『プロローグ』#274

英語、Prologue、芝居の前口上、詩の序詞をいう。プロローグ。
私のこの書き連ねている千文字くらいの文章は、だいたいにおいて少しのプロローグ、序文をもって始まる。
前触れもなしに本文を書き始めることとは違い、プロローグ、それは導入というのでもなく、前口上、序文、前書き、この書き出しを取ると何が違うってまずは、ポエミーなことをアンニュイに書いてみることができる、それに類して、文体を気にしないエッセイ・ただ語感と書き味の良さだけを追求した言葉の連なりを組み立てることを許される感じがあるので、規則的な準備運動とも少し違う、打席に入る時のルーティンのような自由運動で身体を始動するようなそんな気持ち、そして態度。
誰かに言わせれば、アンタ本文でだってお構い無しにポエミーな文章をぶっこんだり文体無視をしたりと気ままに書き連ねているだろうよとのご指摘があるかもしれない。しかしこの、今回の文章において考えればこの部分、この段階ではすでにそれなりに行儀のいい日本語文を書いているわけです。そこにもツッコミが入るかもしれないがそこはもうイタチごっこになってしまうので無視する。植物の生育に例えてみよう。私にとっての本文は、品目のわかっている種を植えてきちんと水をやり土に栄養をやり茎が倒れないよう添え木をしたり、きちんとその、何が育つかわかっている種をきちんと成長させて、予定通りの果実を収穫できるまでの道筋を進むことを言う。一方のプロローグはといえば、その回に設定した単語に近かろうが遠かろうが何かしらの関連性を持ったたくさんの品目の種をブレンドして、決まった適切な場所に植えるのではなくパッとばらまいてみることに例えられる。どこでなんの芽がでるかわからないし、出た芽が最終成果物まで育てられるかどうかもわからないけれど、過程の最後で何かしらの収穫ができたらいいなとまったく不確定な未来への期待を込めること、その作業である。
これを、文語的に言えば、伏線、なんだろうなと、自覚はしているけれど伏線がクリティカルな単語ではないように思うのでプロローグは伏線張りだと言うと少々限定的に過ぎる。収穫できるかわからないブレンドされた種を蒔いたその庭がどんな全体性を作り出すか、そこにある偶然性と将来性に期待をすること。
種を(ばら)蒔くこと。

#プロローグ #180918

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