『背中』#147

身体のパーツ、名称を取り上げるのは初めてかもしれない。背中。
じわじわと気になってくる点としては、背の一文字で表されるものと背中とでは意味が違うのか、そして、背に中を追加して、そのふた文字の間にはどんな助詞が補われるのだろう、と。
果たして表に見える背の中側、筋肉や骨のことを言うのかはたまた、背の中央、とこう書き出したのは前文を書いてから4時間後の朝6時、補う助詞はおよそ所有格の「の」しかないだろうと自分にツッコミを入れたところ。
背の中央、背中。わたしにとって背中では、センターラインが±0、背骨が零ベクトルで、肋骨が伸びるように、背骨に垂直に、ベクトルが伸びる。腰痛の表現に、手を腰にやる写真や図では、背中のうち中央から少し離れた位置であるとして、背中ではあるが中央ではない、みたいな妙な(気がする)認識でいる。本質的背中は背骨のラインであって肩甲骨の出っ張りや肩凝りで痛む筋肉は、背中ではあるが中央ではない、みたいなつまり「背」。
でもどうやら意味としては、背の中央で間違いなさそうだが、その背骨のライン、人間の身長方向の線状の範囲ではなく、首から下でなおかつ腰より上、というそういう領域を示すらしいと。四足歩行で地面に腹を向ける動物にとっては天に向く方を背といい首から下でなおかつ腰より上の領域を背中というと、そういうことらしい。
何を隠そう肩こりも腰痛も未経験で健康体な自分、あまり自分の肉体を把握できていない感じで時々悩む、とまではいかないが知覚できていない未熟さを感じる。歳を重ねて身体にガタがきて、内臓も弱って、腎臓に異常を来して痛んだとしても「あれ、これが世に言う腰痛かな」とか軽く思って湿布を貼って治そうとしかねない。痛む身体の部位を把握できず、痛みの差異を捉える経験もなく、ただ「そのへんの痛み」と処置してしまうのだとしたら知覚、神経を持つ動物として勿体無いとさえ思う。
もう十年以上前の芥川賞受賞作品である綿矢りささんの「蹴りたい背中」という物語はあいにく読んでいないので内容はわからないがおそらくきっとある人物に対する感情が、「こちらを向いていない」「他者から向けられている背中」に集中されているんじゃないかと推察する。地面あるいは顔、ここに向けられる腹と対置される背、その中央にあるのは皮肉か本心か。感じることも見ることも叶わず。

#背中 #180514

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