フローベール『ボヴァリー夫人』

 腹だたしくてならないのは、シャルルが彼女の苦しみを感づいていないらしいことだった。彼女を幸福にするという彼の自信は、彼女にはばかばかしい侮辱のように思われ、それに対する彼の安心振りは恩知らずの仕打ちとも思えた。いったい自分は誰のためにおとなしくしているのか。彼こそはすべての幸福の障害ではないか。すべての禍いの根元ではないか。自分を八方からしめつけるこの複雑な革帯の、鋭いとげにもたとえるべきものではないか。
 それゆえエンマは自分の悩みからおこるかずかずの憎悪をすべて彼の上に集中した。憎しみを減らそうとする努力はかえって憎しみを増すばかりであった。この無益な苦痛はそのほかさまざまな絶望の原因に加わって、なおさら心のへだたりを大きくした。自分の優しさまでが反抗心をそそった。家庭の平凡さは彼女を華麗な幻想に駆り立て、夫婦愛は邪恋の欲望へと追い立てた。正当にシャルルを憎み、正当にシャルルに復讐するために、いっそシャルルが自分を打ってでもくれればよいと思った。自分の心に浮かぶおそろしい推測にわれながら驚くことがあった。こうしていつまでもほおえみつづけねばならないのだ。お前は幸福だと繰り返して聞かされ、自分もそう見せかけ、そう信じさせねばならないのだ!
 ところが彼女にはこの偽善がいとわしかった。新らしい運命を開拓するために、レオンとどこか遠いところへ逃げて行きたいという誘惑がおこった。しかしすぐにまた彼女の心のなかには暗黒にみちた渺茫たる深淵が口を開くのであった。
 その翌日はエンマにとってはうら悲しい一日であった。陰惨な雰囲気がすべてを包み、茫漠として物のおもてに漂うかと見えた。哀愁は古城に吹き入る木枯らしのように、啾々と彼女の心に吹き入った。それは往いて返らぬものを追う夢であり、事おわって後に人を襲う気だるさであり、つまり習慣的な動きの途絶えたとき、長い振動のとまったときに起こるあの苦痛であった。
 ヴォビエサールからの帰りみち、カドリーユが頭のなかに渦巻いていた時のように、彼女はめいるような憂鬱、しびれるようなやるせなさを感じていた。レオンの姿が一そう大きく一そう美しく一そうしとやかに一そうおぼろに浮かんできた。レオンは彼女と別れてはいても、彼女のもとを去ったのではなくそこにいた。家の壁は彼の影をとどめているかのように思われた。彼女はレオンが歩いた敷物や彼の坐っていたうつろな腰掛から眼を離すことができなかった。依然として河は流れ、なめらかな崖に沿ってゆるやかにさざ波を立てている。苔むした小石を渡る川波のあいも変わらぬささやきを聞きながら、ふたりは幾度かそこを散歩したものだった。なんとこころよい陽の光をふたりは浴びたことであろう! なんと楽しい午後を過ごしたことであろう、庭の奥の木かげにふたりきりで! 彼は声高に本を読んだ。帽子なしで、棒を組合せたベンチに腰をかけて、牧場の涼風が本のページや青葉棚のカピュシンをふるわせていた……ああ、あの人は行ってしまった、彼女の生活のただ一つの楽しみ、幸福へのただ一つのかけがえのない望みである彼が! どうして自分はその幸福が現れたときに捕えなかったのか! 幸福が逃れ去ろうとしたとき、なぜ両手をのばし両膝ついて引きとめなかったのか。こうして彼女はレオンを愛さなかったことを悔い、レオンの唇にかつえた。彼のところへ急いで駈けつけ、彼の腕に身を投げかけて、「私です、私はあなたのものです!」といいたい欲求が彼女を捕えた。しかしエンマは実行しない先からその企てのさまざまな困難に思いまどった。そしてエンマの欲望は、悔いあればこそかえっていよいよ強烈となって行った。
 それからというものは、レオンの追憶は彼女の哀愁のいわば中心となった。それはロシア広原の雪のうえに旅びとがすてて行った焚火よりもはげしく哀愁のなかにはぜた。彼女はあわただしくその追憶に駈け寄り、間近にうずくまり、消えようとするその火をそっとかき立て、火勢を強めるものをそこらあたりに探しまわった。遠い遠い思い出もごく手近な機会も、実感も空想も、散りぢりに散ってゆく逸楽の欲望も、枯枝のように風に折れる幸福のもくろみも、かいない貞操も破れた希望も家庭生活の藁くずも、すべてを拾い、すべてをとり、ことごとく憂愁を暖めるのに役立てた。
 しかし燃えしろが自然に絶えたためか、あるいは、薪の積み方が多すぎたためか炎は鎮まった。恋は相手のないためにおもむろに消え、悔いは習慣の力に抑圧された。そして蒼然たる彼女の天空を緋色に染めていた火事の明りはいよいよ影におおわれて次第に消えた。茫然とまどろむ意識のなかで彼女は夫への嫌悪を恋人へのあこがれと思い誤り、焼けつくような憎悪を愛情の暖かさとも取りちがえた。しかし依然として台風は吹きすさび情熱は燃えつきて灰燼となり、しかも救いはこず太陽は現われなかったので、あたりは暗澹たる闇となり、彼女は身をつんざくおそろしい寒さのなかで途方にくれた。
 そこでトスト時代の不幸な日がまたはじまった。いまはそれよりもはるかに不仕合わせだと思われた。すでに悲しみの経験があり、その悲しみの果てしないことを確信していたからである。
 こうまで大きい犠牲をみずから強いた女なら、少々の気ままをしてもよいはずだと思った。そこでゴチック風の祈禱台を買い込み、爪掃除のために一ヵ月にレモン代四十フランも使い、ルアンへ手紙を出して青カシミヤの服をあつらえ、ルウルウの店にある一番立派なスカーフを選んで、それを部屋着の上から帯にした。そして戸をとざし手に一巻の書をたずさえ、上のような身なりで長椅子にじっと寝そべっていた。
 よく髪の結い方を変えた。シナ風に、カールを柔らかにし、編下げにしていたが、今度はそれを男のように横からわけて下へなでつけた。
 イタリア語をおぼえようとして、字引や文法書や紙を買込んだし、歴史や哲学など堅いものを読もうとした。夜中、シャルルは病家から呼びにきたのだと思い、ときどきハッと眼をさまして、「行くよ」と口のなかでいうのだった。
 ところがそれはエンマがランプをつけるためにするマッチの音であった。しかし彼女の読書はちょうど、やりかけてはみんな戸棚につめ込んである綴織と同じであった。読みさしてはやめにしてほかへ移った。
 ときどき発作が起こった。そんな折には、どんな途方もないことをすすめても、すぐそのとおりやり兼ねなかった。ある日などブランデーを半杯ぐらいは飲んで見せると意地ばった。シャルルが、飲めるなら飲んで見よと、くだらぬ挑戦をしたので、彼女はそのブランデーをすっかり飲みほしてしまった。
 「なんて埒もないものばかりだ!」
 それは彼の考え方を一言でいいつくした言葉であった。というのは、快楽がまるで校庭にたわむれる生徒たちのように、さんざん彼の心を踏み荒らしたので、そこにはもう、一本の青草も生えなかったからである。そしてそこを通り過ぎるものは生徒たち以上に心なく、よく生徒がするように壁に名を彫りつけて残すことさえしなかった。
 「さあはじめよう!」とロドルフはひとりごとした。
 そしてこう書いた。

 「しっかりして下さい、エンマ様! しっかりして下さい! 私はあなたの生活を不幸にしたくはないのです……」

 「とにかくこれは真実だ」ロドルフはそう考えた。「俺はあの女のためを思ってするのだ。俺は正直なのだ」

 「あなたは、ご自分の決心をとくと考えてみましたか。私はどんなおそろしい深淵にあなたを連れて行ったかご存じですか。いやきっとご存じありますまい。あなたは幸福を信じ未来を信じ、まかせ切って狂気のように進んで行かれました……ああ、私たちはなんとあわれな人間でしょう! なんと無謀な人間でしょう」

 ロドルフは、ここで都合のよい言訳を見つけるために筆をやめた。
 「俺が身代限りをしたといったらどうだろう……いや、それはだめだ。それに、そんなことをいったってなんにもなりはしない。またはじめからやり直しをせねばならぬ。あんな女に物の道理は分からないからな!」
 彼は知恵をしぼってこうつけたした。

 「私は決してあなたを忘れません。そしてあなたに対して絶えず深い献身の情を捧げましょう。しかしこの熱情もおそかれ早かれ、いつかはきっと衰えるときがありましょう(それが人の世のさだめです)! 私たちには倦怠がくるかもしれません。それどころか、あなたの悔恨をまのあたり見るというおそろしい苦痛──そして私がその悔恨を起こさせたのである以上、私もまたあなたと悔恨をともにするというおそろしい苦痛を味わないですむでしょうか。エンマ様! あなたがお悲しみになると思っただけでも私は苦しいのです。私を忘れて下さい! 私はなぜあなたを知らねばならなかったのでしょう。あなたはなぜあんなにお美しかったのでしょう。それは私の罪でしょうか。いいえ、いいえ、ただ運命を恨んで下さい」

 「この文句はいつもかならずきき目がある」と彼はひとりごとした。

 「ああ、もしあなたが世間にざらにあるような軽薄な女だったら、むろん私は、わが身の勝手から、かけ落ちというような一つの試みをしたかもしれないのです。そしてそれは、もしあなたが軽薄な女であればあなたにとってなんの危険もありはしなかったのです。しかし、あなたの魅力であり同時に悩みであるあのえもいわれない興奮のために、あなたのような崇拝すべき女性さえも、私たちの将来の立場がいかに不自然であるかを理解できなかったのです。私だって最初はそこに思い至りませんでした。そして結果がどうなるかも予想せずに、眠りの木の蔭に眠るように、理想的幸福のかげに眠っていたのです」

 「あの女は、俺が金が惜しさに手を引くのだと思うかもしれない……なに、かまうものか、こうなったら早く片づけてしまおう!」

 「エンマ様、世間は実に無情なものです。私たちがどこへ行っても、世間は私たちのあとを追っかけてくるでしょう。私たちはぶしつけな問いや中傷や軽蔑や、おそらくは辱しめまでも受けねばなりますまい。あなたに辱しめを! ああそんなことがどうしてできましょう!……それどころか私はあなたを女王の座につけたいと思っているのです! あなたの思い出をお守りのように抱いて去って行こうとするのです! 去って行く――そうです、私はあなたを苦しめた罰に遠いところへ行きます。私はこれから出立します。どこへ? それは私にも分りません。私は気ちがいになりそうです! さようなら! 永久にやさしいあなたでいて下さい。あなたを失ったあわれな男を忘れないで下さい。お子さまにも私の名前をおしえて下さい。お祈りのなかで、お子さまがその名を繰り返して祈って下さるために」

 二本のろうそくの芯がふるえていた。ロドルフは立って窓を閉めに行った。そしてまたもとの座へ直ったとき、
 「これでどうやらすんだらしい。ああ! まだあった。あの女がせついてこないように、こう書いておこう」

 「この悲しい手紙をお読みになるころ、私はもう遠いところへ去っているでしょう。あなたにお会いしたい誘惑を避けるために、できるだけ早く逃げ出したかったのです。弱い気を出さないで下さい! やがてまた戻ってきます。そしていずれは二人して冷やかに、過ぎ去った恋を語りあうこともあるでしょう。アディウ」

 さてその次に最後のadieuをA Dieu(神のみもとに)と二字に分けて書いた。彼はそれをなかなか乙な好みだと思った。
 「さてどう署名しよう?」と考えた。「あなたの忠実なる……? いや、いかん。あなたの友?……これだ、これだ」
           あなたの友

 彼は手紙を読み返して、なかなか上出来だと思った。「かわいそうに!」彼はしんみり考えた。「あの女は俺を岩よりも無情な男と思うだろう。手紙に涙がすこしぐらいついていてもいいところだ。しかし俺には泣けない。泣けないのは俺のせいじゃないんだ」そこでロドルフはコップに水をついで指をひたし、上の方から大きなしずくを一つ落すと、それがインキの上にうす青いしみを作った。それから手紙に封印を押そうとして探すと、「愛を胸に」とある印が見つかった。
 「これは今のばあい不似合だ……いやなに、かまうものか!」
 それから彼はパイプを三服ふかして床についた。
 どうしてそう興奮するのだろう? シャルルはすべてを、妻が以前わずらったヒステリーのせいだと考えた。そして妻の病気を、本人が至らないのだと感ちがいした自分をとがめ、自分の身勝手を責め、すぐにも行って妻を抱きしめたく思った。
 「いや、よそう、うるさがるだろう!」と彼はひとりごとした。
 そしてやめにした。
彼は胸に満ちた思いがときには空疎な比喩となってあふれ出ることを知らなかった。誰だって、自分の欲望、思想、苦痛を正確に示すことはできない。そして、人間の言葉は破れ鍋のようなもので、これをたたいて、み空の星を感動させようと思っても、たかが熊を踊らすくらいの曲しか打ち鳴らすことはできないのである。
 レオンはとうとう、二度とエンマには会わないと誓ったのであった。そして朝のうちストーブをかこんで飛ばされる朋輩の揶揄は別としても、あの女のためにこの先どんな迷惑がかかり、どんな噂を立てられるかもしれないのだと思うと、レオンはその誓いを破ったことを後悔した。その上、自分は近く書記長になるはずだ。今こそ自重すべきときだ。そこで彼はフリュートもはげしい情感も空想も捨てた。──どんな俗人でも、青春の血に燃えた時代には、たとえ一日一分のわずかな間にしろ、無限の情熱を感じ遠大な企てに邁進する自信を持たなかった者はない。いかに月なみな放蕩者でも一度はサルタンの后にあこがれ、どんな公証人でも詩人の名残りを胸に秘めている。
 今では、エンマが胸によりかかって突然すすり泣きしたりするとレオンはうんざりした。レオンの心は、一定量の音楽にしかたえられない人のように、妙味も今は分からなくなった恋の騒音を聞きながら冷やかにまどろむのであった。
 二人はあまりなれ過ぎて、占有のよろこびを百倍にもするあの驚異を感じることができなかった。レオンが彼女に倦いたと同じだけ、彼女もレオンが鼻についた。エンマは不義のなかにも結婚生活のあらゆる平凡さを発見した。
 しかし、どうすればこんな生活を捨てることができよう? その上、こうした幸福の下劣さに引け目を感じながら、エンマは惰性から、またはだらしなさからそれに執着した。そして日一日と死物狂いに熱中し、あまり大きな幸福を望むことによって、かえって幸福の泉を涸らして行った。エンマはまるでレオンが裏切りでもしたように、自分の失望をレオンの罪にした。それのみか、みずから決心する勇気はないので、何か大事件が起こって二人を別れさせてくれることを願った。
 エンマはそのくせ、女というものはかならず恋人に手紙を出さねばならぬという考えから、依然として恋文を書きつづけた。
 けれども書いているうちに、ほかの男の姿が見えてきた。それは、焼けつくような追憶と、こよなく美しい読書の思い出と、きわめて強い欲望とからつくり出されたまぼろしであった。それは遂には実在化して、手も届かんばかりになった。あまりのことにハッとして、エンマは胸をおどらせた。しかし異教の神が、きまった付きものの品々をいつもたずさえているように、このまぼろしも、おびただしい付きもののなかに隠れているので、さだかに思い浮かべることはできなかった。まぼろしの男は青白い国に住んでいた。そこには花の息吹の下に月の光を浴びながら、絹の繩梯子が露台にゆれている。エンマはその男を身近に感じた。彼は今にもやってきて、口づけのなかに彼女のすべてを奪い去ろうとする。やがてエンマは疲れ切ってバッタリたおれた。当てもない恋の興奮は、はげしい肉のたわむれ以上に彼女を疲労させたのである。
 エンマは今では絶え間なくあらゆるものに肩のこるような倦怠を感じていた。絶えず呼出状を受取ったが、印紙をはった書附けなどはろくろく見向きもしなかった。エンマはもう死んでしまうか、それとも眠って眠って眠りつづけたかった。
 四句節の中日、エンマはヨンヴィルへ帰らないで、晩になると仮装舞踏会へ出かけた。ビロードのズボンに赤い靴下をはき、古風な束ね髪の鬘をつけ、三角帽を横ちょにかむった。そして一よさ、はげしいトロンボンの音につれて踊り狂った。皆はエンマを取巻いてはやし立てた。朝になって気がついてみると、エンマは姐御姿や水夫に仮装した五六人の連中にまじって、劇場のまわりの柱廊にいた。それはレオンの仲間だった。みなは飯をたべに行こうと騒いでいた。
 最寄りのカフェーは満員であった。彼らは船着場のあたりに、ごく安手なレストランを見つけた。主人は皆を五階の小さな部屋へ上げてくれた。
 男連中は、きっと費用の相談であろう、片隅でひそひそささやき合った。書記が一人に医学生二人、それに商店員が一人いた。なんという情けない仲間だろう! さて女たちは、ほとんどみな最下等の連中であることが声の調子ですぐ分った。エンマは空おそろしくなり、椅子をうしろへ引いて眼を伏せた。
 他の連中は食べはじめた。エンマは食べなかった。額が火のように熱く、瞼がチクチクして、肌は氷のように冷たかった。舞踏会の床が、踊り狂う無数の足の律動につれて今もはね返っているのが頭のなかに感じられる。やがてポンスの匂いと葉巻の煙で気が遠くなった。気絶しそうになった。皆が窓ぎわへかついで行った。
 日はまさに昇ろうとしていた。大きな真紅の染みが、サント・カトリーヌの方、ほの白い空にひろがっている。鉛色の川が風にふるえている。どの橋にも人影はなかった。街灯は次第に消えていった。とかくするうちにエンマは正気づいた。そしてふと、遠い向うの家で、女中の部屋に眠っているベルトのことを思い出した。そこへ、細長い鉄の延べ板をいっぱい積み込んだ荷車が、耳に聾するような金属性の響きを家々の壁に投げながら通り過ぎた。エンマは、いきなりそっと抜け出して、衣裳を脱いで、もう帰らねばならないからとレオンにいって、それからやっと「ブーローニュ・ホテル」でひとりになった。いっさいのものが、自分自身までがたえがたかった。できることなら鳥のように飛び立って、どこか遠いところ、清浄無垢の天空にひたって自分の若さを取り戻したかった。
 「実はね……あたし破産したの、ロドルフさん! だから三千フラン貸してちょうだい!」
 「だって……だって……」彼は次第に腰をあげていった。顔は物々しくなってきた。
 「ねえ」とエンマは早口につづけて、「うちの人がある公証人に財産全部を預けておいたんです。ところがその男が逃げてしまったんです。私たちは借金しました。患者が払いをしてくれないからです。もっとも決算がまだすんでいないので、いずれは幾らかはいるんですけど、いま差し当って、三千フランのお金がないために、差押えになろうとしているのです。今なんです、たった今にも差押えられるのです。だからあなたの親切をあてにしてお訪ねしたわけです」
 「ああ!」急に真青になってロドルフは考えた。「そのためか、やってきたのは!」
 ようやく彼は落着いていった。
 「奥さん、私にはないのです」
 嘘ではなかった。金を出すなどという善行は一般に楽しいことではなく、金の無心というものは、恋をおそう疾風のうちで一番冷たく、根こぎにする力も一番強いが、しかし、もしロドルフにそれだけの金があったら、彼はおそらくそれを投げ出したであろう。
 エンマははじめしばらくはじっと彼を見つめていた。
 「ないんですって!」
 エンマは幾度も繰り返した。
 「ないんですって!……こんな赤恥をかくんじゃなかった。あなたは私を愛してなんかいなかったんだ! あなたも世間の男と同じなのね!」
 思わず本心を明かした。訳が分からなくなった!
 エンマは静かに振り向いた。そしてふと坊様の掛けている紫の襟垂を見て急によろこびの色を現わした。おそらく、まさにはじまろうとしている久遠の幸のまぼろしとともに、忘れられていた若い日の法悦を、異常な静けさのなかに見出したのであろう。
 司祭は立ち上って十字架像を取った。するとエンマは渇した人のように首を差しのべ、キリストの身体にぴったりと唇とつけ、絶えようとする力のかぎりを尽しながら、一生涯を通じての最も熱い愛の接吻をそこに印した。つづいて司祭は、「哀憐」と「赦免」の祈りを誦し、右の親指を聖油にひたして塗油をはじめた。まず眼の上、地上のありとあらゆる栄華をあれほどまでにこがれ求めた眼の上に。つぎには鼻、あたたかい微風やなまめかしい匂いを好んでかいだ鼻。つぎには口、噓つくために開かれた口、誇りゆえに泣き、肉のよろこびに叫んだ口。つぎは手、こころよい感覚を楽しんだ手。そして最後には足の裏、むかし、欲望の満足を求めて走ったときはあんなに速かった足、そして今はもう歩むこともかなわぬ足。
 司祭は自分の指をぬぐい、油をひたした綿のきれを火に投げ入れ、さて死んでゆく女のそばに戻り、腰を掛けて、今はその身の苦痛をイエズス・キリストの苦痛とひとつにし、神のみ恵みに身をまかさねばならぬと説き聞かせた。
 説教を終えながら、司祭は聖燭をエンマの手に渡そうとした。それはやがてエンマを取りまこうとする天のみ栄えの象徴であった。エンマはもう弱り果てて手を握りしめる力もなかった。ブールニジアン師が手を添えなかったら、ろうそくは床へ落ちたかもしれなかった。
 しかしエンマはもう前ほど青ざめてはいなかった。秘蹟によって癒されたもののように、エンマの顔には澄みきった表情がただよっていた。

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