坂東眞砂子『死国』

 白鶴のような少女の顔が脳裏に浮かんだ。
 莎代里ちゃん……。比奈子は心の中で呟いた。
 日浦莎代里。小学校時代、いちばんの仲よしだった。おかっぱ頭で切れ長の目。色の抜けるほどに白い美しい子。大人に干渉されるのを極度に嫌う性質だった。一人でいる時は、満ち足りた表情でにこにこしている。その穏やかな顔につられて大人が話しかけたとたん、笑顔はふっとかき消え、無表情な能面のような顔に変わるのだ。莎代里は、近づけば逃げていく鳥のようだった。
 動物にたとえていうなら、比奈子のほうは亀に似ていたかもしれない。自分の感情をどう表現していいかわからず、厚い殻に閉じこもっている愚鈍な亀に。
 比奈子は、莎代里の白鶴のような美しい姿に感嘆し、大人に媚びない毅然とした態度に、自分もそうありたいと望んだ。比奈子は、莎代里の後を追うように山を歩き、川辺をたどり、花を摘んで遊んだ。彼女のそばにいると、なぜか楽な気分でいられた。黙っていても、「川に行こうか」とか「お腹、空いたね」というような、短い言葉を口に出すだけで事足りた。誰かが嫌いだとか、父に叱られたとかいうことを洩らしはしても、話はそこで終わってしまった。慰めたり、自分の意見をいったりするような、複雑な会話を交わすことはなかった。
 比奈子の母は、いつも「莎代里ちゃんとあんたは似た者同士やね」といっていた。しかし比奈子にはわかっていた。二人は決して似てなぞいなかった。感情を表すことが下手というところで似ていたにすぎない。
 はっきり覚えているのは、莎代里の家で飼っていた猫が死んだ時のことだ。二人は、前の夜から帰ってこない猫を探し歩いていた。道路脇に横たわる灰色の小さな塊を最初に見つけたのは、莎代里だった。二人は走り寄った。探していた猫だった。頭も尻尾も生きていた時と同じように、ふわふわした毛に包まれていて、寝ているようだ。しかし胴体が半分ほど欠けていた。鳥か野犬に食われたらしく、内臓がごっそりなくなっていた。黒ずんだ肉の間に細いあばら骨が見えた。
 比奈子は息を呑んだ。猫の前にしゃがんで泣きじゃくっている莎代里の背後で、比奈子は立ちすくんでいた。かわいそうというよりも怖かった。小さな死骸は、地の底から湧いて出た化け物のように思えた。比奈子は、その場にいるのがたまらなくなった。
「莎代里ちゃん、おばさんにいいに行こう」
 しかし莎代里は首を横に振って、そっと猫の頭を撫でた。いとおしげに灰色の尻尾に触れた猫の名を呼んだ。やがて立ち上がると、猫の頭と尻の下に手を差し入れて持ち上げた。肉の食いちぎられた胴体がだらりと垂れ下がり、そこから黄色に濁った体液が滴り落ちた。莎代里は自分の手が汚れるのも気にせずに死骸を道端に運ぶと、草の上に横たえた。
 そして近くの棒を拾ってきて、穴を掘りはじめた。茫然としている比奈子に、莎代里は墓を造るのだといった。
「きれいなお墓にするがよ。丸い土を盛って、石を並べて。お花やお魚を供えるところもちゃんとあるがで」
 莎代里は、それがどんなに美しい墓になるか語った。その様子は、愉しそうですらあった。猫の死はすでに頭から消え、墓を造るという考えに夢中になっていた。
 その時比奈子は、自分の考えていることと莎代里の考えていることはずいぶん違うのだと、おぼろげながら理解したのだった。絹と麻が異なるように、魂の肌ざわりが違うことに気がついたのだ。
 お互い内に潜むものが違っていたからこそ、仲がよかったのだろう。しかし引っ越して以来、簡単な手紙を数度やりとりしただけで、連絡は途絶えた。たぶん二人とも、文字や言葉で感情を伝えるすべを知らなかったせいだ。顔を合わせていれば、同じ時を重ねていれば、感情を伝え合うことができた。しかし遠く離れて別々の人生を歩むようになると、二人は別の世界の人間になってしまった。
 祖父の初盆で、両親とともに最後に矢狗村に帰ってきた時も、比奈子はその足で莎代里を訪ねた。二人とも中学一年生になっていた。だが、ひと言ふた言、言葉を交わすと、もう何をいっていいかわからなくなった。二人は、はにかみながら向き合っているしかなかった。言葉によって離れていた時間を埋め合わせることができるほど、大人にもなっていなかったし、言葉なしで満たされた気分になれるほど子供のままでもなかったのだ。
 大人になり、比奈子はイラストレーターとして絵という手段で他人に感情を伝えるすべを身につけた。言葉を使うことも上手になったと思う。人類が道具を使いこなすことで進歩してきたように、比奈子も言葉という道具を使いこなして、外の世界に出ていくことができるようになった。莎代里は、どんなふうに感情を伝えるようになっているだろう。どんな女になっているだろうか。今、あの鶴のような莎代里をつかまえて、その心の内を見つめたら、自分との違いがわかるだろうに。子供の自分ではつかみきれなかった、二人の魂の違いがわかるだろうに……。

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