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【エッセイ】いつか訪れるのだろうか、「幸福」の話

 福岡から大分に帰省するのは大抵、夏休みと春休みにそれぞれ2週間程度。高速バスで2時間30分ほどなので、週末や少しの連休にも帰ることは可能だが、だからといって大分に2、3日いても特にすることはないため、そういった「プチ帰省」のようなものはしたことが無かった。それで今回は、3度目の夏の帰省中。その際に祖父と喫茶店に行った時の話をする。

 その喫茶店には、帰省する度に祖父と一緒に珈琲を飲みに行く。夏と春に1回ずつ、年に2度だ。すなわち大学生になってから、先日の分を含めると5回行ったことになる。まあ、高校生の頃からよく連れて行ってもらっていたので、正確な回数は覚えていないが。そこに行く時は、決まって祖父の方から誘いがある。私がいつまで大分にいるかを確認した後、この日に珈琲を飲みに行かないか?と。そして車で私の実家に迎えに来てくれる。

 私も珈琲が好きで、特に喫茶店で飲む珈琲は最高だ。その喫茶店が老舗であればあるほど良く、マスターがお年を召していればいるほど良い。そんな店には、歴史が詰まっている。壁の染みや、椅子のカバーのほつれ、年季の入ったレジスターなど、そういったものに想像力を委ね、かつての店内像や客なんかに思いを馳せる。そうしながら飲む珈琲には、インスタントや真新しいカフェの珈琲には出せないような味、香りがあると、私は思っている。

 だから祖父からの誘いには喜んでついて行く。何せその喫茶店は、老夫婦が営む物静かな店で、お父さんがキッチンを、お母さんが客対応をしている。何よりその店は祖父が若い頃から通っている老舗だ。私の考える「最高の珈琲」を飲むことができる。(前述の通り私は何度か通っているのだが、未だにお母さんは私のことを祖父の息子だと勘違いする。それを訂正して驚かれるのも、ひとつの楽しみだ。)

 その店で私と祖父が頼むのは決まって、ブレンドコーヒー。それから私は時々ケーキ。席に着くなり注文するので、これまでメニュー表を見たことがなかった。そのため私は、てっきり「ケーキと珈琲しかない店」だと思い込んでいて、以前に友人から「そこのワッフル美味しかった」と言われた時は、「ワッフルなんてあるか?違う店の話してない?」などと答えた。その会話を覚えていた私は、今回の訪問で初めて、お母さんからメニュー表を受け取った。
「あ…本当にワッフルある。プリンも。」
 それどころか珈琲も様々な豆のものがあり、紅茶からジュース、ランチ用のメニューまであった。つい口に出した私は、祖父に私の勘違いを伝えた。
「確かに、いつもメニュー表なんて見ないからなぁ」
 祖父が笑いながら言って、私も笑った。

 お店ではいつも、1〜2時間ほど2人で談笑をする。私の大学生活はどうだとか、将来の話だとか、祖父の応援するサッカーチームの成績についてや、店内から見える庭の植物についてだとか…様々な話をする。そしてどちらからという訳でもなく、話が尽きてきた頃に退店。別段、話の内容が濃かったり、真剣であることはない。しかしその日の会話のひとつに、「蓮の花」の話があった。祖父は何気なく話していたが、私には何か強烈な印象を残した。それはこんな話だ。

 祖父の家の庭は、いつも綺麗に仕上げられている。植木は角がしっかりと整えられていて、花は生き生きと咲いている。祖父の趣味のひとつ、ガーデニングの賜物だ。(その趣味は私の母にも受け継がれていて、帰省する度に庭の植物が増えていたり、家の中でも多様な種類の植物を育てている。)そんな祖父の庭に、大きなかめがある。中には水が張られていて、メダカを数匹飼っているのだ。そしてメダカの他にその瓶では、蓮が育てられている。 
 ある日祖父は、瓶の水換えを行っていた。藻が張ってしまったり、空気中のゴミが溜まったりしてしまうので、定期的に行っているそうだ。メダカと蓮を他の容器に移して、重たい瓶を掃除して……と中々の重労働。その日もいつものように瓶を綺麗にしてガーデニングを終えると、その数週間後に、蓮に花が咲いたという。

 内容としてはそれだけの話。

「これがその花」
と祖父はテーブルの上にスマホを置いた。そこには白みがかった桃色の花の写真があった。祖父のスマホは決して性能が良い訳ではないので、画質の荒い写真であったが、とても可愛らしい花だとわかる。
「今まで1度も花が咲かなかったのに、なんで咲いたんだろうなぁ」
 独り言のようにつぶやきながら、珈琲を飲む祖父の顔はとても柔らかかった。

 ―そう、1度も咲かなかった。

 私は今年で22になるが、物心ついた時からその瓶は祖父母の家にあった。メダカもいたし、蓮もあった。だが確かに、蓮の花を、私は見たことがなかった。あの蓮はいつから育てているんだろうか。少なくとも10年以上はある。もちろん、ずっと同じ蓮ではないと思う。枯れたり、病気になったり、何度も何度も蓮を育てているだろう。あの1輪の花を、祖父は何年待ち焦がれていたのか。その瞬間のために、どれだけの回数、瓶の掃除をしたのだろうか。花を見た時、間違いなく、「幸福」に満たされただろう。そうでなければ、あの祖父の嬉しそうな語り口と笑顔は生まれない。

 これまで「幸福」を感じたことは幾度もある。友人と過ごした日々、大学に合格した瞬間、それこそ、祖父と喫茶店にいる時間…。しかしそれらは果たして、「蓮の花」なのだろうか。私のこれからの人生において、「蓮の花」が咲く時はくるのだろうか。何年も何年も、待ち続けた先に現れる「幸福」。待っている時間が、実ることのないかもしれない「幸福」。それはある種の片想いだ。そんな人生を費やした「蓮の花」が、私の人生に咲いたことはないのかもしれない。友人と会うために、特別に何か頑張ることはなかった。大学受験だって、本腰を入れて勉強したのはせいぜい1、2年間だ。私から祖父を喫茶店に誘うこともない。そんな私の人生に、「蓮の種」は落とされているのだろうか。いつか花開く瞬間が訪れるのだろうか。私にはまだわからない。それでも私は、その時のために、いつかの「蓮の花」を見るために、努力と、忍耐と、誠実さとを忘れずにいたい。そう思える話だった。

 その日の珈琲は特に、良い香りがした。


(了)

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