高田侑『うなぎ鬼』

「社長、ひとつ教えてもらえますか」
「なんだ」
「あの、マルヨシにいた秀さんの顔なんですが……」
「おっかねえってか」
「……」少しばかり汗がにじんできた。余計なことを訊いたかもしれない。
「あの人は……少しばかりわけありでな」
 千脇の組んだてのひらがむずむずと動くのを勝は見る。
「優しい、いい人なんだぞ」
 千脇はぽつりぽつりと話し出した。
「あれは若い時の事故だ。秀さんは電力会社で働いてたんだよ。送電線の保守の仕事だったんだ。山の中の送電線を、命綱一本で綱渡りしていくんだって言ってたな。小便ちびるような高所の作業だ。そういう特殊な職場で、まあ、簡単にいえばあれは事故だよ。保守中に初歩的な不注意で感電した。電気が心臓抜ければこれだ」
 と、千脇は上に向かっててのひらを開いてみせた。
「それがどうも顔から抜けたらしいんだな。運がいいのか悪いのか。あの顔のせいで苦労してきた。離婚もした」
「離婚ですか?」
「ああ、他人からすればそんなことでと思うが、本人は切実だよ。当時四歳だった愛娘が、退院してきた秀さんを見るなり火がついたように泣くんだと。怖いよ怖いよって泣くんだ。おやじにすりゃあショックだよな。まわりはそのうちに慣れるだろうって秀さんを励ましてたらしいが、時間がたつにつれて子供はますます秀さんを恐れるようになって、ばあちゃんの家にばかり泊まりたがるんだと。そのうちに秀さんも酒に逃げるようになって、結局仕事もクビになって、気づいた時には嫁さんを半殺しにしてたって話だ。で、家を出てきたってわけさ」
 勝は何も言えなかった。
「ただ、家族のために生きてたんだ。娘の笑顔を糧に、真面目に、命懸けで、寒かったり暑かったりする中を必死で働いてきたんだ。それがたったの一度の事故が狂わせちまった。奇跡的に、顔がいかれちまっただけで他はすぐに快復したのに。秀さんはいつかいってたよ。あの時俺は死んでりゃよかったって。そうすりゃ俺は優しい顔の優しい父ちゃんでいられたんだって。さすがに俺も返す言葉がねえよ」
 千脇は目を閉じ、てのひらを組み直して続ける。
「知ってるか。顔の傷や痣ってのはな、障害者じゃねえんだ。見たろう。あれだけのひどい顔になって、それでも扱いは健常者だ。障害者手帳がねえから保障もなく、保険もおりねえ。あれでも後遺症じゃねえんだと。完治なんだとよ。就職なんて夢のまた夢さ。……そういう世の中なんだ」
 千脇は目をつぶったままだ。勝も言葉が返せない。借金苦で落ちたと思っていた地獄など他愛のないものだ。叫び出したくなるような本物の地獄を前にして勝は怯えていた。

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