バッハ(Bach) ゴールドベルク変奏曲(Goldberg Variations ) イタリア協奏曲 パルティータ第4番 解説付き 他 グレン・グールド (Glenn Gould )

一夜にして名声を得るという
演奏史上まれな出来事が
'50年代半ばの ワシントンで起こった
若きピアニストの鮮烈なデビュー
彼の名は
グレン・グールド
数カ月後の初録音の曲目は
バッハのゴールドベルク変奏曲
鍵盤曲の最高傑作の1つだ

この作品は 彼いわく
平凡なバスの動きに基づく 非凡な30の変奏で
順不同に並べられた写真のように
時代的に交錯する
バッハ円熟期の 精緻な対位法が展開する一方
若き日の自己顕示欲の発露も見られるが
最良の変奏は 晩年の強い禁欲主義で貫かれている

グールドは作品の構造を重視し
楽器の特性を超越するがゆえに
冷徹なエクスタシーに到達する
作曲家の立場から作品に共感し
批判的にスコアを検討することができる

彼は聴き手にも 創造的過程への参加を望む
個々のアイデンティティーへの 執着を捨てれば
作曲家 演奏家 聴き手は
ロマン派の時代に失われた 一体性を回復できるのだ

更なる高みを求めて デビューから8年後
その国際的なコンサート活動に 自ら終止符を打った
俗世間からの隔絶によって 彼の知力は自由を獲得
演奏 作曲 執筆と 多面的に活躍し
技術のもたらす コミュニケーションの可能性を
追求し続けた
その現場を覗いてみよう

彼の音楽活動の場は 全てスタジオである
デビューから25年
彼はゴールドベルク変奏曲の 再録音に取り組んでいた
「これを最初に録音したのは だいぶ前ですね」

「そう かなり前」

「これだけ大規模な作品を
 再びやるのは珍しいのでは」

「再録音なんか滅多にやらない
 過去20数年で2、3曲しかないと思う
 '55年の録音の数年後にステレオが実用化されて
 モノーラルが時代遅れになった
 さらに その後のドルビーの発明で
 最初の録音は 音質的にも古びてしまった
 でも それだけでは再録音を
 する理由にはならない
 きっかけは珍しく自分の
 レコードを聴き直したこと
 結構よかった
 しかし30の変奏それぞれが
 自分勝手に振舞っていて
 元になっている バスの動きについて
 バラバラにコメントしているようだった
 コンサート活動をやめて
 20年くらいにはなるし
 その間この曲は1回も弾いていないから
 新鮮な気持ちで見直せるのでは と思った
 主題と変奏の間を 数学的に対応させて
 時間的な関係を 作り出せると考えた
 でも 2-4-8-16-32
 といった意味の対応ではない
 本来の考え方からすれば
 バッハの場合 連続性は
 旋律にではなく 和声にあるけど
 私はリズムと パルスの連続性を試みたい
 それなら再録音の意味もある
 ドルビーもステレオも大事だが
 20数年ぶりの挑戦はそのためなんだ」
「番組のオープニングにぴったりの
 「フーガの技法」でしたが
 忘れてならないのは──
 本来はピアノのための
 曲ではないという事です」

「その点だけれど
 弁解をするつもりは あまりない
 ピアノはバッハに 向いている面もあるし
 そうでない面もあるから
 結局 使い方次第だと思う
 その音楽の価値を 高めると言うか
 その音楽の特性を生かすような
 使い方をするのが
 一番 無難な言い方かな」

「全く対照的な2つの説が
 よく論じられています
 1つは ピアノがあれば
 バッハは使っていたという説」

「そうだろうね
 実際的な人だったから
 晩年にフリードリヒ大王の宮廷で
 見たジルバーマンのピアノを
 ずいぶん誉めたそうだし…
 だが あまり的確な主張ではない
 そもそも──
 今のピアノとは全く違う代物なのだから」

「他方の言い分は
 ピアノを知らなかったという事
 自分の見た新しい楽器の
 可能性までは考えておらず
 2世紀後の姿など
 とても想像できなかった
 従ってバッハの親しんだ
 チェンバロやクラヴィコード以外で
 彼の音楽を弾くのは 一種の冒瀆で
 バッハの考えていた響きの範囲を
 逸脱する事だと」

「そういう説も確かにあるね
 でも それは 見当違いではないかな
 それが正しいならば
 こういう事になる バッハは──
 特定の音色や響きを
 作曲上の重要な要素と考え
 その結果 ほとんど楽器の
 奴隷と化していた とね
 でも 反論のための事例は
 いくらでも出せる
 それにはピアノが必要だ」

「何を例に?
 ヴァイオリン協奏曲?」

「(♪~)
 これはホ長調だけど
 鍵盤楽器用に ニ長調にしたり
 あるいは そのまま
 カンタータに転用して
 オルガンで演奏させたり…
 例は無数にある
 だからピアノを前にして
 響きが適切かなどと
 悩む事は まずなかっただろうし
 ピアノに自分を合わせる事も
 決してしなかったと思う
 18世紀版のスクリャービンには
 ならなかったはずだ
 構造が最優先だったのだ
 その一番の例が 先ほど弾いた
 「フーガの技法」だ
 ありとあらゆる編成で
 演奏されているからね
 今まで聴いただけでも──
 オルガン チェンバロ ピアノ
 弦楽四重奏 各種オーケストラ
 木管や金管の四重奏や五重奏…
 サックス四重奏だってある」

「それはすごい」

「それにジャズ歌手の
 スキャットもあった 真似できないが
 どんな編成でやっても 音楽は損なわれていない
 構造が堅固だ
 作曲家には 2つのタイプがある
 一方は 究極のソナタや交響曲を 書こうとする
 パガニーニ リスト マーラー等
 楽器や編成の可能性を
 とことん追求するタイプ
 もう一方は 耳ばかりか視覚的な
 鑑賞に価する作品 つまり──
 楽譜を見ただけで
 色々な響きが聴こえてきて
 構造そのものの意味が 伝わって
 くる作品を書こうとするタイプ
 こちらは構造が重要で
 響きは二の次というわけだ
 その最たる例がカール・ラッグルズ」

「米国の作曲家の?」

「そう 自曲の改作で
 「天使」という作品がある
 以前 彼の指定を無視して
 演奏会で取り上げた事がある
 6本のトランペット用の曲を
 なぜピアノで弾いたかというと
 彼が──
 「弱音器付きのトランペットの曲だが──
  クラリネット6本での演奏も可能だし
  その1本がバス・クラリネットでもよい
  弦楽六重奏でも──
  ヴァイオリン5丁 チェロ1丁
  または4丁に2丁でも──
  移調すればチェロ6丁でもよい」
 と記していたからだ
 まあ 何でもいいのだが
 注釈が ふるっている
 「弦なら弱音器は なし」だって
 バッハはこれほどではないが
 傾向としては こちらの方だったし
 年々その傾向は強まり
 晩年には「フーガの技法」のように
 内省的な作品を生み出した
 つまり作品の構造や──
 音楽の流れの本質を追求し
 外面的な響きや──
 世評などからは遠ざかったのだ
 全く違った創作の領域に
 彼は踏み込んで行った
 時代はバッハとは逆の方向に
 駆け出していた
 快楽的な器楽曲中心の
 ”スカルラッティ症候群”の時代に
 それに背を向けていたわけだから
 すごい
 以前にも話したが ある音から
 イメージされる響きと──
 特定の楽器の響きとは 違う
 試しに1720年代初めにバッハが
 息子に書いた曲を弾くから
 ピアノのイメージとは違う響きの
 するところを言ってみて」
「この曲にはチェンバロや
 クラヴィコードよりピアノが合うと?」

「まさか バッハ同様
 私には全く興味のない問題だ
 しかし ある種の作品に限っては
 ピアノの方がバッハの意図に
 近づける つまり──
 ヴァイオリン・ソナタや
 チェロ・ソナタは どれも──
 実はトリオ・ソナタで
 2声部を受け持っているから
 独奏楽器との音量のバランスは
 ピアノの方がいい」
「独奏鍵盤曲の場合
 みんな神経質に なり過ぎていると思う
 チェンバロや クラヴィコードだけが
 正当だとする傾向があるが
 それは音楽学の行き過ぎだし
 片寄った考え方でもある
 現代のピアノでショパンを弾いても
 誰も文句を言わないが
 ショパンの時代のピアノだって
 現代の楽器との隔たりは大きい
 でも 当時の楽器プレイエルを
 使おうという動きはない」

「「フーガの技法」やインヴェンション
 平均律はいいとして
 半音階的幻想曲はどうでしょう
 どう考えても絶対音楽ではないし
 特定の楽器のために 書かれた曲でしょう
 ショパンの夜想曲がピアノ曲であるように
 あれはチェンバロ曲では?」

「その点は認めざるを得ない
 まさしく鍵盤楽器のための曲だ」
「これが半音階的幻想曲の
 私の最初で最後の演奏だ」

「嫌いですか?」

「大嫌いだ 学生時代 仲間達は
 バッハを ろくに弾かなかったが
 演奏会になると
 メインの曲 つまり──
 ショパン ドビュッシー
 ベートーヴェン──
 の前に 必ずイタリア協奏曲か
 この曲を取り上げていた
 公正を期するために言うと
 即興性の発揮されている曲だ
 いつもの構築的なバッハとは違う
 和声がさまよい
 この奇妙なアルペジオで
 ゆるく 連結している
 (♪~)
 当時 ヒッチコック映画があれば
 音楽はバッハだったはず
 ペーター・ローレのような俳優が
 幽霊屋敷でオルガンを弾き
 時計が零時を告げる」

「偶然性の音楽のようにも
 聴こえます」

「その通り だって
 今のはジャズの三和音風に
 (♪~)
 膨らませていったんだ」

「途中でやめずに
 最後まで弾いてください」

「どうして? 減七の和音の連続で
 きりがないのに」

「でも お願いします」

「分かった
 でも 本当にこれで最後だ
 さっきの続きから いくね」
「バッハ嫌いの人向きの曲だ」

「分かるような気がします
 確かに この作品は
 バッハらしくない
 でも なぜ
 この勝手気ままな作品と
 カチッとしたロココ的な構築の
 イタリア協奏曲が同類なのですか」

「なるほど違いはあるけど
 2曲ともバッハらしくない
 何より対位法的でないし
 線的な流れの意識が弱い
 イタリア協奏曲の方は
 整然としたジョージ王朝風の
 建築のようで ヘンデルが──
 英国で 特に
 好んで用いたスタイルだ
 (♪♪~)
 一段落!
 これを続けていれば
 息子達の受けもよかったはず
 だがバッハは それを拒んだ
 息子達は期待していたのにね
 イタリア協奏曲では
 普段なら出さない指示を
 珍しく書き込んでいる
 テンポよりは むしろ
 ダイナミックスが明記されている
 様々なコントラストの指示だ
 そこでジレンマに陥るわけだ
 ピアノは──
 クレシェンドやディミヌエンドが
 自在だが チェンバロ用の
 この曲では それが考慮されていない
 では どれ位ピアノの特性を
 発揮するか── ほどほどだね
 曲の構造を台なしにしてしまうからだ
 かといって
 トゥッティとソロの対比を抑えたら…
 (♪~)
 こんな風では逆効果だ
 弦楽器の場合
 昔からよく言われるように
 弓全体を使う必要はない
 ピアノも同様に考えるべきだ
 だからといって
 パルティータ ホ短調の
 サラバンドのような感情的で──
 ワーグナー的な激しさを持つ曲で
 自制するのは おかしい
 (♪~)
 ところで あなたの
 バッハの演奏は
 極端に速かったり
 遅かったり──
 気分次第という印象を受けます
 例えば──
 平均律の
 嬰ハ長調のフーガの録音は
 信じ難い遅さだった」
 
「解釈は限定していないから
 倍の速度でもいいと思う
 (♪~)
 バッハが多くのフーガで
 しているのと同じ事なんだ
 例えば ここでは主題が
 縮小されて倍のテンポになり
 拡大されて遅くなったりする
 ここでは こう拡大している
 (♪~)
 重要な点は こうした事が
 安心してできるのは
 フーガという堅固な構造の
 おかげなのであって
 他の形式でやるのは
 冒険だと思う
 メヌエットやジーグでは調子が
 乱れる ただし例外で──
 圧巻なのは
 パルティータ ロ短調のジーグだ
 ジーグの限界を完全に超えている
 (♪~)
 ジーグを超えたジーグだ」

「しかし これから
 バッハの大曲 ニ長調の──
 パルティータを
 弾いていただきますが
 この曲では 任意にテンポを
 決めていいものでしょうか?」

「いや 決してそんな事はない
 テンポを変えていいと言ったのは
 単独で演奏される フーガ
 前奏曲 インヴェンション等だけだ
 パルティータや組曲では
 やらない方がいいと思う
 だって そうする必然性がない
 ベートーヴェンの交響曲など
 複数の楽章からなる大曲と
 同じ事だ」

「ベートーヴェンの交響曲には
 各々イメージがあって
 例えば私の場合
 4番はチャーミング
 5番は動機が強迫観念的
 6番は──
 一番穏やかで芳醇…」

「…そして7番はディスコの先駆だ」

「これと同じような事が
 パルティータでも言えますか」

「もちろん 最も陰鬱で激しく
 私らしいのが──
 先ほど少し弾いた第6番ホ短調
 (♪~)
 最も名人芸的なのは
 第5番ト長調
 (♪~)
 最もチャーミングなのは
 第1番変ロ長調
 (♪~)
 ドラマ性とユーモアの二分化
 といった意味で一番面白いのが
 第2番ハ短調
 (♪~)
 第4番ニ長調はおかしな曲で
 仰々しく始まるかと思うと…」

「フランス風の序曲で始まる?」

「そう トランペットと
 ティンパニを駆使したような
 形式張っているくせに 不思議な
 ラテン的性格に貫かれている
 アルマンドはシンコペーションに
 よって パヴァーヌのようだし
 サラバンドには
 リュートのような音型がある
 最も人間味のある
 情の深いパルティータだ
 ホ短調のような超越願望がないので
 最愛の曲ではないし
 ト長調のウィットや
 変ロ長調の魅惑もない
 でも他にはない
 独特の暖かさがあって
 哲学的な安らぎが得られる」

「是非 自分の耳で
 確かめたいですね」

「では 弾きましょう」


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