241025 日常
異常な早寝早起きの生活が続いている。
さきほどもam1時前に目が覚め、もう一度寝ようにも頭が冴えてしまったので、購入していた東浩紀×東畑開人×山崎孝明の鼎談を視聴。「心の臨床の思想とはいかなるものか――観光客と村人で語り合う」というタイトル。3時間もの長さがあり、いまちょうど質疑応答タイムに突入したところである。とても面白かった。
現実との出会いについて。東さんも東畑さんも大学という純度の高い環境から出て雑種的な現実に直面する中で、教わった理論や観念、臨床手法では複雑な現実に太刀打ちできないことを知って、やり方を変えてきた。この、目の前の現実を真正面から捉えて調整していくことを「現実検討」と呼んでいた。現実検討ができないと、陰謀論などの極端な考えに振れてしまうが、往々にして頭のいい人たちが嵌る罠であると。
東さんの向ヶ丘遊園に住んでいた頃の話で、ヤンキーが自販機を蹴りながら怒鳴っているのを横目に見ながら、「言葉とは」と考えている自分自身のあり方に疑問を抱き見つめ直したというエピソードが面白かった。
「現実検討」が可能になるには、規範的なだけではなく現実記述的な構えが必要であり、東さんも東畑さんも両方を睨んで考えることができている。しかし、記述的になるには規範が壊れる契機が必要なのではないか、と提起されていた。東さんにとってのそれは向ヶ丘遊園での経験であり、東畑さんにとってのそれは沖縄での経験である。また、別の例として脱カルトの話(オウムの人たちは脱会するときに無宗教になるのではなく、他の宗教に入るそう)が出ていて示唆的。
その他、面白かった/よかった論点。
・人文書の読者層の変化。人文知はメインストリームを外れた人たちのためのものであり、世の中をよくしていきたいポジティブな人たちのためのものではない。
・ケアとセラピー/戦争と平和。傷つけないのがケアで、傷に向き合うのがセラピー。ここ数年は社会が戦争状態のため、ケアが重視されているが、ケアばかりやることで本当の問題が覆い隠される平和の二重性がある。
・平和とは大量の無駄な喧騒の場が確保されていることを指すが、無駄が大事と主張する時にこのロジックが抜け落ちていると説得力が減じる。
・東浩紀の思想と現代精神分析(≠ラカン)の共通性。抑圧されたものは消化しないと回帰してしまうからこそ、慰霊までをも考えないといけない。動物性の肯定と、エディプス的でない主体論について。
・病んでいるときの訂正不可能性。
お三方のテンポよく引き込まれる語りで、あっという間の3時間だった。最後の方で東さんが酔ってしきりに、今回の鼎談が嬉しくて自分が話す時間配分を考えられなかったことを謝ってたのが印象的。
ケアとセラピーについて、もっと考えたい。いつも現状の不安を乗り越えるためになにかを変えることから始めようとしてしまうけど、いまの自分は変化にさらされることよりも、癒しを求めているような気がする。
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