マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』

 「あたしの哲学の第一歩はね、ジュリエット」と、ユーフロジーヌの出奔以来いっそうあたしに愛着を示しはじめたデルベーヌ夫人は、こう続けるのでした、「世間の思惑などものともするな、ということよ。あなたなど想像もつかないかもしれないけれど、あたしは自分が他人になんと言われようといっこう平気なの。だいたい、卑しい俗物たちの意見が、あたし自身の幸福をどう左右することができて? そんなものは、結局あたしたちの感受性の持ち方によって、あたしたちに影響するものでしかないのよ。もし知識と反省を積んだおかげで、あたしたちがこの感受性というやつを鈍磨させて、もっとも感動的な出来事においてさえ、その効果を感じなくなるほどになったとしたならば、良かれ悪しかれ他人の思惑などというものが、あたしたちの幸福に何ごとか影響を与えるなんてことは、まったくあり得ないことになるでしょう。人間の幸福というのは、あたしたち自身のうちにこそ在るべきもの、あたしたちの良心や、さらにもっとあたしたちの思想に依存しているものであって、良心のもっとも確実な勧告といえども、この思想の支持を仰がねば無力でしょう。なぜかと言うに良心というものは」とこの才気にあふれた女は語り続けるのでした、「良心というものは、型にはまった一様なものではないの。ほとんどつねに風俗の結果ないし気候風土の影響であって、だからたとえば、あたしたちフランス人をふるえさせるような行為が支那人にはぜんぜん嫌悪の情を起こさせない、というようなことも事実としてありうるわけよ。したがって、もしこの順応しやすい器官が、ただ単に気候風土の違いだけによって、極端にまで走りうるものとしたならば、この場合、真に賢明なことは、不条理と幻影とのあいだから道理にかなった中庸を選び出すことであり、また、ひとが自然からうけた性向にも自国の政府の法律にも同時に適合する思想を、みずからのうちにつくり出すことでしょう。そしてそういう思想こそ、あたしたちの良心を形成するものでなければならないわ。ひとがあまりに若いうちは、みずからの行為の指針としての哲学を採用することが容易にできないのは、こういったわけなのよ。哲学のみが、あたしたちの良心を形成するのであり、またあたしたちの人生のすべての行為を決定するのは、あたしたちの良心なのですからね」
 「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に中しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」
 「そのとおりよ、あなた。ほんとうのことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判が良いと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たぬ財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんなに議牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名を得ようとやっきになっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者は自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまますなおに信用していればよかりそうなものじゃありませんか?」
 「でも、そんな道徳を採用していた日にゃ」とあたしはデルベーヌ夫人に異を唱えました、「あんまり束縛がなさすぎて、なんだか怖いような気がしますけど」
 「まあ、可愛いことを言うわね」と彼女はあたしに答えました、「あんまり楽しみが多すぎて心配だって言うのね。でも、よく考えてごらん、いったいこの束縛というのは何のこと? 冷静に考えてごらんなさい……人間社会の慣習なんてものは、ほとんどいつも、あまねく社会の成員の認可なしに広められてしまうものなので、多くの場合あたしたちの憎悪の的であり……世の良識とは相容れぬものよ。ばかばかしい世間の慣習は、唯々諾々とそれに従おうとする阿呆な人の目にしか現実性をもたず、叡知と理性の目にはただ軽蔑の対象でしかないものよ……でもまあ、そんな話は、さっきもいったとおり、後ほどにしましょう。いい子ちゃん、あなたのことは、あたしが引き受けたわ。あなたの無邪気さと初心さは、これから茨にみちた人生行路をたどって行くためには、どうしても案内者を必要とするわ。あたしがその役を引き受けてあげましょうね」
 たしかに、デルベーヌ夫人ほど評判のわるい女はありませんでした。ある修道女なぞは、わざわざあたしを呼び出して、あたしと尼僧院長との関係を難詰しながら、あの女は堕落した女だから気をつけるようにと忠告したものです。実際デルベーヌ夫人は、尼僧院に住んでいるほとんどすべての修道女を堕落の道に引きずりこんでいたので、すでに十五、六人以上の者が彼女の勧告に従って、ユーフロジーヌと同じ挙動に出ていたのでした。ひとの話では、彼女は怖れげもなく自分の道徳を降りまわす、眼中神も人もない無信仰 なので、もしその勢力や門閥がなかったならば、もうすでに何度となく厳罰に処されていたに違いなかろう、というのです。あたしはでも、こうした諫言などてんから鼻であしらっておりました。デルベーヌ夫人のたった一つの接吻が、たった一つの意見が、あたしと彼女との仲を裂こうとする人たちすべての術策よりもなお強く、あたしの上に大きな支配力を振るうのでした。かりに彼女があたしを破減に引きずりこむつもりだったとしても、あたしは他の人について出世したりするよりは、むしろ彼女とともに身を減ぼすことを願ったことでしたろう。ああ、みなさん! この世には、ロ当たりのきわめて結構な悪徳というのがあるものです、ひとたびこの悪感に本心からひきつけられてしまった者は、よしんば冷たい理性があたしたちを一刻そこから遠ざけるとしても、ふたたび逸楽の手によってそこに連れ戻され、もう二度と離れることができなくなってしまうのです。
 道楽者も、堕落した人間も、極悪人も、すべてあたしたちぐらいになると、この世の人間や愚かな法律を免れるために、地中の奥底ふかく入りこみたいという望みをいつもいだくようになるのよ
 ドルヴァルは自分の奇怪な嗜好を弁護するために、次のような大演説をぶちました――
 「社会というものができた初めから、人間を区別するものはたった一つしかない。それは何かと言えば、それこそ力である。自然は人間のすべてに住むべき土地を与えたが、しかしこの土地を分ける時によりどころとなるべき力は、人間に等しく分け与えなかった。いったい、カのみが分配を支配するという時に、平等などということがありうるだろうか。すなわちここに、すでに明白な盜みがあるのである。というのは、この分配の不平等ということが、必然に弱者に対する強者の侵害を想定するので、この侵害、つまり盗みはすでに明確であり、自然の認可を受けているものでさえあって、自然が人間に、必然にこの盗みという行為に赴かしむるべき動機を与えているのも道理なのだ。また一方弱者は弱者で、カによって奪われた土地に何とかして食いこむために、術策を弄して復讐をはかるので、ここに盗みの妹であり自然の娘であるところの、詐欺という行為が成立する。もしも盗みが自然を怒らせるような行為だとしたら、自然は人間にこの行為を犯させないために、力も性格もひとしい人間を造ったことだろう。分配の平等はカの平等の結果なのだから、そうなったら、他人を犠牲にして金持になろうなどという欲望はいっさい影をひそめるだろう。ここにおいて、盗みは不可能になるべきである。しかるに、人間は自分の親であるこの自然の手から、分配の不平等と、この不平等の確実な結果である盗みとをどうしても犯さないではいられないような構造を享けているのである、それなのにいったいどうして、盗みが自然を怒らせるなどということを信じるほど馬鹿になりえようか? 自然は動物の本能の中にも盗みの本能を一枚加えることによって、それがいかに自然の法則に大切なものであるかをちゃんと証明しているではないか。動物がその種族を保持するのも、一にこれ永遠の盗みによるのであれば、またそれが個々の生命を維持するのも、数知れぬ横領強奪といった行為によるのである。自分自身が動物の一種族にすぎないのに、そもそも人間はどういうわけで、自然が動物の心の奥ふかくに滲みこませた本能が、自らのもとでは罪になるなどとばかな考えを信ずるにいたったのだろう?
 「所有権というものの発端にさかのぼってみると、どうしたってわれわれは横領強奪にぶつからざるを得ない。しかるに盗みが罰せられるのは、もっぱらそれが所有権を侵害するという理由による。ところがこの権利そのものが、元来盗み以外のものではないのだ。だから結局法律は、盗みを攻撃するという理由で盗みを罰し、権利を回復しようとしたという理由で弱者を罰し、また自然から享けた力を利用して、自らの権利を確立し増強しようとしたという理由で強者を罰しているのである。いったいこれ以上むちゃな関係があるものだろうか? 正当な理由で確立された権利というものがどこにもない以上、盗みが一つの罪であることを証明するのは、きわめて困難であろう。けだし盜みというものは、一方から見れば秩序を乱すものであるが、他方から見れば乱れたものを回復するものにほかならないのであって、自然は前者よりも後者をとくに喜ぶものではないのだから、一方よりも他方を優遇して自然の法則を無視するというがごときことは、許さるべき筋合いのものではないのである」

 「ジュリエット、おまえの話を逐一聞いて、おれはすっかり悲観してしまったよ」
 「まあ、いったいそれはなぜです?」
 「こういうわけだ、つまりおれは、おまえの父御さんをよく知っている、父御さんの破産の原因がつまりこのおれなんだな。だいぶ前の話だが、彼の財産を倍にするのも、またおれの掌中に帰せしめるのも、まったくおれの胸三寸にあった時があった。おれは自分の主義の当然な帰結として、そのとき彼よりも自分の利益を考えたよ。で、彼は破産して死に、おれは三十万リーヴルの年金を得た。おまえの告白を聞いた今、おれとしておまえを逆境に沈めた罪の償いを、おまえに対してなすべきかもしれない。だがそういう行為は美徳というものだろう。絶対におれは美徳を行なうわけにはいかない。考えただけでもぞっとするほど、おれは美徳が大嫌いなのでな。そういうわけで、おれたち二人のあいだには永遠の壁ができてしまったようなものだ。もう二度と会うことはできまいな」
 「憎らしいひと」とあたしは叫びました、「どれくらいあなたの悪徳の被害をあたしはこうむっているでしょう……ああ、でもあたしはその悪徳が好きなんです、あなたの道徳が、大好きなんです……」
 「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいないからそう言うが……」
 「なら全部すっかり話してください!」
 「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」
 「どうしたと言うんです?」
 「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしまう必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」
 ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見すえながら、「人非人! 何度でもこの名をくりかえしてやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております」
 「おまえたちの一家の殺戮者でも?」
 「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの凶行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪の告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいかわからないほどな興奮の中へ、あたしを投げ込んでくれました」
 「可愛い娘じゃ」とノアルスイユは答えました、「おまえのその無邪気さと、魂の率直さとを見ては、おれは自分の方針にそむかざることを得ない。しかたがない、おれはおまえを家に引き取ろう、ジュリエット。おまえはもうデュヴェルジエ夫人の妓楼へ帰らなくともよいぞ」
 「でも旦那様……奥さまは?」
 「女房はおまえの言いなりになるさ、おまえは一家の支配者になるのだ。家の者はみんな、おまえの命令に服するだろう、おまえだけの言うことしかきかないようになろう。おまえの魂には罪悪が跳梁しておる、罪の極印の押されたものは、何によらずおれにはなつかしいのだ。自然は罪を愛するように、おれという人間を造ったものらしいな、つまりおれは美徳を憎むことによって、しらずしらず、たえず罪と汚辱の足元に身を落としていなければならないのだ。さあおいで、ジュリエット。おれは催してきたそ。おまえの美しい尻を見せなさい。おれの物欲の犠牲者として果てた者たちの子供を、今度はおれの淫欲の犠牲にするという、いやこの趣向はなんともこたえられんわい」
 「ほんとに、ノアルスイユ、あたしも、自分の両親の殺害者の敵娼(あいかた)になるのだと思うと、もう嬉しくって……涙の代わりに、あたしの契水を流させてちょうだい。それこそ、胸くそわるいあたしの家族の亡骸に、あたしが捧げたいと思う唯一の手向水(たむけみず)なんですから」

なぜわれわれは自然が動物の世界につくったものを、われわれ人間の世界にもつくったという明白な事実に目をそむけるのだろう? あらゆる動物の種族がたがいに食い合い、生者必滅の理法に従って衰亡しているのではないか? アグリッピーヌを毒殺したネロの行為も、羊を食う狼のそれと少しも変わらぬ、この同じ理法の結果でないと誰が言えよう? またマリウスやスルラの命令も、自然が時として地上に送るペストや飢餓と少しも異なるものではないのではないか? おれにはよくわかるが、自然は人間にしかじかの罪をとくに割当てたのではなくて、あらゆる種類の罪をつくり、かつまた人間にはそういった罪に染まらないではいられない性癖をば与えることをけっして忘れなかったのである。そして自然は、合法的にまれ非合法的にまれ、このあらゆる大悪と破壊の集積から無秩序と衰亡を引き出すが、これこそ自然が再び秩序と生長とを見いだすだめに必要欠くべからざるものなのだ。もし人間に使ってもらうためでないとしたら、自然はなぜわれわれに毒を与えたのか? もしチベリウスとかヘリオガバルスとか、アンドロニクスとかヘロデとか、ヴィンセスラスとかいった暴君や、その他地上を荒らしまわったすべての悪人あるいは英雄(この二つは同義語だが)の破壊行為が自然の目的にそうものでないとしたら、なぜ自然はかかる冷酷な人間どもを出現せしめたのであるか? そして、もし破壊ということが自然の本質でなく、罪と破滅が自然の法則に欠くべからざるものでないとしたら、なぜまた自然はこれらの悪人のもとにペストやら戦争やら飢餓やらを送ったのであるか? またもし、以上の論拠から、破壊ということが自然にとって本質的なものであることを認めるならば、破壊のために生まれてきたことを自覚した人間が、どうして自分の傾向に逆らう必要があろうか? 地上にもし悪なるものがありとせば、それは明らかに、われわれ人類の上におよぼされた自然の意図にさからう人間の行為でなければならぬ、と言うことができはしないか? もっぱらわれわれ人類を害することによって成立する罪が、自然の怒りを招くものであるとするならば、自然というものはある種の存在を他のものよりも贔屓にしていることを認めなければならず、また、われわれは自然の手によってすべて等しく創られたというのだが、その実、平等な待遇を受けているのではないということを仮定しなければなるまい。だがもしもわれわれ人類が、力を別とすればすべて相等しくつくられていて、古靴直し屋をつくるのにも皇帝をつくるのにも自然は同じ苦心をするのだとすれば、すべてこういったもろもろの罪ある行為は、最初の衝動の必然的な結果としての出来事でしかなく、自然の気に入るような流儀でつくられているわれわれが、この行為を必然的に実行しなければならないのも道理である。また次に、自然がわれわれ個人の間にもさまざまな肉体的差異を設け、弱者と強者とをつくった事実に目を留めるならば、あたかも羊を食うのが狼の本質であり、猫に食われるのが鼠の本質でなければならないように、自然の必要とする罪悪の実行されねばならないのは、もっとも強い者の手によってであるということも、かかる成行きから自然自身がわれわれに明らかに指示するところではなかろうか。……

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