二段構え/服部真里子『行け広野へと』評

服部真里子『行け広野へと』を読んだ。服部真里子の短歌の魅力を支えるのは、二段に構えられている展開であると思った。

三月の真っただ中を落ちてゆく雲雀、あるいは光の溺死

雲雀、あるいは光の溺死(p.7)

「雲雀」というモチーフの導入のために上の句をすべて使い、下の句では「雲雀」がさらに「光の溺死」へと展開される。この音数の裂き方のバランス感覚、そしてそれによって生じる緩急の制御が見事だと思う。

雪は花に喩えられつつ降るものを花とは花のくずれる速度

冬のカメラ(p.40)

冬の季語「雪」の傍題に「風花」がある。これは、雪が風に吹かれながら降ってくるさまを花びらに喩えたものであり、この歌はそれを踏まえていると考えられる。上の句で花のように舞い落ちる雪の景を立て、下の句では上の句で立てた景である雪ではなく、比喩に用いた花というモチーフに対して言及するという構造をとっている。とても意外性のある展開だと思う。

これら2首のように、服部の短歌は大きく2つのパートからなることが多く、それらが相互に作用し合うことで一首の完成度を大きく上げているように感じる。

英語のニュース聞く夜と朝まぶしくてまぶしすぎて見えない天体よ

あなたを覚えている(p.76)

「まぶしい」という形容詞によって2つのパートが接続されている。深く読みこめば、下の句は夜と朝で2つの別の意味を帯びてくる。夜、街の光が強いために弱い光の星はあまり見えなくなる。朝、太陽の光が強いためにほとんど全ての星は見えなくなる。「まぶしくてまぶしすぎて」と同一の形容詞を畳みかけることで韻律の上でも、(主語を隠すことによって)意味内容の上でも得をしている。「英語のニュース」と「天体」も距離感の面で響き合うところがある。

魂のうつわを舟と呼ぶならば舟の隣で一夜を過ごす

スプリングコート・フェアが終わるまで(p.112)

舟は舟でも、この舟は木でできた小舟であるように感じる。この歌は上の句で飛躍の大きな比喩を展開し、下の句でそれを踏まえた描写を行うという構造をとっており、それが比喩の説得力を増幅させると同時に、その比喩により「一夜」の時間幅を制御している。この比喩の説得力は、構造によるものだけでなく、「うつわ」で読み手の脳内に水のニュアンスを与えることにより、「舟」への橋渡しを容易にしているためでもあるだろう。

また、この二段構えの展開は、ものの二面性を見せやすくする効果もあると感じた。

ひとごろしの道具のように立っている冬の噴水 冬の恋人

地表より(p.97)

冬の噴水、冬の恋人の両者に「ひとごろしの道具」のような残虐性を見出す。本来、噴水も恋人も美しいものであることを考えれば、美しさと暴力性という相反する側面を服部はこの二つのものに共通して見出しているのだろう。「冬」のドライでシャープなイメージが「ひとごろしの道具」が持つであろう鋭い刃を想起させる。

酸漿ほおずきのひとつひとつを指さしてあれはともし火 すべて標的

あれはともし火(p.160)

酸漿の実をひとつひとつを「ともし火」と思って愛しむかと思うのも束の間、それらはすべて「標的」へ変換される。ここでも美しさと暴力性の二要素の共存が見られる。「標的」という単語により「ともし火」が持ちうる加虐性が想起されるが、冷静になれば、ここで標的が入れ替わっていることに気が付く。酸漿に対して「標的」と感じることには主体の加虐性を想起させるが、それにより見出されるともし火の加虐性は、酸漿に向けられるものではなく主体に対して向けられるものである。

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