『文』#195

7月の到来。日本では文月と呼び習わす。そう、呼んだことはない。しゃれて「7月はたしか、文月だったね」と、そうかました記憶があるようなないような。文月自体の語源は、ひとつには短冊に文字を書く七夕の行事に因んだ説、もうひとつには稲穂の膨らむ時期であるから穂含月または穂見月から転じて起こった説、これらがあるそうな。ほんとうに日本は、暦や言い習わしにおいて米とともにあるなぁと誠に感じ入る。月とか。
短冊に文字を書くことは七夕に任せるとして、こうして文章をつらつらと書き記すことも文月の醍醐味と言って差し支えないのだろう。上達するには、トライアンドエラーもなく修練もなかなかしない、ただの書き物なので見込みは薄い。ただ、ときどき、意識を巡らせるのは、入りの余談と、本題を二編組むことと、結びで二編あるいは三編の本題を拾いながら余談の後味を蘇らせること。この組み立て、構造についてはときどき考えて実践してみてる。あらかじめ組み立てておくのではなくて基本的には即興で、余談を置き、複数の本編を書くうちに結びのことを意識し始めて、二、三の文で結べるように運ぶ。できるだけキザにならないように心がけ、ただふわりと味を際立たせる。「ふわりと」「際立たせる」この二語は微妙にミスマッチな、やわらかい言葉とシャープな言葉の組み合わせになっているけれどそこはミスではなく、あくまでそういうニュアンスを感じた経験から、そうした。
吉田篤弘さんの新しい、ちくまプリマー新書から出ている『雲と鉛筆』で相変わらずの結びを味わった。章の終わりにふと立ち上る、前菜の記憶。食前酒の泡をもういちど戴きたくなる、絶妙なセンス。いったいどうすればいいのだろうと思い、思いつつも過去に「こうかな」と思った手法をときどきは真似てみている。初めの余談は、多少大袈裟なくらいに広げる。そして言葉遣いも、すこし大味にする。シンプルでミニマルな言葉はエッジを効かせることが難しくて、後から拾ったところで思い出せるほど記憶に引っかかって残っていることは稀だ。思い出せうる、あるいは言葉自体を覚えていなくても音の響き、あるいは音感・読み心地で蘇るようなニュアンス、これを先行させる。夏目漱石の『吾輩は猫である』にしてみれば、書き出しからまずタイトルの記憶をパチンと思い出させながら留めつける。ベートーヴェンの『運命』の、扉を叩く表現のあの音は、実際の演奏を聴くよりも先にテレビやラジオで聴いていて、あらためて聞いて曲中に出たときはもう脳の興奮は最高潮であふれんばかりだろう。
こんな、しゃれたものばかりでもなく、もっとささやかに「これはたしか、初めにあったね」と思い出される一文を挿しておけたら格別と思う。

#文 #180701

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