モーパッサン『女の一生』

 一時間後、部屋から降りてきたときも、ジャンヌは顔をあげて人の前を歩くことかできなかった。自分の後ろで人々が嘲笑し、囁き合っているような気かする。口にこそ出さないものの、ジャンヌはこうした思いをわかってくれない夫を責めていた。繊細な羞恥心をもたず、本質的な細やかさに欠ける夫を責めていたのだ。ジャンヌは、夫と自分とのあいだが薄布で隔てられているかのように感じていた。二人の人間が、本当に魂の底まで、思いの奥底までひとつになることはできないのだと、ジャンヌは初めて思った。肩を並べて歩き、ときに抱き合うことはあっても、ひとつに溶け合うことはなく、心の底では誰もが生涯一人ぼっちなのだと。
 さらに進むと、とつぜん、これまでの物々しい風景が途切れ、新たな湾が見えてきた。血が滴るような赤い花崗岩の壁が湾を囲んでいる。青い海にまで赤い岩が映りこんでいた。「ああ、ジュリアン……」その光景に圧倒され、ジャンヌはそれ以上言葉が出てこなかった。喉が締めつけられたように声も出ず、両の目から涙があふれてくる。驚いたジュリアンが声をかけてきた。「おまえ、いったいどうしたんだい?」
 ジャンヌは頬を伝う涙をぬぐい、微笑んだ。震える声で言う。「何でもありません。ただ気持ちが高ぶってしまって。私ったら、どうしたんでしょう。感動してしまって。あまりにも幸せだから、ちょっとしたことでも動揺してしまうんですね」
 ジュリアンは、女らしいこうした気持ちの動きを理解できなかった。大したこともないのに心を震わせ、動揺する。興奮すると、まるで大惨事でも起きたかのようになり、嬉しかろうと悲しかろうと取り乱し、わけのわからないことで混乱してしまう女心なんて、彼には理解できなかったのだ。ジュリアンには妻の涙が滑稽に思えた。彼は悪路のことしか頭になく、「そんなことより、馬に気をつけたほうかいいんじゃないか」と言うのだった。 




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