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正義の剣

これからの正義について考えよう、なんて大衆に呼びかける運動なんてする気はなくて、ただ自分と周りの人を正義の剣から守りたいと切に思う。

アンパンが正義の拳でバイキンをやっつけるアニメを見て、近代日本の子供達は小さい頃から「正義と悪」の対比構造を体に染み込ませてきた。
それでも世間はもう一回りしてきて、「正義の反対は別の正義なのだ、悪者なんていないのよ」をテーマにした作品も多く出てきている。本当にそう思う。
でも、昔から染み付いている「正義と悪」の構造はそう簡単に身体から抜け出るものではないし、「正義」を執行した時の快楽物質は強烈できっと忘れられない味なのだと思う。
つまるところ、正義の剣は煌びやかに見える側面を持ちながら、妖刀村正のような使用者を暴走させる、至極危なく依存性のあるものだ、と僕は強く認識している。

正義は個々で違う。僕と誰か、誰かと誰かで正義は違うはずだし、本当の意味では「大衆の正義」なんてのは存在しないはずだと思う。
正義とは、正当化したわがままである。
僕が今勝手に定義づけしてみた。
そう、個人まで分解してみるときっとただのわがままでしかないと思うのだ。
電車でお年寄りに席を譲らない若者に対して怒りたいというわがまま。
有名人の不倫に対して文句を言いたいというわがまま。
街に出てきたクマを仕留めた猟友会に動物を殺すなんてひどいと言いたいわがまま。
ただのわがままなはずなのに、「みんなもこう思ってるはず」という自分以外を身に纏って武装した途端に「正義」に成り上がり、自分のわがままを遂行することが、崇高な行為だと錯覚してしまう。

でもきっとそれは人間の性分であるし、しかもとても「気持ち良い」ことなのだ。だからそんな気持ちいいことに懐疑的になるなんて、不必要で無価値で面倒なことだから、大衆に対して「これからの正義について考えよう」なんて呼びかけたところで、本質的に考えるはずもない。
世の争い事揉め事、事件、炎上、いじめ、大きいことから小さいことまで、「正義」の概念は根深く絡んできている気がする。
だから、「これからの正義について考えよう」なんて、「戦争はやめよう」「いじめはやめよう」と言ってるようなものだ。言ってなくなるわけがない。

自分と周りの人を正義の剣から守りたい。
正義の剣を行使する側としても、行使される側としても。

多分、正義の剣を行使される側からは守れない。
事故みたいなものだ。通り魔みたいなものだ。

でも、正義の剣を行使する側にならないようになりたいと思う。
多分、自分の価値基準と、世間一般の価値基準と(と思われているもの)を混濁させせないことが大事だと思う。
俗で安い言葉で言うなら「大衆に迎合するな」かな。
そうすることで、拠り所は自分しかなく、己の正義は己の我儘として認識しやすくなるのではないだろうか。

難しい話だ。
煮詰めても正解も幸せもないこの話にさらに向き合えるほど、今の僕には余力もない。
啓蒙する気力はもっとない。

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