『旅』#253

数ある類義語の中では、この「旅」が一番好きかな、と思う。汎用性と自由度が高くて。言葉の。ひとり旅とか深夜バス旅とか徒歩旅とか、とにかく何にでも「旅」って付けられる。旅行、でもそれは可能だけれど一文字ぶん長い。
類義語の観光や旅行より、散歩の方が適当かなとも思う。
名勝地をまわるか、当て所なくなんとなく決めた地を歩くか、それはどっちか極端な話ではなく、観光の合間に旅は表れるし、旅の合間にだって観光は表れる。日光東照宮を観光で訪れていたって、ふと裏山が気になって足を踏み入れてドキドキしながら暗い中へ進んでいく、そこには旅があるし、アジア圏をバックパック1つで目的なくぶらぶらしていたってふとタージマハルやアンコールワットのような世界遺産を訪れて観光に興じてみることだってあるし、あくまで意識の比率と軸足の置き所の差異。
その意識の比率を旅に高め、軸足をでんと旅の中心に据えてしまうと、過剰な自意識と自尊心が私たちを支配して「人生一度限りやったもん勝ち。世界に感謝」の無鉄砲さを発揮してしまうのだと思う。揶揄するつもり満々で、旅偏重の無鉄砲さと無頓着さは自分以外の身の回りの人間をも滅ぼすと私は思っている。
特定の景勝地、ある想像可能な対象を巡る観光、sightseeingと違って旅、tripあるいはtravel、へたしたらadventureは、未知の想像不能なものへの憧れと好奇心から行動する。と私は思っている、とここでエクスキューズしておく。その好奇心はときに切り立った断崖をよじ上らせるし、ときに見知らぬ人や動物と写真を撮り触れ合うことを引き起こし、ときに不十分な装備で危険な場所へ挑ませたりする。私はヨーロッパへ行ったときその無鉄砲さで、そのとき武勇伝的に思っていた出来事がある。事前にとっていた宿は5日めからののみで、初日から数日間分は予約せず、現地で探そうと思っていた。まず空港へついて、その都市の中央駅へ出て探そうと考えていたところ、初っ端、駅からの直通ノンストップ特急電車に乗るつもりが、どうやら各駅停車に乗っていてしかもそれは方向さえ違っていた。直通に乗ったつもりが各駅に停車している、その違和感には気づいたものの、路線図を持っていなかった私は方向が違うまでいることに気づかなかった。直通なら30分で中心部に着く経路だが、それくらい時間が経つころむしろ、田舎の工業地域の風景にどんどん変わっていって不安に駆られた私は、はす向かいにいたおばさんに声をかけた。この電車は中央駅へ行きますか?と。するとあっさり、着かないよと返事が返ってきて私はくらっとした。ため息ひとつついて、その女性に中央駅へ行きたいことと、中心部へ行かないと宿を確保してないので田舎に行ってしまうととても困ること、それらを話しているうち、彼女から「じゃあうちへ泊まったらいいよ。中央駅へは30分くらいで出られるし、旅行には困らないよ」と。20歳の私、判断力もないまま優しい手を差し伸べられて心から喜んで「Yes,please!」と応えた。
結局そのまま二泊も泊めてもらって(リビングのソファベッド)、晩御飯と朝ご飯までいただいて(「晩御飯は何時にする?それまでに帰っておいでね」と先回りして聞かれた驚いた)、無事に次の目的地に向かうことができた。
でもこれ、冷静に考えれば危険なことであるのはよくわかる。彼女は、空港職員だと言っていて英語がペラペラだった(ちなみに都市はローマだ)から、妙に安心していたけれど、まるっきり嘘かもしれなかったわけで。でも、物盗りもされなかったし毒を盛られたこともなく悪いことなんて何もなく、ただ、優しくしてもらったんだ。ウチご飯感のあるツナとトマトソースのスパゲティとか、すごいよかった。
それで。だから、旅は危ない、って言いたいわけではなく、ある出来事の多面性をどう捉えるか、どんな見え方、視座があるのか、一義的ではない物事の見方を得られること、そこに私は旅の面白さがあるよなぁと思うのでして、死ぬまで忘れない。

#旅 #180828

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