『納豆』#205

納豆が嫌いな時期は、一度たりとも無かった。納豆が“くさい”ということも半分理解しつつ、もう半分では“においがある”くらいにしか捉えていなくて“くさくはない”と考えている。つまり、私にとって納豆への嫌悪感は無い。嫌う要素がない。モノとしてみれば、だ。そのモノが、もし他人へと伝播する要素を持って私を侵食したとすれば、話は別だ。納豆を食べる日は必ず私は味噌汁を合わせる。納豆の粘りは、味噌によって解消されることをたしか、ためしてガッテンで知った。たとえば納豆を触ってネバネバと糸を引く箸を、味噌汁につけてみる。すると、伸びていた糸はたちまち粘りを失って切れて、次に箸で触れるものとも糸を引くことなしに(多少の粘りは見せるが、伸びない)、食事を楽しむことができる。納豆を食べたときにその場で困るのは、におい以上に粘りだ。家の食卓では、ご飯と味噌汁以外のおかずは、卓の中央で大きめの皿に盛られていて、それぞれが箸でつまむ。だから納豆を食べる日には、箸のネバつきが気になる。自分の箸がネバつくことも気になるし、誰かの箸がネバつけばそれもまた気になる。だから、ネバつきを解消してくれる味噌汁無しに、納豆を家族での食卓で食べることは無い。1人だったら話は別で、急いでいる朝に納豆卵かけご飯だけをかっこむ場合にはネバつきなんて関係ない。口の周りは、食後に洗えばいい。勿論、幾ばくか余裕があったら味噌汁を用意して、食後にガバッと飲んで口の中のネバつきを取る。当然、歯磨きが楽だ。
あまり余裕のない朝ごはんで、いかにして栄養をとって、いかにして頭が働く状態にできるか、それを考えると納豆(それと基本的に合わせる卵とで)は外せないパートナーなのだ。ためしてガッテンでも、あるある大辞典でも、本当は怖い家庭の医学でも、納豆とヨーグルトについては貶されることなく栄養食品として紹介されてきて、魚のDHAと同じく脳にいいと紹介されてきた。
大学生活でもその後の就職後の生活でも、朝ごはんって欠かすことなくて、そして欠かしたときの無気力午前時間を作ってしまう代償をよく認識していた。納豆ありの日、プラシーボ効果のようなものかもしれないが、無いと「食べなかったせいかな」と結びついてしまう。切っても切れない納豆との関係に今後、味噌汁のような魔の汁物、知るものが現れないことをいまは願うばかり。

#納豆 #180711

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