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映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」感想①【倫理観がズレている人間のグロテスクさ】

偶然、トレーラーを見ることがあって「こんな期待できる面白そうな映画なら観なければ」という気持ちになったが、実際観てみると「う~ん」という感じだった。序盤は期待もあったので退屈せずに見られたのだが、中盤あたりから展開が少なくとにかく長い。裁判の場面までは淡々と殺しが続いていく。有名監督の作品だと知らなければ、無駄に長いと素直に言っただろう。登場人物に感情移入することもなく、3時間以上ある映画なのにそれほど見せ場もないと感じた。酷い映画だったらツッコミどころがたくさん見つかるのだが、この映画はそうではなく、ちゃんとはしているからツッコミどころはそれほどない。

倫理観がズレている人間のグロテスクさ

叔父から逆玉婚を示唆された時に、アーネストは「まあ、そういうのもアリか」という程度だったと思う。その瞬間、叔父に対して嫌悪感もなかったはずだ。アーネストはモリーに叔父のことについて聞かれて、確か「素晴らしい」だの「あんな親切な人はいない」「逆らうと怖いけど…」というニュアンスのことを答えていた。

叔父のウィリアム・ヘイルは殺しを指図する一方で、口では「友人として」と言って何かと自分の都合の良いように物事が進むよう操作する。まさしく「息を吐くように」嘘がつける人間なのだと思う。アーネストの子供が病気で死んでしまったことが分かると、人を平気で殺しているのに子供が亡くなったことを真摯に悔やむ振る舞いが瞬時にできる。その人間としての急ハンドルが切れる人間は、私にとって気味が悪い。こういったズレた人間が遠ざけられない距離にいると心が休まる時がない。アーネストのようにどっぷりと浸かる関係を築くしか生き延びる方法がない。

物語が進行するにつれて徐々に叔父の歪さが露呈していく中で、アーネストは叔父に引いちゃうことはなかったのだろうか。叔父の入れ知恵でいつの間にか愛する嫁の妹を爆死させる計画に加担している。裁判の後に一族から嘘の証言をするように圧力をかけられた時、「こいつらちょっとおかしい」と思ったのでは。でもその後、素直に従って証言を変えている。アーネストは変わることができなかったとモリーに見抜かれて最終的に捨てられたのでは。

ああいう人間は意外と実在する

時代と場所は変わるが、社会で生き生きとのさばることができるのは、その急ハンドルが平気で切れる人間だと私は思う。Aと話している時はBの文句を言い、Bと話している時はCの文句を言い、Cと話している時はAの文句を言う。都合が悪くなれば自分のしてきたことを全て忘れて、清廉潔白に振る舞うことができる。正直、倫理観なんてものは足枷でしかない。そういう人間がどの時代でも強いのでは。

私は自分の倫理観(正しいか分からないので飽くまで自分なりの倫理観)とズレている人に耐えられない。上っ面だけでもそういう人と仲良くした方が得だと分かっていても嫌な顔をしてしまう。だからこそ、そういう人に余計に痛めつけられる。若い頃なら体力もあったので、無意識で面倒そうな人に対して接近して懐に入り込み、攻撃を躱す妙技が可能だった。ウィリアム・ヘイルのような権力を持っている人に気に入られることは気持ちがいい。年をとってからはしなくなった。体力がなくなったのか、空しいと感じるようになったからか。

ウィリアム・ヘイルが雇っていた鬱気質のネイティブアメリカン。保険をかけてるから何とか生き延びさせて、保険がおりる時が来たら自殺をさせるなり、殺すなりしてしまおうなんて考えは狂気染みている。人をものとして見ていない。現代では信じられないと言い切りたいところだが、私にはちょっとだけ現代にもその気を感じる。皆さんの身の周りにはそういう人はいないだろうか。

今の現代社会では、多様性だのコンプライアンスだの、言葉ばかりが先走って社会の上澄みばかりが清潔になっている気がする。朝井リョウの言葉を借りるなら「おめでたい」世の中になっている。そのおめでたさを信じ込んでしまうと、この世の中のグロテスクさに耐えられない瞬間がある。「あいつはもうちょっとだけ生かしておいて…用済みになったら殺しちゃおう」を希釈したような出来事は、職場で起こり得ることだと思う。便利だから皆が良い顔をしてくれる。使い道があるから、暖かく迎えてもらえる。若さを失って、より能力を求められるようになって、決して世の中とはおめでたいものではないのだと感じる。ほんの一瞬、かすかにグロテスクさが香る瞬間が現代にもあると思う。

マット・デイモンそっくりニキ

連続ドラマ「FARGO」や「Breaking Bad」では倫理観がズレたヘンな人を演じていた記憶がある。マット・デイモンそっくりニキというのはネットで見つけて、これ以上に彼を表現するのに相応しいあだ名はないと思って拝借した。この映画では彼はまともな警官?連邦捜査官?の役をしているが、倫理観がしっかりしているキャラクターの登場に私はすごく安心した。それまでの物語があまりに無法過ぎて、少しストレスになっていたかも。

それはこの映画からの影響だけではない。職場での出来事を思い出したからだ。話をしても全く伝わらない。気を取り直して説明をしても、全然違う解釈をして納得してしまう職場の人。再三のやりとりに困った末、別の人に相談をしても全く取り合ってくれない。そういう目にあったことがある。何が正しくて何が間違っているのか分からなくなって非常に辛かった。私が間違っているのだとも思った。マット・デイモンそっくりニキが事件を捜査し始めた時に、心底ホッとした。自分の話を聞いてくれる、理解しようとしてくれる人が一人現れるだけでここまで安堵するとは。彼の感情が見えないおっとりとした表情と顔つきがなんとも好き。

ショーシャンクでもグリーンマイルでも

ショーシャンクで暴行に遭ったり、悪人の所長に搾取されたりと、生き地獄のような環境で主人公が生き延びれたのも、倫理観のしっかりした友人レッド(モーガン・フリーマン)がいたからである。話の通じる相手が一人さえいればいいのだ。

グリーンマイルでは、パーシーという刑務官が登場する。面白半分で死刑囚を黒焦げにする最低最悪の人間。あの映画を観ている時にこの人と同じ職場だったら最悪だと思った。直接被害がないとしても、ああいう人間と毎日顔を合わすだけで疲れてしまうのが分かる。だが主人公たちは彼に心をやられずに、毅然としていられたのも倫理観のある信頼できる同僚に囲まれていたからだと私は思う。パーシーのような人間はドラマがこしらえた極悪人というわけではなく、世の中に意外といると思う。彼の持っている要素に珍しいものはない。不安定で臆病で、弱いものを虐めるのが好き。

盛者必衰

急ハンドルが切れる人間。普通の神経さえ持っていたら、そんなことは言わない、できないことが平気でできてしまう人間(ウィリアム・ヘイルやショーシャンクの所長、パーシー)。どの映画でも勧善懲悪で描かれていて、そういったネジのはずれた人間はいつかは罰が当たるという結末になっている。現実ではどうなのだろうか。


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