『バーベキュー』#61
なんとなく、行為のイメージや体験はあるけれど定義を知らぬまま大人になってしまった、言葉の一つにあった。バーベキュー。大人になってから(いや高校生くらいかな)、BBQをバーベキューと同じものを指す言葉だとも知った。
屋外で炭とか薪を使って、肉とか魚とか野菜とかを焼く行為。簡単に私の定義を書いてみるとこうだ。
語源を当たってみると、半日以上じっくりと火を通した豚の丸焼き(火の通りにくい肉・かたい肉)等に用いる器具を指すよう。それが、スペイン語の「barbacoa」に転化した。広まるうちに、野外で大人数でワイワイと調理して食べる様子から転じて、野外で寄り集まった火調理と飲食をバーベキューと言うようになりましたと。
この「野外」あるいは「屋外」、ここに、すっごい大まかにくくって“日本人”のなかでイメージが違っていそうだと思った。公園であるか、川であるか、海であるか、はたまた山であるか、どっこい、庭であるか。
わたしが小学校に上がる前、父親の会社の同僚だったと思うんだけど、三家族ぐらいでの“バーベキュー”(あのときうすらぼんやりとだけど「バーベキューに行く」って言葉が記憶にある)をしたことがあった。そのとき、津田山霊園の近く、森の中での記憶。木は茂り、でも足元はアスファルトで舗装された道、広場というわけでもなくなんか霊園内の通路って感じだった。あのころの私にとっては「不謹慎」って言葉は知らないし墓地とはいえ昼間の津田山霊園内はただ静かで広い公園だった。木漏れ日がチラチラと注ぐような、春か秋か、どっちだったかな。みんなでバーベキュー台を囲んで肉を食べたりしていた、あの空気の感じだけを覚えてる。
もうひとつの情景が川にある。多摩川。もうひとパターンだ。川で水遊びをしながら肉が焼けるのを待っている。ボールを父に投げ込む。ギュルギュルと回転するボールはカーブして父の手元に収まらない。力加減は、川に流されないように。ある方からはウィンナーの焼ける匂いがする。自分らでは焼いていない肉のにおいが食欲を駆り立てる。ジャッっと焼けた肉にありつくときの幸福感は、ひとしおだった、はずだ。味の記憶は無い。不思議な行為だと思う。バーベキューは、何度行っても、もう一回と思う。不思議な中毒性がある。
ちなみにウィキペディアには中毒性については書かれていなくて、実際に研究結果があってもおかしくないよなと思って検索してみた「バーベキュー 中毒性」で出てくるのは残念ながら、中毒性のあるバーベキュー用ソースのレシピ。残念ながら、を、あいにく、と書いた1分前、残念ながら、あい「肉」では無いんだったと気づいて書き直して毒抜きをしたつもり(わたしはよく語義や語感でそういう“韻を踏む”的な文章刺激毒を差し込みがち)。
中毒性については検索1ページ目には当たれなかったが、始原を調べてみたらどうやら一説によると15世紀末にはアメリカ大陸に定着していたという。ただし、それは調理法であって、「塊肉を長時間かけて火を通し、食べやすく柔らかくなるまで焼く」方法だった。かのスペイン語「barbacoa」。もうひとつ、こちら側に辿ると、日本にバーベキューそのものが到来した頃はわからないが、ビアガーデンで初めてバーベキューが導入されたのは銀座で1964年のことだそう。それが東京のオリンピックイヤーだという。
初めにWikipediaより、15世紀末の始原についてはナショナルジオグラフィックのコラム、ビアガーデンのバーベキューについてはキリンのコラムから、それぞれ情報をいただいた。
わたしはまた、楽しくて美味しいバーベキューを重ねて経験したところ。
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