『雪』#35

本日2018年1月22日においてはこれしかないだろう。雪。
いやしかしこのnoteを日記的に題材拾ってしまうと、どんどん個人的で一人遊び的に閉じこもっていってしまうのではないか、と思ったいま、すでにここ最近数回分がそんな閉鎖的・身辺都合な文章になっていることを自身のライブラリをスーッとスクロールしてみて自覚した。季節感のある題材や時事ネタを取り上げること自体はさして悪いことではなかろう。読む人のシナプスにとっても負荷を小さくできて、よいはず。
雪。また、風。降り始めから大雪、吹雪に変わるまではすぐだった。朝のニュースでは5センチと聞いていた予報、帰りの夕方、ベローチェ寄って出た夜にはざっくざくで15センチはあった。現に。帰宅して点いてたテレビでは渋谷や首都高の様子が流れていて積雪は20センチ超の場所場所が報じられていた。横浜川崎は21センチ(そういえば3センチ刻みの報道だったな。なんでだろ)。
正午まで働いたあと、帰れなくなるとコトだということで切り上げになった。そして、翌日火曜は休みと。最寄駅についた14時ごろ、雪は猛烈に吹き遊び傘を差せどもコートは白く覆われた。しかも雪は大きく、破りちぎった和紙のようだった。くっつくのなんの。寄ったベローチェも、普段22時までの営業も、短縮で20時。店内も店員もざわざわとしていた。暗くなった帰り道にはそこそこに雪だるまが立ちぼうけ。吹雪にあてられる姿は雪だるまといえど寒々しく辛そうに見えた。
そのとき、これまで疑問に思わなかった“雪だるま”の名前にハテナが浮かんだ。「雪だるまとだるまは、二頭身と一頭身で違うのに、なぜ。きっとだるまが語源なんだろうけど何が起きたんだ」と。数分考えたのち、なんとなくおさまりはついた。そもそも、雪が降ればなんとなく何か造形したくなるのは普通の心持ちだろう、それで形も特に複雑でなく縁起物のだるまを作ってたのしんでいたのだろう、それは大きな一つの雪玉をくびれさせたか、二つの雪玉を積んで継ぎ目を埋めたか、あるいは別の手段かはわからないが、だるまらしい造形にしていたのだろう、しかし雪玉を手に負える大きさに落ち着かせていくと二つの雪玉を人間サイズに積むのが簡単でそっちがメジャーになって、…いまに至るという流れかなと想像した。
それから検索してみて、ウィキペディアでは歌川広景の浮世絵の画像にまさしく、だるまを模した雪だるまの姿が描かれていて「ひとまずほんとうにだるまを模していた過去はあったんだな」と安心した。細かい変革の詳細は検索せず確かめていない。それより気になってしまったのが、雪だるまの腕だ。しばしば雪だるまには、特に絵本などの、ビジュアル媒体において雪だるまには木の枝などで腕がつくられている。だるま自体は、達磨大師の伝説を元に作られた経緯があり、その達磨大師は長い年月じいっと座禅を組んでいたことで手足が腐ってしまったそう。その姿が元になっているというだるまなんだが、腕が伸びた姿の雪だるまを見ているとじわじわと、語源を離れ独自の存在として見えてくる。それはまさに、スノーマン。きっと明日、晴れ予報なので、街中にはたくさん現れるだろう。
晴れた朝のザクザクとした路面、溶けてしゃびしゃびな昼の路面、凍って大変な夜の路面、きっと明日は、まるで春。

#雪 #180122

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