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34日目 裸足の夜から始めよう

原田郁子さんが弾くピアノの美しい旋律を生で聴きながら、トイレで踏ん張る5歳息子の顔を見つめるという掛け替えのない夜だった。旧グッゲンハイム邸事務所のトイレを借りるため、もじもじする息子を抱きかかえて走った。今日はワンダカレー15周年イベント「海と山のすきまで」に親子参加。

何よりも、私が最も好きな作家である「いしいしんじ」さんが登場するのだから、行かないわけにはいかない。いしいさんはワンダカレーに小説を書き下ろしている。原田郁子さんはワンダカレーが塩屋にお店を構えることを後押ししたそうだ。

私が持参した「麦踏みクーツェ」の初版本を指さして、いしいさんが息子に言う「おっちゃんな、この本かいた人やねん」。なんと気さくなことよ。いしいさんの小説を初めて読んでから20年近く経って、ご本人に会う場所が塩屋になるとは思いもしなかった。ユブネを山森さんと始めて塩屋にたくさん友達が増えて、その友達の何人かはいしいさんと今ステージにいるし、その友達の何人かは庭先で踊っている。きっと今夜がその日だったのだ。


「麦踏みクーツェ」は私が20代の頃に所属していた劇団の演出家であるウォーリー木下さんが2015年に舞台化してくれた。その舞台を一緒に見た人が今の妻である。まあ、これに関してはあまり美しいなれそめエピソードではないので割愛。観劇後の私の大失態については今でも恨み節をくらうレベルであるからして・・・。

話を戻そう。旧グッゲンハイム邸の庭はふかふかの芝生で、脚の不自由な息子も自分で歩行装具を脱ぎ捨てて裸足でところ構わず走りだした。三田村管打団と原田さんとペ・ド・グといしいさんのつくる音楽が庭にもあふれでてきて、オレンジの電球灯りに照らされた子どもたちの歓声と交差する。解き放たれたようはしゃぐ息子の声とも交差する。テラスで食べるワンダカレーの香りとも交差する。いま、ここにある夜。いまここにある音楽。いまここにある幸福。

抱っこして息子を上下する。声を発して両手を振り乱す満面の笑みの息子。次の瞬間、息子の口からさっき飲んだオレンジジュースが放物線を描いて吹き出て、私の肩口に着地した。今夜はグッゲンハイムのマーライオンの誕生だ。

ご機嫌なままの息子は、イベントが終わっても裸足でいたいと言い張る。やれやれだよまったく。結局は電車の中まで裸足で乗ることになった。私はスマホを触って、いしいさんの息子さんのひとひくんが撮ってくれた3人の写真を眺める。シャツの肩口からすっぱいオレンジの香りがほんのりとする。

本当に「いい夜」ってものは、あるもんだ。もう少しで三宮だというのに、またトイレに行きたくなった息子を抱きかかえて、兵庫駅で途中下車した。

20231009

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