『手品』#123

かなり、かなりひっかかるほうだ。目の前で起こる魔法によって私はだいたい声を上げさせられる。だいたい、「うわ」か、「え」か。
例えば飲み会で行く居酒屋によっては、客席をくるくると回る手品師さんがいたり、広いホール部分で大道芸的に披露する手品師さんがいたり、型はそれぞれなんだけど私は特に視野が限られる前者、すぐ目の前で行われるものに弱い。そして、まことに申し訳が立たないというか、面目無いというか、情けないことに、手品を手品目的として見に行ったことがないのだ。本物というか、本場というか、あるべき舞台での鑑賞体験がない(あ、でも、あとで開き直ります)。Mr.マリックや、ふじいあきらとか、セロとか、マギー司郎とか、有名どころ挙げても、マジシャンの舞台を見たことがない。そもそもに、ライブ的な、音楽にしてもマジックにしても落語やお笑いや演劇にしても、ライブ的な舞台芸術を鑑賞した経験が少ない。音楽で数回、学校の芸術鑑賞会で2回、うーん思い浮かぶのはこれだけ。貧相。そしてマジシャンによるマジックは、ない。イリュージョンも、ない。街中でやってる大道芸は過去、珍しいなと観ていった当時に数回、みなとみらいとか。川崎駅前でやってる大道芸は申し訳ないけれど立ち止まったことがない。
楽しめないわけではないはずで、なにせ手品みて「うわ」とか「え」とか思わず声が出るし「(なんでこうなったんだ、ぜんぜんわかんない)」って驚きでぐわんぐわんするし。観客適性テストとかあったら高得点出すんじゃなかろうか。
でも、足を運ばない。手品でさんざ驚かしてもらって、手品師さんが名刺差し出しながら「わたしこういう者です、このへんでライブやってます」と恭しく挨拶してくださる、そのころにはもう「ええ、どうもありがとうございましたたのしかったです」とおかめのような顔になる。はんなり。
その、能動性の薄さはどうしたら転回するのだろう、と、その問いに似たようなことをさっき思ったのが、いま繋がった。
個別指導の塾講師をやって、生徒のやる気もまちまちなわけでその特に関心がない教科を教えるときのこと。生徒は、その方向に進む気が無い。往々にして各教科とも、覚えることや記憶を組み合わせることによって前に進む。関心がないってのは、足を進める気が無いってわけで、景色に関心が持てないとか進んだ先にあるものがわからないし興味もない、みたいな状態だ。やる気がない場合。やる気があるけど進めないってのは、別問題。身体の動かし方の問題。で、やる気がない子にはどうするか、これが本筋。思いつきの結論から言えば、「講師や教師が乗り物、及び、ガイドになること」。まず、生徒に怒ったり頭ごなしに「進め」と言ったところで、足を動かすだけで、景色には目もくれないだろうし「はい、動きました」と冷めた反応が返ってくるだろう。じゃあ、手を取って一緒に歩いたらよいのか、というと、間違ってはいないように思うけれど、ちょっと教師が邪魔くさい。なんというか、思春期には向かないんじゃないか、っていう不確かな憶測だけれど腑には落ちている感覚。だったら、教師は乗り物になって、生徒には景色に集中してもらって、乗り物の速さを変えてみれば景色の変化は著しく変わり、生徒自身の進む速さの指標になる。そしてガイドとしてアナウンスしながら、目に見える景色と、未だ見ぬ遠方の景色を示唆してみれば、何か関心を呼ぶかもしれない。そして、生徒が歩きたいと思ったところで、降車ボタンを押してもらうか、こちらが降車ボタンを押してあげるかして、歩き方を教える。先に生きた者の出来ることは、こういうことなんじゃないかなと思ったのでした、まるでネコバス。
ほんでじゃあ、数々の手品師さんたちはどうだったのだろう、乗り物の中が夢世界で、名刺が降車ボタンで、降りたら現実、もう一度乗るか、舞台に赴くか、そこをガイド為されなかったという、それだけのことなのだろうか。というか、手品って、マジックやイリュージョンとは様子の違う、「気軽さ」がウリで、だからこそ、舞台をイメージさせないのかなと、さっきのエクスキューズで締める。

#手品 #180420

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