元少年A『絶歌』

「少年A」──それが、僕の代名詞となった。
 僕はもはや血の通ったひとりの人間ではなく、無機質な「記号」になった。それは多くの人にとって「少年犯罪」を表す記号であり、自分たちとは別世界に棲む、人間的な感情のカケラもない、不気味で、おどろおどろしい「モンスター」を表す記号だった。
 今思うと、この時の父親の顔を見ておけばよかった。母親を呼んで、その顔を見ておけばよかった。二人が僕のことを、「殺人者」でも「化け物」でもなく、デキの悪い「自分たちの息子」として見てくれる最後の瞬間を、この眼に焼き付けておきたかった。ボサボサに伸びた髪をかきあげて、空を見ておけばよかった。それから数年間、空の見えない部屋で過ごすことになるのだから….。
 だが僕はいつもどおり下を向いていた。誰の顔も見たくなかった。誰にも見られなかった。
 こうして僕は家族の前から、陽なたの世界から、姿を消した。
 以来、僕の時間は、十四歳で止まったままだ。
 刑事を睨みつけながら、ふと母親の顔が頭をよぎった。
 このままダンマリを決め込んでいれば、家に帰されるのだろうか? 家に帰って、母親に何と説明すればいいだろう? また母親に嘘をつかなくてはならない。また母親を騙さなければならない。母親はきっと僕の言葉を鵜呑みにして、僕を全面的に信じるだろう。僕にはそれが耐えられなかった。
 二人が去ると、外で待機していたさっきの刑事が部屋に入った。僕は気になっていたことを刑事に訊いた。「死刑の執行はいつですか?」 刑事は笑いながら答えた。「死刑? 何言うとんねん。おまえはまだガキや。死刑にはならん。その歳であれだけのことやったんや。頭もええし度胸もあるんやろ。ぎょうさん勉強してイチから出直せや。明日から本格的な事情聴取や。なんもかんもしゃべって楽になってまえ。ワシがおまえを救ったる」 頭が真っ白になった。 救う? 何を言ってんだ、このオッサンは? 僕にとっての救いは「死刑」だけだった。リセットボタンのない命がけのゲーム。負ければ絞首刑。自分が手にかけた淳君と同じ苦しみを味わって死ぬ。僕の中で用意されていた結末はそれしかなかった。 油ぎった皿に落ちる一滴の洗剤のように、全身にパッと恐怖が拡散した。 この頃の僕は、「死ぬ」ことよりも「生きる」ことのほうが、何千倍も怖かった。
 留置所へ移されると、受付で身長と体重を計り、所持品リストが作成された。すでに家から一週間分の着替えが届いていた。こんな状況で家族とつながっていることがたまらなく辛かった。
 僕は痛みに耐えられなかったのかもしれない。「痛みを感じられないことの痛み」に。人間としての不能感に。
 人を殺しても何も感じない自分が、怖くてたまらなかった。
 戦争で腕を失った兵士が、存在しないはずの腕の痛みを感じる「幻肢痛」という症状があるように、僕もまた、事件を起こすことで木端微塵に吹き飛んだはずの「人間」の一部が、痛みを訴えていたのだろうか……。
 次々と凶行に手を染めながら、自分の内部から人間的な感覚が失われていくのを感じていた。針で刺したような小さな穴から、徐々に空気が抜け出て萎んでしまった自転車のタイヤのように、弾力を失った僕の心は、どんな出来事にも、どんなはたらきかけにも、決してバウンドすることはなかった。
 自分は世界じゅうから拒絶されている。
 本気でそう思った。勤勉な郵便配達人のように花から花へと花粉を届ける健気なモンシロチョウを見ても、アクリル絵の具で塗り潰したようなフラットな青空や、そこに和紙をちぎって貼り付けたような薄く透きとおった雲を見ても、そのすべてが僕を蔑んでいるように感じた。美しいものすべてが憎かった。眼に映るすべての美しいものをバラバラに壊してやりたかった。この世にある美しいものは悉く、この醜く汚らわしい自分への当てつけに他ならないと感じていた。
 僕は病んでいた。とても深く。「精神病か否か」という次元の問題ではない。“人間の根っこ”が病気だった。
 彼らは皆おしなべて親切だった。僕には彼らのその親切心が“屈辱”でならなかった。
 僕は憎まれたかった。罵倒されたかった。痛めつけられたかった。恐れられたかった。それなのに、いったいこのザマは何なのだ?
 他人の善意が煩わしかった。気を遣われることさえ不愉快だった。
 自分の体調だとかこれから先のことだとか、骨の髄から“どうでもいい”と思っていた。
 他人が自分に向ける悪意の量以外に、自分の存在を測る物差しを持っていなかった。
 他人に拒絶され、否定されることで、自分の醜さを受容し、肯定することができた。
 他人から浴びせられる侮蔑や罵倒によってのみ、自分が浄化されていく気がした。
 僕は野球選手の名前も、テレビタレントの名前もほとんど知らなかった。当時の僕にとってのスターは、ジェフリー・ダーマー、テッド・バンディ、アンドレイ・チカティロ、エドモンド・エミル・ケンパー、ジョン・ウェイン・ゲイシー……。
 世界にその名を轟かせる連続猟奇殺人犯たちだった。映画『羊たちの沈黙』の公開を皮切りに九十年代に巻き起こった“連続殺人鬼(シリアルキラー)ブーム”に僕も乗っかり、友達の家に揃っていた「週刊マーダーケースブック」や、本屋にずらりと並んだロバート・K・レスラー、コリン・ウィルソンの異常犯罪心理関係の本を読み耽った。
 クラスの男子が好きなアイドルのプロフィールを覚えるように、僕はキャラの立った殺人鬼ひとりひとりの少年期のトラウマ、犯行の手口、死体の処理方法、逮捕されたきっかけ、裁判の経過などを片っ端から頭に詰め込んだ。クラスの女子たちがジャニーズとのデートコースを何パターンも考えている間、僕は人を殺す方法を何パターンも考えた。
 同級生たちが芸能人やスポーツ選手になるのを夢見るように、僕は“殺人界のトリックスター”になることを夢見た。僕も彼らのように人々から恐れられたかった。 怪物 と呼ばれたかった。
「怪物」と呼ばれ、ひとりでも多くの人に憎まれ、否定され、拒絶されることだけが、僕の望みであり、誇りであり、生きるよすがだった。
 七月十一日。
 警察のマイクロバスに乗せられ、殺害現場となったタンク山、事件に使用したすべての凶器を捨てた向畑ノ池をまわり実況検分を行った。
 向畑ノ池は水がほとんど抜き取られ、ザリガニやオタマジャクシやウシガエル、クサガメやフナが犇めき合っていた。
 僕と同じでこの池の他に居場所のなかった、汚水にまみれた無数の生き物たち……。その光景を眼にした時、最後の“生き場”を奪われたこの哀れな生き物たちと自分の姿がダブって無性に悲しくなり、その日の取り調べは一言も話せなかった。ムスッとした表情でダンマリを決め込んでいると刑事がキレた。
「お前なんやその態度はぁ! もうええわ、ブチ込んどけ! 自分のやったことちょっとは反省せえ!」
 独房に戻され、その日は一歩も外へ出ることはなかった。
 冷たい壁に凭れ、脚を投げ出し、思い返した。タンク山や、向畑ノ池、入角ノ池のほとりで、大好物だった赤マル(マールボロ)をふかし、ユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、独り過ごした静謐な時間を。
 誰にも立ち入られることのない、自分だけの聖域。この世界のどこにも属することができない自分の、たったひとつの居場所。その聖域が侵されたことに、聖域が侵されているのに何もできない無力な自分に、どうしようもないやるせなさを感じた。
 僕にとってあの池は何だったのだろう。なぜわざわざ、犯行に使用したナイフ・ハンマー・ノコギリなどの凶器を、すべてあの池に沈めたのだろう。まるであの池に何かを託すように…。
 池のすぐ隣は公園で、周囲には民家もある。決して人目に付きにくい場所ではない。僕の中で、「何か」がつながっていたのだ。一連の事件と、この池が自分の中に喚起させる「何か」が。
 小学生の頃、仲の良かった友達とよく向畑ノ池にザリガニを捕りに行った。輪切りにしたチクワに凧糸を結び、池の中に糸を垂らすと、面白いほどポンポンとザリガニが釣れた。
「少年A」といえば、無口で友達もなく、だいたい家に籠もってひとりで過ごす“ヒッキー”なイメージが定着しているかもしれないが、実際の僕は家でゲームや読書をするより、外で友達と遊ぶほうが好きな子供だった。毎日のように近所の公園で、数人の友達と缶蹴りや鬼ごっこに興じ、日が暮れる頃にはみんなでジャングルジムによじ登って夕陽を眺めた。
 夕陽を見られる時間は短く、あっという間に柔らかな夜の闇が、ペーパークラフトのような友が丘の街並を優しく包み込んだ。眠りにつく子供に、母親がそっとかける毛布のように。潮が充ちるように、またたく間に夜が充ちてゆく。
 僕は子供の頃、暗闇が怖かった。ひとりっきりでその暗闇に呑まれてしまうと、もう二度と家へ帰れなくなる気がした。日暮れの公園で友達と別れ、母親の待つ家へ駆け足で帰って行った子供の頃の自分。生協前の横断歩道。信号が切り替わらないのがもどかしく、何度も何度も歩行者用押しボタンを押した。青信号になると一目散に走った。息を切らせ、脇目もふらず、無我夢中で暗い坂道を駆け上り、駆け下りる。家の明かりが見えると、ほっとして泣きそうになる。玄関へ続く石段をひとっ飛びしてドアノブに手をかける。鍵はいつも開いていた。靴を脱ぐとキッチンから「おかえりぃ」と母親の声がする。その一言で、ついさっきまでの恐怖感が嘘みたいに消えた。のちに「モンスター」と呼ばれるようになる僕にも、確かにそんな時代があった。
 友が丘には集合住宅が点在し、場所によってA棟、B棟、C棟……とアルファベットで分けられ、僕の生活圏内にはI棟まであった。
 小学校入学時から仲の良かったアポロ君は、僕の家から歩いて十五分ほどの集合住宅に住んでいた。彼とはよくお互いの家を行き来し、一緒に漫画を描いたりして遊んだ。
 アポロ君にリコーダーの吹き方を教えてもらったことがあった。アルトリコーダー、ソプラノリコーダー、僕は両方吹けなかった。音楽の授業でリコーダーを吹く時には、僕はいつも音を出さずに指パクで誤魔化した。ある時アポロ君に、実はリコーダーが吹けないのだと打ち明けた。アポロ君は「俺が教えたるわ」と言って、学校帰りに近所の公園でリコーダーの秘密特訓をしてくれた。でも結局、アポロ君のレッスンの甲斐もなく、僕は最後までリコーダーが吹けずじまいだった。
 その公園のツツジの茂みは僕とアポロ君の「秘密基地」だった。二人でダンボールを敷いて寝そべり、ツツジの花を挽ぎ取って、雌蕊の裏から蜜を吸った。 お菓子とはまったく違う、爽やかなあの蜜の甘さ。子供の頃はたいてい皆やっていたのではないだろうか。
 僕もアポロ君もダウンタウンが大好きだった。彼らの番組を録画したビデオをよく一緒に見て過ごした。
 ダウンタウンは関西の子供たちにとってヒーローだった。「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送された翌日には、みんなで彼らのコントのキャラを真似して盛り上がった。
 他の同級生たちがどう見ていたのかは知らないが、僕がダウンタウンに強く惹きつけられたのは、松本人志の破壊的で厭世的な「笑い」の底流にある、人間誰しも抱える根源的な「生の哀しみ」を、子供ながらにうっすら感じ取っていたからではないかと思う。にっちもさっちもいかない状況に追い詰められた人間が「もう笑うしかない」と開き直るように、顔を真っ赤にして、半ばヤケっぱちのようにギャグを連射する松本人志の姿は、どこか無理があって痛々しかった。彼のコントを見て爆笑したあとに、なぜかいつも途方もない虚しさを感じた。
 アポロ君の両親は離婚し、彼は父親と、歳の離れた大学生の兄と三人で暮らしていた。アポロ君の父親は建設現場の作業員で、真っ黒に日焼けし、背が高く、筋骨隆々だった。
 アポロ君は父親から暴力を振るわれていた。ある時、顔に痣を作ったアポロ君が、溜め息混じりに僕にこぼした。
「昨日、親父に首絞められてん。ほんま、殺されるかと思ったわ」
 暴力を振るわれた翌朝には必ずアポロ君の机の上に千円札が置かれているらしかった。父親なりの「ごめんなさい」だったのだろう。
 アポロ君の母親は時々アポロ君の団地を訪ねていた。ある日アポロ君の家に遊びに行くとアポロ君の母親がいて、アポロ君と僕に料理を作ってくれた。メニューはロールキャベツと、デザートにチョコレートムース。とても美味しかった。
 アポロ君の母親はスラっと背が高く、髪はゆるくパーマをかけた茶髪のロングヘアー。切れ長の眼をした和風美人で、色白の顔に赤のルージュがよく映えていた。アポロ君はロールキャベツを口に含んだまま、学校での出来事や、普段僕と何をして遊んでいるか、嬉しそうに母親に話した。アポロ君の母親は優しい微笑みを浮かべながらアポロ君の話に耳を傾けた。
 でもそんなスタンド・バイ・ミーな時期は長くは続かなかった。学年が上がればクラスも変わり、一緒に遊ぶメンツも変わってくる。アポロ君は少し反抗的なところもあったが、根が明るく社交的で、男女問わずに人気があり、教師たちからも可愛がられた。彼はいつも輪の中心にいた。
 アポロ君はいくら新しい友達が増えても、相変わらず僕を「アズキぃ~」とあだ名で呼び、よくちょっかいを出してきた。苗字をもじった“アズキ”というのが僕のあだ名だった。それなのに僕は、アポロ君の周りに人が集まれば集まるほど、彼がどこか遠くに行ってしまったように感じた。彼のいる明るい場所に、自分は属することができない。あんなにも無防備に笑えない僕は、大人への階段を上がっていく同級生たちを尻目に、何も考えずに毎日を楽しんでいた頃の思い出に退行するように、タンク山や向畑ノ池や入角ノ池にひとりで入り浸るようになった。
 事件当時僕は、ポータブルCDプレイヤーと赤マルを持って、よくひとりでタンク山、向畑ノ池、入角ノ池を散策した。自分の中で、この三つの場所は“三大聖地”だった。これらの場所では、美しいものを美しいものとして、素直に受け容れられた。
 雨上がりのタンク山の美しさは壮絶だった。雨を啜って湿り気を帯びたセピア色の腐葉土が、雲間から降り注ぐ陽の光のシャワーをそこかしこに弾き散らし、辺り一面、小粒のダイヤを鎮めたように輝いて、僕の網膜を愛撫した。
 向畑ノ池では、そよ風に嘗められ小刻みに痙攣する水面に、池のぐるりを取り囲む樹々の木の葉の隙間から、我先に飛び込んだわんぱくな木洩れ陽たちが泳ぎまわり、サイケデリックな光の帯がゆらめいた。
 夏になれば、大量発生したウシガエルのオタマジャクシがこの池の面を埋め尽くす。夏の陽に射られ、煌めく尾を靡かせながら、水中に蠢動するその無数の黄金の玉は、太陽より放たれた精子かと思われた。その中の一匹が、池の奥深くへと還ってゆき、やがてこの神秘的な池が巨大な光の胎児を身篭るさまを、僕は徒に夢想した。
 僕は池のほとりに独り立ち、この天と地の密やかな房事を、両親の寝室を覗き視るような罪悪感さえ憶えながら、恍惚とした心地で何時間でも飽くことなく見詰め続けた。
 向畑ノ池の隣は公園だった。公園の一角に円形の広場があり、南側の端の四角いテーブのまわりには円柱型のセメントの椅子が四つ据え置きされていた。その先の急斜面の丘は入角ノ池を取り囲む森へと繋がる。その場所はニュータウンの突端部であり、十四歳の僕にとっての世界の突端でもあった。僕はここから見える景色が大好きだった。
 視ているだけで眼底が痙攣するような、白銀にギラめく立体的な太陽が、その真下を游ぐ雲の魚群を陽光の銛で串刺しにし、逆光で黒く翳った森のそこかしこに、幾筋もの光の梯子が降りていた。美しく輝り狂う太陽に染められた空は、アルミホイルのような金属的な光沢を帯び、視神経を圧迫した。森の彼方にひろがる明石海峡は、堕ちてきた日光の嬰児(みどりご)らを揺り籠のようにあやし、その向こうには蜃気楼のようにうっすらと、淡路島のシルエットがおぼめいていた。
 虫一匹もいないのではないかと思わせる閑静なニュータウンと、原初の森の記憶をとどめる鬱蒼とした入角ノ池の対比は強烈だった。それはあたかも僕の無機質な外見と、その裏に潜む獣性を投影しているかのような風景のコントラストだった。両極端な“ジキル”と“ハイド”が鬩ぎ合いながら同居する僕の二面性は、“人工”と“自然”がまったく調和することなく不自然に隣り合う、このニュータウン独特の地貌に育まれたのかもしれない。
 入角ノ池のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は先端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を“アエダヴァーム(生命の樹)”と名付け愛でた。
 水面にまで伸びたアエダヴァームの太い幹に腰掛け、ポータブルCDプレイヤーでユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、当時の“主食”だった赤マルをゆっくりと燻らすのが至福のひとときだった。

 さあ漂いなさい 私の海の 波の間に~
 ただ泣きじゃくるように 産まれたままの 子供のように
(松任谷由実「砂の惑星」)

 僕は当時、自分がなぜこんなにもこの曲に惹かれるのか考えてもみなかった。心が共振するものには、必ず共振する理由がある。ユーミンが何を想いこの曲を作ったのかはわからない。でも、今になって冷静にこの曲を聴くと、歌詞にもサウンドにも、過剰なまでの“母性”を感じる。子供を持たないユーミンが自分の子供をイメージしたのかもしれない。あるいは、彼女が自分の母親を想い浮かべて作った曲なのかもしれない。
 人は誰でも潜在的に「胎内回帰願望」を持つ。布団にくるまると安心する。お風呂に浸かると気持ちいい。皆、無意識のうちに心地よかったであろう母の子宮に還っているのではないだろうか。
 僕にとって“池”は“母胎の象徴”であり、ユーミンの「砂の惑星」は胎児の頃に聴いた母親の心音だった。池のほとりでユーミンの「砂の惑星」を聴くと、母親の子宮に還っているような無上の安心感を憶えた。
 僕は淳(じゅん)君の遺体の一部を、アエダヴァームの根元の洞に一晩隠した。
 今思い返すとどうにも解せない行動だ。取り調べでは「人目につかない場所でゆっくり鑑賞したかった」と供述しているが、殺害現場となったタンク山から入角ノ池へ行くには、一旦山を降りて街中を歩かなければならない。まだ事件は発覚していないものの、公開捜査は始まっており、街じゅう至るところで警官や機動隊、PTAや学校関係者が「行方不明」となった淳君を捜しまわっていた。現に遺体の一部を持ってタンク山から入角ノ池へ向かう途中、池を囲む雑木林の中で僕は三人組の機動隊と出くわし、言葉を交わした。「人目につかない場所で」などと冷静に考えて行動したなんてあり得ない。たとえ無意識であったにせよ、どうしてもアエダヴァームの根元の洞に向かわなくてはならない切羽詰った理由があったのだ。
 女性器と男性器のイメージを重ね合わせたアエダヴァームは、僕にとって“生命の起源”だった。その生命の起源を象徴する樹の根元の洞に、僕は遺体の一部を隠した。僕は、心のどこかで淳君を“生き返らせたかった”のではないか。
 ふざけた事をほざくなと思われるかもしれない。しかし、極限状態に置かれた人間というものは、時に正常な頭ではとうてい思い浮かばない不可解な行動に出ることがある。
 英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害容疑で指名手配され、二年七か月ものあいだ全国を転々としながら逃げ続けた市橋達也は、その極限状態の逃走生活の中で、「被害者を生き返らせるため」に四国八十八箇所のお遍路巡りを行った。
 光市母子殺害事件の犯人である元少年は、母子を殺害後、母親の遺体を「生き返らせるため」に屍姦し、子供の遺体を「ドラえもんに助けてもらうため」に押入れに隠したのだと話した。
 世間や被害者の感情を逆撫でするような彼らの不謹慎な言動を、僕は彼らと同じ(人間であることを捨てきれなかった未熟な)一殺人者として、一笑に付すことができない。
 彼らがどこまで本気でそういった「よみがえりの儀式」を行ったのかはわからない。自分自身についてさえ、何を考えていたのかは未だによくわからない。
 ただひとつ言えることは、僕は、流出した十四歳当時の写真に写っているとおりの、あの能面のようにのっぺりとした無表情な顔で犯行に及んだのではないということだ。
 ドストエフスキーの『罪と罰』に、主人公ラスコーリニコフのこんな独白がある。

 犯罪者自身がほとんどひとりの例外もなく、犯罪の瞬間に意志と理性の喪失ともいうべき状態におちいって、その代りに、子供じみた異常な小心浅慮のとりことなる
(ドストエフスキー『罪と罰』米川正夫訳)

 まさにそのとおりだ。人を殺すという極限行為に及んだ人間が、冷静に正気を保っていられるほうがおかしい。僕とて例外ではない。一連の犯行に及んでいるあいだ、僕は、常に怯え、焦り、混乱していた。心の中ではパニックを起こし泣き叫んでいた。僕は冷酷非情なモンスターでも、完全無欠の殺人マシーンでもなかった。
 憐れなほど必死だった。
 僕の人生が少しずつ脇道へと逸れていくことになった最初のきっかけは、最愛の祖母の死だった。
 一九九二年四月。僕は小学五年に上がったばかりで、十歳だった。
 僕はおばあちゃんっ子で、親兄弟と出かけることより、祖母の部屋でテレビを見たり、話をしたり、かるたをしたり、祖母と二人で過ごすことのほうが好きだった。祖母はこの世で唯一、ありのままの僕を受け容れ守ってくれる存在だった。僕は親に叱られると、祖母の部屋へ逃げ込み、祖母は事情も聞かずただ黙って僕を抱きしめ庇ってくれた。
 祖母が作る料理やお菓子が僕は好きだった。つくしのバター焼き。ゴーヤの天ぷら。おじや。とろろ丼。よもぎ団子。スイートポテト。自分で発酵させて作った瓶詰めのヨーグルト。どれも美味しかった。
 小さい頃、祖母とよく一緒にお風呂に入った。祖母は最後の仕上げにいつも、石鹸をすりこんだタオルで僕の顔をごしごしとこすった。祖母があんまり強くこするものだから、本当は顔が痛くて仕方なかった。ぎゅっと眼を瞑り、「早く終わってほしい」と我慢していた。
 僕がストーブのそばで遊んでいて、太腿の外側を火傷した時、祖母は大慌てで庭で育てていたアロエを取ってきて、ハサミで皮を剥き、火傷にそっと当ててくれた。
 祖母と二人で近所の公園に遊びに行った時、僕は祖母に木登りを見せようと、公園にある木の中でいちばん高い木に登り始めた。「祖母が見守ってくれている」という安心感が僕を勇敢にし、僕は一度も後ろを振り返らずにあっという間に木のてっぺんに辿り着いた。ワクワクしながら下を見降ろし祖母のほうを見ると、祖母が自分の顔の前で両手をラッパの形にして大声で叫んだ。
「Aー! 危ないから早ぉ降りてきて! お願いやから!」
 僕はがっかりした。てっきり褒めてもらえると思ったのに……。気が抜けて木のてっぺんでしばらく呆然とした。すると今度は祖母が自分の顔のあちこちを触りだし、軽く錯乱しはじめた。さすがに悪いことをしてしまったと思い、僕は急いで木を降りると祖母に駆け寄り抱きついた。祖母は嗚咽しながら僕を抱きしめた。僕は自分が「愛されている」と感じた。僕が何をしても、しなくても、祖母は僕を好きでいてくれる。ただそこにいるだけの僕を抱きしめてくれる。言葉など必要なかった。僕は祖母に謝り、二人で手をつないで家路についた。
 僕には小学校に上がる前の記憶がほとんどない。はっきりと残っているのは、まだ生まれて間もない頃に、祖母の背に負ぶわれ、安心しきって眼を瞑り、祖母の暖かな背中に全身を委ねているという記憶だ。
 今でも思うことがある。
 もし、もう何年か長く祖母が生きていたら、僕は事件を起こさずに済んだのだろうか。
 それとも、祖母が生きていても僕は同じことをしたのだろうか。
 祖母が生きていても事件を起こしたのであれば、僕が道を踏み外す前に祖母が他界したことはせめてもの救いだった。
 僕が何をしようと、祖母は僕を全身全霊を懸け愛してくれたと思う。その愛の深さに、僕のほうが耐えられたはずがない。
 子供の頃の写真をたった一枚だけ持っている。他の写真はすべて処分したが、この一枚だけはどうしても手離せなかった。マッサージチェアーに黒い着物を着た祖母が腰掛け、白いランニングに白い短パンを履いた僕が祖母の膝の上に跨り、祖母のほうに背中を凭せかけ、無防備に両腕をだらんと下げている。祖母は僕が膝からずり落ちないように、左手で僕の胸をしっかりと抱きおさえ、右手を僕の右腿にそっと添えている。祖母は両の薬指に金の指輪を嵌め、節くれだった指は爪の付け根のあたりから急に折れ曲がっている。働き者の証、“マムシ指”というやつだ。僕はファインダーから眼を逸らし、遠くを視ている。口は真一文字に結ばれ、笑顔はない。撮影日は「86 8 22」。四歳になる少し前だ。
 こうして幼き日の写真を眺め入る時、僕は、
「自分にも無邪気で純真な子供時代があったのだな」
 と甘い感傷に浸ることができない。
 子供の頃から特徴的だった、ガラス玉を思わせる無機質な光沢を帯びたその眼に映し出されていた真新しい世界を想像してみる。たとえばその頃住んでいた団地の敷地内の砂場でひとり、父親手作りの木製のトラックや飛行機の玩具で遊ぶ、丸顔で色白の男の子を想像してみる。次の瞬間、男の子が手に持つトラックや飛行機の玩具はナイフとハンマーに変わり、砂場のあちこちからポツポツと血が滲み出して真っ赤な水溜りになり、その水溜りがどんどん拡がって砂場全体が四角い血の池に変貌する。
 そのふっくらと柔らかそうな幼い手に想いを馳せると、のちにその手が腕ぎ取ることになる、自分と同じように祝福されて生まれ、愛されて育まれたふたつの幼い命のことを考えざるをえなくなる。
 その弱々しく小さな手が、のちに多くの人々の心の中に生み出したあまりに重く大きな悲しみを、考えざるをえなくなる。
 いったい何をどう間違えれば、そこからわずか十一年で、あそこまでものの見事に人の道を踏み外すことができるのだろう。
 どこでボタンを掛け違えたのか。
 いつ、どのタイミングで足を滑らせ、運命のエアポケットにずっぽり嵌まり込んでしまったのだろうか……。
 僕にも他の人たちと同じように、“無邪気で純真な子供時代”があったのだろうか。光合成に勤しむ植物のように陽の光を全身に浴び、走ることを覚えたばかりの子犬のように毎日楽しく駆けまわり、まっすぐに笑い、まっすぐに泣いていた子供時代が。
 今となってみると、自分の“子供時代”など幻にすぎないような気がする。祖母の膝に跨る、まだ「少年A」になる前の三歳の自分。その幼い顔には曰く言い難い不吉な“翳”が刻み込まれているように感じる。僕はその写真に写った自分の顔に「死相」を視た。眼は洞窟のようで、杳い瞳に灯るあるかなきかの白い小さな光点は、肉体の海の奥深くへ沈みゆく生命の残照を思わせる。
 時折、こんな想いに囚われる。もしかしたら生まれてから十四歳までの、どんなに小さな楽しいことも、悲しいことも、そのすべてが、自らの犯した罪にひとつ残らず繋がるよう、あらかじめシステマティックに組み込まれていたのだろうか。すべてが呪われていたのだろうか。いいことも、悪いことも、身の上に起こったあらゆる出来事が、あの取り返しのつかない破局へと向かう邪悪な水路を形成していたのだろうか……。
 僕には「思い出」などない。

 ただ、一さいは過ぎて行きます。

 自意識教の聖典『人間失格』でそう書いた太宰治のように、彼岸の視点に立ってクールなニヒリストを気取ることなど、僕にはできない。
 僕には「過ぎ去ったこと」などひとつもない。どんなに細かく砕かれ散乱した記憶の欠片にも、軽々しく“思い出”のラベルを貼り付け、そのラベルに日付を書き記して片付けることなどできない。この世に産み堕とされた最初の一日を、僕は今この瞬間も生きている。そのようにしか認識できない。何度陽が沈み、何度陽が昇ろうと、ずっとずっと繋がってきた決して明けることのないこの一日を、僕は死ぬまで生き続けていくのだろう。

 小学四年の終わり頃、体調がすぐれない祖母が入院することになった。
 祖母は物に執着しない人だった。必要最低限の生活用品と着替えを入れた黒い小振りな革のバッグを小脇に抱え、「A、ええ子にしときや。すぐ戻ってくるさかい」
 と言って僕の頬を優しくつねった。祖母は白いフリルのブラウスの上に、胸元に花柄の縄編み模様をあしらったグリーンのニットセーターを着、指先から仄かに線香の香りがした。
 母親が運転する車に乗り込み、祖母は病院へ向かった。
 しばらくは親に叱られても祖母のところへ逃げられない。いい子にするしかなかった。
 祖母に名前を呼んでもらえたのはこれが最後だった。
 祖母が最後に呼んだ僕が、祖母が最後に見た僕が、祖母が最後に触った僕が、あの時の僕で、本当によかった。
「ええか、A。大きくなったら、正義の味方になるんやで。弱きを助け、強きを挫くねんで」
 祖母はよく、僕にそう言った。曲がったことが大嫌いな人だった。僕は、祖母がもっとも憎むことをした。祖母が何度となくその腕に抱いてくれた、この身体で。祖母が何度となく握ってくれた、この手で。
 入院から一週間ほど経って、祖母は意識不明の重体に陥った。ただの検査入院だったはずが、突然の事態に僕は慌てふためいた。
 容態が落ち着いて面会の許可がおりると、母親と一緒にお見舞いに行った。
「おばあちゃん!」
 母親より先に立って集中治療室のスライドドアを開け、祖母を呼んだ。
 自分の発した声が空中でかたまり、そのまま床に落ちて音もなくバラバラに砕け散ったような気がした。糞尿と薬品の臭いが入り混じった未知の悪臭が鼻をついた。病室のベッドの上には、「知らない人」がいた。
 あなたはこれはら神父になる。
 そして僕はこれから、精神鑑定でも、医療少年院で受けたカウンセリングでも、ついに誰にも打ち明けることができず、二十年以上ものあいだ心の金庫に仕舞い込んできた自らの“原罪”ともいえる体験を、あなたに語ろうと思う。
 僕や、僕の引き起こした事件を最も特色付けているのが“性的サディズム”というキーワードだ。それは、僕にとっていちばん他人に触れられたくない、「自分は他人と違い異常だ」という劣等感の源泉でもある。
 精神鑑定書には次のように書かれている。

 未分化な性衝動と攻撃性との結合により持続的かつ強固なサディズムがかねて成立しており、本件非行の重要な要因となった。

 最愛の祖母の死をきっかけに、「死とは何か」という問いに取り憑かれ、死の正体を解明しようとナメクジやカエルを解剖し始める。やがて解剖の対象を猫に切り換えた時にたまたま性の萌芽が重なり、猫を殺す際に精通を経験する。それを契機に猫の嗜虐的殺害が性的興奮と結び付き、殺害の対象を猫から人間にエスカレートさせ、事件に至る。
 実に明快だと思う。ひとかけらの疑問も差し挟む余地がない。しかしどうだろう? もしもあなたが、多少なりとも人間の精神のメカニズムに興味を持ち、物事を注意深く観察する人であるならば、このあまりにもすんなり「なるほどそういうことか」と納得してしまう、“絵に描いたような異常快楽殺人者のプロフィール”に違和感を覚えたりはしないだろうか?
 確かに祖母の死は僕にとって最初の“死目撃体験”であり、僕の精神が崩壊するトリガーのひとつであったことは否定しないが、人間の精神はダイナマイトによるビル解体のように、たったひとつの出来事を起爆剤に整然と崩れ去るものではない。
 事件当時僕は十四歳だった。仮にいくら異常な素質があったのだとしても、年端もいかぬ少年の「攻撃性」と「性衝動」が、そんなに簡単に、ほとんど成り行きのようにあっさり「結合」してしまっていいものだろうか?
 僕は、本当はナメクジやカエルを解剖し始める前に、精通を経験した。その時のことだけは死ぬまで誰にも話さないつもりだった。でもこうして祖母のことを思い返しているうち、このエピソードを省いて自らの物語を語る意味などないように思えた。
 罪悪とはマトリョーシカ人形のようなもの。どんなに大きな罪も、その下にはひとまわり小さな罪が隠され、その下にはさらにもうひとまわり小さな罪が隠され、それが幾重にも重なった「入れ子構造」になっている。僕が抱える“罪悪のマトリョーシカ”のいちばん奥に隠された小さな小さな罪の原型を、ここに懺悔したい。
 祖母が亡くなってからも、僕はよく祖母の部屋へ行き、祖母と一緒に過ごした想い出に浸った。祖母のいなくなった部屋は残酷なほど静かで、僕の喪失感を否が上にも倍増させた。それでも祖母の部屋へ行かずにはいられなかった。
 ある時、祖母の部屋の押し入れの扉を開けた。押し入れは二段式で、上の段に祖母が使っていた布団があり、下の段の奥には祖母の着物が二着、きれいに折り畳まれ仕舞われていた。その着物のすぐ横に、祖母の愛用した電気按摩器が置かれていた。肩凝りのひどかった祖母は、よくこれを使って自分の肩をマッサージしていた。僕もその按摩器を使って祖母の肩や脚をマッサージしたことがあった。
 僕はおもむろに押入れから電気按摩器を取り出した。全長は三十センチほど。グリップ部は黄色で直径は缶コーヒーくらい。先端はお椀型に広がり、身体に当てる部分は肌色の弾力のある素材でできていた。そこに触れると祖母の温もりや感触がまだ残っているように感じられた。8の字に束ねられたコードを解き、プラグをコンセントに挿し込む。祖母の位牌の前に正座し、電源を入れ、振動の強さを中間に設定し、祖母の想い出と戯れるように、肩や腕や脚、頬や頭や喉に按摩器を押し当て、かつて祖母を癒したであろう心地よい振動に身を委ねた。
 何の気なしにペニスにも当ててみる。その時突然、身体じゅうを揺さぶっている異質の感覚を意識した。まだ包皮も剥けていないペニスが、痛みを伴いながらみるみる膨らんでくる。ペニスがそんなふうに大きくなるなんて知らなかった。僕は急に怖くなった。
 不意に激しい尿意を感じた。こんなところで漏らしては大ごとになる。だがどうしても途中でやめることができなかった。苦痛に近い快楽に悶える身体。正座し、背を丸め前のめりになり、按摩器の振動にシンクロするように全身を痙攣させるその姿は、後ろから見れば割腹でもしているように映ったかもしれない。
 遠のく意識のなかで、僕は必死に祖母の幻影を追いかけた。祖母の声、祖母の匂い、祖母の感触……。涙と鼻水とよだれが混ざり合い、按摩器を摑む両手にボタボタと糸を引いて滴り落ちた。
 次の瞬間、尿道に針金を突っ込まれたような激痛が走った。あまりの痛さに一瞬呼吸が止まり、僕は按摩器を手放し畳の上に倒れ込んだ。
 数分気絶していたようだった。眼を開けると電源が入れっぱなしになった按摩器の振動が畳を這って頬に伝わってきた。
 体勢を起こし、按摩器のスイッチを切ると、しばらく呆けたように宙を見つめた。下着のなかにひんやりとした不快感がある。「血でも出たのかもしれない」。そう思い下着をめくると、見たこともない白濁したジェル状の液体がこびりついていた。
 性的な知識など何もなかった。だが自分がしたことが、とんでもなく穢らわしい行為であるというのは、直感的に感じ取った。
 僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら、精通を経験した。
 僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。
 その後も、僕は家族の眼を盗んでは、祖母の部屋でこの“冒涜の儀式”を繰り返した。
 祖母の位牌の前に正座し、線香をたてる。祖母との想い出を記憶の冷凍庫からひとつひとつ取り出して解凍し、電気按摩器のスイッチを入れ、振動の強さを最大に設定し、それを切腹さながらペニスに突き当てる。“穢らわしいことをしている”という罪悪感で快楽が加速する。
 もう気絶こそしなかったが、射精する瞬間にはいつも“激痛”が伴った。それは後年になっても続き、「射精に激痛が伴う」ということだけは精神科医に話したことがある。医者は「性欲に対する罪悪感の表れ」だと言った。確かにそうなのかもしれない。僕は強いストレスを感じるとよく熱を出したり肌が荒れたりする。普段から表に感情を表さないせいもあるのだろうが、おそらく“精神”と“肉体”のシンクロ率が他の人たちよりも高いのだろう。
 僕は祖母の死や祖母との想い出を“陵辱”することで、祖母を失った悲しみや喪失感を無意識に“快楽”に挿げ替えようとしていたのかもしれない。そうでもしなければ祖母の死を、祖母のいない辛い現実を乗り越えられなかったのだろう。
 僕は、自身の精神的筋力ではとうてい持ちこたえることができない重量の悲哀を、この身を裂くほどの強烈な快楽をドーピングすることによって無理やり持ち上げようと試みたのだ。だがその快楽のドラッグはあまりに中毒性が強く、もうそれなしでは生きていけなくなるほど僕の心と身体を蝕んだ。
 この時はまだ、自分がどれほど恐ろしい「龍の尻尾」を摑んでしまったのか、知る由もなかった。
 ちょうどこの頃から、僕はきれいに洗ったマーマレードの空き瓶にナメクジを集め始めた。「心象風景」ならぬ「心象生物」という言葉がもしあったなら、不完全で、貧弱で、醜悪で、万人から忌み嫌われるナメクジは、間違いなく僕の「心象生物」だった。彼らの全身を覆う薄く透きとおった粘膜は、色素が薄く敏感な僕の皮膚を表し、落ち着きなくあちこちにキョロキョロ振れる挙動不審な彼らの触角は、絶え間なく周囲の大人の顔色を窺う臆病な僕の眼とそっくりだ。
 部屋の明かりを消し、布団に潜り込んで瓶の中に懐中電灯を当てると、彼らを守る頼りない半透明の粘膜の鎧が人工的な光の中に溶けこみ、内臓のシルエットがぼんやりと浮かび上がった。
 腹部を下から見ると、薄い粘膜の裏を無数の小さなローラーが尻尾から頭に向かってせわしなく転がっているような規則正しいメカニックな波状運動が確認できた。あんなにのろい歩みが、彼らからしてみると全力疾走なのかと思うと、なんだか微笑ましかった。
 この愛らしい生き物のことをもっと知ってみたい。ピンセットで一匹を取り出し、かまぼこ板の手術台にうつ伏せにのっけて、なるべく死なせないように頭部と尻尾の先端ギリギリにマチ針を刺して固定する。さすがに痛いようだ。狂ったように激しく触角を出し入れしている。体の右側面に空いた呼吸孔が大きくなったり小さくなったり、いかにも「息してます」といった様相だ。よく見ると頭部から三分の一程度のところまで、退化した甲羅のようなものが覆い被さっている。ゆっくり、丁寧に、カミソリでその甲羅を剥がしてゆく。甲羅をめくるとそこにはもう黄色と黄緑色の内臓器官が透けて見えた。触角がピンと伸びきったまま動かなくなった。案外簡単に死んでしまうようだ。そのまま二本の縦縞模様のちょうど真ん中あたりにカミソリを入れ切り開いていく。上部のほうには白い器官があり、そこから尻尾の先に向かってぎっしりと内臓が詰まり、黒い糞のようなものも見える。僕はその、えもいわれぬ“実体感”に身震いした。外から見るとあんなにも不完全で半透明な身体を持つ彼らも、しっかり「生き物」だったのだ。
 命に触れる喜びを感じた。殺したかったのではない。自分を惹きつけてやまない「命」に、ただ触れてみたかった。
 祖母の部屋で背徳の快楽に惑溺しながら、幼少期特有の好奇心からナメクジを解剖する。そんな日々が続いた。
 十二月の寒い朝にサスケは死んだ。母親が泣きながらサスケの死体をダンボール箱に入れた。僕は泣かなかった。
「おばぁちゃんのとこへ行ったんやわ」
 母親が言う。なんてくだらない感傷だろう。サスケはただ死んだのだ。自らの生を噛み締める牙をなくし、呼吸への渇望をなくし、醜態を晒しながら死んでいったのだ。それ以上でも以下でもない。眼の前にはただ“物体化した死”が転がっているだけだ。
「眠っているように穏やかできれいな死に顔」というものを、僕は認めることができない。僕は誰より間近で死の匂いを嗅いできた。死の舌触りを知っている。“死”が「穏やか」で「きれい」なはずがない。だからこそ死は愛おしい。
 愛するものを立て続けに失い、自分の中に、何か名状し難い“歪み”が生じていた。身体の中に真っ黒い風船が膨らみ、内側から内臓を圧迫した。
 食欲がなくなったサスケの餌はたくさん残った。
 母親は「もったいない」と言って、サスケが死んだあともサスケのお皿に餌を入れて、サスケの小屋の横へ置き、近所の野良猫たちに食べさせた。僕にはそれが気に入らなかった。まるっきり、これっぽっちも、気に入らなかった。サスケの餌はサスケのものだ。サスケが死んでもサスケのものだ。
 冬休みに入る少し前に、最初の一匹目の猫を殺した。その時の感触、光景、音、匂いを、今でも鮮明に記憶している。
 その日も、いつもと同じように級友のダフネ君と、学校帰りに家のすぐ近くの「三角公園」に寄り道した。
 ダフネ君は転校してきたばかりだった。色白で、眼が細く、オカメのお面のようにふっくらした頬が印象的だった。彼はひょうきんなお調子者で、当時週刊少年ジャンプで人気のあった『変態仮面』という漫画に出てくる、女性の下着を頭に被ると強くなるヒーローのポーズを真似てよくみんなを笑わせていた。
 ダフネ君の父親は中小企業の社長で、彼の家は僕が住む友が丘よりもワンランク上の高級住宅街にあった。
 彼は学校がある日は毎朝僕を迎えにきて、インターフォンを押すとすぐ家の脇に隠れ、僕が玄関から外に出ていくと、急に横から飛び出して「ワッ!」と言って僕を驚かした。
 そして僕はびっくりしたフリをする。そんなことを毎朝飽きもせず挨拶がわりに繰り返した。
 ある時学校へ向かう道すがら、ダフネ君はランドセルの中からA4の画用紙を一枚取り出し、恥ずかしそうに僕に差し出した。
「アズキぃ、これな、昨日描いてんけど……。あげるわ」
 画用紙には、彼が好きだった漫画『南国少年パプワくん』に登場する「イトウくん(巨大なカタツムリ)・タンノくん(下半身が人間で上半身が魚の半魚人)」という、気持ち悪いサブキャラコンビが描かれていた。その絵には消しゴムで何回も消しては描き、消しては描きを繰り返した奮闘の痕跡が垣間見えた。決して上手な絵ではなかったが、彼の健気な気持ちが嬉しかった。
「上手いやん。ありがとう」
 そう言って絵を受け取った。
 漫画の主人公ではなく、わざわざゲテモノのサブキャラコンビを描いたところにダフネ君一流のセンスを感じた。
 子供が好きな漫画のキャラを挙げる時、そこには多かれ少なかれ自己イメージが投影される。そう考えると、彼が描いた「イトウくん・タンノくん」は、彼が無意識のうちに彼と僕とを投影したキャラクターだったのかもしれない。 スポットライトを浴びることのない、グロテスクな日陰者コンビ。学校でダフネ君は明るい人気者で通っていたが、僕は密かに彼が、かなり無理をして「道化を演じている」ことを見抜いていた。転校生特有のプレッシャーもあったのかもしれない。面白い奴だと思われないと仲間外れにされる、と。あるいは、明るい転校生にありがちな過去のいじめ体験があったのかもしれない。僕は彼の道化を指摘したことは一度もなかったし、彼が自分で話してくれる以上のことを質問したこともなかった。道化を演じる者にとって、それを見抜かれ指摘されることがどれほどの脅威かわかっていた。祖母が亡くなってからめっきり口数が減り、クラスの中でも孤立しつつあった僕は、ダフネ君からすれば安心できる相手だったのかもしれない。僕は他のクラスメイトたちのように彼にギャグを強要しなかったし、彼と普通に会話するだけで充分楽しかった。
 本当は内向的で、人と接することが苦手なダフネ君は、自分とどこか似ている気がした。能面のような顔の自分と、オカメのお面のような顔のダフネ君。仮面の種類は違っても、仮面を着けていることは同じだった。お互いにうっすら仲間意識を持ったのか、ダフネ君と僕はすぐに打ち解けて仲良くなった。学校が終わると毎日のように二人で近所の三角公園に寄り道し、時間を忘れて学校生活や好きな漫画やテレビの話をした。
 公園でダフネ君と漫画談義に花を咲かせ、日が暮れかかった頃に帰宅した。
 当時住んでいた家は白壁の四角い鉄筋二階建て一軒家。正面に向かって右端に玄関、家の左脇に駐輪場があり、玄関から駐輪場までの間には五メートルほどのブロック塀の花壇がある。花壇には糸杉や薔薇がランダムに植えられ、糸杉は花壇を囲むフェンスの網を幹の中に取り込んで道路側にせり出し、薔薇は刺だらけの茎をフェンスに絡め、フェンスの網の隙間から真っ赤な花びらをこちらに突き出して、まるで檻の中のライオンが外にいる人間に襲いかかろうとしているような様相だった。それらの植物は、観賞や装飾のために植えられているというよりも、人を近付けないために飼われた猛犬のような雰囲気を醸し出していた。建物全体の外観にしても、味気ない直方体に無愛想な白塗りの壁。この家にはどこかしら周囲を拒絶するような近寄り難さがあった。
 そう感じるのは、自分の内面をこの建物に投影していただけなのだろうか。たとえば、数人の人が同時に赤い林檎を見たとする。「赤」であるという認識は同じでも、それが「どんな赤」なのかは人それぞれ違う。ある人にとっては「血のような赤」なのかもしれないし、またある人にとっては「赤ん坊のほっぺのような赤」かもしれない。人は眼の前に拡がる風景を“見る”時、自分の外側にあるものを見ているように感じるが、実はこの眼に映る風景は、自分の内側に拡がっている風景なのかもしれない。
 家に帰り着き、玄関を上がると、母親は弟たちを連れて夕飯の買い出しにでも出たのか、家の中は沈没船のようにしんと静まりかえり、まるで邪悪な何者かが、誰にも気付かれずひっそりと僕の体内に卵を産みつけるために時を止めているかのようだった。
 僕は電気もつけず、ランドセルの片側のベルトを肩に引っ掛けてだらしなくぶら下げ、居間の窓からぼんやり庭のほうを眺めた。
 どうでもいい話だが、僕は「ランドセル」というものを心の底から嫌悪した。初めてランドセルを背負った時に、心に足枷を嵌められたような、何とも言えぬ圧迫感を感じた。なぜみんな同じ形なのか。なぜ女の子は赤で男の子は黒だと勝手に決められるのか。そして何よりも、なぜみんなそのことにさしたる疑問も持たず当然のようにすんなり受け容れてしまうのか。
 考えてみればランドセルとは日本にしかない文化だ。過剰な“平均志向”や“異物排除”という日本特有の民族性を、これほど象徴するアイテムは他にないのではないか。幼少の頃から周囲に馴染めず、絶えず自分を“異物”だと意識していた僕にとって、「ランドセル」は“異物”である自分を他と平らになるように摩り潰すロードローラーのように映ったのかもしれない。
 事件を起こしてから二週間ほど経った四月上旬、僕は「懲役13年」という文章を書いた。

懲役13年
1. いつの世も…、同じ事の繰り返しである。
 止めようのないものはとめられぬし、殺せようのないものは殺せない。
 時にはそれが、自分の中に住んでいることもある…
 「魔物」である。
 仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中…
 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、何が見えているのであろうか。
 俺には、おおよそ予測することすらままならない。
 「理解」に苦しまざるをえないのである。
2. 魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る。
 それには、かつて自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。
 とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。
 こうして俺は追いつめられてゆく。「自分の中」に…
 しかし、敗北するわけではない。
 行き詰まりの打開は方策ではなく、心の改革が根本である。
3. 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、
 事実は全くそれに反している。
 通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際、そのように振る舞う。
 彼は、徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう…
 ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみや、プラスチックで出来た桃の方が、実物は不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや挑はこういう風でなければならないと俺たちが思いこんでしまうように。
 僕は何がしたかったのだろう?
 今よくよく振り返っても、自分がダフネ君を殴った理由が、本当によくわからない。
「悪い噂を流したからだ」
 そう言えば理解しやすいかもしれない。 でも僕はダフネ君の性格を誰よりも熟知していた。少しでも変わった話をすれば、彼が黙っていられるはずがなかった。
 人間は時に、“ツクリモノの感情”を発露させてしまう不可解な習性を持っている。心の奥から素直に湧き出た“ナマの感情”が先にあって、いろいろな理屈付けを試みながらそれに振りまわされているうちはまだいい。厄介なのは、自分の脳内で無意識下に生成された“未確認思考”が、自分でも思いもよらないような“感情を伴わない感情”を発動させ、そのハリボテの感情がまるで自身の中から自然に湧き出たものであるかのように振舞い、肉体の音頭をとっている時である。あなたが普段抱いている怒りや喜びは、本当にあなたの体内から湧き出ている“純度百パーセント”の感情だろうか? そこに“不純物”は一ミクロンも混ざっていないと言い切れるだろうか?
 僕のこの日の行動には、どこか不自然で、奇妙に作為的なところがあった。
 僕はただ、「ダフネ君を殴るシーン」が欲しかっただけなのかもしれない。言っていることがピンとこないだろうが、一連の事件を起こしている間、僕は無意識のうちに現実の行為を“フィクション化”しようと試みていたように思えてならないのだ。まるで現実を舞台に、自作自演の映画を撮影するように。
 僕は事件を起こしながら、「怪物映画」を頭の中のビデオで撮っていた。フランケンシュタイン博士よろしく、あちこちから採集した言葉やイメージの断片を繋ぎ合わせ、自分だけの「怪物の物語」を造り上げた。その物語はやがて生命を持ち、僕のコントロール下を離れ、生みの親である僕を喰らって暴れ出した。
「ナイフなんか持ち歩いとんのか? 何に使うんや?」
「ただの護身用です」
 ウッディはさらに追求する。
「今日も持っとんのか?」
 僕がまた黙り込むと、ウッディは立ち上がってこちらへ近寄り、僕を立たせると制服の上から腰周りをまさぐり、ベルトに差していたナイフを取り出して机の上に置いた。ウッディは向かいの椅子に座り直して言った。
「こんなん持ち歩いて、人刺して死んでもうたらどないするんや? 取り返しつかへんぞ?」
 僕はウッディの眼を真っ直ぐに見て言った。
「蟻やゴキブリを殺しても誰も怒らへんのに、人間の命だけが尊いんですか? 人間を殺すのがそないに悪いことなんですか?」
 ウッディとバズは僕の言った言葉の内容よりも、その口調に慄然としたようだった。彼らは顔を見合わせ、もうこれ以上何を言っても無駄だと思ったのか、僕にそのままここで待っているように言い残し、二人で一旦生徒指導室から出て行った。
 彼らは僕の家に電話した。母親はおたふく風邪にかかった三男を病院へ連れて行く矢先で、かわりに会社を休んで病院で定期検診を受けていた父親に母親が電話を入れ、学校へ向かうよう頼んだ。
 四十分ほど待たされて、生徒指導室のドアがふたたび開き、二人の教師と父親が入ってきた。父親は悲しそうな眼をして僕の前に立ち、静かに訊いた。
「どないしたんや? なんでダフネ君を殴ったんや? 大事な友達やったんとちゃうんか?」
 父親に詰問され、僕は突然全身が震え出した。
 ──どうして殴った? それは自分が聞きたい。自分はいったいどうしたというのだ? 何をしようとしているんだ?──
 自分の中で何かが崩れていく。自分で自分をコントロールできなくなっている。それが急に怖くなり、僕は何かの発作のように激しく震えながら、涙が止まらなくなった。さすがの父親も異常な様子を察知し、それ以上は何も訊かず、二人の教師にこう言った。
「すいません。なんかちょっといつもと違う感じなんで、今日は連れて帰ってもいいですか?」
 教師たちは了承し、そのまま僕は父親に連れられて、とぼとぼと歩いて家に帰った。家に着くと父親が言った。
「母さん帰ってきたら三人で話するから、着替えて部屋で休んどき」
 僕は黙って二階の自室に行った。
 昼前に母親が帰宅すると、一階の居間で、母親と父親と僕の三人で膝をつき合わせた。
 母親が口を開いた。
「ダフネ君を殴ったんやて? どないしたん? 何があったん? 怒らへんから理由言うてみ?」
 僕はぽつりぽつりと話し始めた。
「ダフネが、僕が影で下級生とか身体障害者を殴っていじめとるって根も葉もない噂を流して、そのせいでみんな僕を怖がるようになって、もう悪口を言いふらすのはやめてくれって頼んだけど、それでもやめへんかったから……」
 僕はとっさに事実とまったく違うことを言い、今度は意図的にしおらしく泣いてみせた。母親の顔に徐々に同情の色が挿すのが見て取れた。母親は静かに諭した。
「そぉか。それはあんたも辛かったな。せやけど、いくら悪口言いふらされても、暴力振るってもうたら、最終的にはあんたが悪者にされてまうねんで。嫌なこと言われて辛かったんやったら、先生に相談でけへんのやったら、お母さんに言うてくれたらあんたの代わりに言ってあげるから。あんたも辛かったやろうけど、ダフネ君かて怖い思いしたんやから、そこは男らしくきっちり謝って、ケジメ付けなあかん。お母さんとこれから謝りに行こ」
 話が終わると、母親と一緒にダフネ君の家を訪ねた。インターフォンを押すとダフネ君の母親が出てきた。ひと目でダフネ君の母親だとわかるような、色白で、頬のふっくらとしたオカメのような顔をした人だった。ダフネ君は怖がって部屋から出てこられないらしく、僕と母親は代わりにダフネ君の母親に謝った。
 ダフネ君はこのあと、県外の学校に転校した。僕が最後に見たダフネ君の顔は、恐怖に引き攣った泣き顔だった。
 僕は、ダフネ君を傷つけたことを何とも思っていなかった。あんなふうに殴られた人がどんな気持ちになるのか、微塵も想像できなかった。僕は、他人の痛みをこれっぽっちも感じられない、最低な欠陥人間だった。あの時の、僕を見るダフネ君の眼……。まるで化け物でも見るような怯えた眼が、今でも頭に焼き付いて離れない。どれほど怖かったろう。どれほど痛かったろう。身体だけではなく、その優しく繊細な心にも深い深い傷を負わせてしまった。
 そうやって、僕はいったい何人の人を傷つけ、その人生を狂わせてきたのか。
 僕は歩くドリルだ。
 息を吐くたび誰かを傷つけ、息を吸うたび己が摩耗し、絶えず他人や自分から何かを削りとって生きている。そのようにしか呼吸できないのだ。触れたものに孔を穿つことだけが、存在理由であるドリルのように。
 中学二年のときのことだ。中学校の女性教師がダフネ君やアポロ君を個別に呼び出し、僕には近付くなと忠告した。僕はそのことをダフネ君に打ち明けられ、強いショックを受けた。
 僕は他人とコミュニケーションを取ることが極度に苦手で、友人も少なく、クラスでも孤立していた。そういった状況でダフネ君からこの話を打ち明けられ、女性教師は自分を排除しようとしている、自分の居場所を奪おうとしていると、過剰に被害的に受け取り、強い敵意を抱いた。
 だが今になって冷静に振り返ると、子供を見るプロである教師という職業に就く者にそこまで言わせてしまう自分とはどういう子供だったのだろう、と自問せざるをえない。僕はろくに話をしたこともない相手に自分の抱える異常性を見抜かれて逆上し、見当違いな逆恨みをしただけではないのか。
 事実、後にその女性教師の忠告を聴かず僕のそばにいてくれたダフネ君に対し、僕はひどい暴力を振るい、彼の心も身体も傷付けた。彼女が言ったことは正しかった。何ひとつ間違ってはいなかったのだ。
 他人の善意をすべて逆手にしか受け取れない人間に、物事を斜め四十五度からしか見ることができず、常に他人を攻撃するための材料を探す人間に、近付く者、触れる者を傷付けずにはいられないドリルのような人間に、自分が傷付くことには敏感なくせに、他人の痛みにはこれっぽっちも想像力が働かない欠陥人間に、何より、あのような事件を起こしてしまうような、人間とは呼べないケダモノに、いったい誰が自分の大事な人を近付けたいと思うだろうか? 「排除された」と息巻く前に、自分の中の他人の居場所を、自分自身で潰していたのではないのか? 本当は他の誰よりも自分で自分の異常性に気付いていたのではないのか? だからこそ女性教師の言葉に過敏に反応してしまったのではないのか? このままでは取り返しのつかないことになるという予感があったのではないのか?
 自分のことを心配してくれる人がいたことも知っていたのではなかったか? それでも助けを求めず、自分に嘘をつき、自分を誤魔化し、自分の抱える異常性と向き合うことから逃げて逃げて逃げ抜いて、ことあるごとに誤った選択を繰り返し、自分で自分を追い詰めて、結果あのような事件に至ったのではないだろうか……

 家に帰ると母親は昼食の支度を始めた。僕はキッチンテーブルの椅子に腰掛け、ペイズリー模様があしらわれたテーブル掛けに視線を這わせた。
「なぁ、母さん」
 僕は母親の背中に声をかけた。
 母親はちらっと僕のほうを見てすぐに手元の包丁に視線を戻し、手を動かしながら答えた。
「うん。なに?」
「しばらく学校休みたいねんけど、ええかなぁ?」
 五秒ほどの沈黙が流れ、母親が言った。
「あんたがそないしたいんやったら、それでもええよ。ご飯食べたらお母さん学校に言いに行ったるさかい」
 母親は何も訊かずに受け容れてくれた。
「ありがとう」
 ボソッと礼を言うと、母親はこちらに向き直り、
「元気出しぃな。学校に合わんでも世の中で成功しとる人はぎょうさんおるんやで。あんたはあんたの道を探したらええねん。学校行かんかったからって人生終わるわけやないんやし」
 と言って、笑顔で僕を励ました。
 母親はこの後学校に向かい、僕の今後に付いて教師たちと話し合った。学校側の勧めで、僕はしばらく休学する代わりに児童相談所に通い、カウンセリングを受けることになった。
 この十日後、一九九七年五月二十四日、僕はタンク山で淳君を殺害した。
 この磨硝子の向こうで、僕は殺人よりも更に悍ましい行為に及んだ。
 行為を終え、ふたたび折戸が開いた時、僕は喪心の極みにあった。精神医学的にどういった解釈がなされるのかはわからないが、僕はこれ以降二年余り、まったく性欲を感じず、ただの一度も勃起することがなかった。おそらく、性的なものも含めた「生きるエネルギー」の全てを、最後の一滴まで、この時絞りきってしまったのだろう。
 バスタオルで身体を拭き、淳君の顔を拭いた。手提げバッグの中の黒いビニール袋に淳君の頭部を戻し、袋のクチをぎゅっと結んだ。
 僕は裸のまま脱衣所から出て自室へ行き、部屋の隅の天井板を外し、屋根裏に頭部を隠した。
 天井板を元に戻して、服を着、もう一度風呂場へ向かい、盥を庭の水道脇に戻し、家に入ってキッチンテーブルの椅子に座り、母親の置き書きを取ってくしゃくしゃに丸め、キッチンのゴミ箱へ投げ捨てた。
 三十分ほどして、母親が慌ただしく帰ってきた。
「ただいまぁ~。ひゃ~、急に降ってきよったなぁ~。あんた、ずっと家におったん?」
「うん」
「そっか。昼ごはんまだやろ? これから作るわな。なんか食べたいもんある?」
「別に。なんでもええよ」
「スパゲッティでええ? 確かまだ冷蔵庫にミートソースあったはずや」
「うん。それでええ」
 母親が僕に背を向け、スパゲッティを茹でながら、話し続けた。
「いやぁ~、それにしても淳君どこ行ったんやろなぁ~。淳君のお母さん、可哀想に、この三日間でげっそりしてもぉて……」
 母親は茹で終えたスパゲッティを二枚の丸い皿によそうと、それが冷めないうちに手早くフライパンにミートソースを入れ、挽き肉と刻んだ玉ねぎを混ぜて温めた。仄かに漂う腐臭の残り香は、たちまちミートソースの芳香に呑まれて消えた。茹で上がったスパゲッティに、母親がミートソースをかけた。フライパンをシンクに置き、母親はテーブルにコップをふたつ並べ、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。母親と向かい合って、二人でミートスパゲッティを食べた。
 母親は美味しそうに食べていた。僕は身体が勝手に食べていた。
 食事を終え、居間に寝転んでテレビを見ていると、インターフォンが鳴った。
「はーい」
 洗い物を中断して母親が玄関に向かった。
「A、ちょっとこっち来ぃー」
 母親が僕を呼んだ。玄関へ行くと、担任の女性教師と生徒指導のウッディが来ていた。
「おう、A、調子はどないや? 元気にしとったか?」
 ウッディは無理にフレンドリーに話そうと努め、表情が引き攣っていた。
「別に。普通です」
「そぉか。ところで、もう中学校生活最後やし、修学旅行だけでも出て、みんなと思い出作らへんか?」
 修学旅行?
 僕の耳には、宇宙旅行。と変わらない響きに聴こえた。
「めんどいです。行きません」
 ウッディは苦笑い。そのあと母親が彼らに近況報告をし、僕はその横で黙って突っ立っていた。
 二人の教師が帰ると、母親が諭すように言った。
「あんたなあ、別に愛想振りまくことないけど、もぉちょっと普通に話さなあかんよ。先生らかて忙しいのにわざわざ来てくれとんねんから」
「ウン」
 ──明日、家族が出払うのを見計らって、祖母の畑に埋めよう──
 祖母の畑に、淳君を埋める。それが、僕が最初に導き出した答えだった。僕には、その答えはとても“正しい”ことのように思えた。
 僕は『ブレインスキャン』を再生したまま、ウトウトと眠りに堕ちた。
 眼をあけると、ビデオが終わってテレビ画面が白黒の砂嵐になっていた。僕はじっとその砂嵐の画面を見つめた。ノイズが、皮膚を貫いて身体の内部に沁み渡る。カーテンは閉じられていたが、窓は開けっ放しだった。時折、夜風を孕んだカーテンの裂け目が葉型に拡がり、そこから月光の愛液が部屋の中に射し零れ、僕の狂気の潤滑油となった。
 テレビ画面の砂嵐。葉型にひろがるカーテン。カーテンの裂け目から部屋の中へ零れ落ちる月の光。家庭訪問にきた二人の教師。屋根裏に隠した淳君の頭部。
 無理に理屈をあてがって説明するのはよそう。自分でも何がどう繋がったのかはわからない。とにかく、眼の前の砂嵐画面のように、僕のバグった脳の中で、これらのファクターが一本のレールで繋がった。その狂った思考のレールの終着点に、水色のペンキで塗られた中学校の正門が聳えていた。
 淳君の頭部を、祖母の畑に埋めるのをやめ、自分の通う中学校の正門に晒す。それは、考えうる限りいちばん“間違った”答えのように思えた。いちばん間違っているからこそ、この時の僕にとっては、それが“大正解”だった。
 家から出る際、玄関から外に出るのは危険すぎる。この家の老朽化した木の階段は、踏みしめるたびにけたたましい軋り音をたてるからだ。両親が起き出さないとも限らない。部屋の窓から直接庭に降りるしかない。
 不意に強い風が吹き、カーテンの裂け目が、いっそう大きく葉型に拡がった。この六畳の洋室は僕の小宇宙であり、僕の“拡張した”内界だった。決して外へ開かれることのなかったその内界に、突如、外界の処女膜が立ち現れたのだ。皮肉な話である。極限の内向の果てに僕が視たのは、外界への入口だったのだ。
 葉型に拡がったカーテンの裂け目に両手をかけ、僕は外界の処女膜を破り、夜にダイブした。
 空には仄かに霧がかかり、白い月が滲んでいた。自転車をフラフラと走らせ、映画『スタンド・バイ・ミー』の主題歌を鼻歌で口ずさみながら、僕はこの上もなく上機嫌だった。
『スタンド・バイ・ミー』──心に傷を負った四人の少年が、線路づたいに“死体探し”の旅に出る甘く切なく美しい永遠の少年映画。誰もが、喪われた自身の少年時代を想い起こす名画の中の名画だ。僕はこの映画が大好きだった。英語の授業で、この映画の主題歌をクラス全員で歌ったことがある。その時ばかりは僕も熱心に参加した。
 僕は“死体(タカラモノ)”を自転車の前カゴに載せ、狂った思考の線路づたいに自転車を走らせ、たったひとりの『スタンド・バイ・ミー」を敢行した。胸が高鳴った。誰ひとりとして見向きもしなかった、醜くみすぼらしい透明な一匹の虫螻によって、これから世界がひっくり返されるのだ。
 中学校の正門に着くと、門の前に自転車を停め、ビニール袋から淳君の頭部を取り出し、さてどこへ置こうかと思案をめぐらせた。
 水色の正門の真ん中がいいか? 白塗りの塀の、中学校の名前の入ったプレートの真下にするか?
 いろいろと悩んだ挙句、僕は門の真ん中に頭部を置き、二、三歩後ろに下がって、どう見えるかを確認した。
 その瞬間、僕の世界から、音が消えた。
 世界は昏睡し、僕だけが独り起きているようだった。
 地面。
 頭部。
 門。
 塀の向こうに聳える校舎。
 どの要素も、大昔からそうなっていたように、違和感なく調和し、融合している。まるで、一枚の絵画、映画の中のワンシーンのようだった。
 校舎は朧月夜の闇の中へその輪郭を霞ませていた。校舎の正面壁の上部中央に、月桂樹の葉のなかに「中」の文字のあしらわれた校章が取り付けられている。僕にはその校章は、ルドンの描く、あの一ツ眼巨人(サイクロプス)の眼玉のように映った。
 校章から視線を下へ這わせると、正面玄関のガラス扉が見えた。そう、この巨大な一ツ眼の化け物の口は、幾度となく僕を、弄ぶように呑み込んでは吐き出し、呑み込んではまた吐き出したのだ。この建物は、僕の憎悪の結晶であり、自分を排除し続けた世界の象徴だった。
 だがそういった激しい怒りや憎しみは、今や僕の支配するこの夜の闇に融け出し、きれいに消化された。いま僕を包むこの夜の闇は、思いどおりに世界を描くことのできる僕だけの真っ黒いキャンバスだった。これまでに味わった数多の屈辱も、この夜の闇が、優しく塗り潰した。僕はもう恐れなかった。もはやこの建物のどこにも、僕を脅かす力は潜んでいないように思えた。あれほど僕を脅かした堅牢な一ツ眼の化け物は、今や僕の決壊した精神のダムから怒濤のごとく逆る闇の波間に力なくたゆたう幽霊船と化し、その実体を喪っていた。
 校舎南側の壁沿いに二本並んだナツメヤシの葉が、降りかかる月の光屑を撒き散らすように音もなく擦れ合っている。呪詛と祝福はひとつに融け合い、僕の足元の、僕が愛してしやまない淳君のその頭部に集約された。自分がもっとも憎んだものと、自分がもっとも愛したものが、ひとつになった。僕の設えた舞台の上で、はち切れんばかりに膨れ上がったこの世界への僕の憎悪と愛情が、今まさに交尾したのだ。
 告白しよう。僕はこの光景を、「美しい」と思った。
 薄い夜霧のドレスを裂いて伸びてくる月の光の切っ先は鑿となって、闇の塊の中から、この世あらざる絶望的に美しい光景を彫り出していた。
 もう、いつ死んでもいい。そう思えた。自分はこの映像を作るために、この映像を視るために、生まれてきたのだ。すべてが、報われた気がした。
 もはや僕には、正気も、狂気も無かった。ただ、濃密な無感覚のみが、僕の症の肉体を領した。

 何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。
(村上春樹『海辺のカフカ』)

 この時、僕の皮膚の内側と外側が化学反応を起こし、僕の世界の“目盛り”は、大幅な変更を余儀なくされた。この光景を視てしまったあとでは、もはや他人と同じ目盛りで世界を視ることは不可能だった。
 用意した挑戦状を頭部に添え、自転車に跨り、僕は学校をあとにした。
 駐輪場に自転車を戻し、音が鳴らないよう慎重に門を閉め、そのまま裏庭に廻り、植木鉢の並んだアルミ棚によじ登って二階自室の窓の柵に手を引っ掛け、開いた窓から部屋の中に入った。机の引き出しの奥から赤マルの箱とライターを取り出し、窓の柵に身を乗り出して、煙草に火をつけた。先ほどまでかかっていた霧は散り、大口をあけた獣の横顔のような、バックリ開いた純白の下弦の月が、夜に喰らいついていた。
 風はやみ、吐き出した紫煙は幽かにゆらめきながら、純白の月へと真っ直ぐたち昇っていった。その煙はあたかも、この世での使命を終え、肉体から抜け出してゆく、僕の魂のようだった。
 何か父親に訊きたいことがあるような気がした。言わなくてはならないことがあるような気がした。
 もし蟬が啼いていなかったら、もし満天の星の下で美味しいコーヒーを飲まなかったら、もしそこが都会から離れた山奥の桃源郷じゃなかったら、もし蚊に指を刺されなかったら、僕は父親にそれを言わなかったかもしれない。永久にそれを言う機会を失っていたかもしれない。
 バスルームの入り口で僕は踵を返し、キッチンでマグカップを洗う父親の背中に声をかけた。
「なあ、父さん」
 父親が振り返る。
「おう。どないしたんや? 風呂先に入ってええで」
「いや、ちゃうねん」
 僕が話したがっているのを察して、父親は洗い物を手早く済ませると、こちらへ向き直った。
「父さん、今まで生きてきて、いちばん幸せやったことって何?」
「おまえが生まれた時や。あの日のことは一生忘れへん。初めての子供で、生まれた瞬間、父さん嬉しくて泣いてもぉた」
 父親はズボンの後ろのポケットからおもむろに財布を抜き、中から、中学入学時に学校の制服を着て家の裏庭で撮った僕の写真を取り出して見せてくれた。少し大きめの紺のブレザー。まだ糊のついた、買ったばかりのパリパリのYシャツ。エンジ色のネクタイ。顔はお決まりのポーカーフェイスで、その身体は地面に足を踏ん張って立っているというよりも、操り人形のように見えない糸で宙に吊るされているようで、妙に体重を感じさせなた。真っ直ぐ立ってはいるものの、どこかギクシャクした不自然な雰囲気を放っている。どんなに平凡で特徴のない外見をしていても、見る人が見れば、あとひとつブロックを抜き取れば一気に崩れ落ちるジェンガゲームのような、その危うい“存在の不均衡さ”を感じずにはいられないだろう。
 僕から見れば、そこはかとなく不吉なものが漂うその写真を、御守りのように大切に持ってくれている父親の姿が、健気で、傷ましく、愛おしかった。
 僕は静かに話し始めた。
「父さん、僕ら五人はほんまに普通の家族やったよな。ほかのみんなと同じように、家族で一緒に出かけたり、誕生日を祝ったりして、幸せやったよな。僕さえおらんかったらよかったのに。なんで僕みたいな人間が父さんと母さんの子供に生まれてきたんやろな。ほんまにごめん。 僕が父さんの息子で」
 事件後、僕は初めて父親に面と向かって謝った。
 次の瞬間、父親は僕から眼を逸らし、親指と人差し指で目頭を突き刺すように抑え、見ないでくれとでもいうように、俯き、肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。父親が泣くところを見たのは生まれて初めてだった。謝っているのは僕のほうなのに、まるで父親が怒られて泣いているようだった。
 辛かったのだろう。本当に辛かったのだろう。志を抱いて島を飛び出し、どんな理不尽なことも我慢し、他人に迷惑をかけることなく、実直に、正直に生きてきたというのに、たまたま自分たち夫婦の間に生まれた精神的奇形児のせいで、人生を滅茶苦茶にされ、「殺人者の親」と罵られ、社会的な信用も失った。どうして自分がそんな目に遭わされるのか、悔しくて悔しくてたまらなかったのだろう。
 ──長男さえ生まれてこなければ──
 そう思ったこともあったはずだ。でもそれを誰にも言えなかったのだろう。父親はそういうことを決して口にできない人だった。僕が代わりに言ってあげるしかなかった。父親が胸の内に秘めた僕への負の感情を、父親になりかわって代弁することが、この時の僕にできる、父親への精いっぱいの償いだった。
 突然、子供時代の暗い記憶が蘇った。小学一、二年の頃のことだ。隣の席に、ほとんど何もしゃべらない男の子がいた。ある時僕は、どうしてもその子の声が聞きたくなった。コミュニケーションを取りたかったのではなく、単純に「声を出させてみたい」という衝動に駆られてしまったのだ。まるで珍しい動物の鳴き声を聞きたがるように。そのために僕がとった行動は今考えると信じ難いものだった。休み時間になると、僕は幼年期特有の天使のような無垢な残虐さで、一言も話したことのないその子の袖を掴み、いきなりお腹を殴った。その子は声を出さずに、お腹をおさえて屈み込んだ。僕は諦めなかった。襟を悩んでその子を立たせると、今度は半ズボンの裾から覗くその子の内腿を、思いきりつねり上げた。その子は苦悶の表情を浮かべながら、抵抗するわけでもなく、全く謂れのない唐突で理不尽な責め苦に、ただ黙って耐えていた。しばらくするとその子の左眼から、一筋の涙がスッとこぼれた。声の代わりにこれで許してほしいといわんばかりに。僕は興醒めしてしまい、その子を離して、何事もなかったように自分の席に戻った。
 何の反撃もせず、ただ黙って必死に苦痛に耐えていたその子の涙と、眼の前で泣いている父親の涙が重なって、いたたまれない気持ちになった。
 思えば僕はずいぶん長い間、父親の存在を無視し続けることで、繊細で我慢強い父親の心をつねり上げてきたように思う。
 父親と自分の間には何の共通点もないし、ほしいとも思わなかった。僕が好きなものに父親が興味を示さないように、父親が好きなものに僕も興味を示さなかった。
 父親を尊敬したことは一度もなかった。真面目なだけが取り柄のつまらない人間だと思っていた。自分がやったことで父親が苦しむかどうかなんて、毛の先ほども考えなかった。
 前髪付近にしかなかった父親の白髪は頭髪全体にひろがり、頭頂部のあたりの髪は少し薄くなっていた。
 拳を握り、声を押し殺し、肩を震わせ、叱られた子供のようにうなだれて泣いている、余りにも傷付き疲弊した初老の男の姿を目の当りにして、僕は初めて、自分の存在がどれほどこの人を苦しめてきたのかを思い知った。自分がこの人のことを、頭の片隅のさらに隅っこでさえ考えていなかった時、この人はずっと自分に傷付けられ続けていたのだ。今までずっと、自分の無関心によって、この人の心は内出血を起こすほどぎりぎりとつねり上げられていたのだ。
 それなのに、「自分の息子だから」と、ただそれだけの理由で、僕を愛さなくてはならないのだと自分自身に言い聞かせるように、僕の写真を肌身離さず持ち歩く、罪なほど生真面目な父親が、悲しかった。
 お母さんは、淳君の頭を優しく撫でながら、
「A君とこのおうちにはいつも感謝してるんよ。A君の弟さんも淳とよく遊んでくれてるし。これからも淳と仲良くしてやってね」
 と言ってくれた。
 家に帰ると、僕が淳君に暴力を振るったことが淳君と仲の良かった三男の耳にも入っていたようで、三男は僕のところへきて小声で尋ねた。
「A、今日、学校で淳君殴ったん?」
 僕は気まずくなり、しどろもどろになりながら咄嗟に言い訳した。
「いや、ちゃうねん、あんな、淳君が先にちょっかい出してきてんな、ほんでな……」
 僕が言葉に詰まると、もうそれ以上問い質すのは憐れだと思ったのか、弟は諭すようにこう言った。
「わかった。でも淳君は友達やから、もうせんとってな。なんかあったんやったら、俺に言ってくれたら、淳君にちゃんと話すから。約束してな」
 その時の弟の顔が今でも忘れられない。僕を咎めるふうでもなく、なぜ自分の兄が、みんな見ているところで、自分と仲良しの友達を、血が出てたんこぶができるほど殴らなくてはならなかったのか、さっぱり理解できず、ショックを受けているようだった。弟のその物哀しい表情は、ストレートに責められるよりも余計に辛く、胸が締めつけられた。
 警察の取り調べでも、精神鑑定でも、僕は淳君に対して、憎しみも、愛情も持ったことはなく、淳君と自分との間の情緒的交流を一貫して否定し続けた。
 人は、秘密を持つことで生きていけるのではないだろうか。それは自分の内側に設けるシェルターのようなもので、どんなに追い詰められようと、その中に逃げ込んでしまえば安心できる。体の自由を奪われようと、誰にも侵されることのない秘密の中では、人は自由に駆け回ることができる。
 僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭園だった。何人たりとも入ってこられぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。
 凶悪で異常な根っからの殺人者だと思われても、そこだけは譲れなかった。誰にも知られたくなかった。その秘密だけは、どこまで堕ちようと守り抜かなくてはならない自分の中の聖域だった。
 淳君の愛くるしい姿を、僕は今でもありありと眼の前に再現できる。
 身長は一四十センチ前後。細くさらさらとした栗色の髪には、いつも天使の輪が落ちていた。額は広く、肌の色は白く、少しぽっちゃり体型で、近付くと桃のような甘い匂いがした。眉は薄く、大きなアーモンド型の眼は、瞳の色素が薄く透き通り、きれいな虹彩の模様がくっきりと見えた。
 淳君が初めて家に遊びにきたのは、ちょうど祖母が亡くなった頃だった。その時から僕は淳君の虜だった。淳君はすぐに僕の名前を覚えてくれて、近所や学校で僕を見かけると、すーっと僕のほうへ近付いてきた。
 祖母の死をきちんとした形で受け止めることができず、歪んだ快楽に溺れ悲哀の仕事(グリーフワーク)を放棄した穢らわしい僕を、淳君はいつも笑顔で無条件に受け容れてくれた。淳君が傍にいるだけで、僕は気持ちが和み、癒された。僕は、そんな淳君が大好きだった。
 街で淳君を見かけると、僕はよく、タンク山、向畑ノ池、入角ノ池など、自分の好きな場所に淳君を連れて行った。
 ある時、近所の公園で見かけた淳君と、隠れんぼをして遊んだ。僕が隠れる番になり、公園の植え込みに身を潜めて、そこから淳君の様子を窺うと、始めのうちは楽しそうにはしゃいであちこち探しまわっていた淳君が、そのうち不安になったのか、急に僕の名前を呼んで声をあげて泣き出した。その瞬間、祖母のことを思い出した。ちょうど同じ公園で、僕が祖母に木登りを見せ、木のてっぺんに辿り着いたところで、「A、早ぉ降りてきて」と、僕を心配して泣き叫ぶ祖母の姿が、記憶のスクリーンに鮮明に映し出され、すぐそこで僕の名を呼び泣き喚く淳君の姿とオーバーラップした。
 自分は受け容れられている。自分が何をしても、しなくても、淳君は自分を好きでいてくれる。だがどういうわけか、僕は、自分が“受け容れられている”ことを、受け容れることができなかった。あの時祖母にしたように、淳君のほうへ駆け寄って、淳君を抱きしめることができなかった。穢らわしい自分、醜い自分が許容されることに、嫌悪感さえ感じた。
 かつて僕をもっとも癒し安心させ悦ばせた、いかなるものも原型そのままに受容する水のような優しさが、この時の僕を脅かし、混乱させた。
 あろうことか僕は、淳君がこちらに背を向けている隙に植え込みから抜け出し、泣き喚く淳君を公園に置き去りにしたまま、逃げるように家に帰った。
 僕は、自分が、自分の罪もろとも受け容れられ、赦されてしまうことが、何よりも怖かった。余りにも強烈な罪悪感に苛まれ続けると、その罪の意識こそが生きるよすがとなる。僕は罪悪感の中毒者(アディクト)だった。罪悪感は背骨のように僕を支えた。それを抜き取られると僕は、もう立っていられなかった。自分を許容されることは、自分を全否定されることだった。それは耐え難い、自分への“冒涜行為”に他ならなかった。
 憎まれたい。責められたい。否定されたい。蔑まれたい。ひりつくような罪悪感に身悶えしたい。それだけが“生”を実感させてくれる。
 この数日後に、僕は学校で淳君を殴った。
 グラウンドで淳君に暴力を振るったのは、淳君が僕にちょっかいを出してきたからでも、淳君が何か気に障ることを言ったからでもない。あの日、淳君は、グラウンドをひとりでぶらぶら歩いていた僕に、リズム感のズレた独特のスキップを踏みながら近付き、僕の袖を引いて、
「吊り輪、吊り輪」
 と、天使のような笑顔で、グランドの隅の吊り輪を指差し、僕に一緒にそこへ行ってもらえるように促しただけだった。
 ──自分は受け容れられている──
 どういう心理の捩れが生じればそうなるのか、この世界にいっさいフィルターをかけることなく、美しいものも醜いものも、視界に入るすべてのものをありのままに取り込んだ淳君のきらきら輝く瞳に、自分も含まれてしまうことが、耐えられなかった。僕は自分が侵され、溶かされていくような激しい恐怖に囚われ、気がふれたように淳君にとびかかり、馬乗りになって殴りつけていた。
 いったい誰が信じられるだろう。受け容れられることで深く傷つくような、蛆がわき蠅がたかるほどに腐敗した心がありうるということを。
 僕は、淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした。
 淳君が怖い。淳君に映る自分が憎い。
 淳君が愛おしい。傍に居てほしい。
 淳君の無垢な瞳が愛おしかった。でも同時に、その綺麗な瞳に映り込む醜く汚らわしい自分が、殺したいほど憎かった。
 淳君の姿に反射する自分自身への憎しみと恐怖。僕は、淳君に映る自分を殺したかったのではないかと思う。真っ白な淳君の中に、僕は一黒い“自分”を投影していた。
「抱きしめたい気持ち」の白い縦糸。
「無茶苦茶にしたい気持ち」の黒い横糸。
 その白黒の糸を通した二本の針が、僕の心を交互に突き刺し、隙間なくぎっちりと縫い塞いだ。
 淳君の瞳が映し出す醜い自分を消し去り、綺麗な淳君を自分のそばに引き留めたい。
 この二年後、僕は淳君と自分自身を、タンク山で同時に絞め殺してしまった。
 僕の頭上に、虛っぽの空が拡がっていた。太陽は太陽であってもう太陽でなく、雲は雲であってもう雲ではなかった。
 精神鑑定が始まって一か月ほど経った九月中旬。
 昼過ぎに、突然房の扉が開いた。その日は鑑定面接の予定は入っていなかった。
「面会やで」
 シラノだ。四十代前半くらい。いつもは誰が面会に来たのか僕に伝えるのだが、この時はなぜか言わなかった。
 シラノに連れられこぢんまりした面談室に通された。
 正方形のテーブルの向こうにふたつ並んだパイプ椅子に、母親と、父親が並んで座っていた。
 不意打ちもいいところだ。何を訊かれても感情の動きを表に出さない僕に業を煮やした誰かが、僕から生の反応を引き出すために、謀ったとしか思えなかった。家裁関係者か、鑑定人か。
 精神鑑定が始まってからというもの、僕はいつも以上に感情を表に出さないよう努めた。自分をコントロールすることだけにひたすら意識を集中した。そんな状況で、よりにもよって、自分のいちばんの弱点を突かれたのだ。
 シラノに促され椅子に座ると、僕は母親と眼を合わさぬようテーブルのあらぬ一点を見つめた。
 母親が、涙まじりにポツポツと話し始めた。
「A、体調はどないなん? また痩せたんとちゃう? ご飯はちゃんと食べとんの?」
 家に居た頃と変わらない、僕を気遣う母親の優しい言葉と表情に胸が締め付けられた。
 僕は俯き、じっと耐えたが、こらえ切れなくなり、気付くとマシンガンと化した涙腺から、涙の弾を連射していた。
 次いで父親が口を開いた。
「ええか、A。これだけは言うとくぞ。たとえ何があったにせよ、おまえはお父さんとお母さんの息子や。せやから──」
 父親の言葉を遮って、僕は尻に画鋲でも刺さったように勢いよく椅子から立ち上がり、テーブルに両手をついて母親を睨みつけ、唾飛沫を撒き散らしながら、こう叫んだ。
「あんなに会わんて言うとったのに、何で来たんやぁー!」
 その言葉は母親にのみ向けられていた。父親の姿は視界に入らなかった。割れた、ドスの効いた声だった。自分の声ではないような気がした。それまで一度も大声で怒鳴ったことなどなかった。僕はこの時、自分の叫び声を生まれて初めて聴いた。
 これまで一度も見せたことのない、僕のあまりの剣幕に、母親はよその子を見るような眼であっけにとられてポカンと口を開けた。
 僕のほうも、自分の吐いた言葉に驚いた。
 ──なんだ? 何を言ってるんだ僕は?──
 母親を睨みつけながら僕の眼からは、とんでもない勢いで大粒の涙が雪崩れ落ちた。十四年間、身体の内側に流し続けていた涙が、一気に体外へ逆流したかのようだった。僕の顔の下で滝行が出来るのではないかと思えるほどだった。
 母親は、震える手で恐る恐る僕のほうへハンカチを差し出した。
 僕はそのハンカチを乱暴にぶん取り、
「いらん事すんな!」
 と言って、母親の顔に投げつけた。
 母親の顔に当たったハンカチが、ひらりと床に落ちた。母親はあまりのショックにハンカチを拾うこともせず、唇を痙攣させながら、何か言わなくてはと、必死に言葉をひり出そうとしていた。
「なんでって……。母さんあんたのことが心配──」
 声が震えていた。僕はその言葉を遮ってとどめを刺した。
「はよ帰れやブタぁー!」
 そこまで言うと僕は、電池が切れたように椅子にへたり込み、両腕をダランと下げ、気椅子で処刑された死刑囚のようにガクンと深く首を垂れた。半開きの眼は涙の膜で覆われ、僕の世界は涙の海に沈んだ。
 シラノが近寄り、後ろから僕の両脇に両腕を差し込んで強引に立たせると、そのまま引き摺るように僕を面談室から連れ出した。
 部屋に戻る途中、廊下で家裁の調査官三人とすれ違った。
 ──やっぱりおまえらか……──
 白々しく会釈する彼らを一瞥して、部屋に戻った。
 洗面所で顔を洗い、涙の痕跡を消そうと努めた。
 あんな大声を出したのは初めてだった。声帯が火傷をしたようにヒリヒリと痛んだ。
 タオルで顔を拭い、少し落ち着くと、胸の中で一点の黒いシミがみるみる拡がった。
 母親に放った自分の怒鳴り声が、自分の中に反響した。
 母親に向かって、何てことを言ってしまったんだろう……。涙を流す母親の顔が、僕を見つめる彼女の怯えた眼が、頭から離れなかった。
 入浴を終え部屋に戻ると、机の上に用意された昼食を食べ、歯を磨き、母親が面会に来るのを待った。
 ──怒っているだろうか? 許してくれるだろうか?──
 落ち着かなかった。一刻も早く母親に謝りたかった。
 三十分ほど経って、シラノが迎えに来た。シラノに連れられ、三日前に母親を怒鳴り散らした面談室に通された。長い三日間だった。
 前回と同じように、テーブルを挟んだ向かい側の椅子に母親が座り、テーブルの上にはブレスレット型の珠数が置かれていた。母親の表情にはどこか怯えの色が挿していた。
 ──母さんが僕を怖がってる──
 僕はそれがたまらなく辛かった。
 母親の前に座り、僕は泣きながら謝った。
「母さん。こないだは、あんなひどいこと言うてごめん。ほんまに悪かった」
 母親も涙を流し、自分の口を手で抑え、気にしなくていいというふうに首を左右に振った。それから僕のほうへ、また恐る恐るハンカチを差し出した。僕はそのハンカチを今度はそっと受け取り、涙を拭った。母親が口を開いた。
「ええねん。お母さん嬉しかった。あんたが初めて正直な感情をぶつけてくれた気がして」
 違う。そうじゃない。あれは僕の本心じゃない。
 しばらくの沈黙のあと、僕はどうしても母親に伝えたかったことを言った。
「母さん、よう聞いてな。僕は病気やねん。僕がこんなふうになってもぉたんは、母さんのせいとちゃうねん。誰のせいでもないねん。せやから、母さんには自分を責めんとってほしい」
 母親が僕に尋ねた。
「病気って、何の病気やの? あんたはどこも悪くない。優しくて、怖がりで、ええ子や。その気持ちは母さん今も変わってへんよ。なんで、なんで相談してくれへんかったん? あんたが何か悩みがあるんやったら、母さん、なんぼでも力になってあげたのに。なんで言うてくれへんかったの?」
 僕は、ぼそっとつぶやくように言った。
「知らんほうが幸せなこともあるやろ?」
 母親は高速で眼を瞬いた。
「何を、何を言うんよA! 自分の子供のことは何でも知っときたいのが親やろ? 知らんで幸せなことなんか、あるはずないやんか……」
 言い終えると、母親はテーブルに突っ伏して噫び泣いた。僕はどう声をかけたらいいのかわからなくなってしまった。
 母親が泣き止むと、僕は話を逸らそうと、テーブルの上に置かれた珠数を指差して母親に尋ねた。
「その数珠、何?」
 母親は涙を拭いながら顔をあげて答えた。
「あぁ、これ? あんた、ちょっと前に珠数欲しい言うとったやろ? おばあちゃんの墓参りに行きたい言うて……。なんか母さん、急にそれ思い出して、買うてきたんよ」
 僕は逮捕される二週間ほど前、母親に珠数をねだり、祖母の墓参りに連れて行って欲しいと頼んだ。逮捕されることを予感して、祖母に別れを告げたかったのだろうか。自分の罪を、洗いざらい懺悔したかったのだろうか。自分がその時何を考えていたのか、本当のところ、今でもよくわからない。結局、祖母の墓参りに行く前に逮捕された。
 母親との面会は十五分ほどで終わった。母親は珠数をシラノに預けた。母親から受け取ったハンカチも手元に置きたかったのだが、それは許可されなかった。
 家に居た頃、居間のテレビでよく母親と一緒に映画を見た。面白そうな映画を選んでは、母親に「洗い物はあとにして一緒に見ようよ」と声をかけた。僕は母親とコメディー映画を見るのが好きだった。映画が見たかったわけじゃない。映画なんかどうでも良かった。おかしな映画を見て、自分の隣で声をたてて笑う母親の笑顔が見たかっただけだ。僕がこの世でいちばん好きだったものは母親の笑顔だった。
 キッチンで母親と二人っきりになると、僕は毎度のように、
「兄弟三人の中で誰がいちばん好き?」
 と、母親に尋ねた。すると母親は唇の前に人差し指を立てて、ヒソヒソ声でこう言った。
「あんたに決まっとおやん」
 実際は母親の愛情は兄弟三人に分け隔てなく、まったく平等に注がれていた。僕を喜ばせるために、母親がそう言ったことは知っていた。でも僕は母親の「いちばん」になりたかったのだと思う。僕は母親の笑顔が大好きだったのに、なぜ母親をあんなに泣かせるようなことをしてしまったのだろう……。
 母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについてはまったく気付いていなかったし、母親は僕を本当に愛して、大事にしてくれた。僕の起こした事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも実際はそうではない。子供の頃は誰だって自分だけの秘密の世界を持ち、まったく異なるふたつの世界を同時に生きるものだ。普通とは違ったものに興味を持ったり、妙な物を集めたり。そんな秘密の世界に耽溺している時に、親の顔が頭に浮かぶだろうか。完全に自己完結した、閉じられた自分だけの世界で“独り遊び”に興じる時に、周りのことなど見えるだろうか。
 僕は「事件」と名の付くものは、どんな事件であっても、人が想像する以上に「超極私的」なことだと捉えている。事件のさなか、母親の顔がよぎったことなど一瞬たりともなかった。須磨警察署で自白する直前になって、初めて母親のことを思い出した。あの事件は、どこまでもどこまでも、僕が「超極私的」にやったことだ。母親はいっさい関係なかった。
「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」
 少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰もかれもが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。
 僕は自分のやったことを、母親にだけは知られたくなかった。それを知った上で、母親に「自分の子供」として愛してもらえる自信がなかったからだ。でも母親は、僕が本当はどんな人間なのか、被害者にどれほど酷いことをしてしまったのか、そのすべてを知っても、以前と同じように、いやそれ以上に、ありのままの僕を自分の一部のように受け容れ、愛し続けてくれた。「役割を演じている母親」に、そんなことができるはずがない。母親
の愛には一片の嘘もなかった。僕が母親を信じる以上に、母親は僕を信じてくれた。僕が母親を愛する以上に、母親は僕を愛してくれた。
 あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷりと愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
 母親のことを考えない日は一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。
 高速道路に入り、パーキングエリアでワゴン車から降りると、別の乗用車に乗り換えてまた移動を続けた。
 昼過ぎに、僕と三人の観察官の四人で都内のビジネスホテルにチェックインした。
 部屋で一息ついていると、ドアがノックされ、三人の観察官が入ってきた。サゴジョウが茶色い手提げ紙袋の中から携帯電話を取り出し、自分たちとの連絡用にと言って、僕に渡した。次に彼は大学ノートを一冊取り出して、今日からの生活を日記に書いてもらいたいと言った。僕は了承し、大学ノートを受け取った。
 ハッカイが「食事に行こう」と言った。四人で部屋を出てエレベーターで一階に降りた。ロビーで女性の観察官二人と合流し、六人で外へ出た。
 中華料理店で食事を済ませ、しばらく街を歩いて時間を潰し、夕方頃、ホテルに戻った。シャワーを浴び、ベッドに腰掛けてテレビをつけると、ちょうど僕の仮退院のニュースが流れた。
 淳君のお父さんは顔を映さずに記者会見に臨み、現在の心境について次のように語った。
「ついにこの日が来たのかなと、そういう感じです。もともと、いつかはこの仮退院の日が来るっていうこともわかっていましたので、最近のマスコミ報道とかを見ていますと、近いのかなというふうには思っていました。
 六年そこそこの期間が長いかというと、それほど長いとは私には思えません。
 会いたいとかいうことは今のところこちらとしてはありません。本当に謝罪の気持ちがあれば、どのような形でもいいから、自分で本当に考えると思うんですね。そういうことから始まるのがいちばんじゃないかなと思います。
 何をもって区切りにするのかは難しいと思います。昨年は七回忌で、それもひとつの区切りだろうと思いますけど、一生本当の意味での区切りは来ないのかもしれません。矯正教育を六年半受けたことで、それで罪が償えたわけではないと思います。一生、心に重い十字架を背負って生きていってほしいと思います」
 彩花さんのお母さんは担当弁護士に文書を託し、記者会見で弁護士がそれを読み上げた。
「医療少年院で確実な矯正教育がなされたものと信じたい半面、あれほど残虐な行為をした男性が、わずか六年という時間で人間の心を取り戻し、まっとうな社会生活を営めるのかということに疑問を感じているのも否定できません。
 私個人としては『社会でもう一度生きてみたい』と男性が決心した以上、どんなに過酷な人生でも生き抜いてほしいと思っています。
 私たち遺族に対する謝罪とは、もう二度と人を傷つけず、悪戦苦闘しながらもいばらの道を生き抜いていくことしかない、と私は考えています。
 決して罪を許したわけでもありませんが、彩花ならきっと凶悪な犯行に及んだ彼が、それでもなお人間としての心を取り戻し、より善く生きようとすることを望んでいるように思えます。
 現実社会は決して甘くはありません。そして、平穏な日々ばかりの人生ではないでしょう。それでも、人間を、生きることを、放棄しないでほしい。それこそが私たち遺族の痛みを共有することになるのでしょう。
 なぜなら、私たちも悪戦苦闘しながら、嵐の中をもがきながら自分の道を歩いているのですから」
 弁護士は最後の一行を読む時に声を詰まらせた。
 僕は固唾を呑んでテレビ画面を見つめた。
 淳君のお父さん、彩花さんのお母さんの、厳しく、重い言葉が、頭の中をぐるぐるとまわった。僕はテレビのスイッチを消してベッドから立ち上がり、窓を開けた。鉄格子の区切りがなくなった空を見上げ、被害者の方たちのことを思った。
 この同じ空の下のどこかに、淳君のお父さん、お母さん、お兄さん、彩花さんのお母さん、お父さん、お兄さんがいる。想像を絶する苦悩を抱えながら、自分と同じこの空の下で、今この瞬間も生きている。彼らは、今日この日を、いったいどんな気持ちで迎えたのだろうか….。
 朝早く、まだ他の入居者たちが寝ている暗いうちに、こそこそと離れを出る。電車に乗り、先方の施設の最寄り駅に着くと、改札を抜け、駅前のファーストフード店で朝食を摂る。三十分ほど時間を潰し、店を出て歩きながら、施設長にこれから向かいますと電話をかける。十五分ほどで施設に着く。インターフォンを鳴らし、施設長に挨拶を済ませると、箒と塵取りを借りて、仕事が始まる時間まで施設の周りを掃き掃除する。犬の散歩をしているおばさんが通りかかり、
「ごくろうさまぁ〜」
 と声をかけてきた。僕は声を出さずに小さく会釈をして掃除を続ける。二十分ほど掃除を続けていると、玄関から施設長が出てきて僕にこう言った。
「おぉ~い、もぉいいって。仕事の前からそんな働くことない。こっちきて、いっしょに茶でも飲もぉや」
 こういう時は「はい、わかりました」と返答し、気を利かせ声をかけてくれた施設長の言うとおりにするのが“正解”だということを、僕は知らなかった。
「いいです、いま喉渇いてません」
 バカなのかと思われてしまいそうだが、僕はこのとおりに言った。施設長はちょっと困ったように頭をぽりぽり掻いて、でも不快そうにするわけでもなく、踵を返してゆったりとした足取りで家の中に入っていった。僕はかまわずに掃除を続けた。
 僕は自分の家や自分の部屋、自分の領域(テリトリー)に他人が入ってくることが苦手だ。同じように、他人の領域に自分が足を踏み入れることにも強い抵抗を感じる。相手が自分の過去を知っている場合は余計にそうだ。たとえ向こうが気にしない場合でも、僕が気にする。落ち着かなくなる。うまく言えないのだが、自分が属する世界を見失いそうになるのが嫌なのだ。例えば映画の撮影で、冷酷な殺し屋の役を演じる俳優が、休憩時間になっても他の共演者たちと一切会話をせず、役作りに徹するように、僕は僕のステージで僕を演じるために、いつも気を張り詰めさせておきたい。そのためには、自分の領域から出てはいけないし、他人の領域に入ってもいけない。僕は狭い世界で生きている。とても狭い世界で生きている。僕が僕でいられるのは、とてもとても狭い範囲なんだ。その範囲から一歩でも出ると自分が立っている場所がわからなくなる。ちゃんと立てているのかどうかもわからなくなる。それが気持ち悪い。気持ち悪くて、いてもたってもいられなくなる。
 仕事内容は廃品回収だった。公園やマンションのゴミ集積所をまわり、トラックの荷台に積み込む。最後はクリーンセンターに行ってトラックからゴミを降ろす。給料は日給月給で七千円。僕には充分すぎる額だった。
 運転しながら、ジンベイさんが僕に訊いた。
「あんちゃん、いくつよ?」
「二十一です」
「ほえぇ~! ほんとかあ? なんか高校生みてぇだなぁ~」
 僕は俯いた。
 年齢を訊かれて答えると、だいたいいつもこういうリアクションが返ってくる。更生保護施設で僕が「少年A」だと触れまわったあの少年も、ジンベイさんと同じようなリアクションだった。そうして僕は毎回、相手のそういった反応に少なからず傷付く。僕は決して童顔というわけでもないし、極端に身長が低いわけでもない。なのにどういうわけか歳相応にみられない。たいてい、実年齢よりもかなり下に見られる。相手が気を遣って「若く見えますね」と言っても、言葉どおりに受け取れない。その「若いですね」という響きの中に「異様に稚いですね」というニュアンスが含まれていることを敏感に嗅ぎ取ってしまうからだ。僕にはどこか“不健康な稚さ”がある。僕自身それは自覚している。多分、僕は発達が他の人たちよりアンバランスなのだ。「外見はいちばん外側の中身」だと言ったのは誰だったろう。言い得て妙だ。人間の内面は驚くほど外見に反映される。いくら服装や髪型を変えても誤魔化せないものがある。僕が醸し出すその一種異様な“稚い”雰囲気は、未だこの身体のどこかに眠っているかもしれない、性的なものも含めた自身の“病理”と無関係ではないように思えてしまって、「若いですね」と言われるたび、その潜在的な病理を見透かされ、指摘されているようで、ビクッと身構えてしまう。
 ジンベイさんは通りがかりに見えた人や建物や過去のムカつき体験をネタに話題を振り、自分で出した話題にいきなり感情的になって、「なっ、そぉ思うだろぉ?」と、僕やイモジリさんに同意を求めた。この人、ちょっと情緒不安定なのかもしれないな、と思った。あまり刺激しないように僕は当たり障りなく応じ、イモジリさんはやんわり反論する。でもそれで喧嘩になったりすることはなく、なんというか、息の合った漫才コンビのようで、言っていることはたいして面白くないのに、この二人の人柄のギャップが、見ていて楽しかった。僕はこの二人のことが好きになった。
 昼になると三人で定食屋に入る。いつも決まった店だった。僕は店に入ると注文する前にまずトイレに行った。席に戻るとジンベイさんから、
「あんちゃん、注文してから、トイレ行きなって」
 と言われた。
「なんでですか?」
 僕は尋ねた。
「いや、注文してからのほうが待ち時間短縮できるしよ、三人同時にまとめて注文したほうが、店の人もわかりやすいし、俺たちも一緒に食べられるだろ?」
 僕はそういった一般常識がまったく理解できなかった。待ち時間の短縮と言ってもたかだか一、二分くらいのものだ。店の人が同じ席に二回注文を取りにくることがそんなにいけないことだろうか。三人で同時に食べる必要がどこにあるのだろう。理解はできなかったが、僕は彼の中ではそういう“ルール”になっているのだろうと思うことにして、
「はい。わかりました」
 と、素直に応じた。僕の極端なところだ。好意を持った相手の発言は、内容にやや不満があってもとりあえず受け容れる。僕は好意を持つ相手にはハチ公並みに従順になる。考えてみれば、僕ほどマインド・コントロールにかかりやすい人間もいないのではないだろうか。反対に嫌いな相手が言うことは、それがたとえどんなに正論でも全否定する。結局のところ、人間は感情の動物なのだ。
「イモさんあいつらの肩持つのかよ! だいたい手で触っただけでわかるかっつぅ〜の。ヤバいのは小便だけじゃねえぞ、もし爆弾だったらどぉすんだよ!」
 ジンベイさんは興奮すると話が飛躍する。爆弾だったら余計に突っついてはマズい気もするが、そんなツッコミが許される雰囲気ではなかった。
「なあ、あんちゃん、俺の言ってることわかるだろぉ?」
 と、今度は僕に同意を求めた。僕はまた中庸の精神で、
「袋の、できるだけ上の方に、一か所だけ穴を開けて、そこから覗いて中身を確認したらどうですか?」
 と、恐る恐る言った。これも、不正解。だったらしく、
「一か所じゃわかんねぇ~って! だいたいああいう汚ねえもんは、袋の底のほうに入ってんだよ! 俺の経験から言ってよぉ!」
 と一喝された。僕は押し黙る。
 ジンベイさんは感情の起伏が激しいが、一度怒りを吐き出すとすぐに機嫌が直り、ケロッとした顔で次の話題を振る。嫌なことがあると吐き出して、誰かに“同意”を求める。“意見”や“アドバイス”が返ってくると噛み付く。そういったプロセスを経て彼の精神は濾過される。実はこの最後の“噛み付き”がもっとも重要なポイントなのかもしれない。最初に吐き出す時には感情のバロメーターがMAXになっている。安易に「はい、そのとおりです」と“同意”してしまうと「ホントにわかってんのかよ!」と喰ってかかってき
そうな勢いだ。全否定するとキレてしまいそうだから、ちょうどいい具合に“噛み付ける余地”を残して返答する。そうやって一定の間隔をあけながら怒りを吐き出すことで、徐々に落ち着きを取り戻す。
 もしかするとイモジリさんはそういったことをすべてわかっていたのではないか、という気がする。人付き合いが苦手な人は、人の心を読むのが上手い。人の心が読めてしまうから、人と付き合うのが嫌になるのかもしれない。
 奥さんはとても慎重な性格で、日中以外はひとりで外出することがなかった。いつだったか、家の近所で開かれた自治会のコンサートに奥さんと一緒に出掛けたことがあった。その日もYさんは留守で、家には僕と奥さんしかいなかった。夜の七時頃、僕が二階の自室で寝転がって漫画を読んでいると、遠慮がちに襖を叩く音がした。起き上がって襖を開けると、奥さんが立っていた。奥さんは少し申し訳なさそうな顔をして、俯き加減でこう言った。
「あのさ、もし、忙しくなかったら、○○会館で自治会のコンサートあるんだけど、一緒に来てもらえない? もう外暗いし、ひとりで行くの怖いから」
 その言葉を聞いて、僕は耳を疑った。
 ──ひとりで行くのが怖い? 奥さんは、僕と一緒に夜道を歩くことは、怖くないのだろうか?──
 告白すると、僕はYさん夫妻の家に住まわせてもらっていた当初、心のどこかでこう思っていた。
「Yさんが僕の身元引受人になることを了承したから、奥さんはYさんに従って仕方なく僕を受け入れたんだ。本当は凶悪な犯罪を犯した僕のような者と寝食を共にするなんて、嫌に決まっている」
 僕は奥さんのことを何ひとつわかっていなかった。もし奥さんが、本当に僕のことを「犯罪者」として見ていたのなら、夜道をひとりで歩くのが怖いからという理由で、僕に同伴を求めるだろうか。そんなことはあり得ないと思う。ひとりの人間として、ちゃんと信頼してくれたからこそ、奥さんはあの夜、僕にあのように頼んだのではないか。もしかすると、あれは奥さんなりの、「私はあなたを信頼しています」という、僕へのメッセージだったのかもしれない。
 盆休みには、Yさん夫妻の息子さん、娘さんが訪ねてきた。奥さんは大切なお二人に僕を引き合わせた。僕のほうは、本当のところどう接すればいいのかわからず戸惑ってしまったのだが、何も話せなかった僕の代わりに、奥さんは僕の仕事や趣味について、息子さんや娘さんに明るく話してくれた。僕に対して偏見や先入観を持っていたのなら、愛するわが子に僕を会わせたり、僕について話をしたり、そんなことはできるはずないと思う。
 それでも奥さんは、決して僕の過去を度外視して僕と接していたわけではなかった。
 奥さんと過ごした時間の中で、いちばん印象に残っている出来事がある。
 二〇〇四年十二月。保護観察期間が残り一か月を切った頃、関西テレビで、事件から七年間の淳君のご家族の軌跡を追ったドキュメント番組が放送された。当時僕を支援していた民間のサポートチームのリーダーである関西の弁護士のWさんから、その番組を録画したビデオテープが届いた。僕はYさんから、
「ひとりで見ちゃだめだよ。僕が仕事から戻ってから、一緒に見よう」
 と言われた。でも僕は、どうしてもそれは自分ひとりで見なくてはならないものだと思い、Yさんの言いつけを破って、居間へ降り、届いたビデオテープをビデオデッキに入れ、ソファーに座り、再生ボタンを押した。奥さんはその時、居間のすぐ横のキッチンで夕飯の支度をしていた。珍しく自分から居間へ降りてきた僕を見て、奥さんは僕が何をしているのかすぐに察した。そのビデオは、Yさんと一緒に見る約束だったことを奥さんも知っていたと思う。でも奥さんは僕を咎めるでもなく、夕飯の支度を中断して自分も居間へやってくると、僕の右斜め前六十センチほどのところに正座をし、僕と一緒に、事件についてのドキュメント番組を、ただじっと見てくれた。
 僕は奥さんとは、事件について話したことは一度もなかった。でも奥さんは、僕の過去を見て見ぬ振りしたのではない。決して生半可な気持ちで僕を受け容れたわけではない。僕が何をしてきた人間なのか、どんな罪を背負っているのか、それらすべてを知った上で、僕のことを、「罪を背負ったひとりの人間」として、受け容れ、寄り添ってくれた。今でもよく、あの時の、僕のすぐそばで正座をしてテレビ画面を見つめる、毛玉のたくさん付いたピンクと白のボーダー柄のセーターを着た、斜め四十五度の奥さんの後姿を、その小さな背中を、しみじみと思い出す。今なら素直に思い浮かべることができる。あの時の奥さんがいったいどんな表情をして、どれだけ真剣な眼をして、僕と一緒にテレビの画面を見つめていたのかを。
「罪の意味 少年A仮退院と被害者家族の7年」。それが番組のタイトルだった。淳君の二歳年上のお兄さんにスポットライトを当て、事件後、彼が何を思い、どのように苦悩して生きてきたのかを取材し、第13回FNSドキュメンタリー大賞を受賞した作品だった。
 仮退院が近付いた頃、更生の信憑性や治療の成果を判断するため、僕は複数の外部の医師と面接した。その時に何度か会って話をした児童精神科医が、この番組の中で、少年院で僕に会った時の印象を次のようにコメントした。
「礼儀正しく、作り直された人工的な印象を受け、壊れやすい温室の花を連想した」
 そう言われても仕方ないなと思った。僕は「精神科医」という肩書を持つ人に対しては、ことさら冷静に、感情や表情を消して振る舞うのが習い性だからだ。
 このコメントを見た奥さんが、ぽろっと口にした言葉が忘れられない。
「私は、少年院で初めてA君に会った時、そんなふうには思わなかったけどなぁ~」
 奥さんは、僕に聴こえるように意識して言ったのではなく、本当にただ率直に、思ったままを言葉にしたような口振りだった。その何気ない一言は、僕の心をじんわりと温めた。
 番組の最後のほうで、淳君のお兄さんは加害者の償いについて次のように話した。
「更生してくれるのは結構なこととは思いますけど、内心はどうして弟はあんな目にあわされたのに、相手側はのうのうと生きられて、まともな生活ができるのかなと思います。もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れにすぎない」
 重い言葉だった。僕が施設でのうのうと守られているあいだ、淳君のお兄さんはこんな気持ちを抱えながら、独り苦しみ続けていた。
 僕が「謝罪したい」と思うこと自体、傲慢なのかもしれない。どうすればいいのだろう。これほどの苦悩を、これほどの憎しみを、僕はどうやって受け止めればいいのだろう。僕は思考停止状態に陥り、途方に暮れてしまった。
 番組が終わると奥さんは、まるでずっと息を止めて見ていたかのように、長く深い溜め息をついた。奥さんにとっても、きっとこの番組を見るのは辛かったろうと思う。見終わってもお互い、何の感想も言わなかった。一言も言葉を交わさなかった。
 僕が停止ボタンを押し、テレビを消すと、奥さんは、「よっこらしょ」と言ってゆっくりと立ち上がって、また何事もなかったように夕飯の支度を再開し、僕はそそくさと二階の部屋へと戻った。そのあとも、奥さんとその番組について話すことはなかった。でも僕はあの時ほど、身も心も奥さんを近くに感じたことはなかった。嬉しかった。本当に嬉しかった。
 奥さんがどれほど真摯に僕と向き合ってくれていたのか、寄り添ってくれていたのか、当時の僕は、奥さんの深い気持ちを、ちゃんと受け止めることができなかった。壁を作っていたのは奥さんではなく、僕のほうだった。
 ──本当は嫌なくせに──
 心のなかでそう呟きながら、自分の過去を口実にして、僕は奥さんに対して壁を作っていた。僕は最低だった。卑屈で、醜くて、人の気持ちを想像できない、歪みきった人間だった。
 奥さんは、僕の罪もろとも、僕をひとりの人間として受け容れ、僕と、僕の犯した罪に、静かに寄り添ってくれた。その体験は今でも、僕の大事な糧となっている。
 保護観察期間が終了する数日前、課長が両手に大きな手提げ袋を抱えて、最終面談に訪れた。二階の自室で課長と差向いに胡坐をかき、最後の会話を交わした。
「これね、うちの息子の服なんだ。サイズが合うかどうかはわからないけど、よかったら着てよ。合わなければ捨ててくれていいから」
 課長は持ってきた手提げ袋を開いて僕に見せながら言った。僕は特に何の考えもなく課長からその服を受け取った。
「初めて君と会った時さ、ほら、高速のパーキングで、あの時、君をパッと見てね、これは“勘”としか言いようがないんだけども、“この子は大丈夫そうだ。きちんとやっていける”って思ったんだよ。短い付き合いだったけど、元気でやってくれな」
「はい。いろいろお世話になりました」
 玄関で課長を見送った。課長は少し歩いてからこちらを振り返り、「しっかりな」というように右手を大きく振り挙げた。僕は深くお辞儀をした。
 恥ずかしく、情けない話であるが、自分の子供の服を僕に与えた課長の気持ちに思い至ったのは、ずっとあとになってからだった。他人の子供を殺めた僕に対しては、たとえ観察官であっても、人の親として決して許せない気持ちを持つと思う。そんな人間に、自分の子供の服を与えた彼の中には、どんな思いがあったのだろう。
 課長はひとりの人間として僕と接し、「自分のしたことをきちんと見つめて、しっかと前を向いて生きて行ってほしい」という願いを込めて、自分の子供の服を、僕に手渡したのではないか。
 課長だけではない。社会に出て以来、僕と接し、僕を支えてくれた人たちは皆、形はそれぞれ違っても、仕事としてだけではなく、ひとりの人間として僕と向き合ってくれていたのではない か。
 今更言っても詮ないことだが、もっと早くそれに気付き、自分を支えてくれた人たちひとりひとりに、この感謝の気持ちを直接伝えたかった。

 二〇〇五年元旦。保護観察期間が終了し、僕は本退院となった。この日から、法的な縛りはいっさいなくなった。
 青味が皮膚に色移りしそうな晴れ渡る空を見上げ、僕は被害者の方たちのことを思った。
 淳君のご遺族、彩花さんのご遺族は、今自分が見上げるこの青空を、どのような思いで見上げているのだろう……。
 ──もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、所詮言い逃れにすぎない──
 淳君のお兄さんがドキュメント番組で口にしたこの言葉が、僕の見上げる空に響き渡る。
 僕が更生しようと、淳君も彩花さんも、戻ってくることはない。自分が生きて、更生して、謝罪するのは、淳君のお兄さんが言ったように、ただの自己満足に過ぎない。僕が「謝罪したい」「更生したい」と思うこと自体が、傲慢極まりないことなのかもしれない。
 じゃあどうすればいいのだろう。相手を傷つけることになっても、ひたすら謝罪を続けていくことが本当に正しいのだろうか。謝罪とは何だろう。償うとはどういうことだろう……。
 明確な答えが出せず、「贖罪」について思い迷い、混乱したまま、僕はYさんの家を出て職場の近くにアパートを借り、生まれて初めてのひとり暮らしを始めた。
 仕事はプレス工だった。まだ不景気になる前でけっこう忙しく、月に手取りで十七、八万は稼いだ。家賃は三万。食費や光熱費を差し引いて、一か月に十万は貯金できた。酒も煙草もやらず遊びにも行かない。余計な物も買わない。銀行口座の貯金額が増えていくことだけが楽しみだった。
 家での食事はカップラーメンと冷凍食品のみ。外食はいっさいしなかった。もっとも、食生活に関しては無理に節約していたわけではなく、僕はもともと食べることに興味がなかった。もし食事の代わりにガソリンでも飲んで動けるのなら、僕は間違いなくもう二度と“食べる”という行為には従じないだろう。冗談に聞こえるかもしれないが至って本気だ。それほど僕には、“食べる”という行為が煩わしいったらない。うまく言えないが、僕が“食事をしている”というよりも、僕が“食事という行為に食べられている”という
気がするからだ。
 休日は朝早くに起きてジョギングをし、帰ってシャワーを浴びる。軽くストレッチをしてから冷蔵庫を開け、買い溜めしてある冷凍食品を取り出してレンジで温める。温め終わったらレンジ前の空きスペースに皿を置いて、冷蔵庫をテーブルがわりに立ち食いする。食べ終えたらそのまますぐ横の台所で皿を洗い、洗い終わったら回れ右して三歩進み、浴室の洗面台で歯を磨く。
 面倒なことは“流れ作業”でさっさと済ませてしまうに限る。安くて量のあるパスタやチャーハンを幾つも買って冷凍室にぎっしり詰め込んだ。食品の買い出しは週に一回。一週間分の“燃料”をまとめ買いする。“味を楽しむ”という概念は持ち合わせていないため、同じ食品をいくつも買う。買い物カゴの中には同じ食品ばかりが目一杯入っている。たまにレジで自分の後ろに並ぶ客が怪訝な顔をするが、僕は気にしない。胃袋に入ればどれも同じペーストになるものを、わざわざ選ぶ意味がわからない。
 食事には頓着しないが水分はよく摂る。よく摂るというよりも、過剰に摂る。夏でも冬でも、特にストレスが溜まると僕は異常に喉が渇く。一日三リットルはフツーに飲む。まともに食事を摂らないで水ばかり飲む。すると、別に痩せるつもりはないが、水ダイエットをしているような状態なので体重が減っていく。夏場は特にヤバい。だが体重が減ったからといってバテやすくなったりはしない。むしろ身体の調子はすこぶる良かったりする。
 早起きが習慣になっていたのか、毎朝五時には自然に眼が覚めた。
 洗面所へ行って歯を磨き、顔を洗い、洗顔フォームの泡を利用してそのまま髭を剃った。
 いざ“自由”を与えられてしまうと、何をしていいのかわからなくなる。選択肢が増えすぎると逆に何も選べなくなる“決定回避の法則”だ。「山谷ブルース」を歌った岡林信康によれば「自由っていうのは空に浮かんでる凧」らしい。
 糸を切れば自由になれるか? 糸で地上に繋がれているからこそ空を飛べるのであって、その糸を切ってしまうと落ちるしかない。自由とはそういうものだ、と。“神様”の至言だ。
 環境が変わっても、仕事をしていないことを別にすれば、大まかな生活スタイルはそれほど変わらなかった。僕はとにかく“変化”を嫌う。
 朝早くに起き、弁当屋で弁当を買って公園のベンチで食べ、ぷらぷらと散歩して、本屋や図書館などで涼みながら時間を潰す。夕方宿に戻り、入浴と洗濯を済ませる。
 夏の暑い盛りで、脳が溶けそうだった。公園では下着姿のホームレスたちが、トイレの水道から洗面器で水を汲み、頭からかぶっていた。気持ちよさそうだなぁとは思ったが、さすがにあそこまではできない。
 涼みに入った本屋で古谷実の『シガテラ』の最終巻、第6巻の単行本を買った。
 僕は古谷実のデビュー以来のファンだった。『行け! 稲中卓球部』は十四歳当時の僕のバイブルだった。勉強も運動もできない、何の取り柄もない「前野」や「井沢」が、自分たちの惨めさを笑い飛ばす姿に当時の僕はどれほどカタルシスを感じたことか。
 少年院を出てからは『ヒミズ』と『ヒメアノ~ル』にハマった。
『ヒミズ』は救いようのない悲劇を描いている。主人公は川沿いの貸しボート小屋に暮らす中学三年生の十五歳の少年。ある日少年の母親が男と連れ立って失踪する。母親に見捨てられボート小屋に置き去りにされた少年の元に蒸発していた父親がお金をせびりにくる。どうやら少年は幼少の頃からその父親に辛い目に遭わされてきたらしい。自分の不幸はすべて父親が原因だと考えた少年はヤケを起こしコンクリートブロックで父親を殴り殺してしまう。父親の死体を埋め何もかもどうでもよくなってしまった少年は自分の命を少しでも“意義あるもの”にするため、映画『タクシー・ドライバー』のトラヴィス・ビックルよろしく「誰でもいいから悪い奴を探し出して殺そう」と思い立つ。でも適当な獲物が見つからないまま善き友人や恋人に囲まれて時が過ぎ、ある日意を決して恋人に父親を殺したことを打ち明ける。恋人に自首するよう勧められたが少年が断ったため恋人は警察に通報した。警察官がボート小屋にやってきて少年を連れて行こうとしたが、少年は明日必ず出頭しますと警察官と約束し、ひとまず帰ってもらう。少年はボート小屋で恋人と最後の夜を過ごし眠りにつく。夜中に眼が覚めた少年はボート小屋を抜け出し、以前ヤクザからもらった拳銃で自殺する。
 僕はこの漫画を読んだ時、古谷実は本当は最初からこの作品を描きたかったのではないかと思った。『ヒミズ』は『稲中』とは正反対の世界観の作品であると受け取られることが多いが、僕は『ヒミズ』と『稲中』は“根っこ”の部分で繋がっているように思えてならない。おバカなギャグが満載の『稲中』の底流にあるのは“弱者の喘ぎ”だ。『稲中』からは自らの醜さ惨めさを十二分に自覚し、ギャグにして笑い飛ばす以外に逃げ場がない虫たちの悲痛な叫び声が聴こえる。“普通に生きたい”と願えば願うほどそれとは裏腹な行動に出てしまう『ヒミズ』の少年からは、何とも言えない不思議な“可笑しみ”が漂う。 喜劇は突き詰めれば“悲劇”になり、“悲劇”は突き詰めれば“喜劇”になるのかもしれない。
 僕がいちばん好きな古谷作品『ヒメアノ~ル』には、人を絞殺することに性的興奮を覚える異常性欲の殺人鬼「森田正一」という強烈なキャラクターが登場する。森田は行き当たりばったりに殺人を犯し、アスペ的な、まるでデタラメな証拠隠滅をして逃げ回るのだが、悪運が強くてなかなか捕まらない。
 物語のラスト、それまで良心の呵責もなく衝動の赴くままに殺人を重ねてきた森田が自分の過去を回想する。

............
......何かね
......今
....急に思い出したよ....
....中学の時の帰りにさ....
........
オレは完全に....
“フツーじゃない”
って....
気づいた日の事..........

......すげえ
悔しかったよ........
マジで......
もう本当に悔しくて....
その場で死にたくなった........
泣いちゃったよ........
(古谷実『ヒメアノ~ル』6巻)

 通学用の自転車を薙ぎ倒し、学生鞄を放り投げ、抱えた両膝に頭を填めた森田が道路の端に胎児のような格好で蹲っている。背景には長閑な田んぼや山々の風景が描かれ、森田の棲む“こちら側”の世界と彼が永久に触れられない“あちら側”の世界をガードレールが無情に隔てている。
 ──あの頃の自分だ──
 そう思った。漫画を読んで泣いたのはこの時が初めてだった。
 森田は、僕と、大阪姉妹刺殺事件を起こした山地悠紀夫を合体させたようなキャラクターだ。僕の「性サディズム障害」と、山地悠紀夫の抱えていた「アスペルガー症候群」のふたつの要素を併せ持っている。
 山地悠紀夫は僕のひとつ歳下で、僕が事件を起こした三年後に、自分の母親を金属バットで殴り殺し、少年院に収容された。初犯は十六歳だった。在院中、明らかに他の少年たちとは異質な山地の精神的特性を嗅ぎ取った少年院スタッフの配慮で、山地は精神科医の診察を受け、「広汎性発達障害(自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群を含む)の疑い」という診断を下された。この障害を抱える人は、相手の仕草や表情から心情を汲み取ることが極度に苦手で、言葉の表層部分でしかコミュニケーションがとれず、その場の雰囲気に合った言動を取ることができないという特徴があり、集団の中で孤立しやすい。また、“アイコンタクト”が不得手で、他人とまったく視線を合わせないか、逆に相手が気持ち悪く感じるほど、物を見るような眼で相手の顔をじっと見つめたりする。こういったコミュニケーションの特異性から、彼らはしばしば学校でいじめの対象になることがある。
 ある程度の実践を踏んだ専門家であれば一目瞭然であるが、この広汎性発達障害は、精神遅滞や統合失調などと比べて見た目には定型発達者(健常者)と区別がつきにくく、問題視されにくい。
 山地は二〇〇三年十月、二十歳で少年院を仮退院する。この時、少年院で山地を診察した精神科医は、山地の抱える障害の深刻さを危惧し、外部の医療機関宛てに紹介状を書いて山地に渡し、どこでも構わないから自分で精神科を受診するようにとアドバイスした。だが結局、山地が自分から精神科を受診することはなかった。
 十一歳で父親を病気で亡くし、十六歳で母親を手にかけ、身元引受人のいなかった山地は更生保護施設に入り、パチンコ店に住み込みで就職するが、どの職場でも人間関係をうまく構築できずに店を転々とする。やがて知人の紹介で、パチスロ機の不正操作で出玉を獲得する「ゴト師」のメンバーに加わり、いいように使われることになる。僕には経験がないからなんとも言えないが、裏社会には裏社会特有のコミュニケーションスキルが要求されるのではないかと思う。いつ捕まるかわからない、危険と隣り合わせの毎日。一瞬の気の緩みが即破滅へとつながる。常に周囲の状況を見極め、仲間の性格や心情も把握し、瞬時に適切な判断を下しリスクを回避しなければならない。コミュニケーション能力や状況判断能力に著しい欠陥を抱えた山地にできる芸当ではない。要領の悪い彼はパチスロ店で店員に不正操作を見抜かれ、一度逮捕されてしまう。
 山地はゴト師の世界でも上手く周囲に馴染めず、グループのリーダーと諍いを起こし、ゴト師メンバーがアジトとして使用していたマンションの一室を飛び出して野宿生活を送る。その三日後、二〇〇五年十一月十七日、山地は自分が身を寄せていたマンションの別のフロアに住む二人の女性をナイフで襲い、暴行して金品を奪った挙げ句、部屋に火を放って逃走した。いわゆる「大阪姉妹刺殺事件」である。少年院を仮退院してからわずか二年後の犯行だった。
 二〇〇九年七月二十八日。大阪拘置所で山地悠紀夫の死刑が執行される。享年二十五だった。
 この事件は、その犯行の際立った残虐性や、山地が逮捕時に見せた不敵な微笑みや自ら死刑を望む発言、少年時代の殺人の前科などから、当時かなりセンセーショナルに報じられた。僕が少年院を出た翌年に起こった事件でもあり、山地が少年時代に殺人を犯していたことから、僕の事件も頻繁に引き合いに出された。
 僕は他の人間が犯した殺人についてとやかく言える立場ではない。山地悠紀夫本人に直接会ったわけではないから、本当には彼のことはわからない、彼の犯行にシンパシーを覚えることもない。
 僕が彼に何か引っ掛かるものを感じたのは、犯した罪の内容や少年時代の殺人のためではない。一審で死刑判決を受けたあと、彼が弁護士に宛てて書いた手紙に、胸が締め付けられたからだ。

 私の考えは、変わりがありません。
 「上告・上訴は取り下げます。」
 この意志は変える事がありません。
 判決が決定されて、あと何ヶ月、何年生きるのか私は知りませんが、私が今思う事はただ一つ、「私は生まれて来るべきではなかった」という事です。今回、前回の事件を起こす起こさないではなく、「生」そのものが、あるべきではなかった、と思っております。
 いろいろとご迷惑をお掛けして申し訳ございません。
 さようなら。
(池谷孝司『死刑でいいです』)

 あまりにも完璧に自己完結し、完膚なきまでに世界を峻拒している。他者が入り込む隙など微塵もない。まるで、事件当時の自分を見ているような気がした。
 山地は逮捕後、いっさい後悔や謝罪の言葉を口にしなかった。そればかりか、「人を殺すのが楽しい」「殺人をしている時はジェットコースターに乗っているようだった」などとのたまっていた。僕には彼が、ひとりでも多くの人に憎まれよう憎まれようと、必死にモンスターを演じているように見えた。誰にも傷つけられないように、自分のまともさや弱さを覆い隠し、過剰に露悪的になっているその姿は、とても痛々しく、憐れに思えた。
 現代はコミュニケーション至上主義社会だ。なんでもかんでもコミュニケーション、1にコミュニケーション2にコミュニケーション、3、4がなくて5にコミュニケーション、猫も杓子もコミュニケーション。まさに「コミュニケーション戦争の時代」である。これは大袈裟な話ではなく、今この日本社会でコミュニケーション能力のない人間に生きる権利は認められない。人と繋がることができない人間は“人間”とは見做されない。コミュニケーション能力を持たずに社会に出て行くことは、銃弾が飛び交う戦場に丸腰の素っ裸で放り出されるようなものだ。誰もがこのコミュニケーションの戦場で、自分の生存圏を獲得することに躍起になっている。「障害」や「能力のなさ」など考慮する者はいない。
 山地はどこに行ってもゴミのように扱われ、害虫のように駆除され、見世物小屋のフリークスのようにゲラゲラ嗤われてきたのだろう。彼は彼なりに必死に適応しようと努力したのではないだろうか。“魚が陸で生きるため”の努力を。
 山地が逮捕時に見せた微笑み。僕には、彼のあの微笑みの意味がわかる気がした。それは言葉で解釈できる次元のものではない。もっと生理的に触知する種類のものだ。
 あの微笑み……。
 あれほど絶望した人間の顔を、僕は見たことがなかった。
 新しい仕事は前の仕事とはうって変わって肉体労働だった。主な仕事内容は解体工事。会社から支給された防塵マスク、ヘルメット、安全靴を着用し、朝早くに各班に分かれてバンに乗り、担当の現場に向かう。病院、ボーリング場、カラオケボックス、寺社から普通の家屋まで、重機や大ハンマー、バール、ツルハシを使って取り壊す。最初の一か月は見習い期間で、ベテランが解体した鉄屑や瓦礫を一輪車に載せてトラックの荷台に運ぶ雑用をこなし、慣れてくると工具を使用して解体作業を任された。これまで使ったことのない筋肉を酷使し、力任せに作業したせいか、解体作業を始めた最初の頃は肩や腰が痛くて、寮に帰って風呂に入ると夕食も摂らずに寝てしまった。
 三か月ほど経つと、力の“入れ所”と“抜き所”がわかるようになり、工具の扱いにも慣れ、あとは持ち前の作業性の高さで無理なくテキパキとスムーズに仕事をこなせるようになった。
 身体だけが資本だった。起床後と就寝前に腕立て伏せ、腹筋、背筋をそれぞれ百回ずつやり、休日はずっとサボっていたジョギングを再開した。
 ベルーガ鯨のようにナマっ白かった皮膚は真っ黒に日焼けし、身体つきも変わった。洗面所の鏡に向かうと、蒼白く貧弱な「少年A」の痕跡がすっかり消えていた。そのことに、安堵と同時に自分でも説明のつかない一抹の寂しさを感じた。
 職場ではほとんど誰とも口をきかず、寮の入居者たちともいっさい交流しなかった。仕事現場には携帯は持っていかず、自分からは絶対に人に話しかけないというルールを作った。他人と繋がりを持ちたがるのは弱い奴らのすることだと自分に言い聞かせ、「犀の角のようにただ独り歩め」という仏陀の言葉を地で行くように徹底的に“独り”であることにこだわった。
 こういう環境のメリットは、ワケありな人が多いせいか、誰も強いて干渉してこないところだ。みんな自分のことだけでいっぱいいっぱいだった。
 僕はここでも普段からほとんどお金を使わなかった。外出を控え、余計な買い物もしない。いざという時、頼れるのはお金しかなかった。職場で少しでも変な噂がたてば、確信を持たれる前に退職し、しばらく身を隠して、次の仕事を探すつもりだった。一度でも顔や名前が新聞や週刊誌やネットに出れば、もうこの社会のどこにも自分の居場所はなくなってしまう。
 自由ではあるが、いざという時に頼れる人はいない。自分の身は自分で守るしかなかった。僕が頼れるのは、生活を切り詰めて貯めたお金しかなかった。“金にがめつい関西人”の悲しき性も相俟ってか、僕は脅迫的にお金に執着するようになった。
 二〇〇九年六月。僕は会社から突然解雇通知を言い渡された。一か月後に「自主退社」という形で退職してもらうということだった。
 それ以前から“兆し”はあった。僕の勤める会社でも高齢者や仕事ができない者、対人関係に問題がある者が次々と切られていた。でも僕はまったく暢気で危機感を持っておらず、突然解雇を言い渡された時にはさすがにショックを受けた。
 僕はキャリーバッグひとつとパソコンを持って会社を去った。それなりに出費はしていたつもりだったが、貯金は百万を超えていた。この時もまたお金に救われた。
 振り出しに戻ったならまだいいが、今度は前回のように簡単に条件のいい仕事にはありつけなかった。まさに流転の日々だった。様々な仕事を転々としながら根無し草のような生活を送った。この時期の記憶は断片的にしか残っていない。おそらくストレス性の健忘ではないかと思う。僕は過度にストレスがかかるとしばしば記憶がトンでしまうことがある。
 溶接工時代、まとめて読んだ作家は三島由紀夫と村上春樹だった。彼らの短編、長編を片っ端から買い揃えた。
 三島由紀夫は“言葉の宝石箱”と評したくなるような初期の短編と、“偏執狂(パラノイド)浪漫譚”『金閣寺』が好きだった。
 一九五〇年七月一日に発生した金閣寺放火事件をモデルに書かれた、文字通り日本文学の金字塔であるこの作品は余りに有名だ。吃音症を抱える“宿命の児(ディスティニー・ボウズ)”溝口が、美の象徴たる金閣寺に火を放つまでの精神の這い跡が、異様に硬直的でギクシャクした独特のナル文体で微に入り細を穿って炙り出される。溝口の抱える「吃音症」は僕の「性サディズム障害」に、そして溝口が起こした金閣寺放火事件は、僕の起こした事件に重なった。
 優れた小説はたいてい誰が読んでも「これはまるで自分自身の物語だ」と思える。僕もよくある。でもこの金閣寺に限っては、比喩でも何でもなく、“この僕の物語”だと思った。『金閣寺』は僕の人生のバイブルになった。
 村上春樹は短編か長編かで好みが分かれやすい作家だが、僕はどちらかというと短編派だ。いちばん好きなのは『トニー滝谷』。
 売れっ子イラストレーターのトニー滝谷は、「まるで別の世界へと飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように」服を着こなす女性と恋に堕ち、結婚する。結婚後間もなく、彼女は不慮の事故に遭い、本当に「別の世界」へと飛び立つ。喪失感に耐えられなくなったトニー滝谷は、アシスタントという名目で、死んだ妻と服や靴のサイズがまったく同じ女性を雇い入れ、彼女に、勤務中は妻の服を着用するよう要求する。アシスタントの女性は了承し、まず奥さんの服を試着させて下さいとトニー滝谷に申し出る。トニー滝谷は女性を妻の衣裳部屋に案内する。女性はそこにある服を試着し、靴も履いた。まるで自分のために作られたように服も靴もサイズがぴったりだった。次の瞬間、女性はわけもわからず泣き始める。あとからあとから涙が流れて止まらなくなる。このシーンは何度読んでも、鼻の奥がジュワっと熱くなる。寂象の嘴が僕の臓腑を容赦なく啄み、何も考えられなくなり、あまりの切なさに一瞬、死にたくなる。余計な説明はいっさい省き、雰囲気だけで「人を
喪うってこういうことなのか……」と生理的に触知させ、極限の孤独をポップに描き切った唯一無二の傑作だ。
 作家は言葉を刃物にして素材を捌く料理人のようなもの。村上春樹はメスのように冷たく鋭い無機的な言葉で、なまなましい心理を抉り取る。複雑怪奇な人間の精神を切開し、丁寧に、正確に腑分けしてゆく。何も強要せず読み手に委ねるしなやかな文体は、地震に見舞われても右へ左へゆらゆらとしなりながら振動を吸収する五重塔を思わせる。
 三島由紀夫は日本刀のように鍛造された華美な言葉を用い、ごビョーキとしか思えない執念で素材をミリ単位で輪切りにし、そのおびただしい事物の断面に特製の観念をサンドして、一口で胃がもたれるカロリーたっぷり三島バーガーをこしらえる。不動の信念と価値観で地盤からしっかり固められた堅牢な文体構造は、いかなる天変地異にもビクともしないピラミッドを思わせる。
 文章に「関節技」と「打撃技」があるとするならば、軽いジャブを放つように些細な日常の描写から入り、じわりじわりと読み手との間合いを詰め、絶妙のタイミングでタックルし、読み手の懐にスルっと入ってテイクダウンを奪う村上春樹は「関節技」の書き手だ。一度テイクダウンを奪われた読み手は、どんなにジタバタ抵抗しても逃げられない。あれよあれよという間に腕の関節をキメられ、足の関節をキメられ、最後はシュルッと首に腕を絡められてオトされる。
 他の人が一行かけて書くところを一言で、一ページかけて書くところを一行で描破し、事物の核心に最短距離で斬り込む三島由紀夫は、「打撃技」の書き手だ。ゴングが鳴った途端いきなり飛び膝蹴りを繰り出し、息継ぐ間もない言葉のパンチラッシュで読み手を完全ノックアウトする。
 会社に戻り、茶髪と二人で車から降りて仕事場へ戻る途中、社長が僕の肩にポンと手を置いた。僕と眼が合うと、社長は微笑み、小さく頷いた。その社長の表情の意図を汲み取り、ついさっきまで爆発寸前だった怒りと屈辱感が嘘みたいに吹き飛んだ。
「ええか、A。何事も、一生懸命にやるんやぞ。ひとつのことでも一生懸命やっとったら、必ず誰かは見とるもんや」
 少年院に面会に来た時、父親がよくそう言った。「一生懸命」。今の時代、真顔で口にしようものなら物笑いの種になりかねないこのシンプルな言葉が、父親の唯一の美学だった。誠実に、愚直に働いて生きてきた父親らしいこの言葉の意味が、実感としてわかった気がした。僕は以前にも増して仕事に打ち込んだ。

 皮膚を厚くし、心の殻を固くし、日々をひとつまたひとつと規則正しく重ねていくのだ。俺はただの機械に過ぎない。有能で我慢強く無感覚な機械だ。一方の口から新しい時間を吸い込み、それを古い時間に換えてもう一方の口から吐き出す。存在すること、それ自体がその機械の存在事由なのだ。
(村上春樹『1Q84 BOOK3』)
 なぜ僕が三男の兄として生まれてきたのだろう。誰に対しても分け隔てがなく、余りにも優しすぎる心を持った三男とは、似ても似つかない、まったく正反対の、僕みたいなやつが。三男がもしも憎しみや怒りを僕にぶつけてくれたのなら、僕を罵倒して、自分がされたのと同じように僕を殴りつけてくれたのなら、僕はもっと楽になったと思う。三男の優しさが、傷つけてほしいのに、癒そうとする、突き放してほしいのに、受け容れようとする、許されたくないのに、自分の心を押し潰してまで必死に僕を許そうとする三男のその優しさが、僕には拷問だった。
 二人の弟たちは、紛れもなく僕の「被害者」だ。
 そんな想いがあったせいか、せめて、弟たちを傷付け、たくさん泣かせた分まで、中国人の後輩には優しくしようと思った。そんなことで弟たちへの償いになるとは思わなかったが……。
 社会の一員としてルールやマナーを守り、一生懸命に仕事をし、普通に生活する。現実に社会の中に飛び込み、なりふり構わずに仕事をし、必死に日々を生きるようになるまで、そんな「当たり前」なことが、どんなに大変で、辛く、苦しく、そして幸せなことであるのかを、身をもって噛みしめたことはなかった。
 社会の中で生きていくことは大変でも、大変だからこそ、些細な日常を幸福に感じたり、人とのつながりが、これほどに温かいものだったのだと気付かされたり、沢山の大切なことを周囲の人たちから教わったように思う。
 人の役に立つ。信頼される。必要とされる。それが素直に嬉しかったし、自分もひとりの人間として社会に受け入れられたのだと、自信にもなった。初めて自分の力で自分の居場所を手にしたことに、確かな手応えと充実感を感じた。
 でも、そんな前向きな気持ちは、粉々に打ち砕かれることになった。
 ある日、仕事を教わった先輩から、彼の家で一緒に夕飯を摂ろうと誘われた。所帯持ちの人で、僕がアパートを借りる時に保証人になってくれた恩人でもあり、仕事の面倒を見てくれただけでなく、対人関係に難有りの僕が一部の同僚と些細なイザコザを起こすたび、唯一あいだに入って庇ってくれた人でもあった。見た目はヤンチャだったが、社内でも一、二を争うほど仕事のできる人で、気配りも上手く、人望もあった。僕も彼を信頼し、慕っていた。
 僕が何か複雑な事情を抱えていることをそれとなく察し、あえてこちらの過去を尋ねることもしなかった。そんな彼から自分の家に来ないかと誘われ、僕は動揺した。断りたい気持ちもあった。自分のような汚らわしい人間が、実直に、懸命に日々を生きる人の家庭に、足を踏み入れてはならない。そう思った。でも、これまで損得抜きで自分に親切に接してくれた彼の好意を無碍にするのも悪い気がした。僕は彼の誘いに応じた。
 ローンを組んで買ったばかりだという彼のマイホームを訪ねると、玄関で、彼と、小学校に上がったばかりの彼の娘さんと、奥さんが、僕を出迎えた。その瞬間、僕は、自分でも説明のつかない足の竦むような恐怖感に囚われた。やはり自分は、ここへ来るべきではなかった。来てはならなかった。
 テーブルについても、僕は食事が喉を通らなかった。僕の眼の前では、快活で、はきはきとしゃべる彼の娘さんが、学校生活や友人のことなどを楽しそうに話し、たまに、僕にいろいろと質問した。出身地はどこか。家族は何人いるのか。何ひとつ本当のことを答えられないのが辛かった。
 無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手にかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた。
 道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ、一緒に遊んでもらえるのだと思って、楽しそうに、嬉しそうに、鼻歌を口ずさみながら僕に付いてきた淳君の、あの無垢な眼差し。
 耐えきれなかった。この時の感覚は、もう理屈じゃなかった。
 僕はあろうことか食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね退け、逃げるように彼の家をあとにした。
 自宅へ帰るバスの中で、僕はどういうわけか、涙が止まらなかった。社会に出てから、悔しい思いをしたり、傷付いた経験は何度もあった。でもこの時ほど、辛く苦しい気持ちになったことはない。自分が無自覚に奪い去ってしまったものの重み、決して拭えない大きな罪を、理屈でも何でもなく、まったく誤魔化しのきかない現実として、容赦のない、剥き出しの現実として、眼の前に突き付けられた気がした。この世には取り返しのつく過ちと取り返しのつかない過ちがある。自分のしたことは疑いようもなく後者なのだと、この時ほど激しく実感したことはなかった。
 こんな思いをするくらいなら少年院から出なければよかったと本気で思った。少年院での生活は、ある意味「無菌状態」だった。良くも悪くも刺激は最低限に抑えられ、自由はないが、かろうじて自分が自分でいられる環境ではあった。
 自分の過去を隠したまま「別な人間」として周りの人たちに近付きすぎると、本当の自分をつい忘れてしまうことがある。でもこうやってふとした拍子に、自分は何者で、何をしてきた人間なのかを思い出すと、いきなり崖から突き落とされたような気持ちになる。どんなに頑張っても、必死に努力しても、一度一線を越えてしまった者は、もう決して、二度と、絶対に、他の人たちと同じ地平に立つことはできないのだと思い知る。
 僕はその日を境に、件の先輩とまともにコミュニケーションが取れなくなってしまった。急に掌を返したように素っ気ない態度を取る僕を、さすがの彼も快くは思わなかった。
「何だよコイツ」と思われたはずだ。
 悪いことは重なった。仕事の休憩時間、持ち場で休んでいると、中国人の後輩がコンビニの使い捨てカメラを持って僕のところに来た。
「Aさん、Aさん、ワタシと写真、撮りましょう」
 屈託のない笑顔で、彼が言った。中国で暮らす家族に自分と僕の写真を送りたいのだという。僕は全身が強張った。写真が苦手だからと言って断ったが、彼は聞こえなかったのかじゃれるつもりだったのか、カメラを構え、僕の顔の真ん前でシャッターをきった。フラッシュの閃光が網膜を突き抜け、頭が真っ白になった。次の瞬間、僕は彼から乱暴にカメラを取り上げ、床に叩き付け、踏んで壊した。ハッと我に返って彼のほうを見ると、普段の姿から余りにかけ離れた、常軌を逸した僕の剣幕に強いショックを受けたのか、怯えた眼で僕を見つめていた。とんでもないことをしてしまったと思った。僕は財布から千円札を抜き取り、ごめん、と謝って、彼に差し出した。彼の眼の色が怯えから悲しみへと変わった。
 ──「A、なんで俺のこと嫌いなん?」──
 弟の顔が頭によぎった。彼はあの時の弟と同じ眼でしばらく僕を見つめ、お金を受け取らずに無言で立ち去った。僕は激しい自己嫌悪に襲われた。
 信頼されている?
 人の役に立っている?
 必要とされている?
 社会の一員として受け入れられている?
 そんなものはすべてファンタジーにすぎなかった。
 自分は周りを騙している。そんな後ろめたさが芽生え、人と関わりを持つことが怖くてたまらなくなった。罪悪感に耐えきれなくなり、先輩や中国人の後輩や社長に、自分の過去を打ち明けてしまいたい衝動に駆られたことも一度や二度ではなかった。
 同僚たちと同じように仕事をし、彼らと同じように日常生活を送っていると、自分も普通の人生を送ってきた人間であるかのように錯覚してしまうことが、たびたびあった。
 職場の個室トイレに入り、扉を閉めた瞬間、不意に我に返ったように、
 ──自分は人の命を奪った人間なんだ。命を奪った上に、さらに酷いことをし、被害者の遺族を今も苦しめている人間なんだ──
 という実感が、一気に身体じゅうに拡がって、扉の向こう側が、本当は自分が居てはならない遠い世界のように思えた。「社会の中で罪を背負って生きていく」ということの真の辛さを、僕は骨身に沁みて感じるようになった。
 自分は人間の皮を被って社会に紛れ込んだ人殺しのケダモノだ。いくら表面的に普通に暮らしても、他の人たちと同じ場所では生きられない。その変えようのない現実を強烈に意識し始め、僕はどんどんどんどん自分の中に追い詰められていった。もう自分を保てない。このままここに居ては壊れる。そう直感した。
 二〇一二年冬。僕は三年三か月勤めた会社に辞表を出した。
 ──なぜ人を殺してはいけないのか?──
 これは、僕が事件を起こした年の夏に、某ニュース番組の中で企画された視聴者参加型の討論会で、十代の男の子が発した問いだった。番組のゲストに呼ばれた作家やコメンテーターは、誰ひとりこの問いに答えられなかった。
 大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 哲学的な捻りも何もない、こんな平易な言葉で、その少年を納得させられるとは到底思えない。でも、これが、少年院を出て以来十一年間、重い十字架を引き摺りながらのたうちまわって生き、やっと見付けた唯一の、僕の「答え」だった。
 どんな理由であろうと、ひとたび他人の命を奪えば、その記憶は自分の心と身体のいちばん奥深くに焼印のように刻み込まれ、決して消えることはない。表面的にいくら普通の生活を送っても、一生引き摺り続ける。何より辛いのは、他人の優しさ、温かさに触れても、それを他の人たちと同じように、あるがままに「喜び」や「幸せ」として感受できないことだ。他人の真心が、時に鋭い刃となって全身を斬り苛む。そうなって初めて気が付く。自分がかつて、己の全存在を賭して唾棄したこの世界は、残酷なくらいに、美しかったのだと。一度捨て去った「人間の心」をふたたび取り戻すことが、これほど辛く苦しいとは思わなかった。まっとうに生きようとすればするほど、人間らしくあろうと努力すればするほど、はかりしれない激痛が伴う。かといって、そういったことを何も感じず、人間であることをきれいさっぱり放棄するには、この世界には余りにも優しく、温かく、美しいもので溢れている。もはや痛みを伴ってしか、そういったものに触れられない自分を、激しく呪う。
 何度願ったかわからない。時間を巻き戻せたらと。まだ罪を犯す前の子供の頃の記憶が、たまらなく懐かしく愛おしい。あの頃に戻ってもう一度やり直したい。今度こそまともな人生を歩みたい。でもどんなに願っても、もう遅い。二度とそこに戻ることはできない。だからせめて、もう二度と人を傷付けたりせず、人の痛みを真っ直ぐ受けとめ、被害者や、これまでに傷付けてしまった人たちの分まで、今自分の周囲にいる人たちを大事にしながら、自分のしたことに死ぬまで目一杯、がむしゃらに「苦悩」し、それを自分の言葉で伝えることで、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」というその問いに、僕は一生答え続けていこうと思う。
「人を殺してはいけない理由」を問う少年たちに、この苦しみを味わわせたくない。
 公園を出て、足早に歩きながら、僕はなぜか無性に煙草が吸いたくなった。コンビニに入って赤マルとライターを買い、店の脇のスモーキングスペースで封を切った。白いパッケージの上部に、女性の唇をイメージしたと言われる赤いロゴマークがあしらわれた独特で秀逸なデザイン。僕は、赤と白の鮮烈な対比が印象的なこの赤マルのデザインが好きだった。赤は生理の血液の色を、白は精液の色を喚起させる。僕にとって“赤”と“白”は「生命の色」だ。
 小学六年の頃、図画工作の授業で、人間の脳の形をした紙細工にカッターナイフの替え刃をたくさん突き刺し、全体を赤と白の絵の具で彩色したオブジェを造った。そんなことを思い出しながら、パッケージから一本取り出し、匂いを嗅いだ。少し油っぽい、懐かしい香りが鼻をうつ。口に咥え、火をつけた。二十年振りだった。最初の一口を吸い込むと、重量感のある濃い煙が鉛玉のようにズシンと押し寄せ、気道を圧迫した。喉が痙攣し、噎せ返った。僕は指に挟んだ煙草をまじまじと見つめた。あの頃僕は、こんな毒を吸っていたのか……。もう一度咥え、眼を閉じて、今度は肺一杯に思い切り吸い込んだ。頭がクラクラした。眼を開け、顔を上げ、青く塗った人肌のような、いやに弾力を感じさせるすべらかな空に向かって、ゆっくり煙を吐き出した。たおやかに照りつける半透明の春陽が僕を静かに炙る。罪人にとって明るい太陽の光は地獄の業火だ。
 自分は今どこに立っているのだろう。
「ひとりで生きて行く」。そう決意し安全な籠を飛び出して十年。僕は本当は、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。
 自分の過去から。
 自分自身から。
 でも結局どこへ行っても、僕は、僕からは逃げられなかった。
 もう、逃げるのはやめよう。自分の立つ場所がどこであろうと、背に負った十字架の、その重さの分だけ、深く強くめり込んだ足跡を遺そう。二度と戻らないこの一瞬一瞬に、一歩一歩くっきりと、自分の足跡を刻み歩こう。
 半分に減った煙草を揉み消し、残り十九本入ったパッケージをゴミ箱へ捨てた。
 僕は足に力を込め、地面を踏みしめて歩き出した。
 どんなに遠廻りしても、どんなに歪で曲がりくねっても、いつかこの生命(いのち)の涯(はて)に後ろを振り向いた時、自分の遺した足跡が、一本の道になるように。
被害者のご家族の皆様へ

 まず、皆様に無断でこのような本を出版することになったことを、深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ありません。どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟です。
 何を書いても言い訳になってしまいますが、僕がどうしてもこの本を書かざるを得なかった理由について、正直にお話しさせていただきたく思います。
 二〇〇四年三月十日。少年院を仮退院してからこれまでの十一年間、僕は、必死になって、地べたを這いずり、のたうちまわりながら、自らが犯した罪を背負って生きられる自分の居場所を、探し求め続けてきました。人並みに社会の矛盾にもぶつかり、理不尽な目にも遭い、悔しい思いもし、そのたびに打ちひしが落ち込み、何もかもが嫌になってしまったこともありました。ぎりぎりのところで、いつも周囲の人たちに助けられながら、やっとの思いで、曲がりなりにも何とか社会生活を送り続けることができました。しかし、申し訳ありません。僕には、罪を背負いながら、毎日人と顔を合わせ、関わりを持ち、それでもちゃんと自分を見失うことなく、心のバランスを保ち、社会の中で人並みに生活していくことができませんでした。周りの人たちと同じようにやっていく力が、僕にはありませんでした。「力がありませんでした」で済まされる問題ではないことは、重々承知しております。それでも、もうこの本を書く以外に、この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした。許されないと思います。理由になどなっていないと思います。本当に申し訳ありません。
 僕にはもう、失うものなど何もないのだと思っていました。それだけを自分の強みのように捉え、傲慢にも、自分はひとりで生きているのだと思い込んだ時期もありました。でもそれは、大きな間違いでした。こんな自分にも、失いたくない大切な人が大勢いました。その人が泣けば自分も悲しくなり、その人が笑えば自分も嬉しくなる。そんなかけがえのない、失いたくない、大切な人たちの存在が、今の自分を作り、生かしてくれているのだということに気付かされました。
 僕にとっての大切な、かけがえのない人たちと同じように、僕が命を奪ってしまった淳君や彩花さんも、皆様にとってのかけがえのない、取り替えのきかない、大切な、本当に大切な存在であったということを、自分が、どれほど大切なかけがえのない存在を、皆様から奪ってしまったのかを、思い知るようになりました。自分は、決して許されないことをしたのだ。取り返しのつかないことをしたのだ。それを理屈ではなく、重く、どこまでも明確な、容赦のない事実として、痛みを伴って感じるようになりました。
 僕はこれまで様々な仕事に就き、なりふりかまわず必死に働いてきました。職場で一緒に仕事をした人たちも、皆なりふりかまわず、必死に働いていました。
 病気の奥さんの治療費を稼ぐために、自分の体調を崩してまで、毎日夜遅くまで残業していた人。
 仕事がなかなか覚えられず、毎日怒鳴り散らされながら、必死にメモを取り、休み時間を削って覚える努力をしていた人。
 積み上げた資材が崩れ落ち、その傍で作業していた仲間を庇って、代わりに大怪我を負った人。
 懸命な彼らの姿は、僕にはとても輝いて見えました。誰もが皆、必死に生きていました。ひとりひとり、苦しみや悲しみがあり、人間としての営みや幸せがあり、守るべきものがあり、傷だらけになりながら、泥まみれになりながら、汗を流し、涙を流し、二度と繰り返されることのない今この瞬間の生の重みを噛みしめて、精一杯に生きていました。彼らは、自分自身の生の重みを受け止め、大事にするのと同じように、他人である僕の生の重みまでも、受け止め、大事にしてくれました。
 事件当時の僕は、自分や他人が、生きていることも、死んでいくことも、「生きる」「死ぬ」という、匂いも感触もない言葉として、記号として、どこかバーチャルなものとして認識していたように思います。しかし、人間が「生きる」ということは、決して無色無臭の「言葉」や「記号」などではなく、見ることも、嗅ぐことも、触ることもできる、温かく、柔らかく、優しく、尊く、気高く、美しく、絶対に傷つけてはならない、かけがえのない、この上なく愛おしいものなのだと、実社会での生活で経験したさまざまな痛みをとおして、肌に直接触れるように感じ取るようになりました。人と関わり、触れ合う中で、「生きている」というのは、もうそれだけで、他の何ものにも替えがたい奇跡であると実感するようになりました。
 自分は生きている。
 その事実にただただ感謝する時、自分がかつて、淳君や彩花さんから「生きる」ことを奪ってしまったという事実に、打ちのめされます。自分自身が「生きたい」と願うようになって初めて、僕は人が「生きる」ことの素晴らしさ、命の重みを、皮膚感覚で理解し始めました。そうして、淳君や彩花さんがどれほど「生きたい」と願っていたか、どれほど悔しい思いをされたのかを、深く考えるようになりました。
 二人の人間の命を奪っておきながら、「生きたい」などと口にすること自体、言語道断だと思います。頭ではそれを理解していても、自分には生きる資格がないと自覚すればするほど、自分が死に値する人間であると実感すればするほど、どうしようもなく、もうどうしようもなく、自分でも嫌になるくらい、「生きたい」「生きさせてほしい」と願ってしまうのです。みっともなく、厭ったらしく、「生」を渇望してしまうのです。どんなに惨めな状況にあっても、とにかく、ただ生きて、呼吸していたいと願う自分がいるのです。僕は今頃になって、「生きる」ことを愛してしまいました。どうして事件を起こす前にこういった感覚を持つことができなかったのか、それが自分自身、情けなくて、歯痒くて、悔しくて悔しくてたまりません。淳君や彩花さん、ご家族の皆様に、とても合わせる顔がありません。本当に申し訳ございません。
 生きることは尊い。
 生命は無条件に美しい。
 そんな大切なことに、多くの人が普通に感じられていることに、なぜ自分は、もっと早くに気付けなかったのか。それに気付けていれば、あのような事件を起こさずに済んだはずです。取り返しのつかない、最悪の事態を引き起こしてしまうまで、どうして自分は、気付けなかったのだろうか。事件を起こすずっと前から、自分が見ない振りをしてきたことの中に、それに気付くことのできるチャンスはたくさんあったのではないだろうか。自分にそれを気付かせようとした人も、大勢いたのではないだろうか。そのことを、考え続けました。
 今さら何を言っても、何を考えても、どんなに後悔しても、反省しても、遅すぎると思います。僕は本当に取り返しのつかない、決して許されないことをしてしまいました。その上さらにこのような本を書くなど、皆様からしてみれば、怒り心頭であると思います。
 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を摑み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません。
 せめて、この本の中に、皆様の「なぜ」にお答えできている部分が、たとえほんの一行でもあってくれればと願ってやみません。
 土師淳君、山下彩花さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
 本当に申し訳ありませんでした。

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