『粘る』#206

納豆が粘るのはいいことだ。よく混ぜて、よく粘りを出す。人間が根気強く何かに取り組み、時間と労力をかけ(そして時間対効果を上げて仕事量を高め)られることはまた良いことだ。粘る、ことについては若干、価値観の差異で効果を上げる・高めることを狙うものとそれを度外視して時間と労力を区分して双方の量を高めることを示すものとで見解が分かれるだろうけれど、私自身は同じ仕事であれば密度が高くないものについては「粘る」とは言わないでおきたい。断りを入れておくと、密度の微分曲線が時間に比して高くなることを言うのではない。なんて言えば良いんだろうな、時間を追加でかけたならば何かしらの足し算ができることは当然で、ただし、その足し算が蛇に足をつけることでは決してないこと、蛇のクオリティオブライフが高まる効果を出すこと、それが粘ることにおいて大事なのかなと思う。
次に挙げるのもイメージの話で、特に人間の仕事において「粘る」、その単語からイメージするのは、締め切りのある仕事でデッドラインが時刻で用意されている仕事、それの成果量を一定量で満足せずに高めようと時間と労力をさらに高めようとするもの。仕事と時間の関係って、私のなかで大きく分けて2通り。「納期までにある位置に達せばよい仕事」と「納期は一定時間与えられながらも流動性があって途中の成果に応じてボーナスタイムが与えられて成果を追加できる仕事」と。後者の仕事ってあまりないと思うけれど、芸術家の製作期間はそうかなと思うし、建築業界でも時間的に余裕のある施主の設計業務については時間と成果の加点が可能な点で、この類でもある。それで、前者の仕事に対しては、取り組み方は2通り、ある。あるにはある。1つ目は「速く成果を出すこと」で時間内に余裕を持って合格ラインに到達して提出を早めること。もう1つは「時間内に可能な限り成果を上げる/密度を高める/強度を上げる/加点すること」で制限時間をじゅうぶんに使って力の持てる限りで必要以上の成果を上げるもの。広くイメージされる「仕事」においては前者が好まれるだろうと私でもわかる。ただ、先方の気づかぬ「必要とされたもの以上の加点による利益」が見出せるならばそれは取り組む価値があるのだろうと思う。そこに、粘りの意義をみる。
さて、時間対仕事の2つ目、途中成果によって追加時間を得られる場合、というのはいま書きながら思ったことだが、仕事への取り組み方として2つ書いたうちの2つ目の粘りがあってこそ得られる追加時間であることは言えるだろうな、それで得られた追加時間は無為に過ごすことは許されない、当然ながら、さらなる飛躍・加点を求められる、しかも途中経過以上の感嘆をもってのこと、だ。その追加時間を、陸上競技に例えるならば、走破距離を伸ばすと捉えるか、速度・ペース(それまで以上の走力)を上げると捉えるか、その違いでえらく体力と精神力を左右する。42.195キロ走ってゴールテープまで切った後、どこまでどう走れるか、というイメージをすると大変なことだ。
うーん、粘りについて書きたくて、本当は、伸ばしたときの摩擦力と張力・テンションについてまで書こうと思っていたのだけれどどうにも伸びる長さに終始してしまいそうだ。
粘って粘って糸は、千切れそうなほどのテンションを感じながら限りなく細く細くなり、自分がもう千切れてしまうかあるいはまだ粘って伸びることができるかと鋭敏な思慮を凝縮された時間で行う、それが人間における緊張感とシナプスの高速伝達経路の相関にランナーズハイとして現れるんじゃないかなって、とにかく、時実利彦氏の『人間であること』を読んで脳について学ぶうち自分のランナーズハイと照らし合わせて「粘る」ことと「緊張」が結びついたんだという発露。さっぱり整理しきらんかった。

#粘る #180712

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