村田沙耶香『コンビニ人間』

「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
 二人が感情豊かに会話をしているのを聞いてると、少し焦りが生まれる。私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない。人が減って困ったなあと思うだけだ。私は菅原さんの表情を盗み見て、トレーニングのときにそうしたように、顔の同じ場所の筋肉を動かして喋ってみた。
「えー、またバックレですかあ。今人手不足なのに、信じられないです!」
 菅原さんの言葉を繰り返す私に、泉さんが時計と指輪を外しながら笑った。
「はは、古倉さんめっちゃ怒ってる! そうだよねー、ほんとあり得ないよー」
 同じことで怒ると、店員の皆がうれしそうな顔をすると気が付いたのは、アルバイトを始めてすぐのことだった。店長がムカつくとか、夜勤の誰それがサボってるとか、怒りが持ち上がったときに協調すると、不思議な連帯感が生まれて、皆が私の怒りを喜んでくれる。
 泉さんと菅原さんの表情を見て、ああ、私は今、上手に「人間」ができているんだ、と安堵する。この安堵を、コンビニエンスストアという場所で、何度繰り返しただろうか。
「いらっしゃいませ、おはようございます!」
 この瞬間がとても好きだ。自分の中に、「朝」という時間が運ばれてくる感じがする。
 外から人が入ってくるチャイム音が、教会の鐘の音に聞こえる。ドアをあければ、光の箱が私を待っている。いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている。
 ミホが頷く。ぐっすりと眠るミホの子供を見つめるサツキを見ていると、二人の子宮も共鳴しあっているような気持ちになる。
 頷いていたユカリが、ふと私のほうに視線を寄越した。
「恵子は、まだ結婚とかしてないの?」
「うん、してないよ」
「え、じゃあまさか、今もバイト?」
 私は少し考えた。この年齢の人間がきちんとした就職も結婚もしていないのはおかしなことだということは、私も妹に説明されて知っている。それでも事実を知っているミホたちの前で誤魔化すのも憚られて、私は頷いた。
「うん、実はそうなんだ」
 私の返答に、ユカリは戸惑った表情を浮かべた。急いで、言葉を付け加える。
「あんまり身体が強くないから、今もバイトなんだー!」
 私は地元の友達と会うときには、少し持病があって身体が弱いからアルバイトをしていることになっている。アルバイト先では、親が病気がちで介護があるからだということにしていた。二種類の言い訳は妹が考えてくれた。
 二十代前半のころは、フリーターなど珍しいものではなかったので特に言い訳は必要がなかったが、就職か結婚という形でほとんどが、社会と接続していき、今では両方ともしていないのは私しかいない。
 身体が弱いなどと言いながら、毎日立ち仕事を長時間やっているのだから、おかしいと皆、心の中では思っているようだ。
「変なこと聞いていい? あのさあ、恵子って恋愛ってしたことある?」
 冗談めかしながらサツキが言う。
「恋愛?」
「付き合ったこととか……恵子からそういう話、そういえば聞いたことないなって」
「ああ、ないよ」
 反射的に正直に答えてしまい、皆が黙り込んだ。困惑した表情を浮かべながら、目配せをしている。ああそうだ、こういうときは、「うーん、いい感じになったことはあるけど、私って見る目がないんだよねー」と曖昧に答えて、付き合った経験はないものの、不倫かなにかの事情がある恋愛経験はあって、肉体関係を持ったこともちゃんとありそうな雰囲気で返事をしたほうがいいと、以前妹が教えてくれていたのだった。「プライべートな質問は、ぼやかして答えれば、向こうが勝手に解釈してくれるから」と言われていたのに、失敗したな、と思う。
「あのさ、私けっこう同性愛の友達とかもいるしさあ、理解あるほうだから。今はアセクシャル? とかいうのもあるんだよねー」
 場をとりなすようにミホが言う。
「そうそう、増えてるっていうよね。若い人とか、そういうのに興味がないんだよね」
「カミングアウトするのも難しいってテレビで見た、それ」
 性経験はないものの、自分のセクシャリティを特に意識したこともない私は、性に無頓着なだけで、特に悩んだことはなかったが、皆、私が苦しんでいるということを前提に話をどんどん進めている。たとえ本当にそうだとしても、皆が言うようなわかりやすい形の苦悩とは限らないのに、誰もそこまで考えようとはしない。そのほうが自分たちにとってわかりやすいからそういうことにしたい、と言われている気がした。
 子供の頃スコップで男子生徒を殴ったときも、「きっと家に問題があるんだ」と根拠のない憶測で家族を責める大人ばかりだった。私が虐待児だとしたら理由が理解できて安心するから、そうに違いない、さっさとそれを認めろ、と言わんばかりだった。
 迷惑だなあ、何でそんなに安心したいんだろうと思いながら、
「うーん、とにかくね、私は身体が弱いから!」
 と、妹が、困ったときはとりあえすこう言えと言っていた言い訳をリピートした。
「そっか、うんうん、そうそう、持病とかあるとね、いろいろ難しいよね」
「けっこうずっと前からだよね、大丈夫ー?」
 早くコンビニに行きたいな、と思った。コンビニでは、働くメンバーの一員であることが何よりも大切にされていて、こんなに複雑ではない。性別も年齢も国籍も関係なく、同じ制服を身に付ければ全員が「店員」という均等な存在だ。
 時計を見ると午後の3時だった。そろそろ、レジの精算が終わって銀行の両替も完了し、トラックに乗ったパンとお弁当が届いて並べ始めているころだ。
 離れていても、コンビニと私は繋がっている。遠く離れた、光に満ちたスマイルマート日色町駅前店の光景と、そこを満たしているざわめきを鮮明に思い浮かべながら、私はレジを打つために爪が切りそろえられた手を、膝の上で静かに撫でた。
「ありがとうございますー!」
 三人の声が重なる。店長がいるとやっぱり朝礼が締まるな、と思っていると、ぼそりと白羽さんが言った。
「……なんか、宗教みたいっすね」
 そうですよ、と反射的に心の中で答える。
 これから、私たちは「店員」という、コンビニのための存在になるのだ。白羽さんはそのことにまだ慣れない様子で、口をぱくぱくさせるだけで、ほとんど声を出していなかった。
 妹が笑うが、私はミホの子供も甥っ子も、同じに見えるので、わざわざこっちのほうも見にこなくてはいけないという理屈がよくわからない。でも、こっちの赤ん坊のほうが、大事にしなくてはいけない赤ん坊なのだろう。私にとっては野良猫のようなもので、少しの違いはあっても「赤ん坊」という種類の同じ動物にしか見えないのだった。
「あ、そうだ、麻美、何かもっといい言い訳ってない? 最近、身体が弱いっていうだけじゃ、怪訝な顔されるようになっちゃった」
「……うーん、考えてみるね。お姉ちゃんはリハビリ中なんだから、身体が弱いっていうのも、全部言い訳や嘘っていうわけじゃないんだよ。堂々としてていいんだよ」
「でも、変な人って思われると、変じゃないって自分のことを思っている人から、根掘り葉掘り聞かれるでしょう? その面倒を回避するには、言い訳があると便利だよ」
 皆、変なものには土足で踏み入って、その原困を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢で鬱陶しかった。あんまり邪魔だと思うと、小学校のときのように、相手をスコップで殴って止めてしまいたくなるときがある。
 そんな話を何気なく妹にして、泣きそうになられたことを思い出し、私はロをつぐんだ。
 小さい頃から親切にしてくれた妹を悲しませるのは本意ではないので、私は「あ、そういえばユカリと久しぶりに会ったら、雰囲気が変わったねって言われたよ」と明るい話題を口にした。
「うん、確かに、お姉ちゃん、前とちょっと違うかも」
「そう? あ、でも麻美も違うよ。前より大人っぽくなった気がする」
「何それ、もうとっくに大人だよ」
 目尻に皺を寄せる妹は、前よりも喋り方が落ち着いていて、服装はモノトーンになっている。今、妹の周りにはこういう人がたくさんいるのかもしれない、と思う。
 赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
 テーブルの上の、 ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあと思った。妹は懸命に赤ん坊を抱きしめている。私はそれを見ながら、ケーキのクリームがついた唇を拭った。
 バーベキューをやろうとミホから連絡が入り、次の日曜の朝からミホの家に集まることになった。午前中から買い出しを手伝う約束をしたところで、携帯が鳴った。見ると、実家からの電話だった。
『恵子、明日ミホちゃんの家に集まるって言ってた日よね? ミホちゃんちに寄るついでに、家にも顔をだせない? お父さんが寂しがっちゃって』
「うーん、無理かな。次の日アルバイトだから、早く帰って体調を整えないといけないし」
『そうなの。残念ね……お正月も顔をださないし。近いうちにまた来なさいよ』
「うん」
 今年のお正月は、人手不足で元旦から出勤していた。コンビニは365日営業で、年末年始は主婦のパートさんは来られなかったり、外国からの留学生は国に帰ったりするので、いつも人手不足になる。実家に顔をだそうとは思っているが、お店が困っているのを見るとつい、働くほうを選択してしまうのだった。
『それで、元気でやってるの? 毎日、ほら、恵子は立ち仕事だからね、身体も大変でしょう。最近はどうなの? ほら、変わったこととか』
 探るような言葉の中に、どこか母が変化を待ち望んでいるような気がする。18年間なにも変化しない私に、母は少し疲れているのかもしれなかった。
 特に変わりはないことを告げると、『そう』と、安心したような、がっかりしたような声で言った。
 電話を切ったあと、ふと、鏡の中の自分を眺めた。コンビニ店員として生まれたときに比べると、私は老いていた。そのことに不安はないが、前よりも疲れを感じやすくなっているのも事実だった。
 もし、本当に老いてコンビニで働くことができなくなったら自分はどうなるのだろう、と考えることがある。6人目の店長は、腰を痛めて働くことができず、会社を辞めていった。そうならないためにも、私の身体は、コンビニの為に健康でありつづけなければならないのだった。
 翌日、約束通り午前から買い出しを手伝い、ミホの家まで運んで準備をした。昼にはミホの旦那さんやサツキの旦那さん、少し離れた所に住んでいる友達たちも集まり、懐かしい顔ぶれがそろった。
 十四、五人ほど集まった中で、結婚していないのは私の他に二人だけだった。夫婦で来ている友達ばかりではないので何とも思わなかったが、結婚していないミキは「私たちだけ肩身が狭いね」と私に耳打ちした。
「皆ほんとうに久しぶりー! いつ以来だろ、お花見やったとき以来?」
「私もそうかも! 地元に来るのもあのとき以来だもん」
「ねえねえ、皆今どうしてるの?」
 久しぶりに地元に帰ってきたという友達も何人かいたので、一人ずつ近況を言う流れになった。
「私は今、横浜に住んでるよー。会社が近いんだ」
「あ、転職したんだ?」
「そうそう! 今はね、服飾系の会社ー! 前の職場は人間関係がちょっとね」
「私はね、結婚して埼玉にいるよー。仕事は前と同じ!」
「私はご覧のとおり、チビができて会社は育休中だよー」
 ユカリが言い、私の番になった。
「私はコンビニでアルバイトしてる。身体が……」
 いつも通り、妹の作ってくれた言い訳を続けようとすると、その前にエリが身を乗り出した。
「ああ、パート? 結婚したんだねー! いつ?」
 当然のようにエリが言うので、
「ううん、してないよ」
 と答えた。
「あの、え、それなのにアルバイト?」マミコが戸惑った声を出す。
「うん。ええとね、私は身体が……」
「そうそう、恵子は身体が弱いんだよね。だからバイトで働いてるんだよね」
 私を庇うようにミホが言う。私の代わりに言い訳をしてくれたミホに感謝していると、ユカリの旦那さんが、
「え、でも立ち仕事でしょ? 身体弱いのに?」
 と怪訝な声を出した。
 彼とは初めて会うのに、そんなに身を乗り出して眉間に皺を寄せるほど、私の存在が疑問なのだろうか。
「ええと、他の仕事は経験がないので、体力的にも精神的にも、コンビニは楽なんです」
 私の説明に、ユカリの旦那さんは、まるで妖怪でも見るような顔で私をみた。
「え、ずっと……? いや、就職が難しくても、結婚くらいした方がいいよ。今はさ、ほら、ネット婚活とかいろいろあるでしょ?」
 私はユカリの旦那さんが強く言葉を発した拍子に、唾液がバーベキューの肉の上に飛んで行ったのを眺めていた。食べ物の前に身を乗り出して喋るのはやめたほうがいいのではないかな、と思っていると、ミホの旦那さんも大きく頷いた。
「うんうん、誰でもいいから相手見つけたら? 女はいいよな、その点。男だったらやばかったよ」
「誰か紹介してあげたらー? 洋司さん、顔広いじゃない」
 サツキの言葉に、シホたちが、「そうそう!」「誰かいないの、ちょうどいい人?」と盛り上がった。
 ミホの旦那さんは、ミホに何か耳打ちしたあと、
「あー、でも俺の友達、既婚者しかいないからなー。無理無理、紹介は」
 と苦笑いした。
「あ、婚活サイトに登録したら? そうだ、今、婚活用の写真とればいいじゃん。ああいうのって、自撮りの画像より、今日みたいなバーベキューとか、大勢で集まってるときの写真のほうが、好感度高くて連絡来るらしいよー」
「へえ、いいねいいね、撮ろうよ!」
 ミホが言い、ユカリの旦那さんが、笑いを堪えながら、
「そうそう、チャンスチャンス!」
 と言った。
「チャンス……それって、やってみるといいことありますか?」
 素朴に尋ねると、ミホの旦那さんが戸惑った表情になった。
「いや、早いほうがいいでしょ。このままじゃ駄目だろうし、焦ってるでしょ、正直? あんまり年齢いっちゃうとねえ、ほら、手遅れになるしさ」
「このままじゃ……あの、今のままじゃだめってことですか? それって、何でですか?」
 純粋に聞いているだけなのに、ミホの旦那さんが小さな声で、「やべえ」と呟くのが聞こえた。
 同じ独身という立場のミキは、「私も焦ってるんですけどね、海外出張とかが多くてー」と軽快に自分の環境を説明して、「まあ、ミキちゃんは仕事が凄いもんね。稼ぎだって男よりあるしさ、ミキちゃんほどになると、見合う相手もなかなかいないよなー」とユカリの旦那さんにフォローされていた。
「あ、肉焼けた、肉!」
 場をとりなすようにミホが叫び、皆がほっとしたように、肉を皿に取り始めた。ユカリの旦那さんの唾液が飛び散った肉に、皆がかじりつく。
 気が付くと、小学校のあのときのように、皆、少し遠ざかりながら私に身体を背け、それでも目だけはどこか好奇心を交えながら不気味な生き物を見るように、こちらに向けられていた。
 あ、私、異物になっている。ぼんやりと私は思った。
 店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。
 正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。
 そうか、だから治らなくてはならないんだ。治らないと、正常な人達に削除されるんだ。
 家族がどうしてあんなに私を治そうとしてくれているのか、やっとわかったような気がした。
「皆が足並みを揃えていないと駄目なんだ。何で三十代半ばなのにバイトなのか。何で一回も恋愛をしたことがないのか。性行為の経験の有無まで平然と聞いてくる。『ああ、風俗は数に入れないでくださいね』なんてことまで、笑いながら言うんだ、あいつらは! 誰にも迷惑かけていないのに、ただ、少数派だというだけで、皆が僕の人生を簡単に強姦する」
 どちらかというと白羽さんが性犯罪者寸前の人間だと思っていたのd、迷惑をかけられたアルバイト女性や女性客のことも考えずに、自分の苦しみの比喩として気軽に強姦という言葉を使う白羽さんを、被害者意識は強いのに、自分が加害者かもしれないとは考えない思考回路なんだなあ、と思って眺めた。
 自分を可哀想がるのが白羽さんの趣味なのではないかとすら思いながら、
「はあ。それは大変ですね」
 と適当に相槌を打った。私もそれに似た億劫さは感じているが、特に守りたいものが自分にあるわけではないので、何で白羽さんがそんなに当り散らすのかわからない。まあさぞかし生きづらいのだろうな、と思いながら、自分は白湯を飲んでいた。
 味がする液体を飲む必要性をあまり感じないので、ティーバッグを入れずにお湯を飲んでいるのだ。
 白羽さんは自分が飲んでいるのがジャスミンティーだというのに気が付いたのか、「僕、コーヒーが飲みたいんですけど」と不満そうな声をあげ、私は立ち上がってドリンクバーでコーヒーを淹れ、白羽さんの前に置いた。
「不味い。やっぱり駄目だな、こんなところのコーヒーは」
「白羽さん、婚姻だけが目的なら私と婚姻届を出すのはどうですか?」
 自分の席に二杯目の白湯を置いて椅子に座りながら切り出すと、白羽さんが、
「はあ!?」
 と大声を出した。
「そんなに干渉されるのが嫌で、ムラを弾かれたくないなら、とっととすればいいじゃないですか? 狩り……つまり就職に関してはわかりませんが、婚姻することで、とりあえず、恋愛経験や性体験云々に対して干渉されるリスクはなくなるのでは?」
「突然なにを言ってるんだ。ばかげてる。悪いですけど、僕は古倉さん相手に勃起しませんよ」
「勃起? あの、それが婚姻と何の関係が? 婚姻は書類上のことで、勃起は生理現象ですが」
 白羽さんが口を閉じたので、私は丁寧に説明した。
「白羽さんの言うとおり、世界は縄文時代なのかもしれないですね。ムラに必要のない人間は迫害され、敬遠される。つまり、コンビニと同じ構造なんですね。コンビニに必要のない人間はンフトを減らされ、クビになる」
「コンビニ……?」
「コンビニに居続けるには『店員』になるしかないですよね。それは簡単なことです、制服を着てマニュアル通りに振る舞うこと。世界が縄文だというなら、縄文の中でもそうです。普通の人間という皮をかぶって、そのマニュアル通りに振る舞えばムラを追し出されることも、邪魔者扱いされることもない」
「何を言っているのかわからない」
「つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」
「それが苦しいから、こんなに悩んでいるんだ」
「でも白羽さん、ついさっきまで迎合しようとしてたじゃないですか。やっぱりいざとなると難しいですか? そうですよね、真っ向から世界と戦い、自由を獲得するために一生を捧げる方が、多分苦しみに対して誠実なのだと思います」
 白羽さんは言葉がない様子で、コーヒーをただ睨んでいた。
「だから、難しいなら無理することはないんです。白羽さんと違って、私はいろんなことがどうでもいいんです。特に自分の意思がないので、ムラの方針があるならそれに従うのも平気だというだけなので」
 皆が不思議がる部分を、自分の人生から消去していく。それが治るということなのかもしれない。
 ここ二週間で14回、「何で結婚しないの?」と言われた。「何でアルバイトなの?、は12回だ。とりあえず、言われた回数が多いものから消去していってみようと思った。
 私はどこかで、変化を求めていた。それが悪い変化でもいい変化でも、膠着状態の今よりましなのではないかと思えた。白羽さんは、返事をしないまま、目の前のコーヒーの黒い水面を、穴でも開いているかのように深刻な風情で覗きこんでいるだけだった。

 結局、いざ「それじゃあ」と帰ろうとすると白羽さんは「いや、もう少し考えてみても……」などと曖昧なことを言い、うだうだと引き止められて時間が過ぎて行った。
 ぽつりぽつりと白羽さんが話すには、彼はルームシェアをしていたようだが、家賃を滞納してしまい、ほとんど追い出されかかっているという。以前はこういうときは北海道の実家に帰ってしのいでいたが、5年前に弟が結婚して、今では実家は二世帯住宅に改装されてお嫁さんと甥っ子が住んでおり、帰っても居場所がないのだという。白羽さんは弟の奥さんに毛嫌いされているらしく、今までは甘えて金を借りることが出来たのに、それも自由にできなくなったそうだった。
「あの嫁が口を出してきてからおかしくなったんだ。あいつなんて弟に寄生している存在のくせに、我が物顔で家をうろうろしやがって、死ね!」
 恨みつらみを交えた白羽さんの身の上話は長くて、私は途中からほとんど聞かずに時計を見ていた。
 もう夜の11時になろうとしている。私は明日もアルバイトだ。体調管理をして健康な体をお店に持って行くことも時給の内だと、2人目の店長に教わったというのに、寝不足になってしまう。
「白羽さん、それじゃ家に来ませんか? 食費を出してくれれば泊めますよ」
 白羽さんは行くところがないみたいで、このまま放っておいたら朝までドリンクバーで粘りそうな勢いだった。私はもう面倒になり、「あ、」「いや、でも」などという白羽さんを強引に家に連れ帰った。
 部屋に入り近くに寄って気が付いたが、白羽さんからは、浮浪者のような臭いがした。とりあえず風呂に入るように言い、バスタオルを押し付けて無理矢理風呂場のドアを閉めた。中からシャワーの音が聞こえはじめ、ほっと息をついた。
 白羽さんのシャワーは長く、待っているうちに眠ってしまいそうだった。私はふと思いついて、妹に電話をした。
『もしもし?』
 妹の声だ。まだぎりぎり日付は変わっておらず、妹は起きていたようだった。
「夜遅くごめんね。悠太郎くんは平気?」
『うん、大丈夫、悠太郎もよく寝てて、のんびりしてたとこ。どうしたの?』
 妹と同し家の中で寝ているだろう、甥っ子の姿が頭に浮かんだ。妹の人生は進んでいる。何しろ、この前まではいなかった生き物がそこにいるのだ。妹も、母のように私の人生にも変化を求めているのだろうか。私は実験するような気持ちで、妹に打ち明けた。
「夜中に電話して言うほどのことじゃないんだけど……あのね、実は、今、家に男性がいるんだ」
『えっ!?』
 妹の声がひっくりかえり、しゃっくりのような声が聞こえてきたので大丈夫か聞こうとすると、ほとんど叫ぶような妹の慌てた声に遮られた。
『えっ、本当!? うそでしょう!? え、いつから!? いつのまに、お姉ちゃん、どんな人!?』
 妹の勢いに圧倒されながら、私は答えた。
「最近かなあ。バイト先の人だよ」
『ええ、お姉ちゃん、おめでとう……!』
 詳しい事情も聞かずに突然祝福し始めた妹に、少し困惑した。
「おめでたいかな?」
『どんな人かわからないけど、お姉ちゃん、今までそういう話したことなかったから……うれしいよ! 応援する!』
「そう……?」
『それで、私に報告してきたってことは、もしかして結婚とかもう考えてるの……!? あ、ごめん、気が早かったかな!?』
 妹は今までにないくらい饒舌になっている。その興奮した様子に、現代社会の皮を被っていても今は縄文だというのも、あながち的外れではないような気がしてきた。
 そうか、もうとっくにマニュアルはあったんだ。皆の頭の中にこびりついているから、わざわざ書面化する必要がないと思われているだけで、「普通の人間」というものの定型は、縄文時代から変わらずずっとあったのだと、今更私は思った。
『お姉ちゃん、本当によかったね。ずっといろいろあって苦労してきたけど、全部わかってくれる人を見つけたんだね……!』
 妹はなんだか勝手に話を作り上げて感動していた。わたしが「治った」と言わんばかりのその様子に、こんな簡単なことでいいならさっさと指示を出してくれれば遠回りせずに済んだのに、と思った。
「私、思ったんですけど、白羽さんが家にいると都合がいいかもしれません。今、試しに妹に電話してみたんですけど、勝手に話を作ってすごく喜んでくれるんですよね。男女が同じ部屋にいると、事実はどうあれ、想像を広げて納得してくれるものなんだなと思いました」
 歯磨きを済ませて目覚ましをセットし、私は布団に入って目を閉じた。時折、ごそり、ごそり、という白羽さんのたてる音が聞こえてきたが、だんだんと頭の中にあるコンビニの音のほうが強くなり、いつのまにか眠りの中に吸い込まれていた。
 白羽さんはまるで酒でもあおるように、ヘコ缶のサイダーを一気飲みした。
「でもまあ、僕と古倉さんは利害が一致していますしね。このままここにいてやってもいい」
「はあ」
 私はヘコ缶の入った紙袋の中からチョコレートメロンサイダーを取り出し、白羽さんに渡した。
「あの、それで、白羽さん側には何のメリットが?」
 白羽さんはしばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「僕を隠してほしい」
「は?」
「僕を世界から隠してほしいんだ。僕の存在を利用して、ロではいくらでも広めてくれてかまわない。僕自身は、ずっとここに隠れていたい。もう赤の他人に干渉されるのはうんざりなんだ」
 白羽さんは俯いてチョコレートメロンサイダーを啜った。
「外に出たら、僕の人生はまた強姦される。男なら働け、結婚しろ、結婚をしたならもっと稼げ、子供を作れ。ムラの奴隷だ。一生働くように世界から命令されている。僕の精巣すら、ムラのものなんだ。セックスの経験がないだけで、精子の無駄遣いをしているように扱われる」
「それは、苦しいですね」
「あんたの子宮だってね、ムラのものなんですよ。使い物にならないから見向きもされないだけだ。ぼくは一生何もしたくない。一生、死ぬまで、誰にも干渉されずにただ息をしていたい。それだけを望んでいるんだ」
 白羽さんは祈るように、両手を組み合わせた。
 私は、白羽さんの存在が自分にとって有益かどうか考えていた。母も妹も、そして私も、治らない私に疲れはじめていた。変化が訪れるなら、悪くても良くても今よりましなような気がした。
「私には白羽さんほどの苦しみはないかもしれませんが、今のままだとコンビニで働きづらいのも事実です。新しい店長に、いつも、なんでバイトしかしたことないのか聞かれるし、言い訳をしないと不審がられてしまうんですよね。ちょうど、いい言い訳を探していたところではあったんです。白羽さんがそれなのかは知りませんが」
「僕さえここにいれば世間は納得しますよ。あなたにとってメリットしかない取引だ」
 白羽さんは自信ありげだった。私から提案したものの、それほど強く言われると胡散臭かったが、見たこともなかった妹のリアクションや、恋愛をしたことがないと言ったときのミホたちの表情を思い浮かべ、本当に試してみるのもそんなに悪くないか、と思えた。
「取引といっても、報酬は必要ありませんよ。あなたは僕をここにおいて、食事さえ出してくれればそれでいい」
「はあ……まあ、白羽さんに収入がない限り、請求してもしょうがありませんよね。私も貧乏なので現金は無理ですが、餌を与えるんで、それを食べてもらえれば」
「餌……?」
「あ、ごめんなさい。家に動物がいるのって初めてなので、ペットのような気がして」
 白羽さんは私の言い回しに不機嫌そうにしつつも、「まあ、それでいいでしょう」と満足げに言い放った。
「ところで、僕は朝から何も食べていないんですが」
「ああ、はい、冷凍庫にご飯と、冷蔵庫に茹でた食材があるので、適当に食べてください」
 私は皿を出してテーブルに並べた。茹でた野菜に醤油をかけたものと、炊いた米だ。
 白羽さんは顔をしかめた。
「これは何ですか?」
「大根と、もやしと、じゃがいもと、お米です」
「いつもこんなものを食べているんですか?」
「こんなもの?」
「料理じゃないじゃないですか」
「私は食材に火を通して食べます。特に味は必要ないのですが、塩分が欲しくなると醤油をかけます」
 丁寧に説明したが、白羽さんには理解ができないようだった。嫌々口に運びながら、「餌だな」と吐き捨てるように言った。
 だからそう言っているのに、と思いながら、私は大根をフォークで刺して、ロに運んだ。

 ほとんど、詐欺師をそれとわかっていて家に住まわせるような感覚で白羽さんを家に置き始めた私だが、意外と、白羽さんの言うことは当たっていた。
 家に白羽さんがいると都合がいい。そう思うのに時間はかからなかった。
 妹の次に白羽さんのことを話したのは、ミホの家に集まったときだった。皆で集まってケーキを食べながら、私は、家に白羽さんがいることをさりげなく口にした。
 皆の狂喜乱舞は、頭がおかしくなったのだろうかと思うほどだった。
「え、なに、いつから!? いつから!?」
「どんな人!?」
「よかったねえええ! 私、心配してたんだよ、恵子はどうなるのかなって……本当によかった!!」
 皆の勢いを不気味に思いながら、「ありがとう」とだけ口にした。
「ねえねえ、仕事は? 何やってる人なの?」
「何もしてない。起業するのが夢だって言っていたけど、ロだけみたい。家でごろごろしてる」
 皆、表情を変えて、身を乗り出して私の話を聞きだした。
「いるいる、そういう男……でもそういう人ほど、妙にマメだったり優しかったりして、魅力的だったりするんだよね。友達も、何がいいんだろうと思うんだけどやっぱりそういう人にハマっちゃって」
「私の友達も、不倫してた反動で、ヒモにマっちゃってさ。家事をやってくれるならまだ、専業主夫って言えるけど、それすらしないの。でも友達が妊娠したら、ころっと態度変えて、今では幸せそうだよー」
「そうそう、そういう男には妊娠が一番!」
 私が「恋愛をしたことがない」と言ったときより皆うれしそうで、そして全てわかってるから、というロぶりで話し続けている。恋愛もセックスもしたことがない、就職もしたことがない、前の私のことは、たまに理解不能だというリアクションを示したが、白羽さんを家に住まわせている私のことは、未来のことまで全てお見通しだと言わんばかりだった。
 友達がああだこうだと白羽さんと私のことを話しているのを聞いていると、まるで赤の他人の話を聞いているようだった。皆の中で勝手に話が出来上がっているようで、私と白羽さんと名前だけが同じ登場人物の、私とは関係のない物語なのだった。
 口をはさもうとすると、「まあまあ、忠告は聞いといたほうがいいって!」「そうそう、恵子は恋愛初心者なんだから。私たちのほうがずっと、そういう男の生態についてはうんざりするほど聞いてきてるんだから」「ミホも、若い頃一度だけあったよねー」と楽しそうなので、聞かれた情報を答える以外は特に何もしないことにした。
 皆、初めて私が本当の「仲間」になったと言わんばかりだった。こちら側へようこそ、と皆が私を歓迎している気がした。
 今まで私は皆にとって、「あちら側」の人間だったんだな、と痛感しながら、皆が唾を飛ばして話し続けるのを、「なるほど!」と菅原さんの言い方でハキハキと頷きながら聞いていた。
「安いデス、からあげ棒、いかがデスカー!」
 慣れないながらも声を張り上げてくれるトゥアンくんだけが、今は、私のかけがえのない同志だった。
 近所のスーパーで、もやしと鶏肉とキャベツを買って帰ると、白羽さんが見当たらなかった。
 食材を茹でる準備をしながら、もしかしたら白羽さんは出て行ったのかもしれないな、と考えていると、風呂場から物音がした。
「あれ、白羽さん? いるんですか?」
 風呂場をあけると、白羽さんが洋服を着たまま乾いたバスタブの中に座り、タブレットで動画を見ているところだった。
「なんでここにいるんですか?」
「最初は押入れにいたんですけど、虫が出るんですよ。ここなら虫はいないし、落ち着いて過ごせるんで」
 と白羽さんは答えた。
「今日も茹でた野菜ですか?」
「ああ、そうです。今日はもやしと鶏肉とキャベツに火を通してます」
「そうですか」
 白羽さんが俯いたまま言った。
「今日、帰り遅かったですね。もうお腹がすいてるんですけど」
「あがろうとしたら、店長と泉さんが話しかけてきて離してくれなかったんですよ。店長なんて休日出勤なのに、ずっと店にいて。白羽さんを飲み会に連れて来いってしつこく言われました」
「え……ひょっとして、僕のこと話したんですか?」
「ごめんなさい、口が滑ったんです。あ、これどうそ。白羽さんの私物と給料明細、受け取ってきました」
「……そうですか……」
 白羽さんはタブレットを握りしめて黙り込んだ。
「隠してくれって言ったのに……言ってしまったんですね」
「ごめんなさい、悪気はなかったんです」
「いや……困るのは古倉さんですよ」
「え?」
 何で私が、と首をかしげた。
「きっと奴らは、僕を引き摺り出して叱ろうとする。けれど僕は絶対に行かない。ここに隠れ続ける。そうしたら、次に叱られるのは、古倉さん、あなたですよ」
「私……?」
「何で無職の男を部屋に住まわせているんだ、共働きでもいいが何でアルバイトなんだ、結婚はしないのか、子供は作らないのか、ちゃんと仕事しろ、大人としての役割を果たせ……みんながあなたに干渉しますよ」
「今まで、お店の人にそんなこと言われたことないですよ」
「それはね、あんたがおかしすぎたからですよ。36歳の独身のコンビニアルバイト店員、しかもたぶん処女、毎日やけにはりきって声を張り上げて、健康そうなのに就職しようとしている様子もない。あんたが異物で、気持ちが悪すぎたから、誰も言わなかっただけだ。陰では言われてたんですよ。それが、これからは直接言われるだけ」
「え……」
「普通の人間っていうのはね、普通しゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。でもね、僕を追いだしたら、ますます皆はあなたを裁く。だからあなたは僕を飼い続けるしかないんだ」
 白羽さんは薄く笑った。
「僕はずっと復讐したかったんだ。女というだけで寄生虫になることが許されている奴等に。僕自身が寄生虫になってやるって、ずっと思っていたんですよ。僕は意地でも古倉さんに寄生し続けますよ」
 私は白羽さんが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「白羽さん、それより餌を食べますか? そろそろ茹で終わったころだと思いますが」
「ここで食べます、持ってきてください」
 白羽さんが言うので、私は茹でた野菜と白いご飯を皿に乗っけて風呂場に運んだ。
「そこ、閉めてください」
 白羽さんが言うので風呂場のドアは閉め、私は久しぶりに一人でテーブルに座って食事を始めた。
 自分が咀嚼する音がやけに大きく聞こえた。さっきまで、コンビニの「音」の中にいたからかもしれない。目を閉じて店を思い浮かべると、コンビニの音が鼓膜の内側に蘇ってきた。
 それは音楽のように、私の中を流れていた。自分の中に刻まれた、コンビニの奏でる、コンビニの作動する音の中を揺蕩いながら、私は明日、また働くために、目の前の餌を身体に詰め込んだ。

 白羽さんのことはあっという間に店の中に広がり、店長からはしつこく、会うたびに「白羽くん元気!? 飲み会いつにする!?」と言われるようになった。
 8人目の店長は、仕事熱心なところが尊敬できて、最高の同志だと思っていたのに、会えば白羽さんの話ばかりでうんざりしていた。
 今までは、顔を合わせると、最近暑くなってチョコレート菓子の売り上げがいまいちだとか、近くに新しいマンションが出来たからタ方のお客さんが増えたとか、再来週の新商品はCMがすごく入るらしいから期待できるとか、そんな有意義な話を、コンビニ店員とコンビニ店長として真っ直ぐに交わしていたのに。店長の中で、私がコンビニ店員である以前に、人間のメスになってしまったという感覚だった。
「古倉さん、悩みとかあったらさ、俺が聞くよー!」
「そうそう、今度、古倉さんだけでも飲み会においでよ。本当は白羽さんが来てくれればいいんだけどねー! 私から活を入れてあけるのに!」
 白羽さんを嫌いだと言っていた菅原さんまで、「私も白羽さんに会いたいです! 誘ってくださいよー!」と言ってきた。
 今まで知らなかったが、どうやら皆、たまに飲み会をしているようで、子持ちの泉さんも夫が世話をしてくれる日は顔を出したりしているようだった。
「いやあ、古倉さんとも、一度飲みたいと思ってたんだよ!」
 皆、白羽さんを飲み会に引き摺り出そうとしていて、彼を叱ろうと、その機会を待ち構えているのだった。
 こんなに皆から叱ろうとされたら、白羽さんが「隠れたい」と思う気持ちもわかる気がした。
 白羽さんが辞めたときに処分するべき白羽さんの履歴書まで店長は持ちだして、泉さんと「見て見てここ、大学を中退して専門学校に行って、そっちもすぐにやめてる」「資格って、今時英検だけですか? え、免許もないってことなんですかね?」などと白羽さんを品評していた。
 皆、嬉々として白羽さんを叱ろうとしていた。それがおにぎり100円均一セールや、チーズフランクフルトの新発売や、お惣菜が全部割引になるクーポンをお配りすることより大切な優先事項だと言わんばかりだった。
 店の「音」には雑音が混じるようになった。皆で同じ音楽を奏でていたのに、急に皆がバラバラの楽器をポケットから取り出して演奏を始めたような、不愉快な不協和音だった。
 一番怖かったのは、新人のトゥアンくんだった。彼はどんどん店を吸収していて、店の皆に似てきていた。それは以前の店だったら問題なかっただろうが、今の皆に似てくることで、トゥアンくんがどんどん、「店員」とはほど遠い生き物に成長していくようだった。
 あんなに真面目だったトゥアンくんが、フランクを作る手を休めて、「古倉さんのオット、前にこの店にいたんですカー?」と言った。
 語尾を伸ばす喋り方は泉さんのものが移りつつあるのかもしれない。私はトゥアンくんに早ロで言った。
「夫じゃないですよ。それより、今日は、暑いから冷たい飲み物が売れる日なんです。ペットボトルのミネラルウォーターが売れて少なくなったらすぐ補充してください、段ポールでウォークインの中にたくさん冷やしてありますから。パックのお茶もよく売れるんで、売り場を常に気を付けて見てあげてくださいね」
「古倉さん、コドモ作らないデスか? 私の姉、結婚して子供三人イマス。まだ小さい、かわいいデスネー」
 トゥアンくんはどんどん店員ではなくなっていく。皆、制服を着て同じように働いていても、前よりも店員ではない気がする。
 客だけは、変わらず店に来て、「店員」としての私を必要としてくれる。自分と同じ細胞のように思っていた皆がどんどん「ムラのオスとメス」になっていってしまっている不気味さの中で、客だけが、私を店員でありつづけさせてくれていた。

 妹が白羽さんを叱りに来たのは、電話から一ヵ月経った日曜日のことだった。
 妹は温和で優しい子なのだが、「お姉ちゃんのために、一言言ってあげないと」とやけに張り切って、どうしてもと押し切られたのだ。
 白羽さんには外に行くように言ったが、「いいですよ、別に」と部屋にいるようだった。あんなに叱られるのを嫌がっていたのに、意外だった。
「悠太郎は旦那が見てくれてるの。たまにはね」
「そう。狭いけれどゆっくりしていってね」
 赤ん坊を携えていない妹を久しぶりに見たので、何だか忘れ物をしているように見えた。
「わざわざ来てくれなくても、呼んでくれればいつもみたいに家まで遊びに行ったのに」
「いいのいいの、今日はお姉ちゃんとゆっくり話したかったから……お邪魔じゃなかった?」
 妹は部屋を見回して、「あの、一緒に暮らしてる人は……今日はお出かけ? 気を遣わせちゃったかな……」と言った。
「え? ううん、いるよ」
「えっ!? ど、どこに? ご挨拶しないと……!」
 慌てて立ち上がった妹に、「別にそんなのしないでいいよ。ああ、でもそろそろ餌の時間かあ……」と言い、台所に置いてあった洗面器に、ご飯と、鍋の中にあるお湯で茹でられたじゃがいもとキャベツを入れ、風呂場に持って行った。
 白羽さんはバスタブの中に敷き詰めた座布団に座ってスマホを弄っており、私が餌を渡すと黙って受け取った。
「お風呂場……? お風呂に入ってるの?」
「うん、一緒の部屋だと狭いからそこに住まわせてるの」
 妹が唖然とした顔をしたので、私は詳しく説明した。
「あのね、うちって古いアパートでしょ。白羽さん、古いお風呂に入るくらいならコインシャワーのほうがいいんだって。シャワー代と餌代の小銭をもらってるの。ちょっと面倒だけれど、でも、あれを家の中に入れておくと便利なの。皆、なんだかすごく喜んでくれて、『良かった』『おめでとう』って祝福してくれるんだ。勝手に納得して、あんまり干渉してこなくなるの。だから便利なの」
 私の丁寧な説明を理解したのか、妹は俯いた。
「そうだ、昨日、お店で売れ残ったプリンを買ってきてあるんだ。食べる?」
「こんなことだと思わなかった……」
 妹が震える声を出したので、驚いて顔を見ると泣いているようだった。
「どうしたの!? あ、今すぐティッシュ持ってくるね!」
 咄嗟に菅原さんの喋り方で立ち上がると、妹が言った。
「お姉ちゃんは、いつになったら治るの……?」
 妹が口を開いて、私を叱ることもせず、顔を伏せた。
「もう限界だよ……どうすれば普通になるの? いつまで我慢すればいいの?」
「え、我慢してるの? それなら、無理に私に会いに来なくてもいいんじゃない?」
 素直に妹に言うと、妹は涙を流しながら立ち上がった。
「お姉ちゃん、お願いだから、私と一緒にカウンセリングに行こう? 治してもらおうよ、もうそれしかないよ」
「小さい頃行ったけど、だめだったじゃない。それに、私、何を治せばいいのかわからないんだ」
「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変たよ。お願いだから、普通になってよ」
 妹はますます泣き出してしまった。私は泣いている妹に尋ねた。
「じゃあ、私は店員をやめれば治るの? やっていた方が治ってるの? 白羽さんを家から追い出したほうが治るの? 置いておいたほうが治ってるの? ねえ、指示をくれればわたしはどうだっていいんだよ。ちゃんと的確に教えてよ」
「もう、何もわからないよ……」
 妹は泣きじゃくり、返事をくれることはなかった。
 私は妹が黙ってしまったので暇になり、冷蔵庫からプリンを取り出して泣いている妹を見ながら食べたが、妹はなかなか泣き止まなかった。
 その時、風呂場のドアが開く音がした。驚いて振り向くと、白羽さんが立っていた。
「すみません、今、実はちょっと古倉さんとケンカをしていたんです。お見苦しいところをお見せしました。びっくりしましたよね」
 突然饒舌に喋り始めた白羽さんを、私は呆然と見上げた。
「じつは僕、元カノとフェイスブックで連絡をとりあってしまって。二人で飲みに行ったんです。そうしたら恵子が怒り狂って、一緒には寝られないと言って、僕を浴室に閉じ込めてしまったんです」
 妹は、白羽さんの言っている意味を反芻するようにしばらく彼の顔を見つめ続けたあと、まるで教会で神父さんに出会った信者みたいな顔で、白羽さんに縋るように立ち上がった。
「そうだったんですね……! そうですよね、そうですよね……!」
「今日は、妹さんが来るって聞いて、これはまずいと思って隠れてたんです。僕、叱られちゃうなって」
「そうです……よ! 姉から聞いてたんですけど、仕事もしないで転がり込んできて、私、姉が変な男性に騙されてるんじゃないかって心配で心配で……その上浮気なんて! 妹として、許せませんよ!」
 妹は白羽さんを叱りながら、この上なくうれしそうだった。
 そうか。叱るのは、「こちら側」の人間だと思っているからなんだ。だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」に姉がいるほうが、妹はずっと嬉しいのだ。そのほうがずっと妹にとって理解可能な、正常な世界なのだ。
「白羽さん! 私、妹として本当に怒ってるんですよー!」
 妹は、前と少し喋り方が変わった気がする。妹の周りには、今、どんな人間がいるのだろう。きっとその人によく似た喋り方なのだろう。
「わかってます。ゆっくりですけど仕事は探しますし、もちろん、籍だって早めに入れようって思ってますから」
「このままじゃ、私、両親に報告できないですよー!」
 きっともう限界なのだろう。店員としての私を継続することを、誰も望んでいない。
 店員になることをあんなに喜んでいた妹が、今は、店員ではなくなることこそ、正常なのだと言う。妹の涙は乾いているが、鼻水は流れ出て、鼻の下を濡らしている。それを拭うこともせす、妹ははしゃいでいるような調子で白羽さんに怒りつづけている。私は妹の鼻水を拭うことすらできず、食べかけのプリンを手にしたまま二人を見つめていた。

 翌日、アルバイトから帰ると、玄関に赤い靴が置いてあった。
 また妹が来ているのか、まさか白羽さんが恋人でも連れてきているのかと思いながら中に入ると、部屋の中央には正座している白羽さんと、テーブル越しに白羽さんを睨んでいる茶髪の女性がいた。
「あの……どちら様ですか?」
 声をかけると、女性はきっとこちらを見上げた。まだ若い、メイクがきつめの女性だった。
「あなたが、今、この人と一緒に暮らしている方ですか?」
「はあ、そうですね」
「私、この人の弟の妻です。この人、ルームシェアの家賃滞納したまま逃亡して。携帯も繋がらないみたいで、北海道の実家にまで電話がかかってきたんですよ。こっちからの電話も全部無視するし。たまたま私が同窓会で東京に来る予定があったんで、お義母さんが立て替えたルームシェアの滞納分全部支払って、頭下げて謝罪して。まったく、いつかこういうことになると思ってたんですよ。この人、自分で稼ぐ気が全然なくてお金に意地汚くて、だらしなくて。いいですか、絶対に返してもらいますからね」
 テーブルの上には「借用書」と書かれた紙が置かれていた。
「ちゃんと働いて返してくださいよ。まったく、なんで私が義理の兄のためにここまでしないといけないんだか!」
「あの……どうしてここがわかったんですか……」
 か細い声で白羽さんが言う。私は、白羽さんの「隠してほしい」というのは家賃を払わないで逃けているから、という意味もあったのだろうかと思った。
 白羽さんの質問に、義妹は鼻で笑って言った。
「前にもお義兄さん、家賃を滞納して実家までお金を借りにきたことがあったでしょ。あのとき、こんなことになる気がして、旦那に頼んでお義兄さんの携帯に追跡アプリ入れてもらってたんですよ。だからここにいることはわかってたんで、コンビニに出かけたところを捕まえたんです」
 白羽さんは義妹さんにまったく信用されてなかったんだなあ、としみじみ思った。
「本当に……あの、お金はぜったい返します……」
 白羽さんはうなだれている。
「当然です。それで、この人とはどういう関係なんですか?」
 義妹は私に視線をよこした。
「無職なのに同棲してるんですか? そんなことしてる暇があったら、いい大人なんだからちゃんと就職してください」
「結婚を前提にお付き合いしています。僕は家のことをやって、彼女が働くことになっています。彼女の就職先が決まったら、お金はそこからお返しします」
 へえ、白羽さんに彼女がいたのか、と思ったが、昨日の妹と白羽さんのやりとりを思い出し、あ、自分のことを言われてるんだと気が付いた。
「そうなんですか? 今はどんなお仕事されてるんですか?」
 怪訝な顔で尋ねられ、「あ、ええと、コンビニエンスストアのアルバイトをしています」と答えた。
 義妹さんの目と鼻と口ががばっと一斉にあいたのを見て、あ、どこかで見たことがある顔だな、と思うと、妹さんが唖然とした様子で叫んだ。
「はあ……!? え、それで二人で暮らしてるんですか!? この男は無職なのに!?」
「ええと……はい」
「やってけるわけないじゃないですか!  行き倒れになりますよ!? というか、あの、初対面で失礼ですけど、けっこういい歳ですよね。何でアルバイト!?」
「ええと……いろいろ面接を受けた時期もあったんですけど、コンビニしかできなかったんです」
 義妹は呆然としたように私を眺めた。
「ある意味お似合いって感じですけど……あの、赤の他人の私が言うのもなんですけど、就職か結婚、どちらかしたほうがいいですよ、これ本気で。というか、両方したほうがいいですよ。いつか餓死しますよ、いいかげんな生き方に甘えてると」
「なるほど……」
「この人のこと好きって、ぜんぜん趣味が理解できませんけど、だったらなおさら就職したほうがいいですよ。社会不適合者が二人で、アルバイトのお金だけでやっていけるわけないですから、ましで」
「はい」
「周りは誰も言ってくれなかったんですか? あの、保険とかちゃんと入ってます? これ本当に、あなたのためを思って言ってるんで……! 初対面ですけど、絶対にちゃんと生きたほうがいいですよ!」
 身を乗り出して親身になってくれている様子の義妹を見て、白羽さんから聞いていたよりいい人そうだなと思った。
「二人で話し合ったんだ。子供ができるまでは、僕が彼女をサポートする。僕はネット起業のほうに専念する。子供ができたら、僕も仕事をさがして一家の大黒柱になります」
「夢みたいなこと言ってないで、お義兄さんも働いてください。まあ、二人のことなので、そんなに私が干渉することでもないかもしれないですけど……」
「彼女にはバイトをすぐにやめてもらう。そして毎日職探しをしてもらう。もう決まったことなんだ」
「え……」
 しぶしぶといった調子で、義妹は、「まあ、相手がいる分、前よりかはマシになってる気がしますけど……」と言い、「あんまり長居したくもないんで、もう帰ります」と立ち上がった。
「今日のことは、貸したお金の金額も含めて、ぜんぶお義母さんに報告しますから。逃げられると思わないでくださいね」
 義妹はそう言い残して帰って行った。
 白羽さんはドアが閉められ、足音が遠ざかるのを慎重に確認してから、嬉しそうに叫んだ。
「やった、うまく逃れたぞ! これでしばらく大丈夫だ。この女が妊娠なんかするわけがない、だって僕は絶対にこんな女に挿入しないからな!」
 白羽さんは興奮した様子で、私の両肩を摑んだ。
「古倉さん、あなたは運がいいですよ。処女で独身のコンビニアルバイトだなんて、三重苦のあなたが、ぼくのおかげで既婚者の社会人になれるし、誰もが非処女だと思うだろうし、周りから見てまともな人間になることができるんだ。それが一番みんなが喜ぶ形のあなたなんですよ。よかったですね!」
 帰って早々、白羽さんの家庭の事情に巻き込まれた私は、ぐったりと疲れて白羽さんの話を聞く気にもなれず、
「あの、今日は家のシャワーを使っていいですか?」
 と言った。
 白羽さんがバスタブから布団を出し、私は久しぶりに家のシャワーを浴びた。
 シャワーを浴びている間、浴室のドアの前でずっと白羽さんは喋っていた。
「僕と出会えて、古倉さんは本当に運がいいですよ。このまま一人でのたれ死ぬところだったんですから。そのかわり、ずっと僕を隠し続けてください」
 白羽さんの声は遠くて、水の音しかしない。耳の中に残っていたコンビニの音が、少しずつ掻き消されていく。
 身体の泡を流し終え、きゅっと蛇口をひねると、久しぶりに耳が静寂を聴いた。
 今までずっと耳の中で、コンビニが鳴っていたのだ。けれど、その音が今はしなかった。
 久しぶりの静寂が、聞いたことのない音楽のように感じられて、浴室に立ち尽くしていると、その静けさを引っ掻くように、みしりと、白羽さんの重みが床を鳴らす音が響いた。
 家に帰ると白羽さんが私を待ち構えていた。いつもなら、明日の勤務に向けて、餌を食べて睡眠をとって、自分の肉体を整えるところだ。働いていない時間も、私の身体はコンビニのものだった。そこから解放されて、どうすればいいのかわからなくなっていた。
 白羽さんは部屋で、意気揚々とネットで求人のチェックをしている。テーブルの上には履歴書が散らばっていた。
「年齢制限がある仕事が多いんですけどね、うまく探せば全然ないってわけでもない! 僕はね、求人なんて見るの大嫌いだったんですけど、自分が働くわけじゃないっていうと、面白くて仕方ないものなんですね!」
 私は気が重かった。時計を見ると、夜の7時だった。いつもは、仕事をしていないときでも、私の身体はコンビニエンスストアと繋がっていた。今は夕方のパック飲料の補充の時間、今は夜の雑貨が届いて夜勤が検品を始めた時間、今は床清掃の時間、いつも、時計を見れば店の光景が浮かんでいた。
 今はちょうど、タ勤の沢口さんが来週の新商品のPOPを書いて、牧村くんがカップラーメンの補充をしている時間だろう。それなのに、自分はもうその時間の流れから取り残されてしまったのだと思った。
 部屋の中には白羽さんの声や冷蔵庫の音、様々な音が浮かんでいるのに、私の耳は静寂しか聴いてなかった。私を満たしていたコンビニの音が、身体から消えていた。私は世界から切断されていた。
「やっぱりコンビニバイトじゃ僕を養うには不安定だからなあ。無職とバイトだと、無職の僕の方が責められちゃうし。縄文時代から抜け出せない連中は、すぐに男に文句を言うんだ。でも古倉さんさえ定職につけば、僕はそういう被害をもう受けなくて済みますし、古倉さんのためにもなるし、一石二鳥ですよね!」
「あの、今日は食欲がないんで、白羽さん、何か勝手に食べていてくれませんか」
「ええ? まあ、いいですけど」
 自分で買いにいくのが億劫なのか、白羽さんは少し不満けだったが、千円札を渡すと静かになった。
 その夜、私は布団に入っても眠ることができず、起き上がって部屋着のままべランダに出た。
 今までなら、明日の為に寝ていなければいけない時間だ。コンビニのために身体を整えようと思うとすぐ寝ることができたのに、今の私は何のために眠ればいいのかすらわからなかった。
 洗濯物は部屋干しがほとんどなので、べランダは汚れていて、窓もカビていた。私は部屋着が汚れるのもかまわず、べランダに座り込んだ。
 ふと窓ガラス越しに部屋の中の時計を見ると、夜中の3時だった。
 今は夜勤の休憩がまわっている時間だろうか。ダットくんと、先週から入った、経験者の大学生の篠崎くんが、休憩をしながら、ウォークインの補充を始めているころだろう。
 こんな時間に眠らずにいるのは久しぶりのことだった。
 私は自分の身体を撫でた。コンビニの決まり通りに爪は短く整えられ、髪は染めることもせず清潔感を大切にしてあり、手の甲には三日前にコロッケを揚げたときの火傷のあとが微かに残っている。
 夏が近づいているとはいえ、べランダはまだ少し肌寒かった。それでも部屋に入る気にはなれす、私はいつまでも藍色の空をぼんやり見上げていた。

 暑さと寝苦しさに寝返りを打ちながら、私は布団の中で薄く目を開いた。
 今日が何曜日なのかも、今が何時なのかもわからない。手さぐりで枕元の携帯を探し当て、時計を見ると、2時だった。午前なのか午後なのか、ぼんやりした頭では把握できないまま押入れの外に出ると、カーテン越しに昼間の光が差し込んでいて、今は昼間の2時だと把握した。
 日付を見ると、コンビニを辞めてからもう二週間近く経っているようだった。長い時間が経った気もするし、時が止まっているようにも思える。
 白羽さんは食事でも買いにいっているのか、部屋にはいなかった。出しっぱなしの折り畳みテーブルの上には、昨日食べたカップラーメンの残骸が放置されている。
 コンビニを辞めてから、私は朝何時に起きればいいのかわからなくなり、眠くなったら眠り、起きたらご飯を食べる生活だった。白羽さんに命じられるままに履歴書を書く作業をする他には、何もしていなかった。
 何を基準に自分の身体を動かしていいのかわからなくなっていた。今までは、働いていない時間も、私の身体はコンビニのものだった。健康的に働くために眠り、体調を整え、栄養を摂る。それも私の仕事のうちだった。
 白羽さんは相変わらす浴槽で眠り、昼の間は部屋で食事をしたり求人広告を見たりと、自分が働いていたときよりよほど活き活きと動き回って生活しているようだった。私は昼夜問わず眠くなるので、押入れの中に布団を敷きっぱなしにして、お腹がすくと外に出ていくようになっていた。
 喉が渇いていることに気が付き、水道をひねってコップに水を汲み、一気に飲み干した。ふと、人間の身体の水は二週間ほどで入れ替わるとどこかで聞いたことを思いだす。毎朝コンビニで買っていた水はもう身体から流れ出ていき、皮膚の湿り気も、目玉の上に膜を張っている水も、もうコンビニのものではなくなっているのだろうか、と思った。
 コップを持った手の指にも、腕にも、黒々とした毛が生えている。今までは、コンビニの為に身だしなみを整えていたが、その必要がなくなって、毛を剃る必要性も感じなくなったのだ。部屋に立てかけた鏡をみると、うっすらと髭が生えていた。
 毎日通っていたコインシャワーにも、三日に一度、白羽さんに言われて渋々行くだけになっていた。
 全てを、コンビニにとって合理的かどうかで判断していた私は、基準を失った状態だった。この行動が合理的か否か、何を目印に決めればいいのかわからなかった。店員になる前だって、私は合理的かどうかに従って判断していたはずなのに、そのころの自分が何を指針にしていたのか、忘れてしまっていた。
 不意に電子音が流れ、振り向くと畳の上で白羽さんの携帯が鳴っていた。どうやら、置いたまま出かけたらしい。そのまま放置しようかと思ったが、呼び出し音はなかなか鳴りやまなかった。
 何か緊急の用事だろうかと画面を見ると、『鬼嫁』と表示されていた。直感で「通話」をタッチすると、案の定、白羽さんの弟の奥さんの怒鳴り声がした。
『お義兄さん、何回電話させたら気が済むんですか! 居場所はわかってるんですからね、押しかけますよ!』
「あの、こんにちは、古倉です」
 電話に出たのが私だとわかると、白羽さんの義妹は『あ、あなたですか』と即座に冷静な声になった。
「白羽さんは、今たぶんご飯を買いに行ってると思います。すぐ帰ってくるとは思いますが」
『ちょうどいいです、お義兄さんに伝えといてもらえますか? 貸したお金、先週三千円振り込まれて以来、音沙汰ないんですよ。何なんですか、三千円って。馬鹿にしてるんですか?』
「はあ、すみません」
 なんとなく謝ると、『ほんと、しっかりしてくださいよ。借用書も書いてもらってあるんですからね。出るとこ出ますよって、伝えといてもらえますか、あの男に』と苛々と義妹が言った。
「はい、帰ったら言っておきます」
『絶対ですよ! あいつは金に本当に意地汚いんだから、まったく!』
 義妹の憤った声の向こうから、赤ん坊が泣くような声が聞こえた。
 私はふと、コンビニという基準を失った今、動物としての合理性を基準に判断するのが正しいのではないか、と思いついた。私も人間という動物なのだから、可能なら子供を産んで種族繁栄させることが、私の正しい道なのかもしれない。
「あの、ちょっと聞いてみたいんですけど、子供って、作ったほうが人類のためですか?」
『は!?』
 電話の向こうで義妹の声がひっくり返り、私は丁寧に説明した。
「ほら、私たちって動物だから、増えたほうがいいじゃないですか。私と白羽さんも、交尾をどんどんして、人類を繁栄させるのに協力したほうがいいと思いますか?」
 しばらく何の音もせす、ひょっとしたら電話が切れてしまったのかと思ったが、ぶわあ、と、携帯から生ぬるい空気が吐きだされてきそうなほど、大きな溜息の音がした。
『勘弁してくださいよ……。バイトと無職で、子供作ってどうするんですか。ほんとにやめてください。あんたらみたいな遺伝子残さないでください、それが一番人類のためですんで』
「あ、そうですか」
『その腐った遺伝子、寿命まで一人で抱えて、死ぬとき天国に持って行って、この世界には一欠けらも残さないでください、ほんとに』
「なるほど……」
 この義妹はなかなか合理的な物の考え方ができる人だ、と感心して頷いた。
『ほんと、あなたと話してると頭がおかしくなりそうで、時間の無駄なんで、もう切っていいですか? あ、お金の件、絶対に伝えといてくださいね!』
 義妹はそう言い残すと、通話を切った。
 どうやら私と白羽さんは、交尾をしないほうが人類にとって合理的らしい。やったことがない性交をするのは不気味で気が進まなかったので少しほっとした。私の遺伝子は、うっかりどこかに残さないように気を付けて寿命まで運んで、ちゃんと死ぬときに処分しよう。そう決意する一方で、途方に暮れてもいた。それは解ったが、そのときまで私は何をして過ごせばいいのだろう。
 ドアの音がして、白羽さんが帰ってきた。近くの100円ショップのビニール袋を提げている。一日のリズムがぐちゃぐちゃになって、野菜を茹でて餌を作ることをあまりしなくなった私の代わりに、白羽さんは100円ショップで冷凍食品のおかずを買ってくるようになっていた。
「ああ、起きたんですか」
 この狭い部屋の中に一緒にいるのに、昼間の食事時に顔を合わせるのは久しぶりだった。炊飯器はずっと保温になっていて、開けるとご飯があり、目が覚めるとそれを口の中に押し込んで、また押人れに戻って眠るような生活だったのだ。
 顔を合わせた流れで、なんとなく、一緒に食事をする運びとなった。白羽さんが解凍したおかすは、シュウマイとチキンナゲットだった。皿に盛ったそれを無言でロに運ぶ。
 自分が何のために栄養をとっているのかもわからなかった。咀嚼してドロドロになったご飯とシュウマイを私はいつまでも飲み込むことができなかった。

 その日は、私の初めての面接だった。派遣とはいえ、36歳までアルバイトをしていた私が面接にこぎつけることができたのは、奇跡のようなことだと白羽さんは得意気に言った。コンビニを辞めてから、一ヵ月近く経っていた。
 私は十年以上前にクリーニングに出したきりになっていたパンツスーツを着て、髪の毛を整えていた。
 部屋の外に出ること自体、久しぶりだった。バイトをしながら僅かながらに貯めていたお金も、だいぶ減ってきていた。
「さあ古倉さん、行きますよ」
 白羽さんは私の面接先まで送るという。面接が終わるまで外で待っていると意気込んでいた。
 外に出ると、もうすっかり夏の空気だった。
 電車に乗って面接先へ向かう。電車に乗るのも久しぶりだった。
「少し早く着き過ぎましたね。まだ一時間以上ある」
「そうですか」
「あ、僕ちょっとトイレに行ってきます。ここで待っていてください」
 白羽さんがそう言い残して歩き出した。公衆トイレなどあるだろうかと思ったら、白羽さんが向かっていったのはコンビニだった。
 私もトイレに行っておこうかと、白羽さんを追いかけてコンビニに入った。自動ドアが開いた瞬間、懐かしいチャイムの音が聞こえた。
「いらっしゃいませ!」
 私の方を見て、レジの中の女の子が声を張り上げた。コンビニの中には行列ができていた。時計を見ると、もうすぐ12時になろうというころだった。ちょうど昼ピークが始まる時間だ。
 レジの中には、若い女の子が二人だけしかおらず、一人は「研修中」のバッジをつけているようだった。レジは二台で、二人ともそれそれのレジの操作に必死だった。
 ここはビジネス街らしく、客の殆どはスーツを着た男性や、OL風の女性たちだった。
 そのとき、私にコンビニの「声」が流れ込んできた。
 コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接言りかけ、音楽のように響いているのだった。
 この店に今何が必要か、頭で考えるよりも先に、本能が全て理解していた。
 はっとしてオープンケースを見ると、「今日からパスタ全品30円引き!」というポスターが貼ってあった。それなのにパスタが焼きそばやお好み焼きと混ざって置いてあり、ちっとも目立っていない。
 これは大変だと、私はパスタを冷麺の隣の目立つ場所へ移動させた。女性客が不可解な目で私を見たが、そちらを見上げて「いらっしゃいませ!」と言うと、社員なのだろうと納得した様子で、綺麗に並べ終えたばかりの明太子パスタをとっていった。
 よかったと思うと同時に、今度はチョコレート売り場が目に入った。慌てて携帯を取り出し今日の日付を見る。今日は火曜日、新商品の日だ。コンビニ店員にとって一週間で一番大切なこの日のことを、どうして忘れていたのだろう。
 私はチョコレートの新商品が、一番下の棚に一列しか並んでないのを見て、悲鳴をあげそうだった。半年前に大ヒットして売り切れ続出で話題になったチョコレート菓子の期間限定のホワイトチョコ味がこんな場所に、地味に並べられているなんて、あり得ないことだ。私は手早く売り場を直し、大して売れるものではないのに幅をとっている菓子を一列にして、新商品を一番上の段に三列にして並べ、他の菓子につけっぱなしになっていた「新商品!」というPOPをつけた。
 レジを打っている女の子が、怪訝な顔でこちらを見ている。私の動きに気が付いているが、行列ができているので動きが取れないようだ。私は胸のバッジを見せるような仕草をしながら、「おはようございます!」とお客様のじゃまにならない程度の声で呼びかけ、会釈をした。
 ほっと安心したような表情になり、女の子は小さく会釈を返して、レジに集中し始めた。スーツ姿の私を、本社の社員だとでも思ったのだろう。こんなに簡単に騙されてしまうなんて、安全管理がなっていないと思う。私がもしも悪い人間で、バックルームの金庫をあけたりレジのお金を盗んだりしたらどうするつもりなのだろう。
 後で注意しないと、と思って視線を戻すと、「あ、みてみて、このお菓子、ホワイトチョコが出たんだー!」と女性客二人組が、私が並べた新商品を手に盛り上がっている。
「これ、CMで今日見たよ! 食べてみようかなー」
 コンビニはお客様にとって、ただ事務的に必要なものを買う場所ではなく、好きなものを発見する楽しさや喜びがある場所でなくてはいけない。私は満足して頷きながら、店内を早足で歩き回った。
 今日は暑い日なのに、ミネラルウォーターがちゃんと補充されていない。パックの2リットルの麦茶もよく売れるのに、目立たない場所に一本しか置いていない。
 私にはコンビニの「声」が聞こえていた。コンビニが何を求めているか、どうなりたがっているか、手に取るようにわかるのだった。
 行列が途切れ、レジにいた女の子が私のほうへ駆け寄ってきた。
「わあ、すごい、魔法みたい」
 私が整えたポテトチップスの売り場を見て呟く。
「今日、一人バイトが来れなくなって、店長に連絡したけれど繋がらなくて、困ってたんです。新人さんと二人で……」
「そうですか。でも、レジの様子を見ていましたが、礼儀正しくてとてもよかったですよ。ピークが落ち着いたら、冷たい飲み物の補充をしてあげてください。アイスも、暑くなってきたらさっぱりした棒アイスのほうが売れるので、売り場を直してあげるといいですね。それと、雑貨の棚が少し埃っぽいですね。一度、商品を下げて棚清掃を行ってください」
 私にはコンビニの「声」が聞こえて止まらなかった。コンビニがなりたがっている形、お店に必要なこと、それらが私の中に流れ込んでくるのだった。私ではなく、コンビニが喋っているのだった。私はコンビニからの天啓を伝達しているだけなのだった。
「はい!」
 女の子は信頼しきった声で返事をした。
「それと、自動ドアにちょっと指紋がたくさんついてしまってますね。目立つところなのでそこも清掃してあげてください。あと、女性客が多いので、春雨スープがもっと種類があるといいですね。店長に伝えておいてください。それと……」
 コンビニの「声」をそのまま女の子の店員に伝えていると、
「何をしてるんだ!」
 という怒鳴り声がした。
 白羽さんがいつのまにかトイレから出てきて、私の手首を摑んで叫んでいるのだった。
「お客様、どうなさったのですか」
 反射的に答えると、「ふざけるな!」と言われて、店の外へ連れて行かれた。
「何、馬鹿なことをやってるんだ、お前は!」
 道路まで私を引き摺って怒鳴った白羽さんに、私は言った。
「コンビニの『声』が聞こえるんです」
 私の言葉に白羽さんは、おぞましいものをみるような目になった。白羽さんの顔を包んでいる青白くて薄い皮膚が、まるで握りつぶしたようにしわくちゃになった。
 それでも、私は引き下がらなかった。
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」
「なにを……」
 白羽さんが怯えたような表情になり、私は畳み掛けた。
「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
 白羽さんは黙って、しわくちゃの皮膚の顔をしたまま、私の手首を引っ張り、面接の会場へと連れて行こうとした。
「狂ってる。そんな生き物を、世界は許しませんよ。ムラの掟に反している! 皆から迫害されて孤独な人生を送るだけだ。そんなことより、僕の為に働いたほうがずっといい。皆、そのほうがほっとするし、納得する。全ての人が喜ぶ生き方なんですよ」
「一緒には行けません。私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」
「そんなことは許されないんだ!」
 私は背筋を伸ばして、『誓いの言葉』を言うときのように、白羽さんに真っ直ぐ向き合った。
「いえ、誰に許されなくても、私はコンビニ店員なんです。人間の私には、ひょっとしたら白羽さんがいたほうが都合がよくて、家族や友人も安心して、納得するかもしれない。でもコンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」
 こうして喋っている時間がもったいなかった。コンビニのために、また身体を整えないといけない。もっと早く正確に動いて、ドリンクの補充も床の掃除ももっと早くできるように、コンビニの「声」にもっと完璧に従えるように、肉体のすべてを改造していかなくてはいけないのだ。
「気持ちが悪い。お前なんか、人間じゃない」
 吐き捨てるように白羽さんが言った。だからさっきからそう言っているのに、と思いながら、私は白羽さんに摑まれていた手をやっとはずして、自分の胸元で抱きしめた。
 お客様にお釣りを渡し、ファーストフードをお包みするための大切な手だ。白羽さんの粘っこい汗がついているのが気持ちが悪くて、これではお客様に失礼になってしまうと、早く洗いたくて仕方がなかった。
「絶対に後悔するぞ、絶対にだ!」
 白羽さんはそう怒鳴って、一人で駅の方へと戻って行った。私は鞄から携帯を取り出した。まずは面接先へ、自分はコンビニ店員だから行くことはできないと伝えて、それから新しい店を探さなくてはならない。
 私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
「いらっしゃいませ!」
 私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

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