見出し画像

【自己紹介】×フィクション²

 自動販売機で飲み物を買う時は、金額の小さい小銭から投入する。例えば180円のコカコーラを買うとして、10円玉を3枚、50円玉を1枚、最後に100円玉を入れる。そうすると全てのボタンが一度にパッと光る。それがなんだと言われたら
「別に、ただそうしたいだけ」

 マクドナルドでハンバーガーとポテトとジュースのセット、だいたいクーポンを使って注文する。まず食べるのはポテト。完食してからハンバーガーを手に取る。ナゲットがある時はナゲットを食べてからハンバーガー。絶対最後はハンバーガー。いつからそうしているか覚えてないが、ふと気付くと
「そういやいつもこうだなぁ」

 なんとなく心地いいのだろうか、自分の中でそうしたいという潜在意識のようなものが、恐らくある。

 昔から「13」という数字が好きだった。素数だからとか、西洋における忌み数だからとか、そんな大層な理由など持ち合わせていない。なんとなく「13」という数字がスっと頭に入る。言葉にするのは難しいけど、例えば穴があって、そこに「じゅう」という音が隙間なくピッタリとその穴に膜を張って、その上から「さん」という音が穴を完璧に埋める、みたいな感覚。伝わる訳ない。一度、母親にこの話をしたら
「15の方がそんな感じするよ」
いやいや、「ご」という音は硬すぎて穴を埋める時に隙間が絶対にできる。そう反論したら「あっそ」とだけ言われてこの話は終わった。

 別に誰かに理解されたいとか、同調して欲しい訳ではないし、自分の中で心地良ければそれでいい。ある友人はハンバーガーを食べた後にポテトを食べ始めると言っていた。それが彼なりの心地良さだ。

 よく集合時間に遅刻する。寝坊してしまうことも多々あるが、その原因のほとんどは服選び。色とか形とか
「なんか違うなぁ」
恐らく他人からすれば変には見えないだろうが、自分の中で納得できないと心がざわざわする。それで着替えを繰り返してたら遅刻。この話には母親も
「わかるわかる」
と理解を示した。同じ心地良さをもっている、というか遺伝?

 なんとなくこうしたい、こっちの方がいい。
そうやって生活してきたし、これからもそうだろう。

 「あ、Comico Art Museum」
 土曜の昼下がり、特にやることもなくてだらだらとInstagramを眺めていた僕は、ある女の子が投稿していたストーリーに目をとめた。それは美術館に行ったという内容だった。
「Comico Art Museum」
大分県は湯布院にある、モダンアートを取り扱った美術館であるそこには、僕も1度足を運んだことがある。というか地元が大分県。だいたいの大分県民は湯布院に遊びに行くし、だいたいの湯布院観光プランに、この美術館は組み込まれる。こぢんまりした場所なので、何度も訪れるような場所ではないが、なんとも洗練された空間に仕上げられているため、所謂「インスタ映え」スポットとして、県外からの来客も多い印象。その子もその内の1人だろう。

 しかしこの子は誰だ。

 サスペンス的な意味ではなく、名前を忘れてしまった。以前アルバイトで勤務していた個別指導塾で、同期であった女の子なのは間違いない。しかし名前を思い出せない。Instagramの名前は……ダメだ。本名書いていないパターン。人の名前を思い出せないのはムズムズするが、まさか「名前なんだっけ?」なんて急に聞くわけもない。一緒に働いていたのも2年前で、僕が辞めてから何も接点がなかったのだから。まぁ、分からないものはしょうがない。ただ、Comico Art Museumは僕も好きな場所なので、そのストーリーに「いいね」だけ押しておいた。

 それから3時間ほど経った頃だろうか、僕のInstagramに通知が来た。

 「僕くん久しぶりー!大分出身だったよね?私今日と明日大分いるんだけど、湯布院以外でおすすめの場所あったりする?」

 ……え?

 困惑した理由は3つ。1つ目は2年ぶりでメッセージを送ってくるのか、ということ。2つ目はその子が僕の名前を覚えていたこと。(Instagramに名前を書いているが、その子は名字を覚えていた) 3つ目は出身地まで覚えていたこと。
「どうしよう」
僕は彼女の名前を完全に忘れてしまっている。もちろん、名前を出さずに「久しぶり」から返信を始めることは容易い。しかし相手方がわざわざ名前を呼んでいるのだから、こちらも呼ばなければ、会話がアンバランスになってしまう。それは心地よくない。名前を呼ばれたのであれば、名前を呼びたい。これは昔からの癖のようなものだ。というかそれを抜きにしても、僕が名前を呼ばなかったら、
「名前忘れてる?」
なんて思われるのではないか。考え過ぎだろうか。うーん…。
 結局、名前をどうしても思い出せなかった僕は、
「久しぶりー!」
から始めて、別府の温泉だとか、大分市内にあるオススメのカフェだとか、当たり障りなく返信をした。そのアンバランスな会話は、「人の名前を思い出せなかった」という罪悪感に加え、新たに「不快感」を僕の心に落とした。

 時刻は23時を少し回った頃。終電で最寄り駅に着いた俺は、まっすぐ家をめざした。いつもならコンビニに立ち寄って適当に菓子を買って帰るのだが、今日は雪が舞うほど寒く、一刻も早く風呂に入って寝てしまいたいと思っていたからだ。
「今日のバイト、疲れたなー…」
そんなことを考えながら、しかし疲労とは裏腹に、足だけはせかせかと動いた。

 途中、信号機が1つあるのだが、青信号の時間が極端に短いことで有名だ。1度捕まればだいぶと足止めを食らう。というか大抵赤信号なので、どんなに急いでいてもここで止まることになる。(ひとり暮らしを始めて3年、この信号機を加味した時間配分で家を出ることを余儀なくされてきた)

 「お、」
 今日は何ともラッキーだった。目の前の信号機は青。こんなことは滅多にない。この距離ならば走れば充分間に合う。幸いなことに、どれだけ疲れていても足だけは急ぐことを躊躇しなかった。

 点滅

 「まずい!」
 そう思って走り出しかけたその時、横断歩道の向こう岸に1つの丸い影があることに気づいた。気づいたというか、「何かあるな」 と見えていたのだが、近づいたことでそれが何かはっきりわかった。

 車椅子に座った青年だった。

 歳はちょうど俺と同じくらいだろうか、何をする訳でもなく、ただ横断歩道の手前で、信号機を眺めていた。
「何してるんだ」
と疑問に思ったが、すぐに答えは大脳から返ってきた。次の青を待っているのだ。この信号機は青信号の時間が短い。だから1人で車椅子を漕いで渡るには、青になった瞬間でないと間に合わない。だから彼は先程までの青信号の間からずっとそこで待っていたのだ。点滅する信号機を見つめながら、次の青を。

 そのことに気づいた俺の足は、走ることをやめてしまった。ついさっきまで足だけは軽かったのに、今はただゆっくりと歩くだけになった。

 信号機はとっくに赤を照らしていた。

 そして横断歩道の手前に着き、向こう岸の青年と共に次の青を待った。これを勘ぐりすぎだと、もしくは余計なお世話、自己満足だと、そう言われるかもしれない。しかしこれが、今の俺が選択すべき心地良さだった。
 なんとなくこうしたい、こっちの方がいい。それが俺には大事だ。理解だとか同調だとか、全く求めていない。

 長い信号待ちは酷く寒かったのだが、俺の芯は、暖かな充足でいっぱいだった。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?