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原父殺し!

「原父」殺し
ーアナンケの彷徨から蒙(くら)きを啓(あき)らむー

0.プロローグ   

父殺しというある意味衝撃的なテーマが、哲学や心理学、社会学などで、様々な場面や局面でしばしば引用される。まずは、神話の中でオイディプスは父殺しの予見を受け、避けようとしたが、結局は実父を殺してしまい、定められた運命から逃れることはできなかった。次に、人間はルサンチマンによる苦悩によって突き動かされ、それを超越するために、父なる神を殺す。そして戯れ遊ぶ人間である超人を作り出した。ニーチェは、『悦ばしき知識』や『ツァラトゥストラはかく語りき』において、悦ばしい生の肯定と生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭を権力者のなす術といい、そして神は死んだと宣言し、永劫回帰する世界観を描いた。最後に、フロイトも原父殺しによってアナンケから啓蒙へ至る人間の歴史を妄想した。人間の歴史は破壊から生まれ創造される。それはまた矛盾を抱えるようになり、アンチ・テーゼによって破壊されつつ吸収され、また新たな創造を成し遂げる。創造は破壊ありきで始まるのである。まず、神話から見てみよう。

1.ギリシャ悲劇  

『オイディプス王』は、古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人であるソポクレスが、紀元前427年ごろに書いた戯曲。ギリシャ悲劇の最高傑作として、最も挙げられることが多い作品である。テーバイの王オイディプスの物語を題材とする。オイディプスは国に災いをもたらした先王殺害犯を追及するが、それが実は自分であり、しかも産みの母と交わって子を儲けていたことを知るに至って自ら目を潰し、王位を退くまでを描く。その包み隠すことなき直線的な演劇手法は、アリストテレスの『詩学』をはじめ古くからさまざまな演劇論で悲劇の傑作として評価されてきた。男子が父親を殺し、母親と性的関係を持つというオイディプス王の悲劇は、フロイトが提唱した「オイディプス・コンプレックス」の語源にもなった。
テーバイの王ライオスは産まれた男子を殺させようとした。それは「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなす」との神託があったためである。しかし預けられた者は子を殺さず、山に捨てる。その子は隣国のコリントス王夫妻に拾われ、息子として育てられた。子はオイディプスと名付けられ、立派に成長したが、周囲から「王の実子ではない」という噂を聞き、神に伺いを立てる。その結果得られたのは、ライオスに与えられたものと同じ神託であった。彼はこの神託が自分とコリントス王の事を指しているのだと誤解し、王を殺さぬ為、国を離れることにした。その頃テーバイでは近隣にスピンクスという怪物が出現、これに対処するため、ライオスは神託を得ようと周囲の者とデルポイに出かける。そこでオイディプスと行き会うが、行き違いから争いとなり、オイディプスは彼らの名も知らぬままに殺してしまう。その後オイディプスはスピンクスと出会い、これを打ち倒す。テーバイでは王の死に混乱している折、摂政クレオーンが国を守っていたが、怪物を倒した若者に喜び、先王のあとを彼に継がせ、ライオスの妻イオカステーを彼にめあわせた。二人の間には男女それぞれ二人ずつが生まれた。

オイディプスがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続いた。クレオーンがデルポイに神託を求めた所、不作と疫病はライオス殺害の穢れの為であるので殺害者を捕らえ、テーバイから追放せよという神託を得た。そこでオイディプスは、ライオス殺害者を捕まえよ、殺害者を庇う者があればその者も処罰するとテーバイ人達に布告を出した。オイディプスはクレオーンの薦めにより、テーバイに住む高名な予言者で盲(めしい)のテイレシアースにライオスの殺害者を尋ねる事にした。自らの子に手をひかれオイディプスの前に現われたテイレシアースは、卜占により真実を知ったが、その真実をオイディプスに伝えるのは忍びなく思い予言を隠そうとした。しかしオイディプスがテイレシアースをなじったため、テイレシアースは怒りに任せ、オイディプスに不作と疫病の原因はテーバイ王その人にあると言った。これを聞いたオイディプスは激怒し、クレオーンがテイレシアースと共謀してテイレシアースに偽の予言をさせているのだと誤解した。この為オイディプスはクレオーンを呼び出して詰問したが、身に覚えのないクレオーンは反駁するのみであった。そこにイオカステーが現われ、オイディプスとクレオーンとの罵り合いを仲裁した。

イオカステーは、テイレシアースの予言を気に病むオイディプスを安心させるため、オイディプスに、予言など当てにならないのだと言い、その例としてライオスとイオカステーの間に産まれた子供の話をした。ライオスとイオカステーはもし子供を作ればその子供がライオスを殺すとの神託をその昔受けたが、ライオスはポーキスの三叉路で何者かに殺されてしまい、この予言は当たらなかったとオイディプスに伝えた。しかしながらこの話を聞いたオイディプスはかえって不安に陥った。何となればオイディプスは、過去ポーキスの三叉路で人を殺した事があるからである。不安に陥ったオイディプスをイオカステーがたしなめ、ライオスが殺害された際殺害を報せた生き残りの従者を呼んで真実を確かめる事を忠言した。忠言に従ったオイディプスはその従者を求めたが、従者はオイディプスが王位についた頃にテーバイから遠く離れた田舎に移り住んでいた。予言が実現された事を知った従者は、恐ろしさのあまりテーバイの見えぬところへと何も言わずに逃げたのである。オイディプスがライオス殺害者と従者とを追っていると、彼のもとにコリントスからの使者が訪れた。使者はコリントス王ポリュボスが死んだ為コリントス王の座はオイディプスのものになったと伝え、オイディプスにコリントスへの帰国を促した。

しかし、自分の両親を殺すであろうという神託を受けていたオイディプスは帰国を断った。何となればオイディプスは、ポリュボスとメロペーを実の父母と信じていたからである。この為使者は、オイディプスに、ポリュボスとメロペーは実の父母ではないのだと伝えた。これを聞いたイオカステーは真実を知り、自殺するためその場を離れた。しかし未だ真実を悟らないオイディプスはイオカステーが自殺しようとしている事に気づかず、女ゆえの気の弱さから話を聞く勇気が失せて部屋に戻ったのだと思い違いをした。まもなく、かつてライオスが殺害されたことを報せた生き残りの従者がオイディプスのもとに連れて来られた。この従者はオイディプスをキタイローンの山中に捨てる事を命じられた従者と同一人物であった。従者はオイディプスに全てを伝えた。真実を知ったオイディプスは、イオカステーを探すべくイオカステーの部屋を訪れた。するとイオカステーは縊(くび)れていた。オイディプスは縄をほどき下ろしたが、時すでに遅く、彼女は死んでいた。罪悪感に苛まれたオイディプスは、狂乱のうちに我と我が目をイオカステーのつけていたブローチで刺し、自ら盲(めしい)になった。彼自身の言によれば、もし目が見えていたなら冥府を訪れたときどのような顔をして父と母を見ればよいのか、そう感じたのである。そして自身をテーバイから追放するようクレオーンに頼み、自ら乞食になった。

2.神殺しと超人-ニーチェ

哲学界の異端児フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」という衝撃的な宣言をする。その著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、受動的に他者と画一的な行動をする現代の一般大衆を「畜群」と罵った。その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。個人主義よりも他者を超越した至高者性の推奨であり、「自身の善悪観が世界に屈服しない生き方の推奨(己の価値観=全て)」とまで言えば間違いではない。既存のあらゆる価値の転倒の先にニーチェが持ち出した新たな価値あるものとは、「超人」の理念と「永遠回帰」の思想であった。どちらも既存のヨーロッパ思想の対極にあるものだ。「超人」とは、キリスト教道徳が教える望ましい人間像とは正反対に位置する「悪人」の典型ともいうべきものであり、「永遠回帰」のほうは、キリスト教的世界観が依拠する直線的でかつ進歩的な時間概念に真っ向から対立するものであった。つまり、既存のあらゆる価値を否定したニーチェにとっては、それらの既成の価値において究極の「反価値」とされたものを、新たな価値として持ち出さざるをえなかったということだろう。「超人」という言葉が現れるのは「ツァラトゥストラはかく語った」の序章の中である。瞑想から覚めて山を下りたツァラトゥストラが、途中で出会った聖者が「神の死」を知らなかったことに驚きつつ、麓の市場にたどり着いて最初に吐く言葉が「超人」なのである。ツァラトゥストラは、自分が山を下りて再び人間たちのところにやってきたのは、人間たちに「超人」を教えるためだといって、次のようにいうのである。「わたしはお前たちに超人を教えよう。人間は超克さるべきものである・・・人間は、動物と超人との間に張られた一本の綱だ・・・人間において大いなるところは、彼が橋であって、目的ではないことだ」と。

ここで語られていることは、人間はみずからを超克して超人となるべきであること、人間にとっては人間であることが目的にはならないこと、人間の目的は自ら超人となるか、あるいはそれができない場合には、超人の素質をもった者が超人となるための橋渡し役を務めることだ、ということである。どちらにせよ、人間というものはそのままでは価値あるものではない、価値があるのは超人 のみなのだ、というエリート主義的な考え方である。では、その「超人」とはどのような者なのか。ツァラトゥストラの口を借りてニーチェがとりあえず語ったのは、それがいまツァラトゥストラの眼の前にいる人間たちとは異なった存在だということ、そのような人間たちの正反対の存在だということ、つまり世間で人間的だとされていることとは正反対の属性を帯びている者、それが超人だというだけで、超人がどのようなものかについての積極的な定義は述べていない。超人についてニーチェが積極的な定義を行うのは「権力への意志」と題された遺稿集の「訓育と育成」の章においてである。「訓育と育成」の章は、「1 階序の教え、2 強者と弱者、3 高貴な人間、4 大地の主たち、5 偉大な人間、6 未来の立法者としての最高の人間」からなり、それぞれのところで、普通の人間との対比において超人の超人たる所以が述べられる。すなわち大衆に対する高級な人間、弱者に対する強者、下賤な人間に対する高貴な人間、精神世界ではなく大地の主であるような人間、卑小な人間に対する偉大な人間、過去に依拠する最低の人間に対する未来の立法者としての最高の人間、それが超人なのだと定義している。一見してわかるとおり、こうした対立軸は「人間的な、あまりに人間的な」以来、ニーチェの思想の基本線となってきたものだ。「人間的な」においてニーチェは「自由な精神と束縛された精神」の対立をテーマにし、その後その対立は、「高貴な人間と卑俗な人間」の対立を経て、「支配者道徳と奴隷道徳」の対立へと発展していったわけだが、そうした対立軸の考えられるすべての集合の一方の側が、超人という概念のうちで結晶したのだと考えることができる。

そのように考えると、以上で述べた六つの対立軸の意味がよく見えてくる。まず、大衆と高級な人間との対立は「階序の教え」のなかで述べられている。いまの世の中では人間の平等が強調されているが、人間は本来平等ではない。人間は不平等に作られている。したがって人間の社会にも個々の人間の能力に従った区別がもたらせられねばならない。それが階序というものである。「位階を決定し、位階を配するのは、権力量のみである・・・大衆に対する高級な人間の宣戦布告こそ必要である!」こうニーチェは言って、まず人間の平等性に対する幻想を打ち砕き、人間をその能力に従って序列化することの必要性を訴えるのである。

次いで、人間が強者と弱者とに分かれるのは、人間の本性がそうさせるからである。強い者は強い者を生み、弱い者は弱い者を生むように出来ている。つまり、「『強い人間と弱い人間』という概念は、強い人間の場合には多くの力が遺伝されているということに還元される~強い人間は一つの総計であるのだが、弱い人間の場合にはその遺伝がまだ足りないのである」と。こうしたなかで、「高級な人間」が「畜群的人間」を抑圧するのは自然にかなったことで、「『圧制するもの』というのは偉大な人間の事実である。彼らは劣悪な者どもを愚昧ならしめる」。「大地の主たち」というのは「精神世界の奴隷」との対比において言われている。精神世界とはキリスト教が教える世界のことで、要するにあの世のことを意味している。弱い人間たちはあの世での救済を信じることによってこの世の苦しみから解放されると考えることに慰みを見出しているが、実際には神はもう存在しないのであるし、したがって神が用意するとされるあの世も存在しない。存在するのはこの世、つまりあなた方が立っているこの大地のみである。大事なことは、この大地でいかにして生きていくかであり、それも弱者としてではなく強者として生きていくことである。弱者として生きることにどんな意味があるというのだ。強者のなかでも最も強い者、それが「偉大な人間」である。「偉大な人間は、おのれの権力が民族を支配していると感じ、おのれが民族とか時代とかとしばしの間合体していると感じている」。つまり偉大な人間こそが自分が生きている世界の支配者になるべきなのであり、弱い人間は偉大な人間に従うべきなのである。したがって「偉大な人間のうちには生の特殊な固有性~不正、虚言、搾取~が最大にある」といってもよい。偉大な人間を中心として、強いものたちが支配階級を形成することが望ましい。そして新しい哲学者は、そんな支配階級と結びつき、彼らのためになることをすべきである。何故なら、「新しい哲学者は、支配階級と結びついて、その最高の精神化としてのみ発生することができる」からである。

以上のように述べた上で、「『人類』ではなく、超人こそ目標である!」と叫んでこの章を終える。人類ではなく「超人」が目標だというのは、種としての人間ではなく、一人ひとりとしての人間こそが問題なのだという意味だろう。ひとりの偉大な超人を作るためには、人類全体が犠牲になってもかまわない、というようにも読める。実際ニーチェはこれ以前の著作においても、そのような文脈のなかで「強い人間」というものの意義を強調して来たわけであるし、「超人」がその延長上で語られてもなんら不思議はないわけである 。

3.オイディプス・コンプレックス-フロイト

オイディプス・コンプレックスOedipus complexは、かのフロイトが提示した概念である。男根期に生じ始める無意識的葛藤として提示された。母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のことをいう。フロイトは、この心理状況の中にみられる母親に対する近親相姦的欲望をギリシャ悲劇の一つ『オイディプス』(オイディプス王)になぞらえ、オイディプス・コンプレックスと呼んだ。

まず子供は母親を手に入れ、父親のような位置に付こうとする。男児においては母親が異性であり、ゆえに愛情対象である。子供は父親のような男性になろうとして(同一化)強くなろうとする。子供はじきに父親を排除したいと思う。しかし父親は子供にとって絶対的な存在であるので、そのうち父親の怖さに気付く。最初は漠然とした不安や憎しみしか抱いてないが、子供が実際に母親ばかりにくっついていると、父親は「お前のペニスを切り取るぞ」と脅すのだという。ただしこの言葉は実際に言われるとは限らず、大抵の子供はこの脅しを無意識的な去勢不安として感じるようになる。こうして子供はジレンマに陥る。母親を求めれば「去勢される」し、父親の元に跪いて父親に愛される母親の立場に収まるのならば、子供は「去勢されている」と感じるのであり、どちらにしろペニスを保持するための葛藤に苛まれるのである。この際に子供は自分のペニスを保持するために、近親相姦をする欲求を諦め、また父親と対立することも諦めて、両親とは別の方向へ歩き出す。こうしてオイディプス・コンプレックスは克服されて、子供はペニスを保持しながらも社会に飛び立つ。その後の時期は潜伏期と呼ばれ、幼児的な欲求(性的な欲求)を無意識化に抑圧して、ほとんど表出しなくなるのである。

オイディプス・コンプレックスでは二つの側面が生じる。子供は最終的にこの葛藤から逃れるために両親を捨てるのであるが、子供は父親と対立するために「同一化」していた強い男性的側面と、父親から「やってはいけない」と言われた禁止事例を、超自我として形成するのである。それは良心や倫理感や理想として保持され、潜伏期以後の子供の行動を統制するようになる。またオイディプス・コンプレックスの葛藤を克服すると、子供は近親相姦的願望やそれに付随しているリビドー、それに去勢不安や父親への攻撃心などを無意識に抑圧する。これらの欲望はオイディプス・コンプレックスが生じるまでは子供の思いのままに表出されていたが、この葛藤と克服を機に、それらは捨てられることになる。これらの欲求は無意識に捨てられる。つまり無意識に抑圧される。こうして、その頃までは曖昧だった意識と無意識の境界が明白に形成されるようになる。子供はエスから自我を派生分化させて、つまり抑圧によって近親相姦的願望や去勢不安などを無意識に押し込めて、現実的な自我を作る。また同一化した部分と禁止事項が合わさって超自我が作られる。こうして三つの心的構造が作られるのだとジークムント・フロイトは主張している。

ペニスがない女児 はどうなのか?フロイトによると、ペニスがないために男児と発展過程が異なる。女児も男児と同様、最初は母親に愛情を抱き続けている。ただ女児が成長するとともに、彼女は同性のクリトリスが小さいのを見たりして、子供の女性にはペニスが無いことを徐々に認識し始める。ただしこの時点ではまだ女児は「大人になったら私もペニスが生えてくるんだ」と信じているのだという。しかし母親にペニスがないことに気付くと、予感は確信に変わり始める。女児は周りの女性がペニスのない劣った存在であり、また去勢されているんだと考えるのだと言う。こうして女児はペニスがないことによる劣等感と本格的な去勢不安に取り付かれる。そして母親に対して「何故、私のペニスを立派にして産んでくれなかったの?」と怒りを向けるようになる。この時、女児は三つの方法によって、この去勢コンプレックスを回避する。第一は「自分にはペニスがない」事を強く自覚して、完全にペニスがない存在として受け入れることである。これは劣等感を持つ女性を作る。この場合は無気力な人間になってしまうという。第二は「自分はペニスがいつか生えてくるし、私は男なんだ」と信じて、男性的な性格を身に付ける場合である。第三はペニスという対象を羨望する際に、ペニスを「ペニス→子供」と象徴交換して、子供を手に入れることによって代替的なペニスが手に入れる道を選ぶ場合である。この道に進むと、女児はそれまでペニスのように扱っていたクリトリスから膣へとリビドーが移行し、男性と性交することが目的となることによって子供を得るという活動へと進むようになる。子供を得ることがまさにペニスを手に入れることなので、女児はこれを機に、本格的に母親から父親へと愛情対象を変えると言われる。母親は憎んだままで、父親は新たな愛の対象になるので、こうして女児のオイディプス・コンプレックスが発生するようになる。

男児は去勢コンプレックス(父親に去勢されるかもという不安)から母親を手に入れることを諦め、オイディプス・コンプレックスが崩壊するために、近親相姦の欲望などは放棄されることになる。しかし女児は去勢コンプレックスが生じて、それが契機になって母親から父親への愛情対象の転換が起こるとされている。故に女児はいつまでも父親を愛したままになり、フロイトは女児のオイディプス・コンプレックスはいつまでも続き、崩壊するきっかけがないと言っている。そのため、女児には男児のように強力な超自我が生じないと言う結論を主張している(明確な超自我形成にはオイディプス・コンプレックスが放棄される必要がある)。

この理論はヒステリー患者の精神疾患の原因が幼児期の性的虐待にあるという初期の「誘惑理論」における直接的な因果関係の理論を疑うものであったが、実際に存在する性的虐待の報告の反論に用いられているのではないかとの疑惑から後に非常に批判を浴びた。フロイトは初期の精神分析において、このオイディプス・コンプレックスの現象を性的誘惑説として考えていたが、それは後に放棄された。彼が本格的にオイディプス・コンプレックスを主張するようになったのは、性的空想説を採用してからである。すなわちこれはあくまでも無意識的な空想ということになっている。このオイディプス・コンプレックスにおける葛藤が神経症の原因であると認知してからは、フロイトやその後の弟子は、神経症の原因はオイディプス・コンプレックスの未解決にあると考えるようになった。フロイト死後の自我心理学においては特にこのコンプレックスの未解決が強調され、去勢不安や近親相姦的願望を、動物恐怖や感情転移によって説明するようになっている。このコンプレックスの克服が患者の神経症を回復させ、超自我を強化させ、自我の現実適応を図っているという点から、精神病理の治癒理論として重要視されている。現在でもこのコンプレックスは患者の回復過程などで見られたり、臨床における患者の心を把握する一つの見方としてある。

4.根強い再演

このようにオイディプス王の神話には、小説であれ映画であれ、繰り返し物語として変奏されることになるテーマの元型をみることができる。既述したように、フロイトによると、男児は最初の異性である母を手に入れたいと望む。しかし母親をいくら愛したとしてもそれは父親の女であるから、母親との恋はあきらめなければならない。もしそれをあきらめきれずに母親との恋を貫徹するのであれば、邪魔者になる父を排除したいと考えるようになる──。これがいわゆる「父殺し」で、フロイトはその心的構造を「オイディプス・コンプレックス」と名付けました。古代では、高貴な家であればあるほど、子供の役割とは跡継ぎ、王位を継承させる存在である。しかし、なんの問題もなく平和的に子に王位を継承させることができた王は、幸運といわざるをえない。父王に妾(めかけ)とその子がいれば、そこに骨肉の争いが起きるのも必然である。

アレクサンドロス大王の場合、父王ピリッポス二世が寵愛する第七夫人に子どもがおり、ピリッポス二世がアレクサンドロスの母親である第四夫人より第七夫人を愛していたこともあって、自分が本当に王位を継承できるかどうか、不安にさいなまれた時期がある。たまたまピリッポス二世が側近に暗殺され、まだ幼かった弟がそのとき王位に就くことはなかった。そこでチャンスとばかりに、20歳そこそこのアレクサンドロスは幼い弟を亡き者にして、実力で王位を獲得したのだ。つまり王位とは、かなり厳しい試練を与えられたのちに、父親から継承されるものであった。この文脈に照らしても、「父殺し」とは、ひとつの権威に対する革命、あるいは体制の破壊である。神話においてそれは、万物の創造主たる神に対する反逆とイコールになるでしょう。どの国の法律でも、国家反逆罪、国家転覆(てんぷく)罪は大罪である。革命は成功すればよいが、失敗すれば自分の命はない。だから、神々によってつくられたタブーを破る者、たとえば火を盗み出したプロメテウスには、途方もない罰が与えられた。オイディプスは当初、父殺しの予言を受け、それを避ける選択をする。コリントスの故郷を捨てたのもそのためである。神殿の前の三叉路で道を譲る、譲らないという一件で、勢いで殺してしまった相手が本当の父親だなどとは思っていなかったし、殺されたライオスにしても、それが、自分が運命を避けるべく捨てさせた息子だとは思いもよらなかった。しかし当事者同士は知らなかったとはいえ、「子が父を殺す」という神の呪いどおりに事は運んでしまったのである。いまの私たちに「父殺し」というテーマですぐに連想されるのは、映画『スター・ウォーズ』シリーズでしょうか。ジェダイの戦士であるルーク・スカイウォーカーは、ダース・ベイダー率いる帝国軍と戦うことになるが、このダース・ベイダーこそが、ルークの実の父親アナキン・スカイウォーカーだ。ダース・ベイダー自身、かつてはジェダイの騎士だったが、愛する女性への愛を優先するために、ヨーダがいうところの「ダークサイド」(暗黒面)に落ちてしまった。ジェダイの騎士でありながら、師オビ=ワン・ケノービと対決して敗れ、全身をサイボーグ化して銀河共和国の敵である帝国側の将軍になる。つまり、息子にとってみれば、父こそが裏切り者であり、目の前に立ちはだかる大きな敵だった。その父と何度か対決の機会があり、最後の最後にルーク・スカイウォーカーはダークサイドに落ちる危機を克服して、真の英雄である証明をおこない、ダース・ベイダーに勝つ。『スター・ウォーズ』において、息子のおかげで善の心を取り戻した父は絶体絶命の息子を助けて皇帝を殺し、みずからも死ぬ。息子が父を乗り越える、という形の典型的な関係である。

5.エピローグ-野蛮から文明へ

以上の神話や哲学や精神分析における議論は実は、絶対的な権威や知性、権力などを否定しつつ新たな秩序を作り出す革新の過程である。野蛮からの脱却、革命、啓蒙といった、発展論的なそして弁証法的な歴史過程を表している。単に、親子関係や倫理的な問題を説明しているだけでなく。フロイトの「文明論」においても、そもそも文明は、「『自然にたいして人間を守ること』と『人間相互のあいだの関係を規制すること』という二つの目的に奉仕する『一切の文物ならびに制度の総量』」といい、「アナンケ(自然の暴威)」に立ちむかう人類の営為にその始源をもつとされている。就中、「未開」と「文明」の狭間で何がおこったととらえたか。「文明」は「欲動の断念=内なる自然の支配・克服」の上に成立するとフロイトはいっている。「欲動の断念」という「内なる自然の支配・克服」の開始と共に、人類文明のなかに「宗教」と「倫理・道徳」という新な文明」領域が出現する。欲動を断念せしめるものが「宗教」であり、その結果出現するのが「倫理・道徳」である。しかし人類の「欲動の断念」は神々(宗教)が成立する以前の、アニミズムの時代からすでに始まっている。しかもその時代に人類文明の行方を決定づける、「霊化」という深刻な「欲動の断念」が経験されているのだ。アニミズムの時代は「共同体」の萌芽と「宗教」の萌芽とが交差する、「文明」の黎明期だ。フロイトは「アニミズム的世界観」が支配する時代の、人類の萌芽的な文明的営為をいかにとらえているか。フロイトの「文明論」のあってエポックを画するものは、「アニミズム的世界観」と「宗教的世界観」との狭間でおこった、「原父殺し」→トーテム制度の確立という革命的な事件である。

人類の「共同生活(家族)」は外部ならの苦難-- 自然の暴威--によって生れた「労働への強制」と「愛の力」という二重の楔によって生れた。即ち、「エロスとアナンケは人間文明の生みの親となったのだと。そして、「原父」殺しという人類史上の革命的事件は「未開」の終焉、「文明」の開始を告げた。「原父」 殺しをつうじて人類はトーテム制度という文明の最初の段階に到達したのである。「原始群族」は暴力的で嫉妬深い父親(「原父」)にひきいられており、女子供がいるだけで、成長した男たちはその周辺に追いやられ、相互結合のなかで別居している。何故なら「原父」は女という女のすべてを独占し、成長した息子たちを追っぱらってしまっているからだ。「原父」は「本源的ナルシシズム」に満たされて自分以外の誰も愛さなかった。それ故彼の自我はリビドー的に拘束されておらず、自由だった。そのうえ「原父」は息子たちに恐れられ憎まれながらも、その自由で強大さの故に、敬愛され羨望されていた。「暴力的な父は兄弟の誰にとっても羨望と恐怖をともなう模範であった」のである。こうしてフロイトの「文明論」にあっては、息子たちの父親に対する愛と憎悪のアンビヴァレンツなコンプレックスが「文明形成」の根底にすえられることになる。

父親の暴威によって性的目標を禁止され、リビドーの拘束を受けた兄弟たちは、相互の同一視から 同性愛的な対象愛へとすすみ、相互の結合・同盟のなかで父親を殺害する自由をえた。「ある日のこと、 追放された兄弟たちが力を合せて、父親を殺してその肉を食べてしまい、こうして父群にピリオドをうつにいたった」。これがフロイトに於て、文明化の過程のどこの場所でも必ずおこなわれたと想定されている、「原父」殺しという革命である。この犯罪行為によって「文明」と「宗教」とは決定的に交差し、「宗教」が「文明」の土台をなすことになる。そして、「羨望と恐怖をともなう模範」であった「父親」をたべてしまうという行為によって、兄弟たちは父親との一体化をなしとげ、「自我理想」を内面化していくことになるのである。父親を片づけて憎悪を満足させ、父親と一体化しようという願望を実現してしまうと、兄弟たちの心には、いままでおさえていた父親への愛情が頭をもたげ、悔恨の情と罪意識が反作用的に生じたのである。さらに、「原父」殺しが兄弟たちに当初期待した願望に充分な満足をあたえるわけにはいかなかったという事情が、この反作用--「悔恨の情」と「罪意識」の発生--を助長した。「彼らは自分たちの権力欲と性的要求の大きな障害となっている父親を憎んだのであるが、彼らはまたその父親を愛し、讃美もしていたのである。彼らは父親を片づけて憎悪を満足させ、父親と一体化しようという願望を実現してしまうと、いままでおさえていた愛情が頭をもたげてきたにちがいない。これは悔恨という形をとって現われ、また共通に感じられ ている悔恨に照応する罪意識が生じたのである。」以前父の存在が妨げていたことを、今や彼らみずから自分で禁止するに至る。彼らは「原父」殺しを許しがたいこととして撤回し、この犯罪行為によって獲得した「果実」つまり「女たちへの自由」を自ら断念したのである。フロイトの「文明論」にあっては、トーテム制度と、そのタブー、その饗宴は「父親」を殺害した兄弟たちの、以上のごとき心理連関の上にうちたてられたとされているのである。トーテム制度というのは、「原父殺し」→「原始群族」の崩壊のあとに成立した、母系相続的氏族社会--兄弟群と姉妹群との「群婚」下にある「男子結合体(兄弟同盟)」的社会--が設立し、 自らそれに服した制度である。トーテム信仰に基づく氏族は「原父」殺しの「罪責感」と「事後服 従」の心理状態のなかで、二つの基本的タブーをつくり出した。その第1は、父親の代替であるトーテム動物の殺害の禁止であり、その第2は、トーテム仲間相互の性交渉の禁止(族外婚制度の確立)がそれである。彼らはまた、「原父」殺しの罪をトーテム動物の生贄という形で幾度となく反復することが義務づけられている。そこから出現するのが人類最初の祝祭たるトーテム饗宴--記念すべき犯罪行為の反復--である。彼らはその際「事後服従」の制限がはずされ、父親の性質をもつトーテム動物を殺してその肉を共に食べ、そこでなされる同一視のなかで相互の結合を再びつよめていくのである。アニミズムの時代の、文明と宗教との萌芽的交差が統合され、新文明の誕生をつげる「宗教」と「社会組織(集団)」と「倫理・道徳」の端初が懐胎されるのは、このトーテム制度に於てなのである。

団結して「原父」を殺害した兄弟たちは、しかし、女については互いに敵同士となった。そこから生ずる「闘争状態」をさけ、「共同生活」を維持存続させるためには、自分たちが熱望していた女たちを平等に「断念」することを相互に了解するより他に手はなかった。彼らは 「共同体(兄弟同胞社会)」の維持存続のために、「近親性交の禁止」というタブー的制約を相互に課したのである。ここに「断念」することの相互的了解(「契約」の萌芽)→平等と公正をめざす最初の「法」(「法」の萌芽)が出現し、その上にあらゆる社会的義務がうちたてられることになる。「社会組織(文明的集団)」の端緒が形成されたのだ。他方「近親性交禁止のタブー」は「文明(的集団)」の存続に必要不可欠な「欲動の断念」を帰結する。この「欲動の断念」が何故「文明(的集団)」の存続のために必要不可欠なものであるのかと「トーテム制度は、いわば父との契約関係であって、子供が空想によって父に期待するもの、保護や配慮やいたわりなど、すべてを父は約束するのであり、そのかわりに、子供は父の生命を尊敬すること、つまり、現実の父をほろぼしたあの行為を反復しないことを義務づけられた。」

フロイトは「文明」の始源をいかにとらえたかいうと、「欲動の断念」によって「直接的な性欲動」にもとづく愛が「目標を禁止された性的欲動」にもとづく愛へと変容するからだ。「官能的愛」が「友情的愛」に変容するのだ。そして「友情的愛」こそ「社会的感情」を生み、メンバー相互の持続的結合を可能にするものなのである。「文明」の土台に「宗教」が置かれるというかたちでの「文明」と「宗教」の交差は、その後、「トーテム動物」→「英雄」→「神々」→「唯一神」へと「原父」像が変容するなかで、ますます、はっきりとその姿をあらわしてくる。その結果、文明社会の「倫理・ 道徳」の基礎に「宗教」が置かれることになってしまった。「汝、殺すなかれ、姦淫することなかれ、盗むことなかれ、etc.」と。しかも、今や、「宗教」に基礎を置く「倫理・道徳」が「社会組織」の存続を支える「倫理・道 徳」となってたちあらわれている。「宗教」に基礎を置く「倫理・道徳」が「社会組織」存続のための「倫理・道徳」を代行しているのだ。フロイトが「文明」と「宗教」との交差のなかで、「文明生活に於る人類の幸福」という観点から、「問題あり」と異議申し立てをしているのは正にこの点にある。何故なら「宗教」に発するこのような、まやかしの「倫理・道徳」が「社会組織」を支 えている以上、人類に幸福が訪れることはないとみているからだ。

人間相互の闘争→その解決を求めての人間相互の了解→公平・公正の要求に出立する「法」という科学的・合理的精神に支えられた「倫理・道徳」である。フロイトは、文明生活に於る人類の幸福のためには、宗教に基礎を置く「倫理・道徳」を「社会組織」そのものの必然に基礎を置く「倫理・道徳」によってすげ代えねばならぬと考えているのである。かくしてフロイトの「文明論」の中心は「宗教論」から「社会組織(集団)」論に移行していくことになる。それ故我々はフロイトが「集団心理学」的観点からいかに「文明」の始源をとらえているかをみていかなければならない。

「原父」を殺害した息子たちは「原父」の肉を皆で一緒にたべてしまう。そのことによって、息子たちが願望してやまなかった「原父」の力(自由)が息子たちに血肉化される。息子たちの「自我」のなかに息子たちが「ほれこんでいた」力が宿り、そこに「自我理想」という新しい「審級(心的領域)」が形成される。 さらに、「トーテム的外婚制度」の近親性交の禁止が「直接的な性欲動」の「断念」を迫り、それまで融合状態にあった「官能的な愛」と「友情的な愛」との間に楔を打ちこむ。その結果、「直接的な性欲動」が「目標を禁止された性欲動」に転換される、つまり、「官能的な愛」が「友情的な愛」に変容する。その変容のなかで「自我」からの「自我理想」の分離がなされていくのである。 「官能的な愛」からの「友情的な愛」への愛の変容はリビドーが脱性化されることを意味する。「トーテム的外婚制度」によって「情愛的(zärtlich)な感動と感覚的(sinnlich)な感動とのあいだに楔がうちこまれることになる。」「欲動の断念」にともなう「同一視(あるいは昇華)」に出立するこの脱性化された中性リビドー (つまりメンバーたちの「友情的な愛」)は「文明的集団」存立の基盤であると共にそれを持続的に結合する力をもつ。「欲動の断念」の上に出立するこの「中性的リビドー(友情的な愛)」こそ、「文明的集団」の維持・存在のために、さらに、「家族」→「民族国家」→「人類共同体」への文明的発展のために、必要不可欠な文明の原素なのである。

「アナンケ(運命)」というのは、外界では「自然の暴威」となって、内界では「エスの暴威」 となって、人類を外側と内側とから翻弄するデモニッシュな力である。フロイトの「文明論」にあっては、人類の文明は人類がこの「アナンケ」という暴威に適応すべく、それにたちむかうところから始まるとされている。「宗教」は「文明」の一領域であるのにもかかわらず、両者の交差のなかで、それが「文明」の土台をなすに至ったのには、おそらく、次の三つの事情があったからであると考えられる。第1は 「宗教」もまた、他の「文明」領域と同様に、「自然の暴威」に適応すべく、それに立ちむかう人類 の営為として出現したが、それが「心の安心」という何にもまさる切実な人類の願望に根ざしていたという事情である。第2は人類の根源的な「断念」を意味する「霊化」ということが、深く「宗教」と結びついていたという事情である。「文明」と「宗教」との交差のなかで、「宗教」が「文明」の土台をなすに至った、第3の決定的理由は、「未開」から「文明」への狭間で、「トーテム制度」が「トーテム信仰」を土台として出現したという事情による。「トーテム制度」の出現は「(真の意味の)文明」の始源を告げるものであった。何故なら、その出現と共に、「社会組織」と「宗教」と「倫理・道徳」の端緒が形成されたからである。そしてこの「トーテム制度」の下で、それが「トーテム信仰」を土台として出現したが故に、「宗教」が「社会組織」と「倫理・道徳」の土台をなすことになる。以後、「宗教的世界観」の確立のなかで、「宗教」に基礎を置く「倫理・道徳」が「社会組織(文明共同体)」存続のた めの「倫理・道徳」として、代用されることにまでたちいたっているのだ。 しかしフロイトは、「宗教」に基礎を置く「倫理・道徳」とは別に、「社会組織(集団)」そのものの必然に基礎を置く「倫理・道徳」が、すでに、「トーテム制度」のもとで芽生えていたことを見抜いていた。そしてフロイトが期待を寄せたのはこちらの側の「倫理・道徳」である。フロイトは「文明生活に於る人類の幸福」という観点から、「宗教」に基礎を置く幻想的な「倫理・道徳」を「社会 組織」に基礎を置く合理的な「倫理・道徳」によって置き換えることを志向したのである。

「労働→共同体(外なる自然の支配・克服)」と 「断念(内なる自然の支配・克服)」をもって「自然の暴威」にたちむかい、文明建設をめざす人類 の「エロス」的局面である。しかしこの「エロス」的局面はフロイト「文明論」の一局面にすぎない。フロイトの「文明論」はこの「文明」建設をめざす「エロス」的局面に加えて、さらに、「タナトス」に出立する、攻撃・破壊・闘争の局面が用意されている。フロイトの「文明論」はこの「エロス」と「タナトス」という両本能の闘争として論ぜられているのだ。

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