『広い』#64

テーマとして無茶かもしれない。なにせ広い。いかようにも書ける。
父親の心が広い。たしかに広い。
ラゾーナ川崎は広い。たしかに広いし、売り場面積もさることながら通路の幅が広いし2階の中央のプラザがもつ中心性・舞台性はショッピングモールにおいてなかなか画期的だと思っている。
日本の国土は広い。本州の端から端だってたいへんな距離があるし離島まで考えるとなかなか広いと思える。いや、世界規模で言えばものすごく小さい国土面積だと言えるが(地球儀を見たときの小ささに驚いた幼い過去がある。地球儀ほしいな)。わたしのこの身から考えたときの日本というのは大変な広さに感じる。
広さの尺度は、先のベクトルを持ち出してみると、水平方向のx軸と奥行き方向のz軸で、面積を考えることができる。その面積を、高さ方向y軸で積分したら(あるいは、単純に計算できれば)体積を考えることができる。広さとは、どれぐらい腕を伸ばせて、走り回れて、そしてどれぐらい飛び跳ねられるかと考えられる。ひとりの体を基準にしてみると。何人もの人の体を基準にしてみれば、多いという数の尺度・感覚を包括したうえで、たくさんの人が腕を伸ばしてラジオ体操ができて、たくさんの人が組体操をして何重かのやぐらを組むことができて、サッカーでゴールキーパーからのパントキックが大きく上がることも許される。広いということ。
広さには基準が要る。それは、狭い、という反対方向とせめぎ合う、ちょうどいい、という中点、あるいは中間。
ハンドボールのコートは、短辺20m長辺40mである。これを、一番最初の例えとしていいのか、自信はないがそういうルールで身体をならしてしまったからにはこの大きさが「ちょうどいい」。もしバドミントンのコートのなかでやろうとしたら、両チームのフィールド6人と6人、ボールを奪い合うことなく見せ場もなく窮屈な中でバレーボールじみたことをするしかない。なんとなく、水球やってるみたいなイメージがあたまに浮かぶ。ボールが高い位置にあって。じゃあもし、サッカーのピッチでやったらどうだろう。途方もなく広い。ボールを反対サイドへ送ろうとしたら50m近く投げなくてはいけない。そんなことするうちにオーバーステップ取られる。ドリブルは、バスケのように手を返したり吸いつけてはダメで、ペチペチと叩くようにしなくてはならないから、サイドを駆け上がろうとしたらこれまた50m近くはたき続けられるかといったらノーだ、スピードは出ないし敵チームのプレーヤーが手ぶらで走ってきたらそりゃあ追いつかれる。パスワークを10メートルくらい離れてやるのは面白いかもしれない。しかし、3歩までしか歩けないのに、周囲数十メートルを視野に捉えておくのは大変だ。止まってしまう。何よりシュートレンジまで進むのが大変だ、キーパーがサッカーの大きさのゴールを守っていたらまだロングシュートを投げる望みがあるが、ハンドボールのゴールと同じだったら10メートル離れたらもう無理。あくまでハンドボールは、あの20×40mのコートであるから成立するゲームなんだろうと思う。それは、中点としてピッタリちょうどいい点というよりは、中間の領域の中の一点。
越谷レイクタウンのイオンは途方もなく広いと聞くが行ったことがない。パリのルーブル美術館には行ったことがあるので、途方もない広さというとそっちの想像に及ぶ。一日二日ではまったく、見て立ち止まって眺めて回るには時間が足りない。一週間かけたらどうだろう、満足が行くかな。とにかく広くて、とにかく作品数が多い。わたしは全てを回ることができなかった。広すぎた。でも、満足はしている。サモトラケのニケを見ることができた。立ち止まって、像の周りをぐるりと回りながら、見上げて、時々遠い天井へ目を移す。階段の踊り場全てを使って、この彫像ひとつを展示している。その空間の広さは、もともとあったであろうギリシャの地を思えば狭いものであろう。ただ、神々しく窓からの光が差し込むあのルーブル宮の大階段で、風を受けて布がはためくあの姿は空間の広さを意識の外に持ち去ってしまい、彫像が彫像を中心に広げる広さを生み出していた。美術作品とかに感動の薄いわたしが執着を持つひとつ、サモトラケのニケはそれ自体が空間を広くさせる。
書ききってから、サモトラケのニケを検索した。どうやら2013年に洗浄がされて大理石の白さが蘇りましたと書いてあり、たしかに白くなっている。たしかに白くなっているんだけど、なんか、コレジャナイ感が著しい。歴戦の覇者感が、物足りない(像が「白くなりたい。毛穴が詰まって辛い」と思っていたなら申し訳ない願いだ)。いまのあの空間は果たして、踊り場以上を獲得できているのか。もう一度訪れたい場所の一つ、この広い世界の一つ、広い世界の異界の一つ。

#広い #180220

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