島崎藤村『破戒』

斯うして我輩は飲むから貧乏する、と言ふ人もあるけれど、我輩に言はせると、貧乏するから飲むんだ。一日たりとも飲まずには居られない。まあ、我輩も、始の内は苦痛を忘れる為に飲んだのさ。今では左様ぢや無い、反つて苦痛を感ずる為に飲む。はゝゝゝゝ。

噫、辛抱、辛抱――出来ることを辛抱するのは辛抱でも何でも無い、出来ないところを辛抱するのが真実(ほんたう)の辛抱だ。
丑松は言出した。『彼の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂人さ。だつて、君、左様ぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂諛ふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つて他に吹聴するといふ今の世の中に、狂人ででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪取つたのも、彼様いふ病気に成る程の苦痛を嘗めさせたのも、畢竟斯の社会だ。其社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛れる迄も思ひ焦れて居るなんて――斯様な大白痴が世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生涯さ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。「奈何な苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人の睨む通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。」――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂人染みてるぢやないか。はゝゝゝゝ。』
『いや、つまらなかない。』と丑松は聞入れなかつた。『僕は君、是でも真面目なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人の態だらう。噫、開化した高尚な人は、予め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。』
斯ういふ中にも、独り丑松ばかりは気が気で無い。何を見たか、何を聞いたか、殆ど其が記憶にも留らなかつた。唯頭脳の中に残るものは、教員や生徒の騒しい笑声、余興のある度に起る拍手の音、または斯の混雑の中にも時々意味有げな様子して盗むやうに自分の方を見る人々の眼付――まあ、絶えず誰かに附狙はれて居るやうな気がして、其方の心配と屈託と恐怖とで、見たり聞いたりすることには何の興味も好奇心も起らないのであつた。どうかすると丑松は自分の身体ですら自分のものゝやうには思はないで、何もかも忘れて、心一つに父の戒を憶出して見ることもあつた。『見給へ、土屋君は必定出世するから。』斯う私語き合ふ教員同志の声が耳に入るにつけても、丑松は自分の暗い未来に思比べて、すくなくも穢多なぞには生れて来なかつた友達の身の上を羨んだ。
『なむあみだぶ。』と口の中で繰返し乍ら奥様が出て行つた後、やゝしばらく丑松は古壁に倚凭つて居た。哀憐(あはれみと同情(おもひやり)とは眼に見ない事実(ことがら)を深い『生』の絵のやうに活して見せる。幾度か丑松はお志保の有様を――斯の寺の方を見かへり/\急いで行く其有様を胸に描いて見た。あの釣と昼寝と酒より外には働く気のない老朽な父親、泣く喧嘩する多くの子供、就中(わけても)継母――まあ、あの家へ帰つて行つたとしたところで、果して是から将来奈何なるだらう。『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』と不図昨夕と同じやうなことを思ひついた時は、言ふに言はれぬ悲しい心地になつた。
 一生のことを思ひ煩ひ乍ら、丑松は船橋の方へ下りて行つた。誰か斯う背後から追ひ迫つて来るやうな心地がして――無論其様なことの有るべき筈が無い、と承知して居乍ら――それで矢張安心が出来なかつた。幾度か丑松は背後を振返つて見た。時とすると、妙な眩暈心地に成つて、ふら/\と雪の中へ倒れ懸りさうになる。『あゝ、馬鹿、馬鹿――もつと毅然しないか。』とは自分で自分を叱り?す言葉であつた。河原の砂の上を降り埋めた雪の小山を上つたり下りたりして、軈て船橋の畔へ出ると、白い両岸の光景(ありさま)が一層広濶と見渡される。目に入るものは何もかも――そここゝに低く舞ふ餓ゑた烏の群、丁度川舟のよそほひに忙しさうな船頭、又は石油のいれものを提げて村を指して帰つて行く農夫の群、いづれ冬期の生活の苦痛を感ぜさせるやうな光景ばかり。河の水は暗緑の色に濁つて、嘲りつぶやいて、溺れて死ねと言はぬばかりの勢を示し乍ら、川上の方から矢のやうに早く流れて来た。
 深く考へれば考へるほど、丑松の心は暗くなるばかりで有つた。斯社会から捨てられるといふことは、いかに言つても情ない。あゝ放逐――何といふ一生の恥辱であらう。もしも左様なつたら、奈何して是から将来生計が立つ。何を食つて、何を飲まう。自分はまだ青年だ。望もある、願ひもある、野心もある。あゝ、あゝ、捨てられたくない、非人あつかひにはされたくない、何時迄も世間の人と同じやうにして生きたい――斯う考へて、同族の受けた種々の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』といふ乞食の階級よりも一層劣等な人種のやうに卑められた今日迄の穢多の歴史を繰返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数へて、あるひは追はれたりあるひは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩や、それから彼の下高井の大尽の心地を身に引比べ、終には娼婦(あそびめ)として秘密に売買されるといふ多くの美しい穢多の娘の運命なぞを思ひやつた。
 其時に成つて、丑松は後悔した。何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕ふやうな、其様な思想(かんがへ)を持つたのだらう。同じ人間だといふことを知らなかつたなら、甘んじて世の軽蔑を受けても居られたらうものを。何故、自分は人らしいものに斯世の中へ生れて来たのだらう。野山を駆け歩く獣の仲間ででもあつたなら、一生何の苦痛も知らずに過されたらうものを。
 歓し哀しい過去の追憶(おもひで)は丑松の胸の中に浮んで来た。この飯山へ赴任して以来(このかた)のことが浮んで来た。師範校時代のことが浮んで来た。故郷に居た頃のことが浮んで来た。それはもう悉皆(すつかり)忘れて居て、何年も思出した先蹤(ためし)の無いやうなことまで、つい昨日の出来事のやうに、青々と浮んで来た。今は丑松も自分で自分を憐まずには居られなかつたのである。軈て、斯ういふ過去の追憶がごちや/\胸の中で一緒に成つて、煙のやうに乱れて消えて了ふと、唯二つしか是から将来に執るべき道は無いといふ思想に落ちて行つた。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きて居る気は無かつた。其よりは寧ろ後者の方を択んだのである。
 涙は反つて枯れ萎れた丑松の胸を湿した。電報を打つて帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思ひやつて、其を自分の身に引比べて見た。流石に先輩の生涯は男らしい生涯であつた。新平民らしい生涯であつた。有の儘に素性を公言して歩いても、それで人にも用ゐられ、万(よろづ)許されて居た。『我は穢多を恥とせず。』――何といふまあ壮(さか)んな思想(かんがへ)だらう。其に比べると自分の今の生涯は――
 其時に成つて、始めて丑松も気がついたのである。自分は其を隠蔽(かく)さう隠蔽さうとして、持つて生れた自然の性質を銷磨(すりへら)して居たのだ。其為に一時も自分を忘れることが出来なかつたのだ。思へば今迄の生涯は虚偽(いつはり)の生涯であつた。自分で自分を欺いて居た。あゝ――何を思ひ、何を煩ふ。『我は穢多なり』と男らしく社会に告白するが好いではないか。斯う蓮太郎の死が丑松に教へたのである。
 見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな心地がした。告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性を暴露(さらけだ)さうなぞとは、今日迄思ひもよらなかつた思想(かんがへ)なのである。急に丑松は新しい勇気を掴んだ。どうせ最早今迄の自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――あゝ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれて居る現世の歓楽、それも穢多の身には何の用が有らう。一新平民――先輩が其だ――自分も亦た其で沢山だ。斯う考へると同時に、熱い涙は若々しい頬を伝つて絶間(とめど)も無く流れ落ちる。実にそれは自分で自分を憐むといふ心から出た生命(いのち)の汗であつたのである。
 いよ/\明日は、学校へ行つて告白(うちあ)けよう。教員仲間にも、生徒にも、話さう。左様だ、其を為るにしても、後々までの笑草なぞには成らないやうに。成るべく他(ひと)に迷惑を掛けないやうに。斯う決心して、生徒に言つて聞かせる言葉、進退伺に書いて出す文句、其他種々(いろ/\)なことまでも想像して、一夜を人々と一緒に蓮太郎の遺骸(なきがら)の前で過したのであつた。彼是するうちに、鶏が鳴いた。丑松は新しい暁の近いたことを知つた。
 丁度十二月朔日のことで、いつも寺では早く朝飯を済すところからして、丑松の部屋へも袈裟治が膳を運んで来た。斯うして寺の人と同じやうに早く食ふといふことは、近頃無いためし――朝は必ず生温い飯に、煮詰つた汁と極(きま)つて居たのが、其日にかぎつては、飯も焚きたての気(いき)の立つやつで、汁は又、煮立つたばかりの赤味噌のにほひが甘(うま)さうに鼻の端(さき)へ来るのであつた。小皿には好物の納豆も附いた。其時丑松は膳に向ひ乍ら、兎も角も斯うして生きながらへ来た今日迄を不思議に難有(ありがた)く考へた。あゝ、卑賤(いや)しい穢多の子の身であると覚期すれば、飯を食ふにも我知らず涙が零れたのである。
 朝飯の後、丑松は机に向つて進退伺を書いた。其時一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅(めぐりあ)はうと、決して其とは自白(うちあ)けるな、一旦の憤怒(いかり)悲哀(かなしみ)に是戒(このいましめ)を忘れたら、其時こそ社会(よのなか)から捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのであつた。『隠せ』――其を守る為には今日迄何程(どれほど)の苦心を重ねたらう。『忘れるな』――其を繰返す度に何程の猜疑(うたがひ)と恐怖(おそれ)とを抱いたらう。もし父が斯の世に生きながらへて居たら、まあ気でも狂つたかのやうに自分の思想(かんがへ)の変つたことを憤り悲むであらうか、と想像して見た。仮令(たとひ)誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。
『阿爺(おとつ)さん、堪忍して下さい。』
 と詑入るやうに繰返した。
 冬の朝日が射して来た。丑松は机を離れて窓の方へ行つた。障子を開けて眺めると、例の銀杏(いてふ)の枯々な梢を経(へだ)てゝ、雪に包まれた町々の光景(ありさま)が見渡される。板葺(いたぶき)の屋根、軒廂(のきびさし)、すべて目に入るかぎりのものは白く埋れて了つて、家と家との間からは青々とした朝餐(あさげ)の煙が静かに立登つた。小学校の建築物(たてもの)も、今、日をうけた。名残惜(なごりを)しいやうな気に成つて、冷く心地(こゝろもち)の好い朝の空気を呼吸し乍ら、やゝしばらく眺め入つて居たが、不図胸に浮んだは蓮太郎の『懴悔録』、開巻第一章、『我は穢多なり』と書起してあつたのを今更のやうに新しく感じて、丁度この町の人々に告白するやうに、其文句を窓のところで繰返した。
『我は穢多なり。』
 ともう一度繰返して、それから丑松は学校へ行く準備(したく)にとりかゝつた。
 男女の少年は今、小学校を指して急ぐのであつた。近在から通ふ児童(こども)なぞは、絨(フランネル)の布片(きれ)で頭を包んだり、肩掛を冠つたりして、声を揚げ乍ら雪の中を飛んで行く。町の児童は又、思ひ/\に誘ひ合せて、後になり前になり群を成して行つた。斯うして邪気(あどけ)ない生徒等と一緒に、通ひ忸れた道路を歩くといふのも、最早今日限りであるかと考へると、目に触れるものは総(すべ)て丑松の心に哀(かな)し可懐(なつか)しい感想(かんじ)を起させる。平素(ふだん)は煩いと思ふやうな女の児の喋舌(おしやべり)まで、其朝にかぎつては、可懐しかつた。色の褪(さ)めた海老茶袴を眺めてすら、直に名残惜しさが湧上つたのである。
 学校の運動場には雪が山のやうに積上げてあつた。木馬や鉄棒(かなぼう)は深く埋没(うづも)れて了つて、屋外(そと)の運動も自由には出来かねるところからして、生徒はたゞ学校の内部(なか)で遊んだ。玄関も、廊下も、広い体操場も、楽しさうな叫び声で満ち溢れて居た。授業の始まる迄、丑松は最後の監督を為る積りで、あちこち/\と廻つて歩くと、彼処でも瀬川先生、此処でも瀬川先生――まあ、生徒の附纏ふのは可愛らしいもので、飛んだり跳ねたりする騒がしさも名残と思へば寧(いつ)そいぢらしかつた。廊下のところに立つた二三の女教師、互にじろ/\是方(こちら)を見て、目と目で話したり、くす/\笑つたりして居たが、別に丑松は気にも留めないのであつた。其朝は三年生の仙太も早く出て来て体操場の隅に悄然(しよんぼり)として居る。他の生徒を羨ましさうに眺め佇立(たゝず)んで居るのを見ると、不相変(あひかはらず)誰も相手にするものは無いらしい。丑松は仙太を背後(うしろ)から抱〆(だきしめ)て、誰が見ようと笑はうと其様(そん)なことに頓着なく、自然(おのづ)と外部(そと)に表れる深い哀憐(あはれみ)の情緒(こゝろ)を寄せたのである。この不幸な少年も矢張自分と同じ星の下に生れたことを思ひ浮べた。いつぞやこの少年と一緒に庭球(テニス)の遊戯(あそび)をして敗けたことを思ひ浮べた。丁度それは天長節の午後、敬之進を送る茶話会の後であつたことなどを思ひ浮べた、不図、廊下の向ふの方で、尋常一年あたりの女の生徒であらう、揃つて歌ふ無邪気な声が起つた。
『桃から生れた桃太郎、
 気はやさしくて、力もち――』
 その唱歌を聞くと同時に、思はず涙は丑松の顔を流れた。
 大鈴の音が響き渡つたのは間も無くであつた。生徒は互ひに上草履鳴して、我勝(われがち)に体操場へと塵埃(ほこり)の中を急ぐ。軈て男女の教師は受持受持の組を集めた。相図の笛も鳴つた。次第に順を追つて、教師も生徒も動き始めたのである。高等四年の生徒は丑松の後に随(つ)いて、足拍子そろへて、一緒に長い廊下を通つた。
 小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早(もう)郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒は猶(なほ)残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯(ひる)の後、生徒の監督を他の教師に任せて置いて、丑松は後仕末をする為に職員室に留つた。其となく返すものは返す、調べるものは調べる、後になつて非難を受けまいと思へば思ふほど、心の?惶(あわたゞ)しさは一通りで無い。職員室の片隅には、手の明いた教員が集つて、寄ると触ると法福寺の門前にあつた出来事の噂。蓮太郎の身を捨てた動機に就いても、種々な臆測が言ひはやされる。あるものは過度の誉心が原因(もと)だらうと言ひ、あるものは生活(くらし)に究(つま)つた揚句だらうと言ひ、あるものは又、精神に異状を来して居たのだらうといふ。まあ、十人が十色のことを言つて、誹(けな)したり謗(くさ)したりする、稀(たま)に蓮太郎の精神を褒めるものが有つても、寧ろ其を肺病の故(せゐ)にして了つた。聞くともなしに丑松は人々の噂を聞いて、到底誤解されずに済む世の中では無いといふことを思ひ知つた。『黙つて狼のやうに男らしく死ね』――あの先輩の言葉を思出した時は、悲しかつた。
 午後の課目は地理と国語とであつた。五時間目には、国語の教科書の外に、予(かね)て生徒から預つて置いた習字の清書、作文の帳面、そんなものを一緒に持つて教室へ入つたので、其と見た好奇(ものずき)な少年はもう眼を円くする。『ホウ、作文が刪正(なほ)つて来た。』とある生徒が言つた。『図画も。』と又。丑松はそれを自分の机の上に載せて、例のやうに教科書の方へ取掛つたが、軈て平素(いつも)の半分ばかりも講釈したところで本を閉ぢて、其日はもう其で止めにする、それから少許(すこし)話すことが有る、と言つて生徒一同の顔を眺め渡すと、『先生、御話ですか。』と気の早いものは直に其を聞くのであつた。
『御話、御話――』
 と請求する声は教室の隅から隅までも拡つた。
 丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止(とゞ)めかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑(そのわび)から始めて、刪正(なほ)して遣りたいは遣りたいが、最早(もう)其を為(す)る暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離(わかれ)を告げる為に是処(こゝ)に立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『是(この)山国に住む人々を分けて見ると、大凡(おおよそ)五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶(ばうさん)と、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団(ひとかたまり)に成つて居て、皆さんの履く麻裏を造つたり、靴や太鼓や三味線等を製(こしら)へたり、あるものは又お百姓して生活(くらし)を立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親(おとつ)さんや祖父(おぢい)さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物(くひもの)なぞを頂戴して、決して敷居から内部(なか)へは一歩(ひとあし)も入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出(おいで)になりますと、煙草(たばこ)は燐寸(マッチ)で喫(の)んで頂いて、御茶は有(あり)ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もし其穢多が斯の教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんは奈何(どう)思ひませうか――実は、私は其卑賤(いや)しい穢多の一人です。』
 手も足も烈しく慄(ふる)へて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸(ひとみ)を注いだのである。
『皆さんも最早(もう)十五六――万更(まんざら)世情(ものごゝろ)を知らないといふ年齢(とし)でも有ません。何卒(どうぞ)私の言ふことを克(よ)く記憶(おぼ)えて置いて下さい。』と丑松は名残惜(なごりを)しさうに言葉を継いだ。
『これから将来(さき)、五年十年と経つて、稀(たま)に皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白(うちあ)けて、別離(わかれ)を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇(とそ)を祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福(しあはせ)を、出世を祈ると言つたツけ――斯う思出して頂きたいのです。私が今斯ういふことを告白(うちあ)けましたら、定めし皆さんは穢(けがらは)しいといふ感想(かんじ)を起すでせう。あゝ、仮令(たとひ)私は卑賤(いや)しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想(かんがへ)を御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄(こんにちまで)のことは何卒(どうか)許して下さい。』
 斯う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入(わびい)るやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済まなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白(うちあ)けたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
 と斯う添加(つけた)して言つた。
 丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へ跪(ひざまづ)いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、伸(の)しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤(なみ)のやうに是方(こちら)へ押溢(おしあふ)れて来た。
丑松は人々と一緒に、先輩の遺骨の後に随いて、雪の上を滑る橇の響を聞き乍ら、静かに自分の一生を考へ/\歩いた。猜疑(うたがひ)、恐怖(おそれ)――あゝ、あゝ、二六時中忘れることの出来なかつた苦痛(くるしみ)は僅かに胸を離れたのである。今は鳥のやうに自由だ。どんなに丑松は冷い十二月の朝の空気を呼吸して、漸(やうや)く重荷を下したやうな其蘇生の思に帰つたであらう。譬(たと)へば、海上の長旅を終つて、陸(をか)に上つた時の水夫の心地(こゝろもち)は、土に接吻(くちづけ)する程の可懐(なつか)しさを感ずるとやら。丑松の情は丁度其だ。いや、其よりも一層(もつと)歓(うれ)しかつた、一層哀しかつた。踏む度にさく/\と音のする雪の上は、確実(たしか)に自分の世界のやうに思はれて来た。

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