『ホラー小説でめぐる「現代文学論」 高橋敏夫教授の早大講義録』

「他人には絶対に言えないことを、あなたはどれだけかかえていますか」―――わたしは、文学部にはいってきた人たちはもちろん、これから文学部にはいりたいという人、入ろうか否か迷っている人にも、機会あるごとに問いかけてきました。
 ひとつか、ふたつぐらいなら、わざわざ文学部にくることはない。軽症、いやかすり傷程度。政治でも、経済でも、法律でも、教育でも、これからの人生で有用な勉強に邁進すればよい。しかし、それがもっと多くて、かかえきれないほどあるのなら、大学のなかでは(大学に狭く限定すると)、もう、文学部しかない。
「他人には絶対言えないこと」の大半は、自分じしんもまたあまり見たくないもの、考えたくないものであるはずです。さびしさ、むなしさ、無関心、嫌悪、憎悪、嫉妬、うそ、虚栄心、孤独感、性的関心、破壊欲、消滅願望……こんな心理、感情、欲望にうながされた暗い体験の数々。もしかすると、そこには「犯罪」に近接する体験もあるかもしれない。ネガティブなものだけでは、けっしてない。過剰な理想追求、未知の善や美への渇望といった、並外れてポジティブなものもふくまれるはずです。
 こうならべてみると、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことは、わたしたちの生の大きな部分を占めているのがわかります。これをないものとみなしたら、わたしたちの生はとてつもなく痩せてくるでしょう。
 にもかかわらず、世間的常識では「有用」と「実用」にはつながらないばかりか、邪魔でいとうべきものになる。だから、有用な学問である経済学や政治学、法学や教育学などでは排除されるか、または矯正の対象になってしまうのです。
 文学をふくむ芸術は、自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことをまるごとすべて、たしもせずひきもせず、あるがままに肯定するところからしかはじまらない。
 とくに、ネガティブで、醜悪で、ゆがみねじれているような心理、感情、欲望を大胆に肯定する。世間の大半を敵にまわしても、徹頭徹尾、擁護する。あなたは、そこにとどまってもよいし、またそれをくぐり別のなにかにむかって歩きだすのもいい。そこから解放されるのだとしても、それを遠ざけることによってではない。
 ヘーゲル流にいえば、わたしたちはそこから解放されるのではなく、それをとおして、ただそれをとおしてのみ解放されるのです、今とはまったく別の関係と環境、つまりは新たな世界の実現のさなかで――。
 文学をふくむ芸術では、最終的には誰も力をかしてくれない。しかし、あなたを非難し、強制あるいは矯正する者は誰もいない。自分じしんが見たくない考えたくない、そして「他人には絶対に言えない」ことを肯定し、それらをつつみこむ生の全体を、言葉やイメージや音の微細な、あるいは絢爛たる炸裂に変える、たったひとりの「教科書」のないいとなみを持続しよう。
 そのとき、あなたは、ひとりではない。ここでは、ひとりではいられない。たったひとりのいとなみを、それぞれに夢想する人たちが、相互に共感をもって接する暗黒のパラダイス、世間的光明のただなかに突きでた暗黒の砦なのですよ、文学部は。
 有用と無用、常識と違反、明るさと暗さ――なんとも古風な「文学」主義、そして「文学部」主義、と思う人も中にはいるかもしれません。しかし、現在、世界大の「帝国」が総括するグローバリゼーションの、「新しい戦争」を突端とした暴力的な浸透の中、「有用」で「明るい」勝者が言祝がれているのをまのあたりにすれば、それらと抗争する「文学」主義も「文学部」主義もまた、静かに回帰しつつあるのではないでしょうか。
 むごたらしさがひたすら連鎖する物語をあつかう、わたしの「ホラー論」は、その意味で、現代文学入門講義のみならず「文学部的なもの」への入門講義になるはずです。
 ここでのホラーは、主として「ホラー小説」。ホラー(horror)とは恐怖ですが、テラー(terror)の「畏怖」にたいして、生理的な嫌悪感からくる「おぞましさ」を意味します。「畏怖」が自分を超えた外部への恐怖であるのにくらべると、「おぞましさ」は自分をふくむ内部への恐怖です。ホラーは外部を失ってしまった時代の恐怖と言えるでしょう。
 ホラー小説嫌いの人は、怖いもの嫌いという以上に、「こんな恐怖の連鎖などありえない、ウソっぽい」と感じているようです。たしかにホラー小説は、恋愛小説でいつでもどこでも恋愛だけが出来し、経済小説で人が苛酷な経済マターにばかりふりまわされ、ミステリーであらゆる細部が大きな「謎」によって緊迫するように、恐怖の出来事の連続また連続によってできています。こんなこと、わたしたちの日常にはありえない。
 しかし、日常をよく見てみると、まったくないとは断言できない。かすかに、ひっそりと、恐怖の出来事は日常のそこここに棲みついています。ホラー小説はこの極小の兆しまたは痕跡を極大化する。恋愛小説が「恋愛」を、経済小説が「経済」を極大化するように。わたしはこれを「極大化の方法」、「極端化の方法」または「前景化の方法」と呼びます。この方法により、わたしたちはわたしたちしじんの恐怖を明視することが可能になるのです。「SFがほんとうにうまくしごとをしたとき、それは見知らぬものを飼い慣らしたりしない。それは飼い慣らされたものを見知らぬものにする。それはわれわれを旅に連れだし、そこでわれわれは見知らぬものに出会い、その見知らぬものが自分自身であることを知る」(R・スコールズ)。これはホラー小説でも変わりません。
 わたしたちの時代のホラー小説とともに、奇異なホラー世界へと旅立ちましょう。ひとめぐりしたのち、奇異でむごたらしいホラー世界がわたしたちの世界であり、恐怖の連鎖に直面するのがわたしたちじしんであることに気づくはずです。さあ、勇気をだして。
ここで「ホラー的なもの」とは、「解決不可能性による内破」です。
「解決不可能性による内破」に直面し、この惨状を外へとそらす「戦争」に加担せず、あくまでも「解決不可能性による内破」をくぐりぬけて、その先へと想像力をのばさなければなりません。想像力、すなわちスプラッタ・イマジネーション(血しぶきの想像力)。
「春菊さんにとってホラー映画とは?」
 と聞かれたことを思い出しました。私はその質問に
「生きていることを確認するような感じ」
 とかなんとか答えたんだったと思う。
(マンガ家兼作家内田春菊の言葉)
 閉塞した時代において、問題がたてつづけに起きるにもかかわらず、いっこうに解決されない。そんな解決不可能な問題群がどんどん蓄積され、あるとき、とうとうたえきれなくなった容れ物が、ぱちんとはじける。「壊れる」。わたしたちの社会が、そしてわたしたちじしんが――「壊れる」という言葉は今、いたるところにひろがりつつある。
「街には 河が流れていて それはもう河口にほど近く 広くゆっくりよどみ 臭い」(岡崎京子『リバーズ・エッジ』)
「世の中みんな キレイぶって、ステキぶって 楽しんでるけど ざけんじゃねえよって ざけんじゃねえよ いいかげんにしろ あたしにも無いけど あんたらにも 逃げ道ないぞ ザマアミロって」(岡崎京子『リバーズ・エッジ』)
「惨劇はとつぜん 起きるわけではない そんなことがある訳がない それは実は ゆっくりと徐々に 用意されている 進行している アホな日常 たいくつな毎日の さなかに それは―― そしてそれは風船が ぱちんとはじけるように起こる ぱちんと弾けるように 起こるのだ」(岡崎京子『リバーズ・エッジ』)
月に一度 月の消える夜があって。その夜が明けると 「パタン」 ウソの両親がやってくる どこがどうウソかというと……… 「ナオミや。」 わたしのことをヘンな名前で呼ぶことだ。その名は ドブドロのニオイがして 「げーっ」 思わず吐いてしまう。「うげー」 そうしてウソの両親はナオミの好物だといって ひからびたドーナッツを3つ差しだし 「ナオミは小さい頃は西部劇が好きでした」「ナオミは郵便屋に舌を抜かれましたよ」「ナオミは飼っていたカナリアに目をつぶされましたよ」 気味の悪いウソの思い出をわたしにおしつけようとする。 近所のふみきりで足の悪いおばさんがはねられました 竹やぶの中には戦争中の兵隊の死体があります 裏の川には毒が投げ込まれています………嫌になったわたしが「おとうさん、おかあさん。やっとわたしにもトモダチができました」とトモダチのことをきりだすと 彼らの視線が不安と期待でわたしにそそがれる 「トモダチの名はザカリアス 彼は射手座のB型 実家は鉄工場で 羊の皮をかぶった人殺し 子供を八つ裂きにし その臓物をすすり 一晩に七つの夢を見て 紫のカギ爪は毒なので触ってはダメ。夜になると わたしの部屋にしのびこみ 首をしめるが 殺しはしない。目を離してはダメ。彼の目から目を離しては。なぜなら だって彼は 黒い運命の使者であり 背後にひそむ者の影であり わたしのわたしの わたしのわたしのわたしの わたしのわたしの………トモダチのザカリアスは!」気がつくとウソの両親は すでに 小さな二つの黒いしみ すすり泣きと共に ドアのすきまにすいこまれて ゆく そしてその夜から また月が生まれる。
(しりあがり寿『ア○ス』)
《帰りたいんかて?
 いいや、そこしか帰るところがないからじゃ。
 誰もおらん、誰もまっとらん、荒れ放題の掘っ立て小屋じゃ。外で寝る方がましいうほどの代物じゃ。血と糞と怨念のしみついた臭い場所じゃ。
 子潰し婆がおらんなっても、相も変わらず水子はあの河原に捨てられて泣いとるじゃろ。
 それでも妾(わたし)はあそこに帰る。
 できたら陸蒸気が津山で停まらず、地獄まで直に通じとったらな、と願うわ。
 陸蒸気に乗って、ええ気持ちでうつらうつらしたとするじゃろ、そしたら……寝過ごして津山駅を行きすぎて、ほんまものの地獄に着く。うつらうつらと血の池じゃ。
 その地獄に着くまで、窓からはどんな景色が見えるんじゃろ。いきなり、針の山や血の池は見せんよな。鬼も急には出てこんじゃろ。まずは壊れた人間からあらわれる。
 きっとなんにもない景色じゃろうな。
 赤い地面、黒い空、真ん中を流れる泥の河。飛ぶのは痩せた鳥。
 大方、それは生まれる前に見た景色じゃな。
 なあ姉ちゃん。一緒に帰ろうな。》
(岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』)

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