまった唇から溢れる、幼馴染の失恋話。本当は、彼女にだって分かっているはずなのだ。肌の色味なんて関係ない。何かに理由を見いだして、それを責めていなければ、自分を保っていられないだけだということは。

美貴の声は、突っ伏している机に当たって、美貴自身に跳ね返っていた。僕はため息をつく。なんでこんな話を、僕が受け止めなければならないんだろう。でも仕方がない。今ここで、僕の他に誰が、跳ね返った言葉たちを吸収してやれるのか。

「座るから。まず離してよ」
「…」
本当ならあまり触れたくない。でも仕方ない。僕は自分の袖からそっと美貴の手を外した。幼い頃は、平気で繋いでいた手。そして、高校2年生のあの夏の日以来、決して触れないようにしてきた手。


「すみません。烏龍茶と、生をひとつずつ」店員が近くを通ったので、手を挙げた。
はい、かしこまりました、と若い女の店員が僕に言った。八重歯がチャーミングな、元気そうなタイプの女の子だ。おそらく彼女を泣かせる悪い奴に見えている僕にも、優しい笑顔を向けてくれた。
「なに烏龍茶って。誰が飲むの」
むくりと顔を上げた美貴の顔は、僕がよく見慣れた顔だった。
「酔っ払いが焼肉屋で最後に飲む物は、水か烏龍茶って相場が決まってるだろ」
「まだ酔ってないわよ。生ビール、私が飲むから、あんたが烏龍茶」

✳︎

美貴をおんぶしたことは、これまでに何度かあった。たぶん最後にしたのは、小学5年生の時だ。
お互いあの頃から随分と成長しているはずだけれど、久しぶりに背に感じる美貴の体は、思ったよりも軽かった。
もともと酒に強いわけではないのに、あの後美貴は結局ビールを立て続けに3杯飲み、泣いたり笑ったりしながら最終的にはもちろん酔い潰れた。置いて帰ろうとしたら、騒がれたので、とりあえず抱えて店を出た。タクシーに乗せようと思ったのだが、金曜日の夜の銀座では、なかなか空車を見つけることができず、そうこうしているうちに突然美貴が背中におぶさってきたのだ。
「気持ち悪いー!駅まで背負ってー!重いとか言ったらぶっ殺す」
何が面白いのか、ケラケラ笑いながら僕の背にくっ付く美貴の温もりは、5年生の時のままだった。
思ったより軽かったとはいえ、人ひとりと紙袋3つを抱えて歩く僕は、次第に息も絶え絶えといった具合になった。3ブロックほど歩いた頃
「うーんだめ。降ろして。じゃないとあんたの背中に吐く」
という声が聞こえて、僕は慌てて、半ば放り出すように美貴を降ろした。
美貴は植え込みに向かってえずきながらも、降ろし方が乱暴なのよ、と弱々しく憤ることを忘れなかった。
僕は目の前のコンビニで水を2本買ってきて、1本を美貴に渡した。よく冷えた水が、胸焼け気味の胃にするすると吸い込まれていく。
「おまえ、顔、真っ青だよ。いまブルーベースの女と戦えば勝てるよ。これから彼氏奪い返しに行く?」
うずくまって水を飲んでいる美貴の隣にしゃがみ込んで言ってみた。美貴の小さな背中が細かく揺れ、それが次第に大きくなり、ついには地面に座り込んで笑いはじめた。
「バカじゃないの。いい加減プロレスから離れなさいよ」
口紅がほとんど取れてしまった唇を大きく開けて笑う美貴の目尻が濡れていた。笑いすぎたのか、吐きすぎたのか、悲しすぎたのかは分からない。でも僕は久しぶりに見た、子供のような美貴のその笑顔を、良いと思った。自分の持っている色々なものを、何かで隠したり、型に当てはめなくたって、別にいいんじゃないの。そんな言葉は言えなかったけれど、代わりに僕も、声を出して笑った。幼馴染の変わらない笑顔は、ほんの少しだけ、僕の胸のつかえを取り去ってくれた。

「あー、吐いて笑ってお腹空いた。ラーメン屋でもう一杯といこうか。もうダイエットする必要もないし」
色々なものを吐き出して、スッキリとした様子の美貴が、伸びをしながら言った。僕は、頼むから帰らせてくれ、と答えた。酔っ払いの介抱は得意ではない。そんな僕の答えにキャハハと笑いながら、美貴が歩き始める。僕はその少し後ろを歩く。

僕らはいつまでこうなんだろう。近づきそうになっては離れて、また近づいては、離れていく。いつか、限りなく距離が近づく時がくるかもしれない。あるいは一生今のままかもしれない。でもそれで良いんだと思う。

君のことを誰よりも知っている、なんて言うつもりはさらさらない。でも確かに言えることがある。君の動物占いの結果がサルだろうが、肌の色がイエローベースだろうが、そんなことは関係ない。僕の幼馴染は、誰かに負けて凹んでいる姿は似合わない。だからもう、誰かと自分を比べるのはやめてほしい。人は人。自分は自分。僕は僕で、君は君。誰かと比べて、誰かを羨んで、誰かになろうとしなくて良い。図々しくて、ふてぶてしくて、笑えるくらいに強くて憎らしい君が、僕はきっと好きなんだ。

「ほんとに一人で大丈夫?帰り道の途中でくたばんなよ」

「家まで送りたいってこと?」

「いや、遠慮しとく。じゃあ、僕の駅はこっちだから」
紙袋を渡して、反対方向に向かって歩きはじめて、足を止めた。


「なあ、そういえばさ、今日の口紅、そこそこ似合ってたよ」

美貴が笑顔で言う。
「タイミングも言い方も最悪。だからあんたはモテないのよ」

美貴に背を向けて、ヒラヒラと手を振る僕の頬を、夏の気配を含んだ風がなでる。銀座の街の喧騒が、今日はやけに心地良かった。


あとがき

この文章は、まずタイトルから生まれた作品でした。なぜかブルーベースをテーマにした物語を読んでみたいと思って作り始めましたが、結局ブルーベースはあんまり出てきませんでしたね。それでもやっぱりタイトルはこれしか思い浮かばなくて。

私には、この物語のような異性の幼馴染はいませんが、もしいたらどんな感じなんだろう、と想像していたら楽しくなって止まらなくなりました。

美貴が吐きそうになったところで、僕が美貴を放り投げるように降ろすところがお気に入りです。

この二人の関係、どうなっていくのかな。そして高校2年生の二人に何があったのでしょうね。機会があれば、そのあたりもまた書きたいと思います。読んでくださり、ありがとうございました。

西野市香

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