モーム『人間の絆』

 ところが夜になり、全員が寝室に行って着換えをしているとき、シンガーという少年が、自分の仕切りから出て来て、フィリップの仕切りに頭をつつこんだ。
 「おい、足を見せろよ」
 「いやだ」
 相手の少年は、すぐフィリップのべッドに乗りかかった。
 「おれに向かって、いや、なんて言うな」そう言ってから、「メイソン、おまえも来いよ」と言った。
 隣の仕切りにいるメイソンという子は隅からのぞきこんでいたが、そう言われると入って来た。二人でフィリップに向かって来て、ふとんを取ろうとした。フィリップはつかんで離さなかった。
 「どうして放っておいてくれないんだ?」
 シンガーは箒をつかみ、その背の部分で、ふとんをにぎっているフィリップの手を打った。フィリップは大声を出した。
 「おとなしく足を見せろよ!」
 「いやだ」
 破れかぶれになって、フィリップはげんこをかためて、シンガーを殴りつけた。でも不利な姿勢だったので、逆に腕を取られ、ねじられてしまった。
 「やめて、やめて。痛いよ。折れちゃう!」
 「いやだったら、おとなしくして、足を見せろ」
 フィリップは泣き出し、喘いだ。相手は腕をもっと強くひねった。耐えられぬ痛みだった。
 「分かった。見せるよ」
 足を出した。シンガーはまだ手首をにぎっている。不具の足を、物珍しそうに眺めた。
 「きたねえな」メイソンが言った。
 もう一人入って来て、眺めた。
 「げっ」不快そうに言った。
 「こりや、変なもんだな」シンガーは顔をしかめて言った。「硬いのか?」
 シンガーは人差し指の先で患部に恐る恐る触れた。まるで生きている物ででもあるかのように。その時、突然、校長がどしりどしり階段を歩いて来る音がした。とたんに子供たちはフィリップにふとんをかぶせ、大急ぎで各自の仕切りに戻った。校長が共同寝室に入って来た。校長はつま先立ちすれば、緑のカーテン越しに内部を見ることができた。二、三人の仕切りを見たが、みんなちゃんと寝ているようだった。明かりを消して出て行った。
 シンガーがフィリップに声をかけたけれど、返事をしなかった。泣き声が聞こえないように、枕をぎゅっと噛んでいた。痛い目にあわされたからでもなく、また、足を見られた屈辱のせいでもなく、痛みに耐え切れずに自分から足を出した自分自身への怒りゆえに、とめどなく涙が出た。
 それから、自分の人生のみじめさが、子供心にも痛切に感じられた。不幸がこれからも続くような気がしてならなかった。エマにべッドから抱きかかえられ、母のかたわらに横たえられた、あの寒い朝のことが、なぜか分からぬが、記憶によみがえった。あの時以来一度も思い出したことはなかったのに、今、母の体の温かみと、抱いてくれた母の腕の感触がよみがえってきた。突然、今までの生活は夢に過ぎぬような気がした。母の死も、牧師館での生活も、学校でのみじめな二日間もすべて夢に過ぎず、明日の朝、目覚めれば、また母の家に戻っているのだ。そう思うと、涙が自然にかわいてきた。こんなに不幸なんてことはありえない、夢に決まっている。ママも生きているんだ。エマかまもなく上がって来て寝に行くのだ。彼はいつの間にか寝てしまった。
 しかし翌朝目を覚まさせたのは、鐘の音だった。そして目を開いて最初に見たのは仕切りの緑のカーテンだった。

 フィリップは、えび足のために人の嘲笑の的となり、否応なしに無邪気な子供時代を脱して、自我に目覚めざるをえなかった。自分の置かれていた状況は特殊なものなので、一般の人の場合にあてはまる人生の規則は役立たない。どうしても自分の頭で考えて行動してゆかなくてはならない。種々の本を読んで参考にしたが、理解できない本も多くて、よく分からぬ所は勝手に想像をたくましくするばかりだった。痛々しいほどの恥ずかしがりであったが、そういう外面の下で、次第に何かが成長していった。おぼろげながら、自分がどういう性格の人間であるのかが分かってきた。しかし、分かっているつもりの自分が、自分でも驚くようなことをすることもあった。やった後になって、どうしてあんなことをしたのかと考えてみて、さっばり理解できないのである。
最初学校に入った頃に味わった屈辱感のために、彼は引っ込み思案になっていて、この傾向はなかなか直らず、ともすると友人と打ちとけずに気後れした様子で、口もきかない。けれども、友人たちに嫌われるように振舞っているにもかかわらず、内心はみなに好かれたくてたまらないのだった。人によっては、雑作もなく人気者になれるようなので、フィリップはそれを遠くから羨ましく見ていた。人気者に対しては、他の者に対する以上に嫌味を言ったり、からかうような冗談を口にしたりしていたけれど、人気者に取って代れるものなら、どんな犠牲も惜しまなかったことだろう。実際の話、五体満足の少年なら、どんなに頭が悪くとも、それに取って代りたいと願った。それで、奇妙な癖がついてしまった。フィリップがとくに憧れている同級生がいると、自分がその少年であると想像するのである。肉体だけでなく、心も自分の心と同じ心を持っていると想像する。そうして、その少年になりきって、しゃべったり、笑ったりする。その少年がすることすべてを自分がしているのだと想像するのだ。想像がとても現実味を帯びて、フィリップは自分はもう自分ではなくなり、完全にその少年になってしまったように錯覚することもあった。こうして幻想の世界で幸福感を味わったのである。
ヘイウォードは何事も自分自身の目でしっかり見きわめることのできぬ人間で、文学作品の媒介によって見るだけであった。彼が危険なのは、自分がペテン師だとは夢にも思っていなかったからだ。例えば、自分の好色をロマンチックな情緒だと勝手に思いこむし、自分の優柔不断を芸術家気質だと考え、自分の怠惰を悟りだと誤解していた。向上を望むあまり、俗悪化した彼の心は、あらゆるものを感傷性という金色のもやを通して、実際より少し大きく、輪郭をばかして見るのだった。平然と嘘をつき、自分が嘘をついているのも気付かず、嘘を人に指摘されると、嘘というのは美的なものだと、うそぶいた。彼は夢想家だったのである。

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