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転職の話でもしようと思う


 生理痛が下腹部と頭にきてて、ロキソニン4錠じゃ治ってくれなさそう。生理痛って人間設計上のバグの一つだと思う。けっこー痛い。かといって今の私にはピルを服薬するという手段を取れないから我慢するしかない。子どもを望んでいるから。とにかく痛いので、深夜だしノリでノートでも書くか、と思っている。ちなみにこの話にオチはないが、私は看護師歴10年の間に転職4回やってるので、その話でもしようと思う。4000字あるから気をつけてね。お腹はかなり痛い。

 そういえば新人看護師時代、夜勤中に経血多量でワゴったことがあった。自分でも「あ、ワゴったな。最悪かよ」と思い股から血をダラダラ垂らしながら冷や汗と痛みで気を失う前に職員用トイレの便座に足を上げてPHSで他の夜勤者に「ちょっとトイレきてください。むりかも」とだけ言って気を失った。今となっては爆笑ものだがペアの夜勤者には迷惑極まりなかっただろう。すまんな。
あの頃は確か新卒2年目かそこらで、精神科身体合併症病棟勤務。当時は布おむつ下タオルでオムツカートで夜勤では夕方に下剤の盛られた患者の後処理をして経管栄養を流してはまたその処理に追われて16時間の夜勤で座れたことなど数えるほどしかなかった。夜勤看護師2人に助手さん1人の3人夜勤だ。それはもうバチクソに怒られた。
 その精神科病院は御礼暴行(奉公とも言う)のため泣く泣く就職しただけで私は精神科には興味ないし慢性期にも興味ないしつまらなかった。内科的な知識を持った看護師なんて1人もいなかった。検査値を読むことも心電図モニターを読む知識も全く必要はなく、求められるのは業務のスピードだけ。当時パワハラが横行していて、私は師長に嫌われたので勉強してきたノートだって破り捨てられた。信じられる?食札もカテチも飛んできた。
 国試で必修50、状況一般200以上取ったって入るところ間違えれば意味なんてない。資格なんか取ったもん勝ちだよな、クソが。って思ってた。暴行(奉公)は3年で終了のはずだったので、ここにいたら脳みそが腐ると思い勉強出来そうな病院へ転職を考えていた。が、人ひとり育ててからにしろと脅され退職は1年延ばされた。
 結局プリセプターを1年やって、なんとかその精神科を逃げ出すことに成功した。かなり嬉しかった。もう2度と近づくもんか。

 とりあえず"まともな看護師" になりたいと思って転職に臨んだが、急性期病院にはことごとく祈られた。新卒から精神科じゃ、5年目看護師でも新卒とたいして変わらないからだ。色々と調べて、ある循環器単科の界隈では有名な病院に内定を貰えた。その病院は新卒を取らず、中途だけを採用しているようで、後で聞いた話だが1年離職率9割台という回転率の病院だった。循環器に興味があるなら誰でも採用します、ということのようだった。私と同じような年次の中途ばかり40人ほどが一気に就職したが、かなり忙しい病院で、最初の2ヶ月は名前も覚えてもらえず「あんたらにはできないから」と何もさせてもらえず、同じ病棟に配属された同期たち6人はみんな壁に同化していた。同期の中にはもともと大きな循環器ハートセンターみたいなすごいところから来た人もいて、カルチャーショックですぐに鬱になり、4月の段階で3人辞めた。そのうち1人は蒸発してしまい、警察から捜索願いの電話が病院にかかってきていた。他の病棟も同じような感じだったと思う。1年離職率9割っていうか4月の段階で多分5割は辞めた。
 それでも地道に先生の診療録や心電図のリコールを切り取って、わからない専門用語や波形を調べるうちになんとなくの雰囲気は掴めてきた。3ヶ月目くらいからようやく先輩の監視下で受け持ちを持たせてもらえるようになった。この病院は新人を名前で呼ぶことはない。あの子とかその子とかお団子の子とか新人さんと呼ぶ。きっとすぐみんな辞めていくから覚えることに意味がなかったんだと思う。朝のミーティングで看護プランから問題点から根拠から今日の行動計画、注意点、観察項目の発表をするのがかなり辛かった。もう想像つくと思うけど、鼻で笑われて修正もしてもらえない。何がダメだったのか教えてもらえないって辛いってこの時初めて思った。ダメなら注意してほしい。
 私は"まともな看護師"になりたかったので食らいつき、虚血、不整脈、デバイス、心不全と受け持つ患者もステップアップしていき、カテのこともわかり出した。
 ただ、人間関係はかなり厳しくて、ずっと陰口を言われ、使えない分かってない1回言ったのに覚えてないなど聞こえるように言われ続けており、残った同期と比べられ、あの子は答えられたのにあんたはわかんないんだ笑 とか普通に言われていた。同期との関係もかなり悪くなっていて、多分みんな少しおかしくなっていたんだと思うけど、朝来て情報を取っていると同期に突然後ろから椅子が倒れるほどの勢いで蹴られ、椅子から落ちた私に向かって「言いたいことあるなら言えや、お前みたいなバカと比べられて私は被害者」みたいなことを言われた。髪を引っ張られているところに日勤の先輩が来て、「あー、そういうことは患者さんから見えないところでしてもらっていい?」と一言だけ言って止めることなく情報収集を始めた。その時プツン、と全ての糸が切れた。12月だった。辞めよう。循環器の病態は泣きながら勉強したからなんとなくわかる、とにかく3末で辞めよう。こんなところに9ヶ月もいた自分を褒めたい。3末まで耐えようとしたのは履歴書を気にしたからだったが、これは間違いだった。私も躁鬱になり、3月になる頃には私には軽い患者しかつけてもらえず、毎日泣きながら物品を補充したりしていた。そして3月の下旬、本当に何もかも、息をすることも声を出すことも出来なくなり、日勤の昼休みに部長室へ行き、掠れる声で辞めたいですと言った。
 結果はあっさりOKだった。今辞めたらいいよ、もうここに来なくていいようにロッカーの私物も全て郵送するね。ここにサインして。はい、これで終わり。
 かくして私は泣きながら、日勤の途中で病院を辞めた。
こんなことってある?笑

 鬱の度合いがひどく、ご飯も食べられなくなった私は辞めてから病的に痩せた。29キロまで落ちた時は近くのコンビニまで歩くことも不可能だった。眠ることも食べることも動くこともできない。何してんだろう。別に看護師なんかなりたくてなったんじゃないのに。家の中なのに怖くて毎日震えてた。
正直この頃のことはあまり覚えていない。
彼氏の支えもあり(特に何かしてくれたわけじゃないが否定も詮索もしなかったし毎日楽しそうに生きてくれていた)、4月の後半くらいからは食べれるようになり、コンビニまで歩くこともできるようになった。
 「とりあえず気楽に働こう」
そう思い、派遣会社に登録した。学校検診の同行や訪問入浴、老健の単発夜勤、1日だけデイの手伝いとか、色々。
単発を何度か繰り返していると心がわずかに上向きになってきた。今ならいけるかもしれない。そう思って長期病棟派遣に挑戦した。3ヶ月更新で、派遣といえども普通のフルタイムと変わりない働き方をする。その病院の看護師はほとんどが派遣会社の看護師だった。派遣という立場は本当に気が楽で、派遣同士も仲が良く、今までで1番楽しかった。
 完全に心が健康になった感じがした。太陽がきらきらしていて、人はみんな穏やかで優しくて、気を遣いあって手伝い合っていた。3ヶ月1クールを1回更新して半年働いた。その頃にはもうすっかり治っていて、次へ行く余力もあった。
 派遣を辞めて、その後はつい最近まで働いていたニ次救のICUで5年働いた。

 "まともな看護師"になりたいと思っていた。その"まとも"とは、その時々自分に足りない要素を補填した状態のことを指していて、知識がない看護師はまともではないと思ってたいたから知識をつけたかったし、人間的に難のある看護師のこともまともではないと思っていたから、できるだけ優しい普通の感性のある看護師になりたいと思った。

 精神科4年と、なけなしの循環器病院1年、派遣半年の経歴で知識なんてほとんどないに等しかったが、最近まで勤めていた病院ではICUで色んな症例を見せてもらえた。勉強すればするほど周りも教えてくれて、ダブルチェックの声かけや体位変換の声かけにも笑顔で来てくれた。循環器、心カテ、脳外、外科オペ後、敗血症、重症肺炎その他諸々の知識は直近5年でついたものだ。
 看護師歴10年だが、本当の意味で看護師をしていたのは5年。病院運がなくて大変だったけど、当初の"まともな看護師"には近づいたんじゃないかと思う。

 今回辞めたのは、まあ色々あるけど夜勤による体調不良やホルモンバランスの乱れが気になって、妊活もしたかったからという理由が主で、まぁまとめると夜勤のない生活をしたかった。眠剤ないとコントロールがつかなかったのよこの1年半くらい。誰にも言ってなかったしTwitterにも書いてなかったけど。
 夜勤をしない看護師の手取りは言わずもがなで、夜勤をしないのなら看護師でいる理由もないから企業へ転職しようと思っただけで、看護師から企業なんて道はかなり限られてて、治験コーディネーターくらいしか道がなかったからこうなった。
職場運はない方だけど、人間としての振る舞い方はなんとなく分かってきたからなんとかなると思っている。

 色々辛い思いしてきたんだねって思うかもしれないけど、多分私にも問題があって、私が周りをそうさせてた部分もあると思う。だんだんそこに気付けてきたから、もうそろそろ"まともな大人"になりたい。そんな32歳の誕生日目前。

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