見出し画像

アイスクリームとぼくの関係性

 年末年始、しっかり身体を壊して(ちゃんと原因はあるしそれももう治る)殆ど寝ていた。寝たり起きたりたまに食べたり飲んだり寝たり起きたりたまに家事したり。の一日を繰り返していて、6日間の冬休み的な年末年始休暇が過ぎたのだけど、具合が悪い時程さみしくなったりヒトの温かさが欲しくなるのは何でなんだろう。暖房を付けずに布団にくるまって、窓から伸びる太陽光だけで日向ぼっこしたがるのはどういう記憶の延長線による行動なんだろう。朝も、昼も、夕も、夜も、お腹があまりに痛くてお腹は沢山空いてるのにお腹がいっぱいな気がして全然食べられなくて、折角用意して貰ったご飯を沢山食べられなかったのをとても哀しんでいるし申し訳なさも発生している。だけどお腹がいっぱいな気がしててもアイスクリームは食べたいな、って全然思うし徒歩5分のスーパーで買ってきちゃおうか、とまで思った。ごめんなさい。デザートは別腹って言うかわいいやつ、ああいうのがどんな時世でも幾つになっても持っていたいなって思う。多分、デザートが別腹なのは『ご飯』でカテゴライズされた食べ物の連続にお腹も舌も飽きてしまったので、閑話休題として『デザート』という『特別な』食べ物を『甘味』として受け取って、欲しがってしまうんだろう。携帯電話の契約の際に流れる長い長い重要説明事項を両耳に通している時にふと新しい携帯電話の背面を触りたくてうずうずする感覚に近いんじゃないか。

 アイスクリームはいつだって甘くて美味しいけれど、それでいて中々失敗することも少ないけれど、一年通してそれが変わらないのって冷静に考えてとても凄くて偉いことなんじゃないか。特に、真冬の風があってもなくても身体が震えちゃうような何かの帰り道なんかに、その辺のコンビニで、あったかい店内に設置された外みたいにさむいクーラーケースの中のアイスを、水蒸気で曇ったケースの窓から選んで買って、自動ドア一枚向こうの冷凍庫みたいな外に戻ってアイスクリームを食べ歩き、しまいには指が冷えて動かせる感覚もなくなってしまうこの一連の流れにちょっとした喜びみたいなものを感じる。アイスクリームは甘くて美味しくて身体を冷やす為の物で、でも冬って季節に人間はその身をあまり冷やし過ぎるときちんと機能できなくなってしまって、そういう、紛れもなく人間の意思で選んでいる行動が人間の正常な機能にエラーを起こして人間が困ったり苦しくなったりする未来に繋がる可能性があるにも関わらず、アイスクリームと言う甘い喜びを選んでしまう危うさや哀れさが結構可愛らしいと思っている。そして、アイスクリームはいつだってその危うさや哀れさの間に居て、「わたしは自らの役割を果たして終わっただけです。」と冷たさを言い残していってくれるだけで、とても偉い。そもそも役割を果たして終われる事は人間、中々ない。それだけで尊敬もしたくなる。

 私は残念ながらその人間なので、私は冬でもアイスクリームを求める。どんなにさむくても、歯の根が合わないほど震える寒さでも、手指が悴んで凍り付いても、私の体温を奪って溶けだしたアイスクリームを口に含んで飲み込むことでぼくは幸福感に充ちる。役割を果たしたアイスクリームはとても偉い。かたや私ときたら、役割なんて見出せないまま終わることもできず続いてしまって哀しい。そうして私にとって、アイスクリームはより高尚な存在に、デザートになるのだ。アイスクリーム自体は世の中にとっては、手頃な箸休め的存在になっているけど。

 アイスクリームって言ってたけど、纏めてしまったけど、氷菓もだいすきだし美しい。夏の象徴みたいに、人間がこぞって憧れを抱く氷菓。身体をいっとう冷やして、冷やし過ぎてぼくたち人間は簡単に風邪を引く。愛らしいと思う。だから総じてアイスクリームは、氷菓は、ICEは、とても偉大で強い存在だ。これからも畏敬しながら戴く為にも、なるべく歯は大事にしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?