見出し画像

山手の家【第29話】

「私があの家に? とんでもない」
元旦にかろうじて営業していた、客足の少ないファミレスで、信子は赤い口紅の跡をつけたグラスを片手に大きな声を上げた。
「そりゃ、あの家に帰りたいかと言われたら帰りたいわよ。でも、何ヶ月も前からマコちゃんたちが住むって言ってるし、私が義人と幸代さんがお金を出してリフォームしたあの家に戻るなんて言ったら、幸代さんに何を言われるか……もう、恐ろしいわ」
信子は眉間に深いシワを作ると、何か嫌なものでも見たかのように顔をひきつらせてのけぞった。
「どういうことだ?」
真が腕を組んで天井を仰いだ。
「じゃあ、お義父さんが『山手の家に戻ると言ってる』って言っていたのは……」
信子はちぎれんばかりに両手を振った。
「ない、ないっ。義人が勘違いしてるのよ」
信子の隣でハンバーグを頬張っていた優子が、フォークを持った手で口元を隠した。
「あのお父さんなら、思い込みで突っ走るのはよくあるわよ」
優子の言葉に、信子が何度も首を縦に振る。
(本当に、勘違いなのかな)
瑠璃は、信子の喉元あたりにぼんやりと焦点を合わせた。細いゴールドの鎖がきらめいていた。
(そういえば、あの香水の匂いがしない)
首を傾げたその時、膝の上に座らせていた真珠が、よだれのついた手で瑠璃の指を握った。瑠璃は背後から真珠に頬ずりするように笑顔を近づけた。
瑠璃の指をおもちゃ代わりに遊ぶ真珠の向こうで、真が腕を組んだまま背筋を正すのが見えた。
「信子さん、これから住む場所、どうするんですか」
信子が「あぁ」と、何かを思い出したようにつぶやいた。
「知り合いの民生委員の人に相談したの。お正月休みが明けたら区役所に市営住宅の申し込みに行ってくるわ」
瑠璃が顔を上げると、信子が目を細めて口元に笑みを浮かべながら、こちら、というよりは真珠を見ていた。
「それにしても、あなたたち、可愛い跡取りにも恵まれて本当に良かったわね」
「そう、ですね」
何と返答して良いのかわからないのか、真の声は小さく、かすれていた。
「私の母は義人を生むまで、小川家の人たちから『跡取りを』って、ことあるごとに言われたらしくてね。幸代さんが1人目にマコちゃんを出産して、母は『本当に良かった』って、ほっとしていたのよ」
急に、信子が遠くを見やった。信子の目はどこを見ているわけでもなく、ぼんやりとしていた。
「私がなかなか子供を授からないのを、母がうるさく言ってね。『母も気にしているから、病院で診てもらおうか』って、大将に相談したんだけど、大将に『子供は授かりものだから自然にまかせる』と言われてしまって」
いつの間にか、優子は食事を中断して信子の話に聞き入っていた。
「母には子供、子供、って言われるし。大将は自然にまかせるって言うし。板ばさみは、きつかったわぁ」
信子は目を伏せた。
(信子さんは子供、欲しかったのかな?)
肝心の信子自身が子供を授かることについてどう考えていたのか、よくわからないまま、話はいつの間にか終わってしまった。
「太一さんとの結婚生活は幸せでしたか?」
瑠璃の質問に、信子の目が泳いだ。それは、ほんの一瞬の出来事で、瑠璃が瞬きをしている間にいつもの信子に戻っていた。
「大将と結婚して、普通に暮らしていたら見ることのない世界を見せてもらったけど、大将との結婚生活に、安らぎはなかったわね」
信子はそれきり、口をつぐんだ。


帰りの車は真自らが申し出てハンドルを握った。
後部座席から真珠の寝息がかすかに聞こえてくる。
車の窓の外に目を向ければ、破魔矢や熊手を持った初詣帰りらしい人たちが歩いている。
「ねぇ、真さん」
「ん?」
「なんとなく、なんだけどさ」
「うん」
話しかけておきながら、運転中の真に話す内容ではない気がして、瑠璃は次の言葉を口にするか迷った。
「何?」
真は続きを待っている。
瑠璃は、真がどう反応するのか怖かった。
(今伝えないと、そのままうやむやになってしまいそう)
瑠璃は意を決して口を開いた。
「お義父さんも、認知症の外来で診てもらった方がいいんじゃないかなと思って」
「そうか」
真の反応は意外だった。
てっきり、真に否定とか反対されるものと思っていた瑠璃は、拍子抜けして言葉を失った。
「僕も同じこと、考えてた。休みが明けたら、動き出そうと思う」
真はまっすぐを見ていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?