『海』#83
怖いと思ったことは、今まで無かったし、これからまた怖いと思うこともないんだろうと思う。だけど、7年前から、怖いと思う人が現れたり多くなったり、そういうことがあったんじゃないかとは思う。自分自身は溺れそうになったとき刹那的に「怖い」と思ったことはあったけれど、「怖い」と恒久的に思うことはなくて、それは大変にありがたいことなんだろう。
記憶と事実認識の風化が、とか言われるなかで、なにかを思うとするならばと思ったこと。そういえば「風化」って表現の仕方について、大手の媒体では見ないけれど、文脈とか目的語無しに「震災から7年が経過して、風化が進んでいます」と書かれることや言われることがある。たくさんたくさん、2年が経過するころからもう聞いてきた言葉だけれど、例えば「記憶を風化させてはいけない」とか、「あの日を忘れない」とか、こういう意識って遠方であるからこそ成り立つんだといつも思う。実地的には「あの日は大変だったけれど、忘れたように置いておいて暮らしている」とか「思い出したくもない」とか「あの日以前とそれからの日々は変わったけれど、呑み込んで今も生きている」という生活意識もあるだろうと思う。どこかに先述の「あの日を思い出そう」意識とこの「あの日の感情を乗り越えて毎日を生きている」意識とのフォッサマグナがあるようで、毎年この日は複雑な気持ちになる。8月の広島と長崎の原爆投下された日とは、少し違っていて、8月の各日は物心ついたころから「思い出す日」の意識だからだろうか。または、生々しい悲しみや苦しみがいまもハッキリと目に見えるかそうではないか、の違いかとも感じている。地続きのことで、地続きのはずなのに、どうしてだろうか。
宮城県の牡鹿半島に入って話をしたり滞在したり、関係したときに感情の持ちようがものすごく難しかったことを覚えている。ものすごく、向こうに気を遣ってもらっているような感覚があった。こちらから労うとか励ますとか支えるとか、そういう「対等でない」感じを意識的か無意識的かに回避されるような。不思議で、ありがたくて、申し訳なくて、でも、力が湧くような日々だった。浜からの景色は格別だった。
学生でなくなって働き始めて日々の忙しさにまみれて、その東北地方はおろか旅行自体も機会を減らしている。それでも、年に数回は出ているので、ただ、足を運んでいないだけといえばそれだけであって、第一位に優先して行くこともない、地が繋がった土地のひとつであってそれだけ。
私自身、どう気持ちを置いておけば良いのかわからない、妙なミゾにはまっているのが2011年からの3月11日なのである。
東海道線に乗ると真鶴や熱海のあたりで、太平洋を窓向こうに広々と見渡すことができる。穏やかで、そよそよと白波が立つ景色はとても綺麗だ。
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