『写真』#117

ストーリーも、青写真も、イメージもない、本当に見切り発車と言うほかないテーマです。運行表もありません。
ただ、テーマは『写真』、投げかけることとしてひとつ、「“写真が撮れる”とはどういうことか」というものを。写真を撮れる、というより、写真が撮れる、というもの。端的に写真を撮れる、って言ってしまうと動作的に「カメラの機能を持つ機械のシャッターを押すことができるか」って可能/不可能の話になってしまうので、ハイ。
“写真が撮れる”とは、それまでの会話や文章における文脈・コンテクストを汲んだ上で最も抽象的に、最も端的に、言いたいニュアンスを表現できる一文である。先に、投げたボールを、わたしはこういうフォームで取りにいく。奇しくも音が同じく、取りにいく、撮りにいく。
この表現でもっていろんなことが言える。言える一方で、例えばスタッフ募集をするウェブメディア担当者・代表者が「“写真が撮れる”ひとを求めます」と書いたり、ひとにだれか友人を紹介するときに「あの子は“写真が撮れ”るんだよね」と言ったりする。当然ながら、“写真が撮れる”というときの『写真』には文脈的に・ニュアンス的に形容詞・修飾語が潜んでいる。先の例なら、前者のウェブメディアにおいては「商品やひとの特徴を強調・主張できる写真」とか、メディアのブランディングイメージがあるならば「(メディアの)イメージに沿った画像表現・加工をした写真」であったりする。後者の友人語りにおいては「当人に特徴的な、印象的なクセの出ている写真」とか、あるいは違う目先で「(色んな種類のカメラを持っていてメカニック強者だったりして)各カメラの強みを生かした写真」が撮れることを指したり、言いようは如何ようにも。とはいえ「(具体的であれ抽象的であれ理屈のつく)いい写真」が、撮れることを言うことしばしば。
写真家の濱田英明さんがTwitterで投稿していたこと、ファボったいくつかのものがじわじわ自分の中で発酵している。写真がわかる、ということについて。ツイートでは限定的に、奥山由之さんのポカリスエットの広告写真を指して「わかる」と言っていた。その「わかる」というのは、転記すると
“ポカリがなぜ分かるかというと、高校生(≒青春)という記号、高い運動量のダンス、誰でも知っているポカリという飲料が持つ意味がパッとみて一致するから。そこに彼の持ち味である非現実的な空間におけるビジュアル表現力が合わさった。”…ということ。そのツイートの数日前かに濱田さんは奥山さんの写真について「これまでの作品はわからなかった」けど「ポカリはわかる」と言っていた文脈があった。私にとっては奥山さんの写真は「とてもよくわかる・被写体が強い・共感」そんな対象で、濱田さんの写真についても「わかりやすい」と感じていたので、濱田さんと奥山さんの間のベクトルが合わなかったことに驚いた。どちらも抽象度は全く高くない(奥山さんのはときどき抽象的に感じるのがあるか)、でも決してただ感傷的で直接的で具体的な写真ではない、という奥行きが私は好きなのだ。
そして自分のこと、ここ最近、「自分が思い描くような“写真が撮れ”ない」こととそれに隣り合わせのこととして「撮った写真を自分がいいと思える“写真が撮れ”ない」ことの、この2つの悩みがある。全くと言っていいほど撮れない。特に深刻なのは後者な気がする。スポーツでも勉強でも、わかりやすく、ありがちな負のスパイラルだと思っては、いる。スポーツに例えるなら、例えば野球のバッティングで、外角低めの速球を引っ張ってヒット性の当たりにできること、とか。ただバットに当てられるだけってほど簡単で低い目標でもなく、でも、引っ張って必ずホームランに出来るってほど難しくて高い目標ではない、というあんばい。そういう目標でなおかつ、過去には条件次第で低次でも達成出来てたこと、それでわたしの今のスランプは説明できそうだ。過去には、撮った写真を自分が満足できていた時期があって、自分的に自信を持って撮れていた。そのことで、撮れていることで「自分が思い描くような“写真が撮れる”」という自己認識に変わる。その自己認識を持ってまた写真を撮れば、「撮った写真を自分がいいと思える“写真が撮れ”ている」サイクルが生まれる。
しかしいま、原因はおそらく写真メディア・SNSでたくさんの写真を、なおかつ自己フィルタで自分が好感をもつ写真や尊敬する写真家の投稿をたくさん見られることにあって、自分の撮った画像が理想像から大きく外れて見える現状で憂いている。どんどん“写真が撮れ”なくなっている。このときの修飾語はいくつあるだろう、とにかく“写真が撮れ”ないのだ、という全面降伏。そして、タチの悪いことに、アマチュア写真家の醸す「俺・私は“写真が撮れ”ます感」を強く受信して辟易してしまう。「ピントは食ってないしただの余計なものが写り込んでいるし彩度とコントラスト気持ち悪いし、何よりただ、一眼レフ使って撮りましたってだけでしょ、撮れていないよ」みたいなドロドロな否定。
やるべきことはひとつわかっていて、デトックスだ。断食だ。見たいものと見たくないものを取捨する、のは元気なときに任せて、もっと極端に、「受容」を減らすのだ。ひとつひとつに「いい」「わるい」「なにがいい・わるい」と瞬間的に無意識的に思考することをも避ける。
いま、“写真が撮れる”ことへの根源的で抽象的な問いが出るということは、ここへの啓示だと思って、答えは先述のを置いておいて、発酵待ち。
長くなっちゃった、2000文字超。

#写真 #180414

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