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アリストテレスさ

 肩をへびのように這うてんとう虫がもよもよして耳から胃が出そうになった。子供とおもわれていたころ、転んだきずのひざの口からてんとうむしが体内に入ってしまったことがあったが、あれは思い出だろうか。私の脳がいつもてんとうむしの脚の数を三十本くらいに勘違いしているのは、膝のいまも蠢くわすがな腫瘍の与える主観的な数量を、てんとうむしに群がる三十本の脚という実体に結びつけた哺乳人類の、原罪が見る初夢だろうか。
 〈私〉のなかの肩で自由に足取りを闊歩するてんとう虫に、川を下るせせらぎで、鼓膜の隙間から聞かせて水面が飛ぶ。水面には箒星のようなざらざらとした光沢が厚さ数ミリの皮膜を形成しており、この川が豊かな砂利と半草原で橋の下に影を構成した安い腕時計をみると、紀元前の年末がはっきりと文体で書かれていた。私は紀元前の院生が飛来する大学院というものを通ったのだが、その川には、大学院がアリストテレスの『形而上学』で研究のふさわしさをビーカーに流した私の流したビーカーが流れ着いている。つまり、半分は球形のガラスで、半分は円筒形のガラスで、もう半分は液状の川からなる一連の流れが実験に用いていた私の容器よりも一足と半歩先に目と鼻の先を見つけたアリストテレスにお願いがしたかった。
「君がてんとうむしですね、てんとう虫がきみですかね、きみと君ときみがてんとう虫だとして、てんとう虫が君だったとする、てんとうむしはきみと君がきみだったとき、きみがてんとう虫だったとする。」
 君がてんとう虫だったときは、きみが君ときみをてんとうむしだとし、てんとう虫は君がきみだったとする。
 てんとう虫は、私の肩をどこまでも高く上昇し、爆散しないならば、打ち上がる花火のように素早く、雪を逆再生で降る新潟が夜のテレビ番組のことを考えはじめていた。布団の中で新潟と夜にアリストテレスは寝始めてしまおうと、位置を枕で時々調整していると朝になった。
「すがすがしく朝になって迎えましたね。霊廟的に感情が形を窓枠にし、あなたの身体に霊的なまでの朝として日差しの如く差し込んでいます。私は、ともすれば石膏像以外であなたを見るのを初めて目にします。そこに私の自由意志が石膏像にはないというあなたに、発想とは別の意味で付与を石膏像とあなたが結びつく場所に位置付けます。」
揺れるようにたてがみの金色で、アリストテレスが立った。
「おはよう、といって、アリストテレスは長く伸びて髭の白に撫で笑い、川はせせらいだ。」
 私は、化石のように私物の骸を採掘したときのきらきらとした喜びの学校だったときがセピア色の波として流れ、それを受信する。確かにあの邂逅は、アリストテレスも金色のたてがみと起きあがっていたし、そのとき2人にあきらかを混ぜていたと思うのです。そしててんとうむしも、川とビーカーと混濁している。

 アリストテレスにお願いをしたかった私をまぜて、5人は川遊びを考えます。
「川に垂直が流れることで、胃を私たちの洗浄するきれいにあそぶことかできるのでは?」 
ビーカーは水を汲もうとアリストテレスに川と言った。
「でも夜は危ない、少しめとめとするかもしれない。」と、胃が反論する。
それでは、5人は川遊びはできないのか。
 5人は永遠にわからなかった。

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