【作品と私】『アデル、ブルーは熱い色』

 『アデル、ブルーは熱い色』。フランス語の原題は、『La vie d'Adele』。直訳すると「アデルの人生」というタイトルだが、英題では『Blue Is the Warmest Colour』として公開されている。日本で公開されたのは一番後だから、原題と英題の間を取るような形でこの邦題が採用されたのだろう。何度観返しても、これ以上無いタイトルだな、と思う。

 この映画を初めて観たのは、確かちょうど、僕が20歳になった頃だった。高校を卒業して浪人し、苦心して大学に入学した僕は、勉強漬けであった一年前の自分を追い払うように沢山の本や映画、美術、音楽といった様々な芸術に、自分の身体をくぐらせる生活を続けていた。ほぼ毎日、何かしらの芸術に触れるために生きているような日々は、僕にとっては何もかもが新しく、何もかもが光り輝いていた。芸術には、僕が追い求めている全てがあった。あるいは、僕が常日頃追い求めているものを根本から疑わせ、新しい何かを求めさせてくれるような力が、芸術にはあった。

 大学には通っていたけれど、教室にはあまり行かなかった。もっぱら図書館で本を読んだり、食堂で友達と話をしたり、ベンチに座ってスマホで映画を観たりした。何度も単位を落としたり、久々に行く教室で恥をかいたりもしたが、そうやって自分の責任で時間の過ごし方を選択できる生活は、とにかく居心地が良かった。今考えれば、そうした生活はあらゆる芸術を感受するためにはもってこいの環境だったように思う。そうした生活の中で、ふと立ち寄ったTSUTAYAの店内で、僕はこの映画のタイトルに出会った。

 「ブルーは熱い色」。青というのは本来、冷静であったり、暗く落ち着いた印象を与える色とされているが、それは一体何故だろう。燃え上がる炎の赤、その対義としての青、と考えれば、確かに冷たい印象を受ける色ではあるが、考えてみれば炎というのは実際には青いものだ。赤い炎もあるけれど、赤い炎よりも青い炎の方が、現実的には温度は高い。それなのにどうして、青という色が、冷たい印象や、暗さの象徴として受け取られ続けているのか。恐らく幾度と無く議論されてきたであろうそうした単純な疑問が、TSUTAYAでそのタイトルを目にした当時の僕の胸に、途方も無く大きな意味を持って差し迫ってきたことをよく覚えている。暇だったのかもしれない。けれど、そうした些細な世界の矛盾や違和感は、思春期の、青二才であった自分にとっては本当に重要な問題だった──と考えて、「青」には、「若い」とか「未熟な」という意味もあるということに今、思い至る。青二才なのは、今でも同じことかもしれない。

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 高校生のアデルは、美術学校の4年生であったエマと、男性とのデートに向かう道すがらの横断歩道ですれ違う。エマは青い髪をして、女性同士で肩を組んで歩いている。アデルはその姿に目を奪われ、その日以降、自分自身がこれまでに認識していた性的指向とのズレに戸惑いを感じ始める。その後交際を始めることになる二人だが、アデルはその中でも常に迷い続け、自身の感情と社会から規定される愛の形とのギャップをうまく整理し、言葉にすることができない。対照的にエマは、レズビアンである自分を迷いなく公言していて、自分の性を言葉で腑に落とし、割り切って生きているように思える。アデルは文学を専攻していて、エマは絵画を生業としているのだが、言葉を模索する人間は言葉にできず、感性を模索する人間は感性を率直に表現することができない──そうした対照的な二人が、言葉では無く身体を通じて愛を育んでいく姿は、それこそ、言葉にできないほどに美しい。

 愛についてどれだけ考えたところで、明確な答えは出ない。どうして自分はあの人に惹かれるのか。どうして「一緒に居たい」と思うのか。それらの回答を短絡的に求められたとして、それをシンプルな言葉で、取り零すことなく表現できると思っている方がきっと間違っている。それでも、答えを知りたい。あるいは答えなど無くとも、愛を知ることを諦めたくない。時にそれが原因で感情が揺さぶられ、周囲を気にせずに喚き散らすようなことになろうとも、飽き足らず愛を探してしまうのは、「愛を知る」ということが他ならず、「生きること」と同義であるからだ。
 生きるためにこそ人を愛し、人を愛すためにこそ生きる。そうした「生」の有り様を表現するために、この映画には、3時間という長い上映時間と、何分にも及ぶ性描写を必要としていたのだと僕は思う。演技とは言え、それらの演出から精神的な苦痛(現に、エマを演じたレア・セドゥはパルムドール受賞以降のインタビューで、監督の極端な演出方法を批判している)を受けながら、一本の映画に対して真摯に向き合った俳優たちの姿は、途轍も無い偉業であると思うし、映画史を引っ括めて賞賛に値するものだ。少なくとも僕自身にとってこの映画が、他でも無く、愛や芸術、そして「生きる」ことについて考えるための基本的な礎になったことは、疑いようも無い。

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 タイトルの話に戻るが、僕は恐らく、この映画がこのタイトルでなかったらTSUTAYAで手に取って観ることは無かっただろう。カンヌ界隈の映画には少なからず傾倒していたけれど、劇場公開からは少し時間が経っていたし、これが例えば「アデルの人生」という、原題そのままのタイトルであったなら、僕はこの映画に触れる機会が無くここまで生きることになったのではないか。そう考えると、少しだけ恐ろしい。
 『アデル、ブルーは熱い色』。そのタイトルに込められた複雑さ、矛盾、またそれを目にしたことによって僕の中に生じた何らかの胸の騒めきが、僕をこの映画に向かわせた。もちろん他の作品の数々に関しても言えることだが、そうして出会ってしまったが最後、僕は今、仕事の合間を縫って芸術に触れたり、自分でも何かを作りたいと願ったり、そうしたいわゆる「普通」とは言い難い──言いたくないだけかもしれないが──人生を、歩まざるを得なくなってしまったのかもしれない。それは僕にとって幸福なことでもあるし、不幸なことでもあるような気がする。そうやって、言葉で簡単に二分することはできない。だからこそ僕は、その「わからなさ」があるからこそ、こうして生き続けていられるのだ、と思う。

 それは多分、アデルが横断歩道で、エマの青い髪──複雑で、矛盾に満ちて、言葉にできないほど美しいその色──に目を奪われたことと、ほとんど同じことではないか。その色の美しさは、言葉にできない。それでも、言葉にしたい。そうした意味で僕にとってこの作品は、何はともあれ、熱い色だ。

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