メモの取り方/読める文字と奇麗な文字

書道家の書いた文字をすべて読めるだろうか。私の場合、読めるものもあれば、読めないものも多い。素晴らしい文字なのかもしれないが、大きく崩して書いてあるとさっぱりわからない。それは、普段慣れ親しんでいる書体と異なるからで、その分野の人であれば読めるのだろう(たぶんね)けれど、すべての人がそうというわけでもないと思う。つまり、素晴らしい文字であることと、誰もが読みやすい文字であることは違うのだ。
一方で、書道家が文字を書いているのを見ると、多くの場合、一画ごとゆっくりと時間をかけて書いている。狙った線を書くためには、それなりの時間が必要だということなのだろう。

スーパーのポップの文字は奇麗な字か

読みやすい文字というのは存在する。もちろん、奇麗な文字であればいいのだが、必ずしも奇麗な字形である必要はない。
たとえばスーパーのポップ。野菜売り場や、魚売り場、お菓子やインスタント食品の特売品などにつけられている、店員が書いたあれだ。多くの場合、太いフェルトペンをって丸めの文字ということが多い。その性格上、目につきやすく読みやすく書かれている。そして、どこのスーパーであっても、それこそドン・キホーテであっても、似たような字形であることが分かる。そういうパソコン用の書体を使っているわけではなく、ほとんどは手書きだ。
読みやすいのはなぜか。一画ごとが明確になっているからということに尽きる。ほかにも要素はあるのだが、読めるかどうかという点において、これは非常に重要。可読性の悪い文字を書く人におおいのは、むやみに文字を続けたがることにある。いや文字を続けて書くのは構わない。しかし、なんでもかんでも、繋げているわけでも、省略しているわけでもない。もちろん、決まったルールがあるわけではない。人によって書き方の違いはある。しかし、好き放題に崩していいわけではない。みんながそれぞれ異なる崩し方をしては、ほかの人は読めなくなってしまう。決まったルールというほどではないが、まったくルールがないというあたりだろうか。これを外れると崩して書かれた文字であっても、途端に読めない文字になってしまう。文字を崩すには元の文字の形は知っておく必要はあるし、大きく変えるわけにはいかないし、書き順も重要になってくる。
書く速度と可読性のバランスに尽きるのだが、読める崩した文字を書けるようにするか、一画ずつしっかり書きつつ早く書けるようにするかのどちらかだろう。自己流の崩し方でも自分が読めればそれでいいともいえるが、他人に伝えるときに必ず清書しなければいけないというのは面倒くさいし、そうもいかないこともあるだろう。
ちなみに、私は後者を選んだ。元々書く文字は汚かった。いや今でも決して奇麗な文字ではない。ただ、先のスーパーのポップのような字を書くようになってから、可読性は上がったように思える。会議だったり、人に話を聞いたときの自分用の走り書きの手書きのメモであっても、多少読みづらい部分はあるものの最悪そのままコピーして誰かに渡しても、概要はつかめる程度の文字になっていると思う。

可読性の高いふところが広い書体と行間

スーパーのポップの文字の特徴として、書体でいうところのふところが広く書かれていることがある。文字を書いた時、内側の隙間が広くとられているのだ。内側に余裕をもたせるため、比較的外側になる画をより外側になるように作られている。一画ごとの隙間が明確になるので大きい文字というよりも、小さい文字で読みやすくなる傾向にある。ポップでそういうように書くのも、遠く離れたところでも見やすいようにということなのだろう。
ふところの広い書体にはもう一つメリットがある。隙間があくので、線が重なりづらいのだ。前回、線が重なったせいで文字が読みづらく(読めなく)なっている人の話を書いたが、これを防げるのである。
ふところの広い文字を早く書こうとすると、丸くなっていく傾向にあるが、極端にクセのある丸文字にならなければ可読性は下がらない。
ちなみに、ふところの広い書体としては、写研のゴナ、モリサワの新ゴなどが良く使われる。
印刷物では、書体も重要だが、文字の大きさや行間も可読性に影響する。これは手書きであっても変わらない。小さい過ぎる文字はやっぱり読みづらいし、ギッチリ詰まった文字はさらに読みづらくなる。書くのに使うペンの太さにもよるのだが、メモを取る場合でも、そこそこの行間は空けた方が読みやすい。
これは何も後でメモを読む時のためだけではない。とにかく人の話を聞いて、ひたすらメモを取り続けなければいけないような状況では、メモを取りながらも、自分が書いたメモを見直さなければならない。罫線が書かれているノートを使うにしても、これは気にせず文字の大きさと行間を考えて書いた方がいい。書きやすいように書いていれば自然、読める範囲になるものだが、罫の間隔に縛られるクセがついていたり、美学として許せないという人もいるようだ。そうであれば、3行ごとなどマイルールを作ってもいいかもしれない。
小学校低学年で文字を書く練習を兼ねていればマス目や罫線に合わせて書くのも必要だろうが、読めればいいのだから、本来は気にする必要はない。ノートの罫線については、斜めにならない目安くらいに思うのがちょうどいい。
ただ、ノートの罫に多少は縛らるのは仕方ない。私自身は気にしないほうではあるし、罫に従って小さい文字で書くわけではない。それでも、6mm間隔のB罫は詰まった感じがしてしまう。ノートを買うときは、ついは7mm間隔のA罫のものを選びがちだ。たった1mmの間隔の違いでも、違和感はある。この辺りは、使いやすいものを選びつつも、縛られない気持ちでいるというくらいがいいのだろう。
なお、ノートは、罫線の書かれているもの以外の、方眼だろうが無地だろうが、用途に合っていればなんでも構わない。

ゆっくり文字を書くとは時間をかけることではない

読みやすい文字を書くとき、大切なのは一画ずつゆっくりと書くことだ。いやゆっくりというのは正確ではないか。一画ごと比較的一定のゆっくりした速度で書くといったところだ。トメ・ハネ・ハライによっては一画の中で書く速度が多少変わるのは仕方ない。
ゆっくり書くというと、一画をサッと書いたあと、次の一画までの時間を空ける人がいる。さらに、次の文字を書くのに一息入れる人もいる。そうではないのだ。もちろん、一画ごとに間をおくのはわるくないのだけど、狙ったとおりに書くのであれば、やはり一画をしっかり書くことを意識した方が読みやすくなる。
メモだから早く書かなければというのも分かるのだが、読めなければ意味がない。実際のところ、そうして意識しているうちに、全体として少しずつ書く速度は上がっていくので、あまり気にせずしっかり書くほうがいい。
メモを取る目的であれば、読めればいいのだから、多少汚い文字でもいい。スーパーのポップのような読みやすさを目指す必要はないが、一画ごと明確にし、ふところを広くする、一画をゆっくり(一定の速度で)書くことを気を付ければ、可読性は各段に上がるはずだ。

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