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おばあちゃんのこと

(別アカウントで書いた記事の再掲です。)

記憶の中の祖母は、ずっと家で寝ているか座っていて、とても偏食で、偏屈ないじわる婆さんだ。祖父はわたしの生まれる前に外国で亡くなっていて、わたしは写真でしか顔を知らない。もうおばあちゃんと一切口を聞いてやらないんだ、と泣きそうになりながら決心したことが何回もあったけれど、具体的に何があったのかは思い出せない。自分の意思というか、要求をけっして曲げない人だったから、それで両親と衝突しているところをみるのがつらかった。

わたしがくだらないほら話をして(誰かにかまってもらうためなら平気でありもしないことを延々と喋り続けていた)、祖母が遺憾に思って両親をしかりつけるなんてこともあった。わたしはついぞ家族に道徳的な教育を受けたことがなく、ますます惨めになって注目を受けるための空疎な行動が加速していった。家族の誰のことも好きではなかったし、学校にいるまわりの子と自分の違いばかり目について、どうしたら普通の女の子になれるのか、そればかり考えていた。

おばあちゃんにもかつて若い頃があっただなんて信じられなかった。あとから知ったことだけれど祖母の人生はずっと病弱だった。彼女の人生で起こったありとあらゆるかわいそうな出来事を知ったのはもう亡くなった後だった。とにかく存命だったころはわたしも子どもだったので、こんないじわるなおばあちゃんは嫌だとそればかり思っていた。最後の方にはベッドから起き上がれなくなっていて、わたしはいつおばあちゃんが死んだとしても無様に家族の前で涙なんて流さないように、毎日毎日、おばあちゃんが死ぬところを想像した。

(ちなみに、その傾向は大人になっても直っていなくて、急に悲しいことが起こることを恐れすぎて、友達と楽しく遊んだ帰りなどはその友達が帰り道で交通事故に遭って死ぬ、みたいなことをどうしても想像してしまう。おばあちゃんの時もきっと同じだったのだと思う。わたしはおばあちゃんのことが嫌いだったけれど、おばあちゃんが死ぬのが怖かったのだ。尤も、それはおばあちゃんを愛していたというよりも、おばあちゃんが死ぬことで家庭環境が大きく変わることがどうしようもなく恐怖だった。)

イメージトレーニングのかいあって、高校に入ったばかりの春に祖母が亡くなった時は、ほんの少しも悲しくなかったし、これで空いた部屋がわたしにめぐってくる、わたしはついに自分の部屋がもらえる!と有頂天だった。なんだ、家族が死ぬってそんなに大したことないじゃん、と思った。今思うと、家族愛も人の死も、当たり前に色濃かった時代とは大きく隔たった、冷たい現代日本の成れの果ての象徴みたいな子どもだったなあと思う。哀悼とか故人の人生への敬意とか、母親を失った人(つまり父と叔母)への同情とかをわたしは一切感じていなかったので、とんでもなく無礼な振る舞いをし続けた。最近カミュの「異邦人」を読んだけれど、主人公がママンの葬式で悲しまずにぼけっとしていたことを笑えないなあと思った。

それはもう、仕方のないことというか、育ちが悪かったので今では自責の念はほとんど感じていない。過去の行いはやり直せない。祖母が亡くなってから、わたしの中の祖母の記憶はどんどん抜け落ちていった。わたしは物事をすぐに忘れてしまう性質なので、祖母から受けた精神的苦痛は全部なかったことになった。いい方に解釈をすると、それは「死んだらみんな許される」ということなのだ。吉本ばななさんが、誰かを許せなかったとしても、死んだらみんな許されてしまうので今無理に許さなくてもいいのでは、とどこかで書いていたのを思い出した。

高校・大学時代のわたしは、過去の人々の記憶をたどることに夢中になった。とにかく古い時代を感じさせるものが好きで、特に自分の血筋をたどるのが楽しかった。現代日本はあらゆる「つながり」から疎外されてしまった、というのがわたしの基本的な考え方で、別にそれが良いこととも悪いこととも思っていないけれど、少なくともみんなが幼い頃から、自分につながっている血縁関係や地縁を感じ続けられていたら、ここまでひとりぼっちを感じる人たちは多くないんじゃないかな、と思う。その縁者が、やさしい人たちであったら、なおのこと良い。

たぶん、一面的な理解をするのがこわかったのだと思う。家族の前では意地悪だった祖母にも、わたしの知らない精神的な生活があったはずだ。心の中は目に見えないから、どうにかして見てみたいと思い、探し求めた。そしてわたしは、祖母だけでなく、曽祖父母やもっと過去の先祖たちのこと、自分のルーツにつながることを知り得ていった。とても楽しい仕事だった。自分自身のことだけ見ていると、人の心がわからないし容姿も頭も悪いし常に体調が優れないし生きる意味さえ分からないのに自意識ばかり肥大化していく…というどうしようもない袋小路だったけれど、曾祖母、祖母、父、わたしと繋がっていく血縁をたどっていくと、全員神経が過敏な人たちなのでもうこういうのは家系の宿命なのだな、とあきらめがついた。

そう、自分のルーツをたどる旅路で最も有益だった発見はそれだった。ちょっと乱暴な言い方をすると頭のおかしい人たちがわたしの家系には(残念ながら)いっぱいいた。わたしの解釈では、感受性が鋭くて、社会にうまく馴染めないようなタイプの人たちだったのだ。その事実に気づいた時、自分の性向が自分自身に全て責任がある気がしていたけれど一気にそのこわばりが解けていった。今でも親戚が集まると、精神的な病気にどう向き合っているかとか、亡くなったあのおばさんやこのおばさんも神経症だったとか、そういう話が普通に出てくるので不思議と笑える。みんなしんどいけどおばさん(祖母の姉妹)たちよくがんばって生きていたよねえ、みたいな雰囲気なのだ。だからわたしも普段はひとりで自分の過敏な神経と向き合って戦うように生きているけど、その時はひとりじゃないような感じがする。

祖母のことに話を戻すと、彼女の人生もまさしく戦いの日々だった。がりがりに痩せていたのは少女のころからずっとで、常に身体が弱かった。だから神経も過敏だけれどそれはフィジカルな要因が大きかったのだと思う。すごく向学心のある人だったけれど病気で学校をやめてしまった。わたしは今でこそ学術書も読むし、いちおう有名な大学を卒業したから(もはや珍しいことじゃない時代だけど)、おばあちゃんが生きていたらたぶんすごく喜んだんじゃないかと思う。祖母の歴史や和歌や古典に関する知識は膨大だっただろう。そういうことについて話してみたかった。祖父が急死し、祖母はわたしが生まれた頃から既に、身体の痛みとの戦い。病院と家の往復。入退院の繰り返し。そんな生活だったらしい。

なぜあんなに偏屈な義母を、母は甲斐甲斐しく介護していたのだろう、と思っていたが、博識で我慢強く、懸命に生きていた祖母を、母は尊敬していたのでは、と今になって思う。母についても、人格に問題のある人だとしか思っていなかったけれど最近いろいろなことが分かってきたのだ。

わたしは家族の愛を感じられずに生きてきた。両親も祖母も、そういうのが不得手な人たちだったのだから仕方がない。今、わたしはひとりで暮らすようになった。手元に一冊の小冊子がある。祖母の名前が表紙に書いてある。これはわたしが生まれた頃から数年間の間に祖母が作った短歌を抜粋したものだ。(と書くとわたしについての歌を集めた歌集みたいだけれどそうではない。)

祖母は短歌をよむ人だった。冊子を開くと、祖母の目から見た世界を、タイムスリップして眺めることができる。病院に疲弊する日々。亡き夫の思い出がよみがえる日常の何気ない瞬間。身体の痛みに耐えながら無為に過ぎていく時間。鬱屈した日常を淡々と描写した短歌の中に、ふいに微笑ましい情景がまじる。幼子の手を引いて歩く。はやりの団子の歌の絵を描いてと幼子にせがまれる。両親が庭の柿を収穫する様子を、窓ガラスをたたいて喜んでいる児。

それを祖母はただ見ている。わたしも祖母の目を通して、幼い自分を見ることになる。その視線は小さな孫への慈しみを孕んでいる。わたしは、かつて自分が慈しまれていたことを知る。わたしのいた日常が、歌に閉じ込めたくなるほど、祖母の中に響いていたことを知る。わたしはかつてつらい日々を過ごす人の慰めになっていたのかもしれないという事実は、時を越えてわたしの救いになる。

周りの人々や、周囲に氾濫するモノや情報や、わたしをとりまく社会そのものが、わたしを酷く戸惑わせ、疲弊させ、自分が一体誰なのか、何をして生きていけばいいのかわからなくさせた。叶うことなら、柿の実をパチンと枝切はさみで切り離し、地面に真っ直ぐ落ちていくのを見て喜んでいたころの自分を取り戻したい。その時わたしはただわたしとして世界に存在していた。自意識のない、純な自分がいた。かつてそんな瞬間があったことを、大人になってから、もう亡くなって久しい祖母に教えてもらえたのだ。

わたしは生まれて初めて、人と人とのつながりとはどういうものなのか、感覚として分かった気がした。そのつながりは、時間という概念も、生死さえも関係がない。わたしという存在が、無数に散らばって過去・現在・未来で誰かと共に在る。誰かの瞳を通して、わたしは、小さいわたしに出会う。その子の前にはその子を慈しむ誰かがいて、その誰かはかつて誰かに慈しまれていた。みんなつらかったけれど、頑張って生きていた。だからわたしも、頑張って生きていこう、と思えるのだ。

(2020年1月)

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