『子ども』#138

5月5日はこどもの日。これは曜日によらず変わらない国民の祝日(ほんとに曜日によらない?ハッピーマンデー法案に左右されない?)。
子どもであることが楽しい子ども時代、大人が羨ましい子ども時代、子どもであることが嫌になる子ども時代、大人に近づいていることが嬉しくも身が引き締まる子ども時代、子どもと呼ばれるような年ではないのに制度上は大人ではないために妙な自己認識の子ども時代、こうしていくうちに制度上で大人と呼ばれはじめる子ども時代、右も左もわからず社会の中で踏ん張る子ども時代、と歩んできた。いま、子ども時代か大人時代か、どちらだろうかとわりと本気で、わからなくなる。
相対的なものだとも言えるし、制度的に絶対的なものであるとも言える、一義的に定まらない単語。ある親の存在から生まれる子としての子どもと、制度上の成人に対置される子ども、意味上の子ども、この三方に分けたとしたら、前二者は一義的に定義できる。いやはやなんていうか、定義と意味の位置付けって、難しいな、次元かあるいは階層が実は違うのか、定義と意味とで。先に羅列したホニャララな子ども時代、というのは後者の意味上の子どもとして書いたもので、いまの自分が精神的に成熟して大人と言えるか、それはとても不確かなことだ、なんとも言えない。じぶんから見て、大人っぽいひとは年上でも年下でも大人だし、子どもっぽい人は年上でも年下でも子どもだし、そこに年齢の区別は絶対的には存在しない。成熟が、感じられるか。英語で言えば、maturedかどうか。私的に、日本語の成熟というより、英語のmaturedの方が「大人」のニュアンスを含んでいて、「成熟」のひと単語だと大人には物足りない、childish。
一義的な方の子ども、として自分と親との関係を最近よく考えるようになった。いつまでも、親からすれば子どもである。それはずっと、どちらが死のうが変わらない。でも、その子どもは制度上の大人になる日があって、それ以降の子どもの振る舞いは大人の振る舞いとして恥ずかしくないものでなくてはならないしそうであるべきだとする時期がくる。その時期が来てから早7年が経過して、いまも実家で一緒に生活しているけれど生活の独立性は本当に個人的になって、妹も成人して社会のなかでも生きているものだから個人が四人、祖母も含めれば五人、大人がいる。子どもは三人。子どもの子どもは二人。言葉遊びで妙なものだが、そうなのだ。
子どもとしての私はいまでも、炊飯と洗濯は親に頼っているし、部屋も冷蔵庫も下駄箱も、家のものを使っていてこれは成人の私の私物ではない。自立、という言葉が、二十歳になったころによく友人間で会話の中で出てきたものだが、精神的自立や居住的自立、金銭的自立、と具体的な立ち方は複数あって、子どもであるままに居住的自立を得ないまま大人生活をしている。
いまがいちばん、ピークは大学時代から継続的で、成熟段階におけるモラトリアムにあるのだと実感してとにかく、もやもやとする。
家の中で見当たらなくなった鎧兜は果たして。

#子ども #180505

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