人生の命題とは
推し、燃ゆを読んだ。
本を読んでまとまった感想を書くのは久しぶりだ。最後に書いたのは大学4年生の夏だったと記憶している。
昔からこういう文章を書くのは得意でもなければ苦手でもなかったと思う。
読書感想文がクラスの代表としてコンクールに出す作品として選ばれたことも、サッカーの試合を見て書いた感想をクラスに掲示されたこともある。
でも夏目漱石のこころの感想文は作品を鑑賞するという観点において精彩に欠いたまったく検討はずれな文章であった。
今から書くこの感想も多くの人が議論し尽くした凡庸なものかもしれないし、あるいは作品の主題から外れたまったくの的外れな感想かもしれない。
けれども、誰の感想も簡単な前情報以外も見ることなくまずは自分の目で見たこの作品の感想を書いてみることにする。
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この本を読もうと思って手に取った時、「オタクやめてえ〜〜〜」ってなるんじゃないかと思っていた。
でも読み終わった時に最初に抱いたのは「生きるって何だろう?」という哲学的な問いであった。
オタクをしていると必ずと言っていいほど頭をよぎる「自分の人生を生きなくちゃ」という言葉。
自分の人生を生きるとは何か。
この本を読んでいると、主人公のあかりは推しのこと以外は上手くいっていないということに気づく。
勉強は苦手、アルバイトでも仕事が得意なわけではない、家族とも仲が良いわけではない、体調も良くない。
そしてあかりには、わたしが今まで読んできた物語の多くの主人公に見られるような何かを成し遂げたり、心境に変化があったりするような様子が見られない。
あかりはナルトのように火影になったりもしないし、推しと結ばれたりする(結ばれる、という表現が適切かはわからないがこれ以外の表現がわからないのでこの表現を使う)こともない。
あかりを取り巻く環境は変化しながらも、あかりは依然として推すことが自分の背骨であると考え続けている。
「諦めて手放した何か、普段は生活のためにやり過ごしてる何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。」(p.109)
あかりのように推しを推すことだけが自分の生きる場所であり支えである、という人に対して、どのような立ち位置でどのような見解を述べればいいのかわたしには分からなかった。
「オタクばっかりしていないで自分の人生を生きなくては」という言葉が出てくる時に、連想されることは大きく2つ。
1つは仕事で成果をあげること。そしてもう1つは誰かと結婚して家庭を持つこと、そこに至るために恋愛をすること。
しかし、果たしてそれを達成することが本当に自分の人生を生きることになるのだろうか、という問いがわたしの中に生まれる。
日々の生活を頑張ること、自分の人生をしっかりと生きること、それができる人でありたいとは確かに思う。
けれども同時に、自分の人生を生きるとはどういうことなのかも分からず、生活のためにやり過ごしてはいないだろうかとも思う。
あかりが「諦めて手放した何か」をわたしは「推し」といういつどうなるかわからない他人に頼ることなく持ち続けたいと思う。でもそれのなんと難しいことか。
そしてその難しさは「推し」がいる人間でなくとも目を逸らすことのできない人生の命題へと続くのではないだろうか。
推し、燃ゆという作品は「推すこと」が生き甲斐であるという人物を通して人間が生きる意味とはという根本的な問いを呼び起こす。
あかりというカメラを通してこの時代を生きる人間の目の前にあるリアルを映し出している。
自分がやり過ごす日常の中で、見ないふりをしていても、確かに存在する巨大な空洞をふと思い起こさせる、そんな作品であった。
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