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『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)のニンジャレッド/サスケという「突然変異」と後続作品へ与えた影響

もうすぐYouTube配信では『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)と『炎神戦隊ゴーオンジャー』(2008)が終わりを迎えようとしているが、このうち「ゴーオンジャー」については今回は触れない。
今回テーマとしたいのは「カクレンジャー」のニンジャレッド/サスケについてであり、改めて彼のキャラクターを見ると本作を無味無臭にしてしまっている元凶と気づいた。
私はスーパー戦隊シリーズを見る時に、真っ先に何を見るかというと作品の顔である戦隊レッドであり、そのレッドが魅力的かどうかで作品の面白さが決まると思っている。
が、サスケに関しては90年代戦隊という括りのみならず、他の作品との比較を交えた相対評価としても個人的にいまいち刺さり切らないつまらない人物造形という評価だ。

作品自体がそうであったように、「カクレンジャー」は歴代でも珍しくコメディ路線からハードなシリアス路線へ切り替えたという意味で、歴代でも特殊な路線変更をしている。
とはいえ、例えばそれが現在ニコニコ動画で配信中の『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)のように、自然に変化していったわけではなく強制的なものであった
いきなり「第一部完」と出た後に「第二部・青春激闘編」とタイトルがついて、忍びの巻を手に入れる試練に突入するあの流れは明らかに失敗作であることを画面に明示していたようだ。
そしてそれに伴い5人のキャラクター造形や使命感・チームカラーなども多少なりは軌道修正がなされたものの、それが成功に繋がったかというと答えは「No」である。

シリアス路線へ変更したといっても、妖怪大魔王が直々に動く杉村脚本回以外ではあいも変わらずギャグを繰り返しているし、さりとてギャグが面白いかというとそうでもない。
元々杉村升自体が決してギャグのうまい作家でもないし、また脚本家・演出家ごとの連携や一貫性なるものもなく、明らかな統一性が取れていないのである。
そのしわ寄せを一番受けたのがニンジャレッド/サスケであり、演じる小川輝晃のカリスマ性故かもしれないが、初期と後期で完全に別人となってしまった。
第一話の段階ではサイゾウと一緒に妖怪カッパに騙されて金に目がくらんで妖怪を復活させるというとんだ失態をやらかしており、鶴姫や三太夫から叱られている。

そんなサスケだが前半の酒吞童子兄弟、もっといえばアズキアライの回からサスケが実質のリーダーであるかのように描かれており、切り札かのように描かれていた。
確かにメンバーの中で頭ひとつ抜けた長所や判断力は持ち合わせていたものの、それと同じくらいメンバーに混じってバカをやる場面だってあったのである。
おそらく杉村升をはじめ作り手の中ではサスケを「2枚目半」、すなわち「普段はふざけたりサボったりしているが、いざやる気になると凄い」というメリハリのついたレッドにしたかったのであろう。
これは同時に前作「ダイレンジャー」のリュウレンジャー/天火星・亮が劇中での扱いが決していいとはいえず、活躍の場やヒーロー性をシシレンジャー/天幻星・大五に奪われた反省でもある。

90年代のスーパー戦隊シリーズは特に『鳥人戦隊ジェットマン』のレッドホーク/天堂竜から大きく造形を変化させ、様々なタイプのレッドが作られるようになっていった。
サスケもそんな過渡期の中で作られた「レッドらしからぬレッド」、すなわち「既存の優等生タイプのリーダー型レッドとは程遠いやんちゃな江戸っ子気質のレッド」だったのである。
だから前半である程度サスケのキャラ自体はできていたわけであり、あとは「戦う理由」というか芯の部分をどれだけ強固に形成していけるかが課題だったのだ。
しかし、改めて見直してみるとその目論見は失敗に終わったといえる、何故ならば後半でサスケがどんどん完璧超人じみていく一方で他の人物が割を食っているからである。

例えば歴代初の女性リーダーだったはずの鶴姫は忍びの巻の試練を境にリーダーとしての役目を失って単なる足手纏いのヒロインという部分をあてがわれることになった。
アクション担当としてサスケ共々強くてかっこいい路線を担うはずだったジライヤもガリ先生との師弟対決を最後にアクション以外でこれという見せ場を貰えていない。
そしてサイゾウとセイカイは河童にされたことをきっかけに2人揃って3枚目担当というか、汚れ役のポジションを押し付けられてしまうという割を食った扱いになる。
更に4クール目で何の意味で出したかわからないニンジャマンも3枚目キャラとして登場するが、こちらも最終的にはただ「青二才というワードでブチギレるだけ」になってしまった。

それだけならまだしも、何故だか杉村脚本でも曽田脚本でも高久脚本でも、どの回でも何故だかサスケがメンバーよりも一足先に情報を掴んでいるという扱いになっている。
つまり物語のあれやこれやを解決するためにサスケに色々と属性を盛った結果、「もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな」状態になってしまっていた。
鶴姫からリーダーシップを、ジライヤからカッコいい属性まで奪い去り三枚目要素をサイゾウ・セイカイ・ニンジャマンに押し付けた結果なのである。
この「一部のカリスマのみが特権化された結果、他が割を食った扱いになる」というのはサスケに限らず、この時期の作品には多かれ少なかれ見られた傾向だった。

それこそ同年の『機動武闘伝Gガンダム』もあくまで「ドモン・カッシュの物語」であったし、『ドラゴンボール』に至っては最終的に悟空マンセーになっている。
その結果としてそれ以外のキャラクターが割を食ってしまうという歪みが出てしまい、「あっちが立てばこっちが立たず」という反省点が間違いなくあった。
ネットの二次創作として挙げられる「メアリー・スー(特定のキャラのみを贔屓して他のキャラが目立たなくなること)」に片足突っ込んだ感じである。
もちろんそれが作品として順当に育っていった結果としてならばまだ文句はないのだが、「カクレンジャー」の場合露骨なまでに無理がある路線変更が祟った弊害としか言いようがない。

ただ、このサスケというレッドがあまりにも予想だにしない突然変異のように変質してしまったことが大きな反省を呼び、それが後続作品に多少なり影響を与えたのではないか?
特にサブで参加していた髙寺成紀はサスケというキャラクターを間近で見ていて、その良し悪しをきちんと分析した上で自身の戦隊3部作(「カーレンジャー」「メガレンジャー」「ギンガマン」)に活かしている。
例えば最初に設定されていた「江戸っ子気質の三枚目・非リーダー」という要素は「カーレンジャー」のレッドレーサー/陣内恭介、「メガレンジャー」のメガレッド/伊達健太がこれを継承した。
また、後半で見せた冷静沈着な判断力とカリスマ性でチームを引っ張るという完璧超人じみた要素は同じ小川輝晃が演じる「ギンガマン」の黒騎士ヒュウガの土台となったであろう。

じゃあギンガレッド/リョウマはどうかというと、レッドホーク/天堂竜とティラノレンジャー/ゲキのハイブリットではないかというのが私の見解である。
まず大事な人を第一話でなくして怒りを滾らせながら戦うという要素をレッドホーク/天堂竜から、そして追加戦士の弟にしてチームを引っ張るリーダーという主人公補正をティラノレンジャー/ゲから継承したと思われる。
このように見ていくと、長年ずっと私の中で引っかかっていたサスケに対する違和感やモヤモヤがある程度解消され、何故あのようなアンバランスな人物像になったかがようやく言語化できた。
「カクレンジャー」という作品自体は決してお世辞にも成功作とはいえないし反省点も多々あるのは事実だが、後に洗練され収穫を迎える要素を提示している作品であることも事実だ。

個人的にはシリーズの中で「ダイレンジャー」「メガレンジャー」と並ぶ過渡期の試行錯誤がまざまざと見える作品にして、それを体現したかのようなレッドであることが今回見直しての発見である。
長年位置付けがはっきりしなかった本作の評価がようやく私の中で定まった。

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