人も機械も「設定」に従う
読書術で「本に書き込もう」の主張、ありますよね。
自分は何か、本に書き込みたくないと思っちゃうんですが。
で、ノートに書けば良いのかも、とある時思いつきました。
ノートは後で読み返すし。
「設定」に従う
と言いつつ、昔は読み返すのもしていなかったんですけどね。
書きはした。でも書きっぱなし、みたいな。
最近はノートの表紙に「振り返り練習」と書くようにして、そしたら振り返りまでする習慣がつきました。
今は11代目です。
2回3回の振り返りはしてないですけど。
現状そこまでやる気はないですね。
これ何をしているのかと言いますと。
「このノートは書き終わったら振り返りをするよ」と設定している訳です。
プラス「振り返りに慣れるための練習だよ」も含んでますがそっちはまあ良いかな。
設定って、方向性を決めることだと思っていて。
設定をしたらそれに従って動くものなのです。
設定と言えば例えばスマホの音量設定。
数字をどこにするかによって音の大きい・小さいが変わりますよね。
「設定」次第で変わるのは機械以外もそう、ってことです。
もちろん人間もね。
設定を変えるには
仕事柄、「設定が変なことになっていてアプリがわけわからん動きをする」というのはよく見ていまして。
ちゃんと言えば「何かよくわからん動きを調べたら設定のせいだった」ですけどね。
今こういう設定になっているぞ、がわかれば設定を変えられます。
設定って変えられるものだから。
さて人間に「設定」を絡めるんですが、人間の場合は「こういうもんだと思っている」をまるっと設定と呼んでも良いかなとも思います。
ちょっと強引かな。
「このアニメはつまらん」と設定すればずっとつまらないし、「独特ではあるものの楽しみ方はある」なら何かしら楽しもうとする、みたいな。
面白さは最初から決まっている訳ではなくて、ある見方=設定をするから楽しかったりつまらなかったりするんですよね。
放送される展開は変えられなくても見方は変えられて、自分次第で楽しくもつまらなくもできる。
これは面白いことだと思うのです。
まあいつもすんなり変えられるものでもないんですが。
こうして見ると人間の場合の「設定」って、何か役を与える感じもしてきます。
設定を変えるには、まずは「設定しているからこうなっている」のを知るのが早道ですね。
読んでくださりありがとうございました。
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