『白米』#153

人生で一番の量を食べてきた食材なんじゃなかろうか。ほぼ毎食、茶碗一杯ぶん(一膳が200gと言われるが私はもう3割増しくらいで多い)を食べる。さまざまなおかずを毎食変えていても白米はいつもある。いつも食べる。必ずしも毎食ではないにしろ、一日一膳というところ。
父方の実家が長野にある田舎で、コメを育てていることもあって昔から家ではコメを送ってもらって食べている。
コメ粒は一粒たりとも残せない。この感覚って、私くらいの生産者との距離感で最も強く芽生えるのではないかと、大学生になってから思った。総合大学だったこともあっていろんな地方から人が来ていて、そのなかには少なくない数、コメ粒を残すひとはいる。コメ粒を残す、であるのと、大学の頃からはじまる「飲み会」が拍車をかける。飲み放題とそれに付随するコース料理、食べきれるか食べきれないかといったら食べきれる量ではあるのに量とは別で食べられない状態になる。高校くらいから実感を伴って「飽食の時代」を知る。ニュースで見ていた状況をスーパーやファストフード店に訪れて「なるほど」とわかる。そういう大量生産大量廃棄の流れの中間点、食事の場面(書いた瞬間は「流れの末端」かと思ってしまったんだが、末端はあくまで「処理場」だ)にいて思うこと。そのなかで、「コース料理」とは違う一度の定食的食事、その場面においても茶碗にコメ粒がぽつぽつと残るのを目にする。大括りにするとふた通りで「まったく農に縁がなくて都市育ち」か「農家一親等で自家米育ち」。米を残す人に「あえて残す人」はいない。ほんとうに何の気なしに「気兼ねなく残す」。米を食べるということは、砂地で砂を手づかみにすること、と粒子の感じは同じかもしれない。ケーキのフィルムについたクリームはまた別次元。別レイヤー。
ネガティブな話題を差し込んでしまったが話は「白米」。献立による食べ合わせで何を合わせても旨いというのがさすがで、それは日本人の考える献立なのだから潜在的にでも慣習的にでも「白米に合わない」はありえないのかもしれない。っとまたネガティブ方向にいきそうだった。合うものは、と考えてみる、がしかし、何にでもあってしまうが故に「何が一番合うか」ってなかなか難しい。「ごはんのおとも」ということでは海苔やたらこや納豆などがあるがそうではなく食べ合わせだとしたら。オムレツだって卵焼きだって合う。焼肉も焼魚も文句なしで、ワンバウンドさせてかきこみたい。今朝は昨夜の残りの餃子と、鶏肉とブロッコリーとピーマンの油炒めと冷奴と味噌汁とで朝食とした。それでも文句なしに三角食べができる。三角食べができる。そういえばこの習慣、わたしパンだとうまくやれん。三角食べとして抽象化される三角も、主食と汁物とおかず、この三つの組み合わせであって、基本的に主食は白米だし汁物は味噌汁だしで、この組み合わせありきで「和食の献立」が成り立つ。人生で一番食べて来た、というのも当然のことよな。時々思うことは、買い米で「高級米」を短期間でいいから味わって習慣化してみたい。地味に思い続けている。

#白米 #180520

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