カント『純粋理性批判』

序論

 第三節 哲学には、すべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学が必要である

008 経験を超越する認識

これまで述べてきたすべてのことにもまして大切なことがある。特定の認識のうちには、すべての可能な経験の〈場〉を離れようとするものがあり、こうした認識は経験のすべての限界を超えるところまで、わたしたちの判断の範囲を拡張しようとするようにみえるということである。そしてこうした認識はそのために、経験のうちには対応する対象がまったく存在しえない概念を利用するようになるのである。

009 純粋理性の課題
 この種の認識は、感覚的な世界を超えたものであって、経験が導きの糸を示すことも、誤りを正すこともできない認識である。そしてわたしたちの理性は、まさにこのような認識を探求しようとする。こうした探求は、その重要性から考えて、わたしたちの知性[=惜性]が現象の〈場〉で学びうるすべてのものから卓越した性格のものであり、その究極の目的も、はるかに崇高であると考えられる。そしてわたしたちはたとえ錯誤を犯す危険があるとしても、このような大切な探求のためにすべてを賭けようとするのであって、それが疑わしいという理由から、あるいはそれを軽視したり無視したりすることで、これを放棄することは決してないのである。
 純粋理性にとって避けることのできない課題とは、自由、[霊魂の]不死である。この課題を究の目的として、すべての準備をそなえて、ひたすらこの課題の解決を目指す学問を形而上学と呼ぶ。この学のとる方法は、最初は独断論的である。すなわち、理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。

010 理性の誤謬
 しかしわたしたちとしては、どのようにして獲得したのかも不明な認識と、どのようなものを起源としているかも不明な原則を信用して、経験の領域を離れるとすぐに、一つの建物の建設を始めるべきではないだろう(まだこの建造物の土台を、あらかじめ詳細な研究によって確かめることもしていないのだ)。むしろ次のように問い掛けるほうがもっと〈自然なこと〉のように思われるのだ。すなわち、知性はこのようなアプリオリな認識のいっさいをどのようにして獲得したのだろうか、このアプリオリな認識にはどのような範囲があり、妥当性があり、価値があるのだろうか、と。
 実際にこの自然なことという言葉を、〈正当に、そして理性的に行うこと〉という意味に解釈するならば、これほどに自然なことはないだろう。しかしこの言葉をふつうの意味で[ごく当然なことと]解釈するならば、この探求がこれほど長いあいだにわたって放置されてきたことほど、自然で明白なことはないのである。というのも、このアプリオリな認識に含まれる数学的な認識が、昔から確実なものとして信頼されてきたために、その他のアプリオリな認識までもが、[数学的な認識とは]まったく異なる性質のものでありうるにもかかわらず、[これと同じように確実なものとして信用されるはずだと]自分に都合のよいことを期待しているからである。
 さらにひとたび経験の圏域から超出してしまえば、経験によって反駁される心配はなくなる。自分の認識を拡張することの魅力は非常に大きなものであり、はっきりとした矛盾に直面しないかぎり、その拡張の営みを妨げうるものはない。そしてわたしたちが虚構を作りだす際に慎重に配慮しさえすれば、こうした矛盾に直面するのは避けられるのである(ただしそれが虚構であることに変わりはない)。数学という学問は、わたしたちが経験から独立して、アプリオリな認識をどこまで広げることができるかを、きわめて明瞭に示してくれる実例である。数学は、対象と認識が直観のうちに示される範囲にかぎって、対象と認識を取りあつかう。しかしこのことはすぐに忘れられてしまう。というのも、こうした直観はアプリオリに与えられうるので、たんなる純粋な概念とほとんど区別できなくなってしまうからである。
 このように数学の証明によって理性の威力に鼓舞されるため、[わたしたちはこの威力に心を奪われてしまうのであり、認識を]拡張しようとする衝動には、限界がなくなるのである。身軽な鳩は、空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気の抵抗のない真空の中であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれない。プラトンも同じように、感覚的な世界が知性にさまざまな障害を設けることを嫌って、イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の〈彼岸〉へと、純粋な知性の真空の中へと、飛びさったのだった。そしてプラトンは、その努力が他の探求にいささかも寄与するものではないことには気づかなかったのである。[真空の中では]その上でみずからを支えたり、それに力を加えたりすることができるような、いわば土台となるいかなる抵抗もないために、知性を働かせることができなかったのである。
 しかし思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの〈宿命〉となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまな言い訳を考えだして、建物の土台は強固なものだと言い聞かせてみずからを慰めたり、後になってから点検を実行することは危険であると、拒んだりするものなのである。
 そしてわたしたちは建物を建設しているあいだも、[土台が適切なものかどうかについて]いかなる懸念も疑念も抱かずに、一見したところその土台がしっかりしたものであると、自己満足にふけるが、それには大きな理由がある。それは、わたしたちの理性の仕事の大きな部分、おそらく最大の部分は、わたしたちがすでに対象としている概念を分析することにあるためである。この概念の分析によってわたしたちはさまざまな認識を手にするが、こうした認識はこれらの概念において(まだ混乱した形ではあっても)すでに考えられていること[内容]を解明し、説明するものにすぎない。それでも形式という観点からみるかぎりは、こうした認識は新しい洞察として評価されるのである。しかしわたしたちのもっている概念は、その実質あるいは内容からみると、分析によって拡張されたわけではなく、たんに分解されたにすぎないのである。
 この分析という手続きは、真の意味でアプリオリな認識をもたらすものであり、確実で有益な進捗をもたらすものであるために、理性はみずから気づくことなく、まったく別の種類の主張をこっそりと持ち込むのである。そして理性はすでに与えられている概念に、まったく無縁なアプリオリな概念をつけ加える。しかし理性がこのようなことをする理由はわたしたちには理解できないし、それだけにその理由を問うことも思いつかないのである。だからまず、人間の二つの認識方法について区別することから始めよう。


 第四節 分析的な判断と総合的な判断の違いについて


011 二つの判断の定義
 主語と述語の関係について語っているすべての判断において、主語と述語の関係としては二種類の関係が可能である(ここでは肯定的な判断だけを検討する。後になって否定的な判断にこれを適用するのはたやすいことだからだ)。一つは述語Bが主語Aのうちにあり、Bという概念がこのAという概念のうちに(隠れた形で)すでに含まれている場合であり、もう一つはBという概念はまったくAという概念の外にあり、たんにこの概念に結びつけられているだけの場合である。最初の場合をわたしは分析的な判断と呼び、第二の場合を総合的な判断と呼ぶ。
 分析的な(肯定)判断とは、述語と主語が同一性の原理によって結びつけられる判新である。そして総合的な判断とは、述語と主語の結びつきを同一性の原理によって考えることができない判断である。第一の分析的な判断は、解明的な判断とも呼べるだろうし、第二の総合的な判断は拡張的な判断とも呼べるだろう。
 分析的な判断では、述語は主語の概念に新しいものを何もつけ加えず、たんに主語の概念を分析していくつかの部分的な概念に分解するだけである。そしてこの部分的な概念は、主語の概念において(混乱した形であっても)すでに考えられていたものなのである。これにたいして総合的な判断では、述語は主語の概念に[外から]つけ加えられるのであり、この述語は主語の概念のもとではまったく考えられていなかったものであり、主語の概念を分析しても、とりだすことができなかったはずのものである。
 たとえば「すべての物体は広がり[=延長]をもつ」という命題を述べるとしよう。これは分析的な判断である。というのも、物体の概念と結びついている〈広がり〉という概念をみいだすためには、物体という主語と結びついている概念を超えて、外にでる必要はないのである。ただ物体の概念を分析するだけで、すなわちわたしがつねに物体の概念のもとで考えている多様なものを意識するだけで、〈広がり〉という術語がこの〈物体〉という主語のうちにみいだされるのである。だからこれは分析的な判断である。
 これにたいして「すべての物体は重さをもつ[重い]」という命題を述べるとしよう。この述語「重さ」は、たんなる物体一般の概念においてわたしが考えているものとは、まったく異なるものである。こうした述語をつけ加えることで、総合的な判断が生まれるのである。

012 経験的な判断
 経験的な判断はその本性からしてすべて総合的な判断である。分析的な判断を経験によって基礎づけようとするのは、愚かしいことだろう。分析的な判断を構成するためには、わたしは自分の概念の外にでる必要はまったくないのであり、この判断をするためには、経験による証言はまったく不要なのである。物体は〈広がり〉をもつという命題は、アプリオリに確認される命題であり、経験的な判断ではない。経験に依拠するまでもなく、わたしは概念のうちにこの判断を構成するすべての条件を所有しているのであり、この[物体という主語の]概念のうちから矛盾律の法則にしたがって、[広がりをもつという]述語を引きだすことができるのであり、同時にこの判断の必然性を意識することができる。経験はわたしにこうした必然性については決して教えてくれることはないのである。
 これにたいしてわたしは、物体一般の概念のうちに〈重い〉という述語をまったく含めていないが、この[物体という]概念はわたしの全体の経験の一部であり、その意味で経験の対象となるものであるから、わたしはこの経験の一部に、わたしの[全体の]経験の他の部分[たとえば重いという述語]を、この経験の対象に属するものとしてつけ加えることができるのである。
 物体という概念には、さまざまな特徴が考えられる。たとえば広がりがあること、侵入することができない不可侵入性という性格をそなえていること、ある形状をもつことなどである。そしてわたしはこれらの特徴を利用することで、物体という概念を前もって分析的に認識することができるのである。次にわたしは、この物体という概念を取りだしてきた[過去の]経験を振り返ることで、わたしの認識を〈拡張〉してみると、この〈重さ〉という概念がつねに前記の物体の特徴と結びついていたことが理解できる。こうしてわたしはこの重さという概念を、物体という概念の述語の一つとして総合的につけ加えるのである。だから重さという述語が、物体という概念と総合的に結びつけられる可能性の土台となっているのは経験なのである。というのも、この[物体と重さという]二つの概念は、一方の概念が他方の概念を含んでいるわけではないが、そのどちらも、さまざまな直観が総合的に結びついたものとしての経験という全体の一部を構成するものであり、偶然的なものとしてではあっても、たがいに結びついたものなのである。
 第五節 理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる

014 数学的な命題と矛盾律
(一)数学的な判断はすべて総合的な判断である。この命題は、議論の余地のないほど確実なものであり、そのためにきわめて重要なものである。しかしこれまで人間の理性を分析する人々はこの命題に注目してこなかったし、これらの人々の見解とは、正面から対立しているかのようである。というのも数学者の推論は、すべて矛盾律にしたがって行われるものであることが確認されてきたために(数学という学問が必然的な確実性という性格をもつためには、これは必要なことである)、数学のさまざまな原則もまた、矛盾律から認識されるべきものだと信じ込まれていた。しかしここで彼らは間違えたのだ。たしかに総合的な命題もまた、矛盾律にしたがって理解できる場合があるが、それは別の総合的な命題が前提となっていて、この命題にしたがって推論できる場合にかぎられる。総合的な命題そのものを矛盾律によって推論できるわけではないのである。

015 純粋数学のアプリオリ性
 まず何よりも確認する必要があるのは、ほんらいの意味での数学的な命題はつねにアプリオリな判断であって、経験的な判断ではないということである。数学的な命題には必然性という性格がそなわっているが、この必然性は経験からは決してえられないからである。しかしこのことを認めようとしない人もいるかもしれない。いいだろう、それではわたしは純粋数学だけに話を限定することにしよう。純粋数学はつねにアプリオリな純粋認識だけを含み、経験的な認識を含まないということは、純粋数学という概念そのものが必然的に示していることだ。

016 算術の命題が総合的であることの証明
 あまり深く考えない人なら、あるいは「七に五を加えると一二になる」という命題は純粋に分析的な命題であり、七と五の〈和〉という概念から、矛盾律にしたがって導かれると考えるかもしれない。しかしもっとじっくりと考えてみると、七と五の和 という概念に含まれているのは、二つの数を一つの数に結びつけるということだけであり、二つの型を結びついた数がどのようなものであるかは、まったく考えられていないことが分かる。一二という概念は、わたしがたんにあの七と五という数を結びついたときに、すでに考えられているものではない。だからわたしがこのような可能的なものにすぎない和という概念をどれほど分析してみたとしても、その概念のうちに一二という数に出会うことはないのである。[一二という数をみいだすためには]この七と五という概念の外にでる必要があるのであり、そのためにはこの二つの概念の片方に対応する具体像[=直観]を助けとするのである。たとえば自分の五本の指や、(ゼーグナーが著書『算術』で示したように)五つの点などを助けとして、この具体像として与えられた五つの単位を、七という概念につけ加えるのである。
 つまりわたしはまず、七という数字をとりあげてみる。そして五という概念にたいして、五本の指の具体像を助けとして利用することで、それまで五という数を構成するために利用していた単位を、五本の指を手掛かりにして、七という数に一つずつ加えてゆくと、一二という数が生まれてくるのがわかるのである 。七を五に加えるべきであるということは、わたしはすでに七と五の〈和〉という概念において考えているが、この和が一二であるということは、この[和という]概念のうちではまだ考えられていなかったのである。だから算術の命題はつねに総合的なのである。このことは、もっと大きな数を考えてみれば、さらにはっきりとする。というのは、わたしたちが自分の概念をどれほど好きなようにいじくりまわしてみても、具体像の助けを借りなければ、わたしたちの概念を分析しただけでは、その和をみいだすことは決してできないのは明らかだからである。

017 純粋幾何学の総合性
 純粋な幾何学の根本命題にも、分析的な命題はまったく存在しない。「直線は、二つの点を結ぶ最短[の距離]である」という命題は、一つの総合的な命題である。まっすぐなというわたしの概念には、量の概念はまったく含まれず、質の概念が含まれるだけだからである。最短[の距離]であるという概念は、この命題にただ[そとから]つけ加えられたものであり、直線という概念を分析しても、この概念は取りだすことができない。ここでも具体像を助けとして利用せざるをえないのであり、これを利用することで、初めて総合が可能となるのである。

018 幾何学と総合命題
 幾何学者が前提とするいくつかの根本原則は、たしかに分析的であり、矛盾律にもとづいたものである。しかしこれらの原則は、同一律の原則と同じように、方法の連鎮として役立つだけであり、原理として利用できるものではない。たとえばa=a、すなわち「全体はそれ自身[全体]と同一である」とか、(a+b)>a、すなわち「全体は部分よりも大きい」などである。これらの原則はたしかにたんなる概念によって妥当するものではあるが、数学においてこれが許容されているのは、それを具体像[=直観]において記述することができるからである。一般にこうした原則では、このような必然的な判断の述語が、すでにわたしたちの概念のうちに含まれているかのような印象を、すなわちそれが分析的な判断であるかのような印象をもちやすいが、わたしたちがそう考えるのは、記述のあいまいさのためである。
 つまり、わたしたちは与えられた[主語]概念に、ある特定の述語をつけ加えて考えることを求められているのだが、こうした概念にはすでにこのような必然性[の印象]がそなわっているのである。しかし問題なのは、わたしたちが与えられた[主語]概念に何をつけ加えて考えるべきかということではなく、漠然とではあっても、わたしたちがこの[主語]概念において何を現実に考えているかということである。[このことを考察してみれば]この述語概念はその[主語]概念に必然的に結びついたものではあるが、それ[主語概念]そのものにおいて考えられたものではないこと[すなわち分析的なものではないこと]、そうではなく、この[主語]概念に結びつけられるべき具体像を媒介として、この[主語]概念に結びつけられた「すなわち総合的な」ものであることが明らかになるのである。

019 自然科学とアブリオリな総合命題
(二) 自然科学(物理学)アプリオリな総合判断をみずからの原理として含んでいる。その実例として、二、三の命題だけをあげておくことにしよう。たとえば「物体の世界では、あらゆる変化をつうじて、物質の量はいつまでも不変である」という[質量保存の]法則と、「運動のあらゆる伝達をつうじて、作用と反作用はつねに同じでなければならない」という[作用・反作用の]法則をあげておこう。いずれの命題も必然的なものであり、これらがアプリオリに作られた命題であることは明らかであり、しかもこれらの命題が総合的な命題であることもまた、明らかなのである。
 なぜならわたしが物質という概念で理解するのはその持続性ではなく、たんにその物質が空間を満たすことによって、その空間のうちに存在しているということだからである。だからわたしが物質という概念のうちに考えていなかったものを、この概念においてアプリオリに考えることができるためには、ほんとうの意味でこの概念から外にでるのである。だからこの命題は分析的なものではなく、総合的なものであるが、それでもアプリオリなものとして思考されているのである。自然科学の純粋科学の部門で利用されるその他の命題についても、同じことが指摘できる。

020 形而上学とアプリオリな総合命題
(三)形而上学は、これまではたんに試みられただけの学であるにすぎないが、人間の理性の性格から考えて不可欠な学とみなされているかぎりでは、アプリオリな総合認識を含んでいるはずである。だから形而上学が試みるのは、わたしたちが事物についてアプリオリに作りだす概念をたんに分析することによって、これを分析的に説明することではない。むしろわたしたちはみずからのアプリオリな認識を拡張することを望むのである。そのためにわたしたちは、与えられた概念に、そこに含まれていなかったものをつけ加える原則を利用しなければならないのである。こうしてアプリオリな総合判断によって、わたしたちはこの概念から遠く離れたところまで外にでてゆくのであり、もはや経験はわたしたちに追いつけなくなるのである。たとえば「世界には端緒があるのでなければならない」という命題がその一例である。だから形而上学は少なくともその目的においては、アプリオリな総合命題だけで構成されるのである。


 第六節 純粋理性の普遍的な課題

021 純粋理性の課題
 もしも多数の研究作業を一つの〈課題〉という形でまとめることができれば、それだけでも大きな利益となる。そうすれば自分がこれからなすべきことを正確に規定することができるので、作業しやすくなるだけでなく、こうした作業を点検しようとする人々にとっても、わたしたちがみずからの課題を適切に実行できたかどうかを、判断しやすくなるからである。さて、純粋理性のほんらいの〈課題〉は、アプリオリな総合判断はどのようにして可能となるかという問いを明らかにすることにある。

022 ヒュームと形而上学の不可能性
 形而上学はこれまで不確実で矛盾した学であると評価されて、不安定な地位を占めてきたのだが、その唯一の原因は、この[純粋理性の]課題に思い至ることができなかったこと、おそらくはこれまで分析的な判断と総合的な判断の違いについて考えてみることができなかったことにある。形而上学が存続しつづけるか、それとも滅びるかを決定するのは、まさにこの課題を解決できるか、それともこの課題を解決できる可能性が現実にまったく存在しないことを十分に証明できるかどうかにかかっているのである。
 デイヴィッド、ヒュームは、すべての哲学者のうちでこの課題にもっとも近づいた哲学者であるが、この課題を十分に明確に考察することも、この課題が普遍的なものであることに考え至ることもできず、たんに[ある出来事の]結果を、その[出来事の]原因に結びつける総合的な命題(因果律の原理)を考察しただけで、そこから足を踏みだすことがなかった。ヒュームはこのようなアプリオリな命題はまったく不可能であることを証明したと考えた。だからヒュームの推論にしたがうと、わたしたちが形而上学と呼んでいるすべての学はたんなる妄想にすぎず、形而上学において理性の洞察と誤って考えられているものは、事実としては、経験から借用されたものが習慣の力によって必然性という外見を獲得するようになっただけのものだということになる。ヒュームはこのように主張することで、すべての純粋な哲学を破壊することになったのである。しかしヒュームがわたしたちの[純粋理性の]課題は普遍的なものであることを考察していたならば、こうした主張にたどりつくことはなかったはずである。というのも、[たとえば]純粋数学にはアプリオリな総合命題が含まれているのは確かなことであるから、ヒュームの論拠にしたがうと、純粋数学というものは成立しえないことになってしまうと、洞察できたはずだからである。そして健全な知性[=悟性]をもつ人間としてヒュームは、このような主張に到達することはありえなかったはずなのである。

023 二つの枢要な問い
 すでに述べた[純粋理性の]課題を実現できれば、対象についてのアプリオリな理論的認識を含むすべての学を根拠づけることができ、こうした学を完成するために純粋な理性を利用する可能性も、同時に確立されることになるだろう。すなわちこの課題を遂行することで、次の二つの問いに解答が示されることになるのである。

 純粋数学はどのようにして可能となるか
 純粋な自然科学はどのようにして小能となるか

 純粋数学も純粋な自然科学も、どちらも現実に存在するものだから、それらがどのようにして可能となるかと問うことは、きわめて適切なことだろう。それが可能でなければならないことは、これらの学が現実に存在することによって証明されているからである(注)。しかし形而上学については、この学がこれまで順調に発展してこなかったために、そして形而上学の本質的な目的から判断するかぎり、これまで主張されていた形而上学が実際に存在しているとは言えなかったために、形而上学が実際に可能であるかどうか、疑問を抱くだけの十分な理由が存在するのである。

023n 純粋な自然科学の可能性
(注)純粋な自然科学というものが存在するかどうか、疑問とする人が多いかもしれない。しかし物質の質量が保存されるという法則や、慣性の法則、作用と反作用が等しいという法則など、ほんらいの意味での(経験的な)物理学の最初に語られるさまざまな命題を考察してみれば、これらの命題が純粋物理学(あるいは合理的な物理学)を構成するものであるのはすぐに納得できることだろう。この純粋物理学は、その適用の範囲が狭いか広いかは別として、そのすべての範囲にわたって確立される価値のある独立した学であることは、すぐに理解できるはずである。

024 形而上学の問い
 しかし[数学や自然科学だけでなく、形而上学に含まれる]種類の認識が可能であることも、ある意味では認められているとみなすことができる。形而上学もまた、[まだ]学としてではないとしても、[すでに]人間の自然の素質として(素質としての形而上学として)、実際に存在するのである。というのも人間の理性というものは、博識を誇るという虚栄のためではなく独自の欲求に駆られて、理性を経験的に使用しつつも、理性のこのような経験的な使用から借用してきた原理によっては答えることのできない問いにまで、抑えがたい勢いで進んでいくものなのである。だから理性が発達して思索にふけるようになると、つねに人間の心のうちに、ある種の形而上学が生まれてきたのであり、今後もつねに生まれるものなのである。だから形而上学については次のように問うこともできる。

 形而上学は人間の自然の素質としてどのようにして可能となるか

 そしてこの問いは次のように言い換えることができる。純粋な理性がみずからに問い掛ける問いは、人間の普遍的な理性が自然にそなえる本性のうちからどのようにして生まれるのだろうか、そして純粋な理性がみずからの欲求にもとづいて、この問いに答えるように駆り立てられるのはなぜなのだろうか、と。

025 学としての形而上学の可能性
[形而上学が問いかける問いは、人間の理性にとって]自然な問いなのである。たとえ「世界には端緒というものがあるのか」、それとも「世界に端緒というものはなく、永遠に存在しつづけてきたのか」という問いは、こうした自然な問いの一つである。しかしこうした自然の問いに答えようとするこれまでのすべての試みには、避けらない矛盾がつねに存在してきたのだった。だからわたしたちは、人間の理性には形而上学的な素質が存在するという答えだけでは満足することができない。すなわち人間の心にはつねに純粋な理性能力というものが存在していて、これがつねにある種の形而上学を(それがどのようなものであるとしても)生みだしてきたのだという答えでは、満足できないのだ。むしろ形而上学について、いくつかのことを確実なものとして定めることができなければならない。すなわち[一]形而上学はその対象について[確実な]知を所有しているのか、それとも対象を認識することはできないのか、[二]すなわち形而上学はその問いの対象を確実に決定することができるのか、[三]理性には、その対象について判断する能力が存在するのか、しないのか、[四]わたしたちは、みずからの理性を信頼して、これを拡張することができるのか、それとも理性にはしっかりとした明確な制約を加える必要があるのか、などの疑問を解決する必要があるのだ。この最後の問いは、すでに述べた[純粋な理性の]課題が普遍的な性質であることから生まれたものであり、当然ながら次のように表現することができるだろう。

 学としての形而上学はどのようにして可能となるか

026 批判と学
 だから理性についての〈批判〉は結局のところは、学にならざるをえない。批判なしに理性を独断的に利用するならば、つねに根拠のない主張に到達するのであり(この根拠のない主張にたいしては、外見だけはもっともらしい別の主張を対立させることができる)、いずれは、懐疑論にいたるのである。

027 学の課題
 ところでこの[理性批判という]学は、人をうんざりさせるほどに広範なものとなることはない。この学がとりあつかうのは、理性が適用された客体ではなく(理性の客体は限りのない多様性をそなえたものである)、理性そのものだからである。この学の課題とするところは、すべて理性の内奥から生まれでてきたものであり、事物の本性によってではなく(これは理性とは異なるものである)、理性そのものの本性によって、理性に定められたものである。もしも理性が、経験において出会う可能性のある対象について、みずからの能力を前もって完全に認識していれば、あらゆる経験の限界を超えて理性を利用しようとする試みについては、その範囲と限界を完全に、しかも確実に定めることが容易になるはずなのである。

028 形而上学の目的とその必要性
 これまでは、形而上学を独断論的に完成させることが試みられてきたのだが、このような試みはすべて、実際には行われなかったものとみなさねばならないし、そうみなすことができる。形而上学で行われたさまざまな分析的な作業は、人間の理性にアプリオリに宿っている概念をたんに分解していただけであるが、これはほんらいの形而上学の目的ではなく、その準備にすぎないのである。ほんらいの形而上学が目的とするのは、そのアプリオリな認識を総合という方法で拡張することであり、分析的な作業はこの仕事を行うには適さない。分析的な作業は、概念のうちに含まれていたものを示すことができるだけだからである。必要なのは、わたしたちがなぜこうした概念にアプリオリに到達するのかを示すことであり、さらにあらゆる認識の対象そのものにかんして、こうした概念の利用がどのようなものであれば、妥当なものであると言えるかを規定することなのである。
 しかし[独断論的な形而上学への]こうした要求をすべて放棄することに、それほど大きな自制が必要なわけではない。形而上学の名声がこれまで失墜していたのは、[こうしたわずかな自制が欠けていたために]形而上学が独断論的な方法を使わざるをえず、理性が自己矛盾に陥っていたからである。形而上学は人間の理性にとっては不可欠な学であり、そこに生え伸びた幹を切りとることはできても、それを根こそぎに根絶させることはできないのである。だからここで必要なのは、この形而上学という樹木をもっと別の、これまでとはまったく反対の形で育て、さらに大きく成長させて、豊かな実りをもたらすようにすることなのである。そのためには、内的な困難によっても、外的な抵抗によっても妨げられずに、さらに忍耐強く仕事をつづけていく必要がある。
 第七節 純粋理性批判と呼ばれる特別な学の理念と区分

(…)

032 超越論的な哲学と道徳
 この学[超越論的な哲学]の区分を決定するためのもっとも重要な基準は、経験的なものを含んだ概念が入り込まないようにすることにある。あるいはこの基準は、アプリオリな認識が完全に純粋なものであるようにすることだと、言い換えることもできる。このため道徳の最高原則と根本概念は、アプリオリな認識ではあるが、超越論的な哲学には含まれないのである。道徳の最高原則と根本概念は、快と不快、欲求と心の傾きなどのように、すべて経験的な起源をもつ概念を、みずからその[「汝……すべし」というような]道徳的な命令の根底に置くようなことはしない。しかし純粋な道徳の体系を構築する際には、これらの概念を体系の内部に導入しなければならないからである。この[道徳の]体系における義務の概念のもとでは、これらの[快と不快のような経験的な起源をもつ]概念は、克服すべき障害物となるか、それによって行動すべきではない刺激とみなされるのである。したがって超越論的な哲学は、たんに思索するだけの理性の哲学的な理論ヴェルトヴァイスハイトである。すべての実践的なものは、それが原動力となるものを含む場合には感情に関係するのであり、感情は経験的な認識の源泉に含まれるものなのである。

033 超越論的な哲学の区分
 一つの体系という一般的な観点にもとづいてこの学の区分を定めようとするならば、この学にはこれから示すように、第一に純粋理性の原理論を、第二に純粋理性の方法論を含める必要がある。それぞれの主要部門はさらに小さな部門に分割されるが、この分割のための根拠をここで示すことはできない。導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性知性[=悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。
 そして感性にはアプリオリな像「=表象]が含まれているはずであり、このアプリオリな像によって、わたしたちに対象が与えられるための条件が作りだされるのであるから、感性は超越論的な哲学に含まれるものとなろう。こうして超越論的な感性論が、原則論の第一部門とならねばならないだろう。認識の対象は、ただ感性の条件のもとで与えられるのであり、その条件は、その対象が思考されるための[知性の]条件よりも前に考察しなければならないからである。

第一部 超越論的な原理論

 第一部門 超越論的な感性論

 第一項

034 直観の力
 認識が対象とどのような方法で、あるいはどのような手段で関係するかを問わず、認識が対象と直接に関係するための方法は直観であり、思考するためには、その手段として直観を必要とする。しかし直観しうるためには、対象がまずわたしたちに与えられねばならない。少なくとも人間においては、対象が与えられるためには、対象が必ず何らかの方法で人間のゲミュートを触発しなければならない。
 わたしたちは対象から触発されるという方法で、対象の像[=表象]をうけとるのであるが、この像をうけとる能力(受容性)は、感性と呼ばれる。だからわたしたちにはこの感性を介して対象が与えられるのであり、この感性だけが直観をもたらすのである。ところで対象について思考することができる能力は知性[=悟性」であり、この知性から概念が作られる。しかしすべての思考は、まず直観と、すなわちわたしたち人間においては、感性と関係するのであって、それが直接に(じかにディレクテ)であるか、ある迂回路を通って特定の〈特徴〉を通じて間接的インディレクテにであるか、は問わない。ただしそのほかの方法で、わたしたちに対象が与えられることはない。

035 感覚と現象
 わたしたちが対象から触発されるということは、わたしたちの心のうちに、[対象の]像[=表象]を形成する能力がそもそも存在していて、これに対象が働きかけ、そこでわたしたちのうちに感覚が生まれるということである。感覚をつうじて対象にかかわる直観は、経験的な直観と呼ばれる。経験的な直観の対象は、それが[まだ個別の性質をもつものとして規定されていないという意味で]未規定なものである場合には、[一般的に]現象と呼ばれる。

036 感覚の素材と形式
 この現象のうちには、わたしたちの感覚に対応するものがあり、これを現象の素材と呼ぶ。この現象のうちには、そこに含まれる多様なものを特定の関係において秩序づけることができるものがあるはずであり、これを現象の形式と呼ぶ。だからさまざまな感覚をそれだけで秩序づけ、特定の形式において提示できるものが存在するわけだが、それそのものが感覚であることはありえない。すべての現象の〈素材〉はわたしたちにアポステリオリに与えられるのだが、[現象が与えられる]その〈形式〉はすでにわたしたちの心のうちにアプリオリに与えられている[のであって、これによって感覚が生まれるのでなければならない]。だからこの形式は、すべての感覚とは別に考祭できなければならない。

037 経験的な直観と純粋な直観
 わたしは、感覚に属するものをまったく含んでいない像[=表象]を、純粋な像と呼ぶ(これは超越論的な[すなわち認識を可能にする条件を作りだすという]意味においてである)。だから感覚的な直観そのものの純粋な形式は、[現象の素材とは別に]心のうちにアプリオリにみいだすことができるはずである。そして現象における[素材の]すべての多様なものは、この形式によって、特定の関係において直観されるのである。この感性の純粋な形式は、純粋な直観と呼べるだろう。
[ここで一つの思考実験をしてみよう]まずわたしが物体について心に描くさまざまな像のうちから、実体、力、分解可能性など、知性[=悟性]が考えだしたものを取りのぞいてみよう。次に物体の像のうちから、不可侵入性、硬さ、色など、感覚に属するものを取りのぞいてみよう。それでもこの経験的な直観のうちにはまだ何かが残っているのである。それが物体の〈広がり〉[=延長]と〈形〉である。この二つは純粋な直観に属するものである。この純粋な直観というものは、知覚や感覚が現実的な対象をもっていない場合にも、感性の単純な形式として、心のうちにアプリオリに存在しているのである。

038 感性の理論(エステティーク)
 アプリオリな感性についてのすべての原理の学を、わたしは超越論的な感性論と呼ぶ(注)。だから超越論的な原理論の第一部門を構成するのは、このような学でなければならない。これにたいして、純粋な思考の原理を含む部門は、超越論的な論理学と呼ぶ。

038n エステティークという語について
(注)ほかの諸国と異なりドイツだけにあっては、ほかの国で趣味の批判と呼ばれているものを感性の理論(エステティーク)という語で呼んでいるのである。その背景には、優れた分析家であったバウムガルテンの希望(ただし実現することのなかった希望)が潜んでいるのである。バウムガルテンは、美しいものについての批判的な判断を理性の原理の一つとして示すことで、美の規則を学にまで高めようとしたのである。しかしこの努力は実を結ぶものではない。このような美の規則や基準というものは、その主要な源泉から判断しても経験的なものであり、わたしたちの趣味判断がしたがうべきアプリオリな法則として使えるものではないからである。むしろわたしたちの趣味判断のほうこそ、こうした規則や基準の正しさを確認するほんらいの試金石として働くべきなのである。
 だからこの[エステティークという]言葉は、ひとまず消え去るにまかせておいて、この語の示す真の学のために利用するか(これによって古代の語法と意味にもっとも近づくことになる。古代においては認識は感覚されたものアイステータ考えられたものノエータのいずれかに分類されたことは周知のことである)、あるいは思考をみずからの課題とする哲学にふさわしい形で、超越論的な意味において、あるいは心理学的な意味において使うか、そのどちらかにすることが望ましいのである。

039 感性のアプリオリな形式──空間と時間
 この超越論的な感性の部門において第一に、感性を孤立させてみよう。そして知性がその概念によって思考しているすべてのものを感性から分離してみれば、経験的な直観だけを残すことができるだろう。第二にわたしたちは、このようにして残った経験的な直観のうちから、感覚に属するすべてのものを分離してみよう。そうすれば、感性がアプリオリに提供できる唯一のものとして、純粋な直観すなわち現象のたんなる形式だけを残すことができるだろう。このように調べてゆくことで、感性による直観には空間と時間という二つの純粋な形式があり、これはアプリオリな認識の原理であることが理解できるだろう。以下ではこの二つの形式を検討してみよう。
 第一章 空間について

(…)

 前記の概念からえられる結論

049 空間と物自体の特性
(a)空間は事物そのもの[=物自体]の特性を示すものではないし、複数の事物の相互の関係を示すものでもない。だから空間は事物そのものの規定ではない。事物そのものの規定であれば、それは対象そのものに付着しているはずであり、直観から主観的な条件をすべて取り去った後にも、事物のもとにまだ残っているはずである。ところが事物についての規定は、それが絶対的な規定であるか、相対的な規定であるかを問わず、その事物が存在する以前には、すなわちアプリオリには、直観することができないのである。

050 感性の主観的な条件としての空間
(b)空間は外的な感覚に現れるすべての現象にそなわる形式にすぎない。空間は、人間の感性の主観的な条件であり、わたしたちはこの条件のもとでのみ、外的なものを直観できるのである。主体には対象から触発されるという受容性がそなわっているが、主体が客体を直観する前に、つねにこの受容性が先立って存在していなければならない。ここからすぐに理解できるように、すべての現象の形式[である空間]は、いかなる現実的な知覚よりも前に、心のうちにアプリオリなものとして存在していなければならないのである。また、この[空間という外的な感覚の]形式は、純粋な直観、すなわちすべての対象がそのうちで規定されねばならない直観である。ここにはあらゆる経験に先立って、さまざまな対象の相互の関係を示す原理を含むことができるのである。

051 人間の立場
 だから空間についてとか、広がり[延長]をもつものなどについてとか語ることができるのは、人間という立場からだけなのである。人間が外的な事物を直観するために必要な主観的な条件、すなわち対象によって触発されるために必要な条件を捨ててしまうならば、空間という像はまったく無意味なものとなる。この[空間という]述語が事物に適用されるのは、それが人間に現れるかぎりのことであり、事物が[人間の]感性にとっての対象であるかぎりのことである。
 わたしたちはこのような受容性の不変の形式を、感性と呼ぶ。さまざまな対象は、ある相互的な関係のもとで、わたしたちの外部にあるものとして直観されるのであり、こうしたすべての関係のために必要な条件が、感性なのである。そしてわたしたちがこれらのすべての対象を除き去ったときには、そこには純粋な直観だけが残ることになり、これが空間という名前で呼ばれるのである。
 わたしたちは人間の感性の特別な条件[である空間]を、事物が存在する可能性の条件にすることはできない。これは事物が[わたしたちに]現象として現れるために必要な条件であるにすぎない。だから〈空間には、わたしたちの外部に現象として現れることができるすべての事物が含まれている〉と主張することはできるが、空間には、〈すべての物自体が含まれる〉と主張することはできない──物自体が直観されるかどうか、あるいはどのような主体によって直観されるかにかかわらずである。というのはわたしたちは[人間以外の]他の思考する存在者による直観[がどのようなものであるか」については、まったく判断できないからである。人間の直観は人間一般に妥当するものであり、人間に固有の制約をそなえているものであるが、他の存在者の直観にも、こうした同じ条件が妥当するものかどうかは、判断できないのである。
 主語となるある概念に、[その概念の適用範囲を適切な形で限定する] 制約を加えるならば、その[主語となる概念についての]判断は無条件で妥当するものとなる。たとえば「すべての事物は空間において併存する」という命題を考えてみよう。この命題は、この〈すべての事物〉という主語に、人間の感性による直観の対象であるという制約を加えた場合にかぎって、妥当するのである。だからここでこの[主語となるすべての事物という]概念に条件を追加して、「人間にとって外的な現象として現れるすべての事物は、空間のうちに併存する」と語るならば、この規則は普遍的に、制約なしに妥当するものとなるのである。
 だからわたしたちの解明によって次のことが明らかになった。まず空間というものは、すべてのものが対象としてわたしたちに外的なものとして現れることのできる場という意味では、実在性、すなわち客観的な妥当性をそなえているのである。また同時に、事物が理性によって物自体として考えられる場合には、すなわち人間の感性の特性を考慮せずに考えられる場合には、この空間は[事物についての普遍的なイデア性という危味で]概念性をそなえているのである。
 こうしてわたしたちは、空間が(すべての可能な外的な経験については)経験的な実在性をそなえていると主張すると同時に、空間にはこうした経験についての超越論的な観念性がそなわっていると主張するのである。この[空間に]超越論的な観念性がそなわっていることが意味することは、すべての経験の可能性の条件を放棄して、空間が物自体の根底にあると考えるようになった瞬間から、空間は何ものでもなくなるということである。

052 空間とその他の主観的な像の差異
 外的なものにかかわる主観的な像[=表象]のうちで、アプリオリに客観的なものと主張できるのは、空間のほかには何もない。というのは空間において直観したものからは、さまざまなアプリオリな総合命題を引きだすことができるが、ほかの主観的な像からは、こうしたアプリオリな総合命題を引きだすことはできないからである(第三節参照)。だから[空間以外の]こうした主観的な像は、厳密な意味では[イデア的な]観念性をそなえていないのである。たとえば[主観的な像の実例をあげてみると]色彩、音色、暖かさの感覚は、人間の主観的な特性としての視覚、聴覚、触覚という感覚方式に属するものであり、[主観的な特性という意味では]空間の像と共通するものであるが、[空間とは異なり]観念性をもつものではない。こうした色彩、音色、暖かさの感覚は、たんなる感覚にすぎず、直観ではないために、そのものとしては客体を(少なくとも)アプリオリには認識させるものではないのである。

053 物自体は認識できない
 このような注意を促したのは、すでに指摘した空間の観念性を主張するために、あまりに不適切な実例が使われるのを防ぐことにある。たとえば色彩や味などは、事物の特性とみなすべきものではなく、たんに人間の主観に生じた〈変化〉にすぎないものとみなすべきであり、その変化は異なった人間においては異なったように知覚される可能性があると考えるべきである。もともとは現象にすぎないもの、たとえば[人間の目に映った]一本の薔薇が、経験的な意味では物自体として理解されることがあるが、そうすると[物自体であるはずの薔薇の特性としての]色は、各人に異なったものとして見られうる[という奇妙な]ことになるのである。
 これにたいして空間の現象についての超越論的な概念は、このような見方に批判的な注意を促すものである。すなわち、空間のうちで直観されたものはどれも物自体ではないし、事物そのものに固有の形式などでもないのである。また、対象そのものはわたしたちにはまったく知られていないものであり、わたしたちが外的な対象と呼んでいるものは、人間の感性が思い描いた心像にすぎないものであり、この感性の形式が空間なのである。人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。物自体は経験においてはまったく問われないのである。
 第二章 時間について

(…)

 第六項 これらの概念からえられた結論

(…)

064 時間の「実在性」と「観念性」
 わたしたちの主張が示しているのは、時間が経験的な実在性をそなえているということである。すなわちいずれかの時点で、わたしたちの感覚能力に与えられるかもしれないすべての対象にたいして、[時間が]客観的な妥当性をそなえているということである。わたしたちの直観はつねに感覚的なものであるから、時間の条件にしたがわない対象が、わたしたちの経験に与えられることは決してないのである。しかしわたしたちは、時間にはいかなる絶対的な実在性もそなわっていないことを主張する。時間にこのような実在性がそなわっていると考えることは、人間の感覚能力による直観の形式をまったく顧慮することなく、時間を事物の条件または特性として、事物にそのまま結びつけることになるからである。
 物自体にそなわる特性が、わたしたちの感覚能力によってわたしたちに与えられることはない。時間の超越論的な観念性とは、このことを意味するのである。時間にはこの超越論的な観念性がそなわっているため、感覚能力による直観の主観的な条件を無視するならば、時間はまったくの無となるのである。時間を(対象とわたしたちの直観の関係なしに)さまざまな対象そのものに自存するものとして帰属させることも、内在的なものとして帰属させることもできないのである。
 しかし空間の場合と同じように時間には、観念性がそなわるということは、そこに感覚の錯誤があることだと考えてはならない。感覚の錯誤の場合には、感覚にかかわる述語を伴って語られる現象が、客観的な実在性をそなえたものと想定されているのである。しかしこの[時間の]場合には、このような客観的な実在性はまったく存在していないのである。ただし時間にも経験的な実在性は存在するとみなされているのであり、その場合には対象そのものはたんなる現象と見なされることになる。これについては第一章の前記の注意を参照されたい。


 第七項 説明

065 時間の現実性の意味
 時間に経験的な実在性を認めながら、絶対的で超越論的な実在性を認めないというこの理論にたいしては、さまざまな識者から異口同音の異議を聞かされることになった。そのためにわたしは、このような問題を考察することに慣れていないすべての読者も、当然ながら同じような異議を感じておられるに違いないと考える。この異議ではまず、変化は現実的なものであることを指摘する(外部のすべての現象と、それらの変化を否定しようと望んだところで、わたしたちが心で思い描く像そのものが変化するのであり、変化は現実的なものであることはこれから証明される)。次に、変化は時間の中でしか起こらないことを指摘する。そして結論として、時間は現実的なものであると証明するのである。
 しかしこの異議に答えるのはたやすいことだ。わたしはこの議論の全体に同意する。時間はたしかに現実的なものである。すなわち内的な直観の現実的な形式なのである[という意味で現実的なものである]。だから時間は、内的な経験については、主観的な実在性をそなえている。すなわちわたしは時間についての像と、わたしが時間のうちで[生きていて、]さまざまに規定されているという像を現実的にもっている。だから時間は客体として現実的なのではなく、わたし自身を客体として心に像を思い描く方法にかんして、現実的なのである。
 もしもわたし自身が、あるいはほかの存在者が、感性を制約するこうした条件なしで、みずからを直観できると想定してみよう。その場合には、わたしたちがいま変化という概念で定めている規定は、一つの〈認識〉を与えるはずであり、この認識においては時間の像も、時間にともなう変化の像もまったく現れないだろう。だから時間の経験的な実在性というものは、[そのような感性を制約する条件をもたない存在者のための条件ではなく、感性的な制約を受けた人間である]わたしたちのすべての経験を可能にするための条件なのである。しかしすでに述べたように、時間に絶対的な実在性を認めることはできない。時間はわたしたちの内的な直観の形式にほかならないのである(注)。時間からわたしたちの感性のこの特別な条件を除去したとすると、時間の概念もまた消滅するのである。時間は対象そのものに依存するものではなく、対象を直観する主体だけに結びついているのである。

065n 時間の規定について
(注)わたしはたしかに「わたしの思い描いた像は継起する」と語ることができる。しかしこれが意味するのは、わたしがこうしたさまざまな像を、時間の継起にしたがうものとして、すなわち内的な感覚能力の形式にしたがって、意識するということにすぎない。だから時間は〈何ものか〉自体ではないし、事物に客観的に結びついた規定でもないのである。

066 空間と時間の現実性と観念論
 しかしこのような異議が異口同音に語られる理由は、しかも空間の観念性というわたしの主張に、はっきりと理解できるような異議を唱えることができない人々からこうした異議が語られる理由は、次のようなものである。この異議を唱える人々も、空間に絶対的な実在性があることを、必然的なものとして証明することはできないだろう。このように主張するならば、その人々は、観念論の側からの異議に直面するからであり、観念論の側では、外的な対象の現実性は、厳密な意味では証明できないと主張する[のであり、こうした人々はこの異議に反論することができない]。これにたいして人間の内的な感覚能力の対象(すなわちわたし自身とわたしの内的な状態)が現実性をそなえていることは、意識によって直接に確認できるのである。[観念論者が主張するように]外的な対象はたんなる仮象かもしれないが、内的な感覚能力の対象は(こうした異議を唱える人々によると)否定することのできない現実的なものである。
 しかしこうした異議を唱える人々は、このどちらも心の像として現実性をそなえていることを否定できないと主張しながら、そのどちらも現象にすぎないことを見落としていたのである。現象というものはつねに二つの側面をそなえたものである。まず[現象の]一つの側面では、客体そのものが考察される(このときには、客体がどのようにして直観されるかという問題は無視されるのであり、そのために客体の特性についてはいつまでも疑問が残るのである)。第二の側面では、この対象を直観するための形式が考察されるのであり、この直観の形式は客体そのもののうちにではなく、客体が現れる主観のうちに求める必要があるものである。それにもかかわらずこの直観の形式は対象の現象に現実的に、しかも必然的に帰属するのである。

067 空間と時間の絶対的な実在性を主張する人々の誤謬
 このように空間と時間は、認識が生まれるための二つの源泉であり、この源泉から異なった種類の総合認識をアプリオリに導きだすことができるのである。空間とそのさまざまな関係の認識については、純粋数学が傑出した実例となっている。時間と空間の二つをあわせて考えると、これらは感覚能力によるすべての直観の純粋な形式であり、これによってアプリオリな総合命題が可能となるのである。
 しかしこのアプリオリな認識の源泉は、そのことによって(すなわちどちらも感性のたんなる条件であるということによって)、みずからの限界を定めるのである。[その限界とは]時間と空間は、物自体を描きだすのではなく、現象としての対象だけを考察するということである。時間と空間が妥当する領域は現象にかぎられるのであり、この領域から外に出た場合には、時間と空間を客観的に利用することはできない。
 いずれにしても空間と時間にこのような「経験的な]実在性がそなわっているにすぎないということは、経験的な認識の確実性を脅かすようなものではない。空間と時間という形式が物自体と結びつくものであるか、人間が物を直観する際に必然的に利用する形式であるかどうかを問わず、わたしたちにとって経験的な認識は確実なものだからである。
 これにたいして空間と時間に絶対的な実在性があると主張しようとする人々は、たとえ空間と時間という形式を[物とは独立して]自存するものと考えようとし、物自体に内在的に結びつくものと想定しようとも、経験の原理と矛盾せざるをえなくなるのである。というのは、もしも空間と時間が自存するものだと考えるならば(これは一般に数学のような自然科学者の主張である)、永遠で無限な二つの不可解なもの(空間と時間)が独立して存在すると想定せざるをえなくなるのである。するとこの空間と時間というものは、すべての現実的なものをみずからのうちに包括するために存在し、しかもみずからは現実的なものではないということになってしまう。これにたいして、もしも空間と時間について[どちらも物自体に結びつくという]第二の説を採用した場合には(形而上学的な自然科学者のうちには、その説に賛同する人々がいる)、空間と時間は経験から抽象されたために、混乱して思い浮べられた現象の諸関係とみなされることになる。そしてこの関係は、空間の場合には併存的であり、時間の場合には継起的なものとされる。この場合には、現実に(たとえば空間の中に)存在する事物にたいして、アプリオリな数学の理論が妥当することを否定しなければならなくなり、少なくともこうした理論が必然的に確実なものであることを否定しなければならない。そしてこの必然的な確実性はアポステリオリに生まれるものではないのだから、この主張によると空間と時間というアプリオリな概念は、想像力の産物にすぎないということになる。そもそも想像力の源泉は、現実には経験のうちに求めねばならない。想像力は経験を抽象した諸関係から、この[空間と時間の]ようなものを作りだしたことになる。空間と時間はたしかにこうした関係のうちの一般的なものを含んではいるが、自然によって定められた制約なしでは、これらは成立しえないのである。
 最初の[自存するという]説を採用する人々は、現象の領域に数学的な主張を適用できるという意味では有利な立場にある。しかし知性がこの現象という領域から外出ようとすると、この条件のためにきわめて困惑した立場に陥るのである。第二の[物自体と結びついたものであるという]説を採用する人々は、知性が現象の場から外に出ようとする際には有利な立場にある。対象を現象としてではなく、知性との関係で判断しようとする際に、空間と時間の概念が妨げになることがないのである。しかしこの説を採用する人々には、数学的なアプリオリの認識が可能であることの根拠を示すことは諦めざるをえないし(そもそもこれらの人々は、真実で客観的に妥当するアプリオリな直観というものが存在することを認めないのである)、経験的な命題と数学的な主張を必然的に一致させることもできないのである。ところがわたしたちの理論は、感性のこの二つの根源的な形式の真実の特質を示すものであり、前記の二つの難問はどちらも解決されているのである。

068 超越論的な感性に含まれる要素は空間と時間だけである
 最後に指摘しておくべきことは、この超越論的な感性論は、明らかに空間と時間という二つの要素しか含むことはできない[のであり、運動や変化の概念など、経験に属するその他の要素を含むことはできない]ということである。そのことは、感性に属するその他のすべての概念が、運動の概念のように空間と時間という二つの要素を結合させたものを含めて、何か経験的なものを前提にしているからである。運動の概念も、何か運動するものについての知覚を想定している。しかし空間の中には、空間そのものを考察するかぎり、何も運動するものは存在しない。だから運動というものは、空間の中で経験によってのみ発見されるべきものであり、経験的に与えられなければならない。そのために超越論的な感性論においては、変化の概念をアプリオリに与えられたもののうちに含めることはできないのである。時間そのものは変化しないものであり、時間のうちにある何かが変化するのである。だから変化の概念は、ある存在するものが知覚されること、そしてこの存在についての規定が時間的に継起することが必要であり、したがって経験が必要となるのである。


 第八項 超越論的な感性論についての一般的な注

 [一]

069 感覚的な認識の基本特性
 わたしたちの理論について誤解を防ぐためには、まず第一に、感覚能力による認識一般の基本的な特性について、わたしたちの見解をできるかぎり明確に示しておく必要がある。

070 空間と時間という条件の要約──物自体の認識の否定
 わたしたちが主張したいと考えているのは、次のようなことである。まず、わたしたちのすべての直観は、現象についてわたしたちが心に描いた像にはかならない。わたしたちが直観する事物は[現象であって]、わたしたちがそのように直観している事物そのものではない。わたしたちが直観する事物のあいだの関係は、わたしたちにはそのようなものとして現れるとしても、[事物において存在している]関係そのものではない。第二に、わたしたちの主観を除去してしまうか、感覚能力一般の主観的な特質そのものだけでも除去してしまうならば、[事物の]すべての特性は消滅してしまうだろうし、空間と時間のうちに存在する対象の相互的な関係も、さらには空間と時間そのものも消滅してしまうだろう。これらの特性や関係は現象であり、それ自体として存在するものではなく、わたしたちのうちに存在することができるだけのものだからである。
 対象そのものがどのようなものであるか、またそれがわたしたちの感性のこれらのすべての受容性と切り離された場合にどのような状態でありうるかについては、わたしたちはまったく知るところがない。わたしたちが知っているのは、わたしたちにそなわった対象を知覚する方法だけであり、これはわたしたち人間に固有のものである。これがすべての人間に共通するものだとしても、必ずしもすべての存在者に共通のものだとはかぎらない。ここで考察しているのは、このわたしたち人間に固有の知覚方法だけなのである。
 空間と時間は、わたしたちが[対象を]知覚するためのこうした方法の純粋な〈形式〉であり、感覚一般がその〈素材〉である。わたしたちは空間と時間だけはアプリオリに、すなわちすべての現実の知覚に先立って認識することができるのであり、そのために空間と時間は純粋な直観と呼ばれる。しかし感覚一般はわたしたちの認識のうちに存在するものであり、アポステリオリな認識、すなわち経験的な直観と呼ばれるものを作りだす。
 空間と時間は、わたしたちの感覚がどのような種類のものであるとしても、わたしたちの感性に絶対的かつ必然的に付属するものである。わたしたちの感覚はさまざまな種類のものでありうる。たとえわたしたちがみずからの直観を最高度に明晰なものにすることができたとしても、対象そのものの特性[の認識]に一歩でも近づくことにはならないだろう。というのも、いかなる場合にもわたしたちが完璧に認識できるのは、わたしたちの直観の方法であり、わたしたちの感性だけだからであり、しかも主観にもともと結びついた空間と時間という条件のもとでしか、これを認識できないのである。対象そのものがどのようなものでありうるかは、わたしたちに与えられている[対象の]現象の認識だけをどれほど明晰なものにしたとしても、決して知られることはないだろう。

071 概念と像の違い
 しかしそれだからといって、[ライプニッツのように]人間のすべての感性は、事物を混乱した形で思い描くだけだとか、この像には物自体に属するものが含まれてはいるが、さまざまな特徴や部分的な像が混乱したままに積み重なっていて、わたしたちはこれらを意識的に分離して認識できないとか、主張してはなるまい。このような主張は、感性や現象という概念を偽造するものであり、これでは感性や現象についてのすべての理論が、無益で空虚なものとなってしまうのである。
 判明な像と判明でない像についての[ライプニッツの]区別はたんに論理的な区別であって、像の内容にかかわるものではない。[そのことを法という概念で調べてみよう。]健全な理性[=悟性]が利用するという概念には、この概念から出発して展開できる精緻な思索の内容が含まれるのはたしかであるが、法の概念が常識的かつ実践的に利用される場合には、このような多様な像がこの[法という]思想のうちで意識されているわけではない。しかしだからといって、常識的な概念は感覚的なものにすぎないとか、たんなる現象を含むにすぎないと主張することはできない。法は決して現象ではありえないのである。法の概念は理性に含まれるものであり、人間の行動の(道徳的な)特性を示すものだからである(そしてこの道徳的な特性は人間の行為そのものに属するのである)。
 これにたいして直観に示された物体の像には、対象そのものに属しうるようなものは何も含まれていない。物体の像は、あるものの現象にすぎず、わたしたちがあるものから触発されるしかたにすぎないのである。人間の認識能力のこのような受容性が感性と呼ばれるものであり、たとえ現象をどれほど徹底的に吟味してみたとしても、対象そのものの認識とは、天と地ほどに異なるものである。

072 ライプニッツ哲学の批判
[このような主張を行う]ライプニッツ/ヴォルフ派の哲学はしたがって、人間の認識の本性と起源についての研究にたいして、きわめて不当な観点を示すものである。それはこの哲学では、感性と知的な働きインテレクトゥエレの違いを、たんなる論理的な区別とみなしたからである。しかしこの感性と知性の違いは超越論的な区別であって、[知性は]判明に認識し、[感性は]判明でなく認識するという違いではなく、認識の起源と内容についての違いなのである。この学派の哲学では、人間の感性は物自体の特性を判明でなく認識すると考えるが、これは間違いであり、人間は物自体はまったく認識しないのである。だからわたしたちにそなわっているこの主観的な特性を取りのぞいてしまうと、心にその像を思い描いた客体も、感覚能力による直観によってこの客体に付随するものと想定された客体の特性も、どこにも存在しなくなるのであり、そもそも存在しえないのである。この主観的な特性こそが、現象として、客体の形式を規定しているからである。

073 ロック批判
 わたしたちはしばしば現象について、現象の直観に本質的に属していて、人間のすべての感覚能力一般に妥当する現象[ロックの第一性質]と、この直観にたんに偶然的に付随していて、感性一般と関連するのではなく、[観察する者の]あれこれの感覚能力の特定の位置や[観察する]器官だけに妥当するもの[ロックの第二性質」とを区別することが多い。第一の種類の認識は、対象自体が心に思い描かれる認識であり、第二の種類の認識は、対象の現象だけを認識するものと考えるのである。しかしこの区別は経験的な区別にすぎない。
 この区別に固執して(よくみられることだが)、経験的な直観をたんなる現象とみなすことを忘れると(ほんらいはたんなる現象とみなすべきなのだが)、この現象のうちには物自体に属するものは何もないことを忘れてしまうことになり、こうして超越論的な区別はまったく失われてしまう。そしてわたしたちは自分が物自体を認識していると信じ込むのだが、実際にはわたしたちが(感覚的な世界の)どのような場所で、対象についてもっとも深いところまで探求したところで、どうしても現象しか認識できないのである。
 わたしたちは虹を眺めて、これは天気雨の際にみられる一つの現象にすぎないが、[虹を作りだす]この雨のほうは[現象ではなく]物自体であると語ることがある。たしかにわたしたちが物自体という概念をたんに物理的に理解することはできる。そして事物は一般的な経験においては[観察する者の]さまざまな状態におうじて異なったものとして感覚されるものも、直観においては事物のあるがままに規定されていて、ほかの形で規定されることはないと主張するならば、雨を物自体と考えても[物理的な観察という意味では]正しいのである。しかしわたしたちが経験的なもの一般について、それがさまざまな人間の感覚能力と一致するかどうかとは別に、それが対象そのものを示すものかどうかを問題とするなら(しかし雨滴は対象そのものではないのである。雨滴はすでに現象であり、経験的な客体だからである)、これは対象とその像との関係の問題であり、超越論的な問題なのである。ところが超越論的な観点からみた場合には、雨滴はたんなる現象であるだけでなく、その丸い形も、それが落下する空間も、それ自体で存在するものではなく、わたしたちの感覚能力において直観された像の根本的な状態であるか、それを修正したものにほかならない。そしてその超越論的な客体は、わたしたちには相変わらず知られないものであるる。

074 感性論の役割
 わたしたちの超越論的な感性論に求められる第二の重要な条件は、それがたんにもっともらしい仮説として、一部の人々から高い評価をえるのではなく、学問の道具オルガノンとして役立つ理論にふさわしいものとして、確実で、疑問の余地のないものとなることである。この理論には、こうした確実性がそなわっていることを明確に示すために、ここで一つの実例をあげたい。この実例はわたしたちの理論の妥当性をはっきりとさせ、第三節で述べたことをさらに明確に示すためにも役立つはずである。

075 アプリオリで必然的な総合命題のための条件
 ここで空間と時間がそれ自体として客観的であり、物自体を可能にする条件だと想定してみよう。そうするとまず確認できるのは、この二つの想定に基づいて、多数のアプリオリで必然的な総合命題が作られるということである。とくに空間については多くの命題が作られるので、ここでは空間を例にとって、[アプリオリで必然的な総合命題が作られるために必要な条件を、幾何学について]考察することにしたい。
 幾何学の命題はアプリオリな総合命題であり、必然的な確実性をそなえたものとして認識されている。そこでわたしが問いたいのは、[このように想定した場合には]諸君はこうした[アプリオリで総合的な]命題を、いったいどこから取りだしてくるのか? わたしたちの知性は何に依拠すれば、このような絶対に必然的で普遍的に妥当する真理に到達することができるのか? ということである。
 そのための道は二つしかない──概念によるか、直観によるかである。これらの二つのものはいずれも、アプリオリに与えられているか、それともアポステリオリに与えられているかのどちらかである。ところでアポステリオリに与えられた概念、すなわち経験的な概念から、あるいはこの概念が土台として依拠している経験的な直観から作りだすことのできる総合命題であれば、それはたんに経験に基づいた経験的な総合命題にすぎない。そして[こうした経験的な]総合命題では、必然性や絶対的な普遍性を含むことはできないのである。しかし幾何学のすべての命題の特徴はまさに、こうした必然性と絶対的な普遍性をそなえていることにある。
 だから、このような必然的で絶対的に普遍的な命題に到達するためには、第一の道、すなわちアプリオリに与えられたものに依拠するしかないのであり、たんなる[アプリオリに与えられた]概念によるか、アプリオリな直観によるしかないのであり、これらが唯一の方法なのである。しかしたんなる[アプリオリな]概念からは、分析的な命題にしか到達できず、総合命題を作りだすことができないことは、自明のことである。
 たとえば次の命題を考えてみよう。「二本の直線だけでは、閉じた空間を作りだすことはできない。だからこれだけで図形を作りだすことはできない」。そして直線という概念と二という数の概念だけから、この命題を作りだすことを試みていただきたい。あるいは次の命題「三本の直線から一つの図形を作りだすことができる」を考えてみよう。そして同じように直線という概念と三という数の概念だけから、この命題を作りだすことを試みていただきたい。どれほど試みても空しいのであって、幾何学がつねに行っているように、直観の助けを借りなければならないのである[これで直観なしの概念からはアプリオリな総合命題を作りだすことができないのは明らかになった]。
 次に[直観からアプリオリな総合命題を作りだすことができるかどうかを調べるために]わたしたちに対象が与えられる直観について検討してみよう。この直観はどのような種類のものだろうか。これは純粋でアプリオリな直観なのだろうか、それとも経験的な直観なのだろうか? これが経験的な直観であるとすれば、この直観からは、普遍的に妥当する命題も必然的な命題も取りだすことはできない。経験はこのようなものを与えることは決してできないからである。そこで[こうしたアプリオリな総合命題を作りだすためには]対象をアプリオリに直観し、これに総合命題を根拠づける必要があるだろう。
 そもそもわたしたちにアプリオリに直観する能力がなかったとしたら、どうなるだろうか。この主観的な条件が、その形式からして同時にアプリオリな普遍的な条件となり、この条件のもとでのみ、この(外的な)直観そのものの対象である客体の存在が可能となるのでないとしたら、どうなるだろうか。この対象(三角形)が、わたしたちの主観とは関係なく、それ自体で存在する何かだとしたら、どうなるだろうか。[これらの仮定がすべて否定されないとすれば]わたしたちは、この三角形を構成するために自分の主観的な条件のうちに必然的にそなわっているものが、そのまま三角形それ自体にも必然的にそなわっているものであることを、どのようにして断言できるのだろうか? というのも[三角形を直観する際に]わたしたちは(三本の直線という)概念に何も新しいもの(図形)をつけ加えることはできないであろうからであり、とするとこの新しいもの(図形)は必然的に対象のうちにみいだすしかないものである。これ[三角形という図形]は、わたしたちの認識によって与えられたものではなく認識する前から与えられていたものなのである。
 空間が(そして時間が)わたしたちの直観のたんなる形式であり、これにアプリオリな条件が含まれていて、この条件のもとにおいてこそ、事物がわたしたちの外部にある対象となりうるのでないとしたら(こうした外部の対象は、わたしたちの主観的な条件なしでは無にひとしいものなのである)、わたしたちは外部の客体について、アプリオリな総合認識を作りだすことは決してできなかっただろう。
 だから次のことは、たんに可能であるとか、ありそうだとかいうものではなく、疑いの余地のないほどに確実なことなのである。すなわち空間と時間は、すべての経験(外的な経験と内的な経験)が成立するために必要な条件である。ただしそれはわたしたちが直観するための主観的な条件にすぎないのであって、それゆえにこのような条件のもとにあるすべての対象は、たんに現象として現れるのであり、そのような条件のもとで与えられるものだから、物自体ではないのである。わたしたちはこうした事物の現象の形式については多くのことをアプリオリに語ることができるものの、こうした現象の根底に存在するはずの物自体については、ごくわずかなことすら語りえないのである。

 [二]

076 叡智的直観と自己意識について
 外的な感覚能力が知覚したものと、内的な感覚能力が知覚したものが、どちらも〈観念的なもの〉であること、そして感覚能力が知覚した客体は、たんなる〈現象〉にすぎない観念的なものであることを主張するわたしたちの理論を確実なものとするためには、次の指摘が役立つだろう。わたしたちの認識において〈直観〉とみなされるすべてのものには(これには快と不快の感情や意志は含まれない。これらは認識ではないからである)、[対象との]関係しか含まれず、この関係とは、直観における場所(広がり)、場所の変化(運動)、そしてこうした変化を規定する法則(運動力)なのであるそしてわたしたちは、場所において存在しているものが何であるのか、さらに事物そのもののうちで場所の変化のほかにどのような作用が働いているかは、直観によって認識することはできない。
 さて、たんなる関係だけによって、物自体を認識することはできない。人間にはその外的な感覚能力を通じて、関係の像が与えられるにすぎないのだから、外的な感覚能力がこの関係についてもつ像には、[認識する]主観とその対象との関係しか含まないこと、そこに客体そのものに内在する内的なものが含まれないことは確実であると判断できるだろう。そしてこのことは、[外的な対象の直観だけでなく]内的な直観についてもあてはまることである。内的な直観のほんらいの素材となるのは、外的な感覚能力によって心のうちに描かれた像なのであり、これがわたしたちの心を占めているのである。それだけではない。わたしたちがこうした像を思い描くのは時間のうちにおいてであるが、時間は経験においては、こうした像についての意識よりも前に存在しているものである。わたしたちはこのような像を心のうちで思い描くための形式的な条件として、時間を土台にしているのである。この時間にはすでに、継起的な存在という関係と、同時的な存在という関係と、継起的に存在するものと同時的に存在するもの(持続的なもの)という関係が含まれているのである。
 ところで心の中で思い描かれる像であって、何ものかを思考するすべての行為に先立って存在しうるものとしては、〈直観〉しか考えられないし、この像のうちには関係しか含まれていないのだとすれば、それは直観の〈形式〉であるとしか考えられない。この直観の形式は、何かが心のうちに持ち込まれないかぎり、何ものも思い描くことがない。ということは、心がみずからの活動によって、すなわち何ものかの像が心に入ってきて心が触発される方法を示すのが、この直観の形式であり、これはその形式からみて、内的な感覚能力が触発される方法である。
 ある感覚能力において思い描かれたすべてのものはつねに現象である。[ここで内的な感覚能力の主体である〈わたし〉に関して困難な問題が発生する。というのは]内的な感覚能力[というものの存在を許容した場合には、内的な感覚能力の対象である〈わたし〉という主観はたんなる現象にすぎないものとなってしまうのであるから、内的な感覚能力]というものは、まったく存在しえないものと考えるか、それとも内的な感覚能力の対象である主観は[じつは現象ではないものであるが]、内的な感覚能力にとってはたんに現象としてしか思い描かれることができないと考えるかのどちらかである。みずからについて判断するとき、つまり主観がたんなる自発的な活動として、すなわち叡智的直観としてみずからを直観するときには、このようなことは起こらないのである。
 ここですべての困難を生んでいるのは、主観がどのようにして自己を内的に直観することができるかという問題であるが、この難問はとのような理論にも内在しているものである。この自己についての意識(自己統合の意識[=統覚])は、〈わたし〉についての単純な像である。この像のみによって、主観におけるすべての多様なものが自発的な活動として与えられるのであり、そのとき、この内的な直観は〈叡智的な直観〉となるのである。しかし人間が自己についてのこのような意識をもつためには、前もって主観にたいして多様なものの内的な知覚が与えられている必要がある。そして心のうちでの自発的な活動なしで、このような多様なものが与えられる方法は、[叡智的直観と]区別して、感性と呼ばねばならないのである。
 この自己を意識する能力は、わたしたちの心のうちに潜んでいるものを探索する(これを〈統握する〉と呼ぶ)はずであるから、この能力は心を触発しなければならない。そしてこのような方法によらないかぎり、みずからを直観することはできないのである。しかしこの直観の形式は、あらかじめ心のうちに土台として存在しているものであって、多様なものが心のうちで一緒に存在するための方法を、時間の像によって規定するのである。自己を意識する能力はこのようにしてみずからを直観するのだが、その際にみずからの像を自発的に直接に思い描くのではなく、みずからがその内部から触発される方法にしたがうのである。だからみずからを、その〈あるがままに〉ではなく、〈みずからに現れるがままに〉直観するのである。

 [三]

077 現象と仮象の違い
 わたしはこれまで、外的な客体を直観する場合も、心がみずからを直観する場合も、どちらも空間と時間において、わたしたちの感覚能力が対象に触発されるとおりに、すなわち現象するとおりに、心のうちに像を思い描くのだと指摘してきた。しかしこれは、こうした対象がたんなる仮象にすぎないという意味ではない。現象において客体はつねに、わたしたちがその客体にそなわっていると考えている特性とともに、現実に与えられたものとみなされている。ところがこうした特性は、与えられた対象とのあいだで主観がどのような関係を結ぶかという、主観の直観方法によって規定されているのである。だから主観そのものが与えた現象としての対象と、客体そのものとしての対象とは区別されるのである。
 だからわたしが「物体や魂が存在するためには、空間と時間という性質が必要であり、わたしはこの条件にしたがって物体や魂を存在させるのであるが、この空間と時間という特質は客体そのもののうちに存在するのではなく、わたしがこれらのものを直観する形式のうちに存在する」と主張したとしても、それは「物体はわたしの外部に存在するようにみえるだけ[の仮象]である」とか、「わたしの魂はわたしの自己意識の内部だけに存在するようにみえるだけ[の仮象」である」と言いたいわけではない。もしも現象とみなすべきものを、たんなる仮象にしてしまったならば、それはわたしの過誤であろう(注)。
 しかしわたしたちの感覚能力による直観はすべて観念的なものであるというわたしたちの原理にしたがうかぎり、このようなことは起きないのである。むしろわたしたちが心に像を思い描く形式に[すなわち空間と時間に]、客観的な現実性がそなわっていると考えた場合には、このようなことが起こるのは避けられないことだろう。この場合には、すべてのものが仮象に変わってしまうことを避けることはできない。というのは空間と時間が物自体の性質としてしか成立しえないと考えると、不合理な事態に巻き込まれてしまうのである。これがどのような不合理であるか、じっくりと考えてみよう。[このように考えると、空間と時間という]二つの無限なものがあることになるが、これは実体ではないし、実体に現実に内在するものでもないが、それでも存在しているものである。そしてこれらはすべての事物が存在するために必要な条件であり、そしてすべての存在する事物を取り去った後にも、存在しつづけることになってしまう。そのようなことを主張するならば、物体をたんなる仮象に貶めたバークリを非難することはできなくなるだろう。そうなればわたしたちの存在そのものが、時間という不可解なものが自存しながら実在するしかたに依存することになり、わたしたちも時間も、どちらもたんなる仮象となってしまうだろう。これはこれまでいかなる人もその責任をひきうけようとしなかったような不合理である。

077n 仮象の発生
(注)現象は、わたしたちの感覚能力との関係からすれば、客体そのものの述語とみなすことができる。たとえば「薔薇は赤い」とか「薔薇は匂う」のようにである。しかし仮象を、対象の述語とすることは決してできないのである。仮象とは、わたしたちの感覚能力だけにかかわる対象の述語や、一般に主観だけにかかわる対象の述語を、客体そのものについての述語であるとみなすことになるからである。たとえばかつては、土星には二本の〈柄〉がついていると語られていた。客体そのものに付随するものではなく、つねに客体と主体との関係において語られ、客体の像から分離することができないものは、現象である。だから空間と時間の述語が、感覚能力の対象につけられるのは正当なことであり、[現象としての土星に二本の〈柄〉があると語っても]ここには仮象は存在しない。しかしそうではなく、わたしが薔薇そのものに赤さがあると語り、土星そのものに二本の〈柄〉があると語る場合、あるいはすべての外的な対象には広がり、そのものがあると語る場合には、すなわちこれらの対象と主観との関係を規定されたものとして検討せず、わたしの判断を、この対象と主観との関係だけに制限しない場合に、初めて仮象が発生するのである。

[四]

078 神は空間と時間のうちに存在するか
 自然神学において考えられている対象[神]は、わたしたちの直観の対象とならないばかりではなく、この対象そのものが人間の感覚能力による直観の対象とはなりえないものである。このためこの[神という]対象についてのすべての直観から、空間と時間という条件を慎重に排除されてきたのである(というのは、対象を認識するためのすべての手段は直観でなければならないからであり、思考を認識の手段とすることはできないからである。思考とはつねに制約を加える性質のものだからだ)。しかしどのような権利をもって、このようなことをなしうるのだろうか。自然神学では空間と時間を、前もって物自体の形式としてきたのであり、しかもこれは事物の存在のアプリオリな条件であり、事物そのものを除去した後にも、残っていなければならないものだったはずである。しかし空間と時間がすべての存在一般の条件であるならば、それは神の存在の条件でもなければならないだろう。[これは神が時間と空間のうちに存在することを意味するのである]。
 だから空間と時間をすべての事物の客観的な形式にすることを避けるためには、わたしたちの外的な[事物の]直観と内的な直観の方法のための主観的な形式にするほかに、方法は残されていないのである。ところでこうした直観の方法は、根源的な直観ではないのだから、感覚的な直観と呼ばねばならない。根源的な直観とは、直観することによって、直観の客体そのものが存在するようになる直観である(このような直観は、わたしたちの知るかぎりでは、根源的存在者[である]神だけに認めることができものである。しかし感覚的な直観は、客体の存在に依存するものであり、主観が像を思い浮かべる能力が、客体によって触発されたときだけに可能となるものである。

079 派生的な直観──天使が直観するとき
 しかし空間と時間という直観の方法を人間の感性だけに限定する必要はない。人間ではないすべての有限な思考する存在者も、人間と同じようにこの[空間と時間という]直観方法を利用せざるをえないのである(もっともわたしたちにはこれについて決定的な見解を表明することはできないのだが)。それでもこの[空間と時間という]直観の方法が[人間だけに限られないという意味で]普遍的に妥当するものであるとしても、それが感性に基づいたものであることに変わりはない。このような直観は、結局のとこうは派生的な直観イントゥいトゥス・デリウァティウスであって、根源的な直観イントゥイトゥス・オリギナリウスではないから、すなわち叡智的直観ではないからである。これまで述べてきた理由から叡智的直観は根源的な存在者だけに属するものであり、その存在からみても直観の方法からみても、[他なる存在に]依存する[人間のような]存在者に属するものではないのである(こうした存在者の直観は、与えられた客体との関係において、その存在者の存在を規定するのである)。ただしいずれにしてもこの注記は、わたしたちの感性論について説明するためのものであり、その証明根拠とみなしてはならない。

 超越論的な感性論の結語

080 超越論的な哲学の課題のための第一条件
 この超越論的な感性の理論においてわたしたちは、超越論的な哲学の普遍的な課題、すなわち「アプリオリな総合認識はどのようにして可能になるか」という問いを解決するために必要な一つの条件を示すことができた。それは、空間と時間というアプリオリで純粋な直観[が人間にそなわっていること]である。アプリオリな判断において、わたしたちに与えられた概念の外にでようとするときにこの空間と時間のうちで出会うのは、概念のうちには与えられていないが、その概念に対応する直観のうちにアプリオリに発見されて、この概念と総合的に結びつけられうるものである。しかしこのようなアプリオリな判断は、ここで示した理由から、感覚能力に与えられた対象を超えることはできず、たんに可能的な経験の客体にしか妥当しないのである。

序文(第二版)

V01 学としての確実な道の発見
 理性の営みに属する認識についての研究が、学としての確実な道を歩んでいるかどうかは、その成果を調べることで、すぐに判断することができるものである。さまざまな準備や用意を整えた後に、いざ目的を実現しようとする瞬間になって行き詰まってしまったり、目的を実現するためにしばしば後戻りして別の道をたどらねばならなくなったり、共通の目的を実現すべき方法について同じ仕事に携わっている人々の意見の一致がえられなかったりするような場合には、こうした研究が学としての確実な道を進んではおらず、まだ暗中模索の状態にあることを確信できる。だから可能であれば、このような確実な道を発見しただけでも、理性にたいする大きな功績となるのである。たとえそのことによって、これまで深く考えることもなしに、目的として定められていた多くのことが、無用なものとして捨て去らねばならなくなったとしてもである。

V02 論理学の実例
 ところで論理学が古代からこのような確実な道を歩んできたことは、論理学がアリストテレスの頃からというもの、後戻りする必要がなかったという事実からも明らかである。たしかに、不要と思われるような微細な考察を取り去るとか、すでに語られたことをさらに明確に規定する営みは行われてきたが、これらは改善と言えるようなものではなく、論理学を強固なものにするためと言うよりも、洗練させるために必要なものにすぎない。
 論理学についてとくに注目されるのは、論理学が現代にいたるまで一歩も進歩できず、どのような観点からみても、この学が完成され、閉じてしまったかのようにみえるということである。たしかに近代にいたって、この学を拡張しようとする試みは行われてきた。たとえば想像力や機知など、さまざまな認識力をとりあげた心理学的な章を論理学に追加しようとしたり、観念論や懐疑論などとのかかわりで認識の起源を論じたり、対象の違いに応じて異なる確実性の起源について論じる形而上学的な章を追加しようとしたり、人間の偏見について、さらに偏見の発生する原因と対策を論じた人間学的な章を追加しようと試みられてきたものである。しかしこうした試みは、論理学に固有の本性を理解していないことによって生まれたものにすぎない。さまざまな学問に、たがいの境界を越えさせようと試みることは、学問を拡張するものではなく、歪めるものにすぎない。論理学の境界はすでにきわめて厳密に定められているのであって、論理学とはすべての思考の形式的な規則を詳細に提示し、厳密に証明する学問なのである(こうした思考がアプリオリな思考であるか、経験的な思考であるかは問わないし、どのような場所で生まれた思考であるか、どのような客体についての思考であるかも問わない。そしてわたしたちの心の中で偶然に生まれた[思い違いなどの]障害に直面するか、[錯覚など、わたしたちの本性につきものの]自然の障害に直面するかも問わないのである)。

V03 予備学としての論理学の限界
 論理学がこのように大きな成功を収めたのも、この学問の境界が明確に定められていたためである。この境界があることによって論理学は認識のすべての客体と、客体における差異を無視する権利があるだけではなく、それを無視する義務があるのである。そして知性は論理学においては、知性みずからと、その形式だけを問題とする。しかし理性にとっては、理性自身だけではなく、客体も考察しなければならないために、正しい道を進むのがはるかに困難になるのは、ごく自然なことだった。だから論理学は予備学として、学のいわば〈入り口〉にすぎないのである。知識が問われるところでは、その判断のために論理学が前提とされるが、知識を獲得するための手段は、ほんらいの意味で、客観的に〈学〉と呼ばれているものに求めねばならないのである。

V04 理性の二つの認識
 理性はこのような〈学〉に含まれているものであるから、これらの学にはアプリオリに認識できるものが存在しなければならない。そしてこうした理性による認識は、二つの方法で対象と関連づけられる。すなわち対象とその概念を規定するだけにとどまるか(そのときには対象は外部から与えられねばならない)、あるいは対象をほんとうに作りだすかのどちらかである。第一の方法は、理性の理論的な認識と呼ばれるのであり、第二の方法は理性の実践的な認識と呼ばれるのである。
 どちらにも、多かれ少なかれ純粋な部分が含まれねばならないのであって、この純粋な部分においては、理性はまったくアプリオリに客体を規定するのであり、この部分だけをまず考察する必要がある。そして他の源泉から生まれた認識を、こうした純粋な部分と混同してはならないのである。[経済の譬えで語るならば]収入のうちから配慮もせずに支出してしまって、懐具合が苦しくなった後で、収入のうちで支出に向けることのできる部分と、節約しなければならない部分を区別できないとしたら、それは正しい経済とは言えないだろう。

(…)

V08 自然科学と思考革命
 すべての自然研究者たちのうちに一条の光が射し始めたのは、ガリレイが重さを一定にした球が斜面をころがり落ちるように工夫した[落下速度の実験の]ときであり、トリチェリがあらかじめ測定しておいた水銀柱の重さを大気の重さと釣合わせた[トリチェリの真空の実験の]ときであり、さらに遅れてシュタールが金属からあるもの[燃素]を取りさって焼灰にし、焼灰にあるもの[燃素]を加えて金属にした[燃素の実験の]ときのことである(注)。こうして自然研究者たちが認識したのは、理性はみずからの計画にしたがってもたらしたものしか認識しないこと、理性は[自然の研究に]先導し、恒常的に妥当する法則に基づいてみずから判断する原理を定めておいてから、これに基づいて自然を強要して、みずから立てた問いに答えさせねばならないこと、[幼児のように]自然が与えた〈歩み紐〉に引っぱられて歩むようなことがあってはならないことだった。[理性が]あらかじめ定めておいた計画にしたがって観察するのでなければ、たんに偶然の観察が行われるだけであって、こうした観察結果をいくら集めても、理性が求め、必要としているような必然的な法則がえられるはずはないのである。現象がたがいに一致するときに、そこに法則をみいだすのは理性の原理だけであって、理性はこうした原理にしたがって、[自然を研究するための]さまざまな実験を考案するのである。
 理性はこうした原理を片方の手にもち、実験を他方の手にして、自然に立ち向かわねばならないのである。それは[すなわち、理性が自然に立ち向かうのは]自然から教わるためではあるが、生徒としての資格においてではなく、任命された裁判官としての資格において、学ばねばならないのである。生徒であれば、教師である自然の望むままを口移しに語らされるのであるが、裁判官であれば、みずから提示した問いに答えることを、証人たちに要求することができるのである。
 物理学においても、思考方法の革命というこうした好ましい出来事が発生するためには、すでに述べた着想に負っているのである。この着想とは、「すでに指摘したように]理性がみずから知ることはできないために、自然から学ばなければならないことについては、みずから自然のうちに投げ入れたものにしたがって[すなわち理性が定めておいた原理に基づき、実験してえられた結果に基づいて]、自然のうちに求めなければならないということである(ただし捏造して、自然に押しつけるようなものであってはならない)。これまで自然科学は、長い世紀にわたる研究を重ねながら、ただ暗中模索をつづけるばかりであったが、こうした思考方法によって初めて、確実な道を歩み始めたのである。

V08n 実験という方法の歴史について
(注)わたしはここで実験という方法の歴史の道筋を厳密にたどることはしない。その端緒は実際によく知られていないのである。

V09 形而上学という闘技場
 しかし形而上学は、まったく孤立した思考による理性認識であるから、経験が教えることをまったく超越して、たんなる概念だけによって認識するものである(これが、概念を直観に適用して認識する数学との違いである)。理性はこの学においてはみずからの生徒であろうとするのである。形而上学は、学としての確実な道を歩むには、あまりに運命に恵まれなかった。形而上学は他のすべての学よりも長い伝統をもつ学であり、他のすべての学が、あらゆるものを廃絶する野蛮な状態に落ち込んだとしても、形而上学だけは生き延びるのではないかと思われたにもかかわらずである。
 それというのも[V01で示した基準で判断してみれば]形而上学において理性は、ごくふつうの経験によって確認される法則について、アプリオリに洞察しようとすると(理性は、みずからにこのようなアプリオリな洞察をする力があると主張しているのである)、いつでも行き詰まってしまうのである。形而上学においてわたしたちは無数の道をみいだすが、そのどの道もわたしたちの望むところには通じていないことを発見して、絶えず後戻りしなければならないのである。また形而上学を信奉する人々のあいだで意見が一致しているかどうかを調べてみれば、そこにみられるのは意見の一致とはまったくかけ離れたものであり、あたかも闘技場であるかのようである。ここは闘技者たちが闘ってみずからの力を試すために設けられた場所のようであるが、かつてただ一人の闘技者も、ごくわずかな地歩もここで獲得することはできなかったし、たとえ勝利したとしても、その勝利を長く維持することはできなかったのである。だからこれまでの形而上学のやり方がたんなる暗中模索にすぎなかったこと、さらに悪いことには、たんなる概念のうちでの模索にすぎなかったことに、疑問の余地はないのである。

V10 確実な道への疑念
 それでは形而上学において、学の確実な道がこれまで発見できなかった理由はどこにいるのだろうか、こうした確実な道を発見するのは不可能なのだろうか。自然はなぜ、こうした確実な道をたゆまず探し求めることを、理性のもっとも重要な使命の一つとして与えて、理性を苦しめることにしたのだろうか。それだけではない。わたしたちがもっとも知りたいと思う重要な問題について、理性がわたしたちを見捨てるだけでなく、まやかしを示して誘い、そしてついには欺くのだとしたら、わたしたちが理性を信頼すべき理由はほとんどなくなってしまうのではないだろうか。あるいはわたしたちがこれまで正しい道をみつけ損ねていただけだとするならば、この道を探す新たな試みにおいて先人よりも幸運に恵まれることを期待するには、とのような〈標識〉を利用できるのだろうか。

V11 コペルニクス的な転回
 そこでわたしが考えたのは、形而上学においても数学と自然科学の実例に学ぶべきではないかいうことだった。数学と自然科学が現在のように[確実な学と]なったのは、突然のように起こった〈革命〉によるものだった。だからこの二つの学にきわめて大きな恩恵を与えたこの思考方法の変革について、その本質的な特徴を詳細に追跡してみることは、十分に興味深いものであろう。形而上学は、理性による認識であるという点で、数学や自然科学と共通しているのだから、形而上学がこれらの二つの学を模倣しようと試みるのは、望ましいことではないだろうか。
 これまでわたしたちは、人間のすべての認識は、その対象にしたがって規定されるべきだと想定してきた。しかし概念によって、対象について何ものかをアプリオリに作りだし、人間の認識を拡張しようとするすべての試みは、この想定のもとでは失敗に終わったのである。だから[認識が対象にしたがうのではなく]対象がわたしたちの認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば、形而上学の課題をよりよく推進することができるのではなかろうか。ともかくこれを、ひとたびは試してみるべきではないだろうか。形而上学の課題とするところは、対象をアプリオリに認識する可能性を確保すること、すなわち対象がわたしたちに[経験によって]与えられる以前に、対象について何ごとかを確認できるようにすることにある。だからこの想定はこの課題にふさわしいものなのである。
 この状況はコペルニクスの最初の着想と似たところがある。コペルニクスは、すべての天体が観察者を中心として回転すると想定したのでは、天体の運動をうまく説明できないことに気づいた。そこで反対に観察者のほうを回転させて、天体を静止させたほうが、うまく説明できるのではないかと考えて、天体の運動をそのように説明しようとしたのである。だから形而上学においても、対象の直観について、同じような説明を試みることができるのである。もしもわたしたちの直観が、対象の性質にしたがって規定されなければならないとしたら、わたしたちが対象について何かをアプリオリに知りうる理由は、まったく理解できなくなる。ところが感覚能力の客体である対象が、わたしたちの直観能力の性質にしたがって規定されねばならないと考えるならば、わたしたちが対象をアプリオリに知ることができる理由がよく分かるのである。
 しかし[わたしは対象についての認識を必要とするのであり、そのために直観は直観のままであってはならず]、直観は認識とならねばならないのであるから、わたしは直観のうちにとどまっていることはできない。わたしは直観によって自分の心に思い描いた像[=表象]を、ある対象と関連づける必要があり、その対象を心のうちの像で規定しなければならないのである。そうだとすると、対象は次のいずれかの方法で規定されるものと考えねばならない。まず、わたしが対象を規定するために利用する概念が、対象にしたがって規定されていると考えてみよう。しかしその場合には、わたしはどうすればこの対象について、何かをアプリオリに知りうるかが分からなくなり、最初の[直観が対象の性質にしたがって規定されると考えた]場合と同じように困惑してしまうのである。そこで次に、対象が概念にしたがって規定されていると考えてみよう。これは経験が概念にしたがって規定されていると考えるのと同じことである。対象は、わたしに与えられる対象としては、経験のうちだけで認識できるからである。するとこれはごく分かりやすい考え方であることに、すぐ気づくのである。経験とは、知性を必要とする一つの認識方法であって、わたしは対象が与えられる前から、わたしのうちにアプリオリな知性の規則が存在すると想定しなければならない。この知性の規則はアプリオリな概念として表現されるのであり、経験のすべての対象は、これらのアプリオリな概念に必然的にしたがい、これと一致せざるをえない。
 もちろん対象のうちには、理性によって必然的なものとして考えられるだけであって、経験のうちではまったく与えられえない(少なくとも理性が考えるような形では)ものも存在する。このような対象について思考しようとする試みが(というのも、こうした対象も思考できなければならないのであるから)、[数学や自然科学にならって]思考方法における新しい方法と名づけようとするこの方法の[正しさを吟味する]すばらしい試金石となるものであることは、いずれ明らかになるだろう。この新しい方法では、わたしたちが事物についてアプリオリに認識することができるのは、その事物のうちにわたしたちがあらかじめ入れておいたものだけだと考えるのである(注)。

V11n 実験の役割
(注)自然研究にならったこの新しい方法は、純粋理性を構成するさまざまな要素を、実験によって存在が確認あるいは否認されたもののうちに求めることにある。ところで純粋理性の命題の正しさを検証しようとするときには、とくにこうした純粋理性の命題が、可能な経験のあらゆる限界を超越したものであるときには、その客体についてはいかなる実験も行えないのである(自然科学における実験という意味では)。だから実験することができるのは、わたしたちがアプリオリに認めた概念原則だけについてである。そのためにわたしたちはこうした概念や原則に工夫を加えて、同じ対象を一方では感覚能力と知性の対象として、これを経験の対象とするのであるが、他方では、たんに思考されるだけの対象、経験の限界を超えでようとする孤立した理性の対象とするのである。すなわち同じ対象を、このように二つの異なる側面から考察することにするわけである。そして事物について、もしこうした二つの観点から考察すると、純粋理性の原理との一致が確認されるが、片方の観点だけから考察すると、理性が自己矛盾に陥るのは避けられないことが確認されるときには、この実験はすでに述べた[経験の対象である現象と理性の対象である物自体との]区別が正しいものだったことを証明するのである。

V12 理性と無条件的なもの
 この[新しい思考方法で対象について考察しようとする]試みは望みどおりの成功を収めるのであり、この方法によって形而上学の第一部門が、学としての確実な道を歩むことが約束されるのである。本書の第一部門は、アプリオリな概念について考察するが、これらの概念に対応する対象は、経験のうちで、概念に適合したものとして、与えられうるのである。思考方法をこのように変革することで、アプリオリな認識が可能であることをきわめて適切に説明できるし、そればかりか経験の対象の総体としての自然の根底にあるアプリオリな法則を、十分に証明できるのである。このどちらも、これまでの思考方法には不可能なことだったのである。
 ところでわたしたちのアブリオリな認識能力をこのような形で根拠づけると、形而上学の第一の部門[である批判の分析的な部門]では奇妙な結論がだされることになるし、さらに形而上学の目的とするすべての問題を考察する第二の部門[である純粋理性の弁証論』では、こうした目的にとって非常に不利ともみえる結論がだされることになる。というのも、[この思考方法によると]わたしたちはみずからのアプリオリな認識能力によっては、可能な経験の限界を決して超えられないと結論されるのであるが、形而上学という学が目指す本質的な課題は、まさにこの可能な経験の限界を超越することだからである。ところで、わたしたちのアプリオリな理性認識についての最初の考察である第一部からえられた[奇妙な]結論とは、アプリオリな理性認識は現象だけにかかわるものであるということ、そして物そのものはたしかに現実的なものではあるが、わたしたちには認識できないものとしてそのままにしておくべきであるということであった。そしてこの結論が真実であることを検証するための実験が、本書の第二部には含まれているのである。
 というのは、わたしたちが経験とあらゆる現象の限界を超えようとするのは必然的なことであるが、それは[経験によって]条件づけられないものが存在するためなのである。このために理性は[経験できない]物自体のうちに「人間の自由や神のような]条件づけられないものを求めるのであり、条件づけられた[経験的な]ものの[因果関係の]系列が[世界の端緒や第一原因としての神によって]完結することを求めるのである。そしてそれはごく正当なことなのである。
 ところでもしも、わたしたちの経験的な認識は物自体としての対象によって規定されていると考えるならば、この条件づけられないものは矛盾なしには考えられないのである。しかしわたしたちが事物について心に思い描く像[=表象」が、物自体としての対象によって規定されているのではなく、反対に現象としての対象こそが、わたしたちがそれを心に思い描く方法によって規定されていると考えるならば、この矛盾は消滅することが分かる。さらに、条件づけられないものは、わたしたちに与えられ、認識し、事物においてはみいだすことはできないが、わたしたちが認識することのでいない物自体のうちには、おそらくこの条件づけられないものをみいだすことができるだろうということも分かるのである。こうして、わたしたちが最初はたんなる〈試み〉として考えたものが、十分に根拠のあることが明らかになる(注一)。
 ところで思考する理性は、感覚を超越した領域では一歩も前進することができないのであり、わたしたちに残されたのは、理性の実践的な認識のうちに、この条件づけられないものという超越的な理性概念を規定すべく与えられたものが存在しているのではないかと検討してみることであり、さらにこのような方法で、形而上学の希望を満たすために、アプリオリな認識によって、ただし実践的な意味のみにおいてアプリオリな認識によって、可能な経験のあらゆる限界を超えてゆくことができるようなものが与えられていないかを検討してみることだけである。この手続きにおいては、わたしたちの思考する理性は[可能な経験の限界を超えた場所に到達することはできないが]、そうした拡張のための場所を少なくとも〈空き地〉として残しておいたのである。そして、わたしたちにできるのであれば、この〈空き地〉を理性に実践的に与えられたものによって満たすことは禁じられていないのであり、むしろそのことは理性によって求められていることでもある(注二)。

V12n1 総合の手続き
(注一)純粋理性のこの実験は、化学者たちが還元と名づけている実験とよく似ている(ただしこれは還元というよりも、一般には総合の手続きと呼ぶべきだろう)。形而上学者の分析は、アプリオリで純粋な認識を二つのまったく異なる性質の認識に分類する──現象としての事物の認識と、物自体の認識である。弁証論はこの二つの認識をふたたび結びつけ、理性がどうしても考えださずにはいられない条件づけられないものという理念と調和させ、この調和がすでに[V11nで]示した区別によって生まれるものであること、すなわちこの区別が真の区別であったことをみいだすのである。

V12n2 仮説としての思考方法の変革
(注二)天体の運動に関する中心的な法則は、コペルニクスが最初はたんなる仮説として示したものが完全に確実なものであったことを示したし、宇宙の構造を結合している不可視な力(ニュートンの引力)が存在することも証明したのである。もしもコペルニクスが、観察された[天体の]運動を[説明する原理を]、天空にみられる対象のうちにではなく、観察者のうちに探すという、(感覚には反するものの)正しい方法を採用しなかったならば、この引力というものも永久に発見されなかったことだろう。わたしはこの序文においては、[本文の]批判のところで記述される思考方法の変革について(それはコペルニクスの仮説に比すべきものである)、たんなる仮説として示すにとどめる。ただし本文[の批判のところ]では、空間と時間というわたしたちの[直観の]像の特性と、知性のさまざまな基本的な概念に基づいて、この思考方法の変革[の正しさ]が仮説としてではなく、必然的なものとして証明されるのである。この序文はこうした思考方法の変革の最初の試みに、注意を促すものにすぎない(こうした試みはつねに仮説のような性格をおびるものだからである)。

V13 形而上学の幸運と義務
 これまでの形而上学の手続きを変革しようとするこの試み、しかも幾何学者と自然研究者の手本にならって、形而上学の完全な〈革命〉を実現しようとするこの試みこそが、思考する純粋な理性の批判という本書の目指すところである。本書は学の体系そのものを構築するのではなく、方法について考察する書物である。ただしこの批判は、学の外的な限界についても、学の内的で全体的な構造についても、その全体の輪郭を描こうとする。
 というのは思考する純粋な理性の特性は第一に、思考の[対象となる]客体を選択するさまざまな方法におうじて、みずからの能力を測定するものである。第二に理性は、みずからに課題を与えるさまざまな方法を十全に考察して、形而上学の体系の全体の見取り図を描くことができるし、描くべきだからである。第一の特性については、アプリオリな認識の場合には、思考する主観がみずからの内部から取りだしたものでなければ、客体には何もつけ加ええないことを指摘しておきたいからであるし、第二の特性については、思考する純粋な理性はその認識原理については完全に独立し、自存する統一体であるからである。[たとえば]生物の身体のように、それぞれの器官は他の器官のために存在し、反対に全体の統一体はそれぞれの器官のために存在する。それと同じように、[理性の]いかなる原理についても、それが純粋な理性の使用全体とのあいだで、どのような全般的な関係を結ぶかということを考察しなければ、これを何らかの関係のうちに、確実にとりいれることはできないのである。
 その代わりに形而上学は、客体だけを考察する他の理性の学とは比較できないほどの幸運に恵まれている。そもそも[形而上学の一部を構成する]論理学は、思考一般の形式だけにかかわる学である。この批判によって形而上学が学として確実に歩み始めるようになったときには、形而上学に属するすべての認識の領域を包括して、みずからの仕事を完結し、決して新たに追加する必要のない〈資本〉として、後の世代が利用できるように蓄えておくことができるのである。形而上学がかかわるのは、その原理と、原理の使用における制約だけであって、この制約は原理そのものによって定められるのである。形而上学は根本的な学として、このようにして完成されるべき義務を負うのである。だから形而上学については、「何かなさねばならぬことが残っているかぎり、まだ何もなされていないとみなされる」と言わねばならない。

V14 批判の効用の総括
 しかしここで、形而上学が批判によって純化され、強固な地位を確保したとしても、そのことにどのような価値があるのか、そして後の世代の人々にどのような〈財産〉を残そうとするのか、と尋ねられるかもしれない。そして本書をざっと読んだだけでは、この批判の効用というものは消極的なものにすぎないのではないか、思考する理性が、わたしたちに経験の限界を超えることがないようにさせるだけのことではないか、と思われるかもしれない。しかしそのことは実際に、本書の第一の効用なのである。というのも思考する理性が、それに定められた限界を超える際に利用する原則は、わたしたちの理性使用を拡張するようにみえるとしても、詳細に検討してみれば、理性使用を狭める結果をもたらさざるをえないのであり、そのことが納得されるならば、この[消極的と思われた]効用も、積極的な効用となるのである。こうした原則は、ほんらいは感性に属するものであるが、実際には感性の限界をすべてのものを超えて拡張しようとするものであって、純粋な(実践的な)理性使用を妨げる危険があるのである。
 そのため批判は、思考する理性を制限するという意味では消極的な役割をはたすものではあるが、実践理性の使用を制限したり、まったく使用できなくしたりしてしまう危険性のある障害物を取りのぞくという意味では、実際には積極的な、そしてきわめて重要な効用をそなえているのである。というのもわたしたちは、純粋理性の実践的な使用(道徳的な使用)というものは絶対に必然的なものであることを確信しているのであって、この使用においては理性が感性の限界を超えてみずからを拡張することは避けられないのである。その際に[実践的な]理性は、思考する理性にいかなる援助を求めることもなく、そればかりか、思考する理性に影響されて、みずからと矛盾に陥ることがないように、安全を確保されていなければならない。批判にはこのような積極的な効用があることを否定しようとするのは、警察の主要な業務は、市民が他の市民に暴力を加えることがないように規制して、各人が平穏かつ安全に、それぞれの仕事に励むことができるようにするだけだから、警察には積極的な効用がないと主張するようなものである。
 ところで本書の批判の分析的な部門においては、次のことが証明されることになる。すなわち空間と時間は感覚能力による直観の形式であり、事物が現象として存在するための条件にほかならないこと、知性の概念に対応する直観が与えられえなければ、わたしたちは知性の概念を所有することができず、事物を認識するために必要な要素はまったく与えられないこと、だからわたしたちが認識できるのは、物自体としての対象ではなく、感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすきないことである。このことから当然に生まれる結論は、理性が思考によって認識することができるのは、すべて経験の対象に限られるということである。ここで注目しなければならないのは、わたしたちはこの対象を物自体として認識することはできないものの、少なくとも思考することは可能でなければならないという考えが、まだ保持されているということである(注)。それでないと、そこに現象するもの[としての物自体]が存在しないのに、ただ現象だけがあるという不合理な命題が生まれかねないからである。
 ところでわたしたちの批判では、経験の対象としての事物と、物自体としての事物は必然的に異なるものであると考えたのだが、このような違いがまったく存在しないと想定してみよう。その場合には、因果律の原則と、因果律の原則によって規定されている自然のメカニズムが、作用因としてすべての事物一般にひとしく妥当することになる。しかしわたしは同じ事物について(たとえば人間のゼーレについて)、人間の意志は自由であると主張しながら、同時に人間の意志が自然の必然性に服するものである(すなわち自由ではない)と主張することはできない。これは明らかな矛盾に陥ることだからである。このように主張するときは、わたしは二つの命題において魂をまったく同じ意味で、すなわち事物一般として(物自体として)理解しているのであり、あらかじめ批判を行っていない場合には、ほかに考えようはなかったのである。
 しかし批判は、客体を二つの意味で、すなわち現象としての客体と、物自体としての客体として考えることを教えるのであり、さらに知性の概念による推論からして、因果律の原則は第一の意味での現象としての事物だけに、すなわち経験の対象となるかぎりの事物に適用されるのであり、第二の意味では[物自体としては]因果律に服するものではないことを教えるのである。これらが正しいとするならば、[人間の心の]同じ意志が、現象においては(目に見える行為においては)自然の法則に必然的にしたがうために自由ではないが、他方で物自体に属するものとしては自然の法則にしたがわず、自由であると考えることができるのであり、ここでは矛盾は発生しないのである。
 しかしわたしは思考する理性によっては、自分の魂を物自体に属するものとして認識することはできないし、ましてや経験的な観察によって認識することもできない。だから自由を、ある存在者に固有の特性として、すなわち感覚的な世界において発生する出来事の原因となるような存在者に固有の特性として、認識することはできないのである。このようなものを認識するためには、その存在者の現実存在を、時間によって規定されないものとして認識しなければならないはずだからである(しかしこのような存在者の概念は、直観によって裏づけることができないために、考えることができないのである)。だからわたしは自由を考えることはできる。少なくとも自由という観念[=表象]には、いかなる自己矛盾も含まれないからである。自由[を考えること]が可能であるのは、わたしたちの批判によって、心に像を思い描く二つの方法が、すなわち感性的な像と叡智的な像を思い描く方法が区別されているからであり、この[現象と物自体の]区別によって、純粋な知性の概念と、その概念から生まれた原則に制約を加えているからである。
 ところで道徳は、わたしたちの意志の特性として、自由を(厳密な意味で)必然的に前提していると仮定してみよう。これはわたしたちの理性に根源的に含まれる実践的な原則が、理性にアプリオリに与えられていると想定することだが、このような原則は自由を前提としなければ、まったく不可能なことであろう。しかし思弁的な理性が、自由というものがまったく不可能なものであることを証明したと考えてみよう。すると前記の道徳の前提が、[自由が存在しないと証明した]思弁的な理性に屈するようになるのは必然的なことである(これと反対のことを主張するのは明らかに矛盾したことだからである)。その場合には自由も、道徳も(自由が前提されないとすれば、道徳性を否定しても、いかなる矛盾も発生しないのである)、自然のメカニズムに席を譲らねばならなくなる。
 だからわたしが道徳が可能であるために必要と考える条件は、第一に、自由がそれ自体において矛盾を含まないものとして思考しうるものであること、そしてそれ以上のことは洞察する必要がないこと、そして第二に、[自由という側面と、自然のメカニズムの必然性の側面という異なる観点から考えることができる]人間の同一の行動について、自由という側面が、自然のメカニズムを妨げることがないことである。[この条件を満たすことができれば]道徳の理論はそのほんらいの場所を確保し、自然学もその場所を確保するのである。ただし[道徳の理論と自然の理論がそれぞれの場所を確保するという]この事態が起こりうるためには、わたしたちはどうしても物自体を知りえないことを、批判によってあらかじめ学んでいる必要があり、わたしたちが理論的に認識することができるすべてのものは、たんなる現象にすぎないことを弁えておく必要がある。
 このように純粋理性の批判的な原則は積極的な効用をそなえたものであり、それによっての概念と、人間の魂の本性の単純さという概念についても解明できるはずであるが、説明を簡略にしたいので、ここでは省略することにしたい。だからわたしが自由、[霊魂の]不死を、理性を必然的かつ実践的に使用するために想定することができるためには、[経験を超越するような]行き過ぎた洞察をすることが許されるという越権を、思考する理性から奪う必要があるのである。というのも、思考する理性がこうした洞察をするために利用せざるをえない原則は、実際には可能な経験の対象だけに適用されるはずのものである。それが経験の対象となりえないものに向けられるときには、こうした[経験を超越した超自然的な]ものを、たんなる現象に変えてしまうのであって、それによって純粋理性を実践的に拡張するあらゆる試みは不可能であると宣言することになるのである。
 だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、を廃棄しなければならなかったのである。形而上学の独断論は、批判なしで純粋理性の営みをさらに進めようとする偏見であって、道徳に反抗しようとするあらゆる無信仰の源泉であり、こうした無信仰はつねに独断論的なものなのである。
 ──もしも純粋理性批判の主旨にしたがって一つの体系的な形而上学を構築することができれば、これを後世の人々に遺産として残すのは難しくないことであり、この遺産は後の世代の人々のための重要な贈物となるものである。ここで、批判を欠いた理性が根拠もなしに模索しながら、軽率に彷徨しているありさまと、理性が学一般の確実な歩みのうちで開花する状態を比較してみていただきたい。そして知識欲の旺盛な若者たちが、[この確実な道を歩むことによって]大いに時間を節約できることにも注目していただきたい。[この道を歩まない場合には]青年たちはごく若い頃からよくみられる独断論によって鼓舞されて、みずからはまったく理解することもできず、世間の一般の人々と同じように、いかなることも洞察しえない事柄について、やたらに詭弁を弄するようになり、新しい思想や私見を発見することに熱中して、基礎となる学間の習得をなおざりにするのである。しかしソクラテス的な方法で、すなわち相手の無知をどこまでも明確に証明するという方法を駆使して、道徳と宗教にたいするすべての異議申し立てを、将来にわたって永久に根絶するならば、計り知れない利益が生まれるだろう。このことを考えてみれば、そのこと[この遺産の重要性]は何よりも明らかであろう。
 世界にはこれまでいつの時代にも、何らかの形而上学というものが存在していたし、これからも存在することだろう。そして形而上学とともに、純粋理性の弁証論もまた存在しつづけるだろう。弁証論は純粋理性にとってはきわめて自然なもの、そこにつねに含まれるものだからである。だから哲学にとって何よりも重要な第一の課題は、誤謬が発生する源泉を塞ぐことによって、すべての好ましくない影響を永久に根絶することにある。

V14n 概念の客観的な妥当性
(注)一つの対象を認識するためには、わたしがその対象の[実在的な]可能性を証明できることが必要である(この証明は、経験の証言にしたがってその対象の現実性を証明するか、あるいは理性によってアプリオリに証明するかのどちらかである)。しかしわたしは、自己矛盾に陥らないかぎり、すなわちわたしの概念がたんに[現実の客体に対応しない]可能な思考であるかぎりでは、わたしは[対象を]自由に思考することができるのである(ただしその思考の対象が、すべての可能な事物の総体のうちの一つの客体に対応するかどうかは、保証できない)。しかしこのような概念に客観的な妥当性を与えるためには、もっと〈別のもの〉が必要になるのである(ところで概念に客観的な妥当性を与えるというのは、実在的に可能であることを示すということであり、思考することが可能であるということは、たんに論理的に可能であるにすぎない)。しかしこの〈別のもの〉は、理論的な認識の源泉のうちだけに求める必要はない。それは実践的な認識の源泉のうちに存在することもありうるからである。

V15 学派の〈蜘蛛の巣〉の崩壊
 このように、[本書によって]学の領域における重要な変革が実現された。これは思考する理性がそれまで自分の所有物だと思い込んできたものには、損失を与えるものだった。しかしすべての人間が関心をもつ重要な問題については、かつてと同じように好ましい状態が保たれているのであり、世界がこれまで純粋理性の学からうけとっていた効用もそのまま維持されているのである。損失が発生したのは[独断論的な]諸学派による独占においてであり、人類の利益においてではない。わたしはもっとも頑強な独断論者たちに問い掛けてみたいと思う。というのは[独断論的な]諸学派はこれまで、次のようなことを証明してきたのである。まず[第一に]実体の単純性に依拠することで、わたしたちの魂が死後も存続することを証明し、[第二に]人間の主観的な必然性と客観的で実践的な必然性を区別するという、精緻ではあるが無力な区別を利用することで、一般的な[自然の]メカニズムに抗して、人間には意志の自由があることを証明し、さらに[第三に]もっとも実在的な存在者という概念によって(これは、変化するものは偶然的な存在であるという概念と、第一動者[である神]は必然的な存在であるという概念に依拠するものだった)、神が現存在することを証明してきたのである。しかしこうした証明は公衆にまで届いただろうか、そして公衆が[これらの証明の正しさを]確信できるようになるためにいささかでも貢献しただろうか、と問い掛けたいのだ。
 しかしこのようなことは起きていない。そもそも一般の人々の常識はこのような精緻な思考には適さないものであるから、このような[公衆がその正しさを確信するような]ことが起きることは期待できないのである。ただし[公衆にはそもそもこうした思想をうけいれる素質がそなわっているという]次の点を指摘しておくべきだろう。まず第一の[魂の不死という]問題については、すべての人間に、時間的なもの[=現世]によっては満足できないという本性がはっきりとした素質として存在しているのであり(時間的なものは、人間のすべての使命をはたすべき素質にとって不十分なものなのだ)、それだけに人間は来世の存在に希望をかけるのである。また第二の[意志の自由という]問題については、心のさまざまな自然の傾きに抗して、人間は義務を絶対に明瞭なものと考えるのであり、そこから人間は自由であるという意識が生まれるのである。最後に第三の[神の存在という]問題については、自然のあらゆるところですばらしい秩序と、美と、[神の]配慮がみられるのであり、それだけで聡明で偉大な世界の創造主が存在するという信仰を生みだしたのである。これらのものは、理性の根拠に基づくものであるかぎりにおいて、公衆のうちに広い範囲で、[こうしたものへの]確信を引き起こしたはずなのである。だからこうした信念を所有することは妨げられないだけではなく、人間の名誉を高めるものなのである。ただし諸学派は、人間の普遍的な要求にかかわるこうした点について、多くの人々(わたしたちにとっては尊敬に値する人々)が容易に到達しうる洞察よりも高い次元において、いっそう広範な洞察をなしうると僭称してはならないのであり、普通の人々にも理解しやすく、道徳的な見地からも望ましいこうした証明根拠を洗練させることだけにつとめるべきなのである。
 だからすでに述べた変革は、さまざまな学派の傲慢な要求を退けようとするものなのだ。これらの学派は、こうした点について(そして当然ながらその他の多くの点についても)、人々から真理の唯一の保持者であり、真理の精通者であるとみなされたがるのであり、公衆にはこうした真理を使う方法だけを教えて、その〈鍵〉は自分だけのものとして秘しておこうとするのである(「彼はじつはわたしと同じように何も知らないのに、自分だけは知っているとみなされたがるのだ」)。
 しかし[本書では]思索をこととする哲学者が正当な要求を示す場合についても配慮されているのである。公衆は、[本書での]理性批判については知識をもっていないものの、この理性批判は公衆のために役立っているのであって、こうした理性批判を今なおつづけているのが、こうした思索を重視する哲学者だけであることに、変わりはないのである。理性批判が大衆的なものになることはできないし、そのようなものになる必要もない。大衆が有益な真理について精緻に編まれた議論を理解するのは困難なことであり、こうした議論に反論するために、やはり精密な反論を思いつくこともできない。これにたいして諸学派も、とくに思索に巧みな人々も、こうした議論や反論に熱中するようになるのは避けがたいことである。それだけに諸学派には、思考する理性にそなわる権利を徹底的に吟味することで、[虚偽の理論を主張するような]忌わしい事態スキャンダルが発生するのを予防する義務があるのである。批判なしでは形而上学者たちが(そして最終的には聖職者たちも)こうした忌わしい事態スキャンダルに巻き込まれるようになるのは避けがたいことであり、自分たちの主張を偽造するようになるものである。そして遅かれ早かれ、大衆のうちにもこうした争いが発生せざるをえないのである。
 ただ〈批判〉だけが、唯物論宿命論無神論、さらには自由思想家の不信仰、狂信や迷信など、一般に有害なものとなりうるさまざまな思想を、その根元から廃絶させることができるのであり、さらには公衆のもとにまで浸透することは少ないが、諸学派にとっては危険な思想である観念論懐疑論なども、根絶しうるのである。
 もしも政府が学問の問題に介入するのが望ましいと判断した場合には、このような(批判〉の自由を擁護して、理性の仕事を確固とした土台のうちに構築できるようにすることこそが、学問のためにも人類のためにもきわめて望ましい賢明な配慮と言うべきだろう。そもそも政府は、諸学派の笑うべき専制政治を支援すべきではない。諸学派は自分たちの蜘蛛の巣が破れると、公共の危険だと騒ぎ立てるが、公衆はこのような蜘蛛の巣に注意を払ったことなどはないし、それを損失と感じることもないのである。

V16 批判の目的
 批判が反対しているのは、理性がその純粋な認識を学として取り扱うときの独断的な手続きではない(学はつねに独断的でなければならないのであって、アプリオリで確実な原理に基づいて厳密に証明を行わねばならないのである)。批判が反対するのは独断論なのである。理性は長いあいだ原理を利用して、概念から(哲学的な概念から)純粋な認識を導きだしてきたのであるが、独断論とは理性がこのような純粋認識に到達した方法と権利を考察することなしに、独力で作業を進めようとする越権的な主張なのである。だから独断論とは、理性自身の能力をあらかじめ批判することなしに、純粋理性が独断的な手続きを採用することを意味するのである。
 このように批判が反対するのは、[わかりやすさという意味での]通俗性を装って饒舌になる浅薄さを擁護するためでも、形而上学のすべてをあっさりと片づけてしまおうとする懐疑論を弁護するためでもない。批判はむしろ、学としての根本的な形而上学を促進するために必要な予備的な作業なのである。そして形而上学の営みはかならず独断的に、厳密な要請にしたがって体系的に遂行されねばならず、通俗的に[わかりやすさを目指して]ではなく学問的に遂行されねばならないのである。形而上学につきつけられたこうした要請はゆるがせにすることはできない。というのも、形而上学は完全にアプリオリに、思考する理性を完全に満足させるように、まったくアプリオリな形でみずからの仕事をやりとげるべきなのだからである。
 批判が集めたこの計画を遂行するためには、そして将来において形而上学の体系を構築するためには、わたしたちはいつかは高名な哲学者であるヴォルフが定めた厳密な方法にしたがう必要があるだろう。すべての独断的な哲学者のうちで最大の哲学者であるヴォルフは、法則にしたがいながら原理を確立し、概念を明瞭に規定し、証明を厳密なものとするように試み、推論における大胆な飛躍を防止することで、学の確実な道が開かれることを、実例をもって示した最初の人物なのである。そしてこの実例によってヴォルフは、徹底性の精神を創始したのであり、この精神はドイツにおいて現在にいたるまで消滅していないのである。ヴォルフはこの精神によって、形而上学という学を、このようなすぐれた状態に据えるのにとくに適した人物だった。しかしこのヴォルフにも思いつかなかったことがある──学問の道具オルガノンを批判することによって、すなわち純粋理性の批判によって、この領土をあらかじめ整地しておくべきだったのである。この欠陥は彼のせいではなく、当時の独断論的な思考方法の責任であろう。この欠陥についてはヴォルフの同時代の哲学者たちも、前代の哲学者たちも、たがいに相手を非難することはできないのである。ヴォルフの学問の方法を非難する人々も、純粋理性の批判の手続きを非難する人々も、に固有の制約を投げ捨てて、仕事を遊びに、確実さを私見に、智恵への愛フィロソフィアである哲学を私見への愛フィロドクサにしてしまうことだけを考えているのである。

V17 第二版の修正の目的
 ところでこの第二版については、当然のことながら、この機会を利用して、初版で理解しがたいところを訂正し、意味のとりにくいところを改善しようと試みた。わたしにも責任はあるのだろうが、初版にあった問題点のために、初版を批評された多数の鋭い評者のうちに、誤解が生じたらしいからである。しかし本書で提示した命題と、その命題の証明の根拠について、さらに本書の計画の形式とその完全さについて、修正すべき点は発見できなかった。それは本書の刊行に先だって、わたしが長い時間をかけて吟味したからであり、あるいは問題となっている事柄の性質に(すなわち思索をこととする純粋な理性の性質に)よるからでもある。純粋理性は[生物のような]真の肢体をそなえているものであり、そこにはすべての器官オルガンがそなわっていて、すべてのものはある一つのもののために存在し、それぞれのものはまたすべてのもののために存在しているのである。だからそこにわずかでも破綻があれば、それが欠陥(誤謬)であろうと欠如であろうと、使用するうちに露呈してくるのは避けられないことなのである。
 わたしはこの体系が将来も、このように手を加えられないままで維持されることを望むものである。[わたしがそのように望むのは]自惚れからではない。十分な証拠があるのだ。[この体系の完全さを示す証拠があるというのは]純粋理性のもっとも小さな要素から出発してその全体に到達するという[前進の]道をたどった場合にも、全体から始めて(この体系の全体は、実践的な理性の最終的な目的のうちに、それ自体として示されている)、個々の部分にいたるという遡行の道をたどった場合にも、まったく同じ結果がえられることが、実験によって示されるからである。この体系のごく小さな部分でも変更しようと試みるならば、たんにこの体系のうちに矛盾が生まれるだけではなく、人間の一般的な理性そのものにおいてただちに矛盾が発生するのである。わたしはこのことからも、この体系がそのままで維持されることを願う権利があるだDろう。
 ただ、記述のしかたにはまだ多くの改善すべき点があり、この第二版ではさまざまな改善を試みた。とくに改善したところをあげるならば、まず感性論における誤解、とくに時間の概念における誤解を解消するようにした。次に知性の概念の根拠づけのうちの曖昧なところを取りのぞき、さらに純粋な知性の原則の証明における明証性の欠如(と思われたもの)をなくし、最後に合理的な心理学を批判的に考察した誤謬推論の部分についての誤解を解消するように試みた。ただし記述の方法を修正したのはそのくらいであり(すなわち超越論的な弁証論の第一章の最後までであり)、その後はとくに変更は加えていない(注)。というのは時間があまりにも不足しているだけでなく、専門的な見地から公正に吟味した人々のうちでも、残りの部分については誤解が発生していないからである。わたしはここで、こうした方々のお名前をしかるべき感謝の言葉をもって明記することはできないが、ご指摘いただいたことについて第二版で配慮していることは、それぞれの箇所において気づかれることと思う。
 しかしこの改訂のために、わずかながら失われたものもある。書物があまりに長くなりすぎるために、わたしはいくつかの記述を短縮したり、省いたりしなければならなかったのである。このように削った部分は、全体の完全さを損ねるものではないが、別の観点からみれば読者にとって有益なものだったのであり、こうした部分が失われたことを、読者は残念に思われるかもしれない。しかしこのような省略のおかげで、わたしはここに示したように、わかりやすく記述することができたのである。ただし[このように省略しても本書の]命題とその証明の根拠には、いささかも修正が加えられてはいない。もっともたんに挿入するだけでは済まないほどに、記述の方法を大きく変えたところもある。
 このようなわずかな損失は、読者が随意に初版と比較することによって補うことができるものであって、第二版がはるかに読みやすくなった(とわたしは願うものである)ことによって、十二分につぐなわれているはずである。わたしがこれまで刊行してきたさまざまな文章において(それには多数の書物の書評として発表されたものも、特別な目的で書かれた論文もあるが)、感謝の念をもって確認できたことがある。それは、[ヴォルフ以来の]ドイツにおける徹底性の精神がまだ死滅していないこと、才気ぶった自由思想が流行して、この精神の声が聞こえなくなっていたことはあるが、それはごく短い期間だけだったこと、そして批判の営みは、茨の小道のような歩きにくい道であるが、勇敢で明晰な精神をもつ人々が、この小道を歩み通す妨げにはならなかったということである。この小道こそ、純粋理性の学、すなわち高度に学問的で、それだけに持続的で、きわめて必要とされている学へといたる道なのである。
 わたしは、洞察の徹底性と記述の明快さという才能を、幸運にも兼備している優れた方々に(わたしにはこの明快さという才能は恵まれていないようである)、明快さという点で本書のあちこちにみられる欠陥を改善する仕事を委ねたいと考えている。本書が反駁されるという危険性はまったくないものの、理解されないという危険性は、おそらく存在するからである。わたしはもはや[本書をめぐる]論争にかかわりあうことはできなくなった。これからは批判というこの予備学に依拠して、[形而上学の]体系を構築してゆきたいと考えているが、その際には、わたしに与えられるすべての示唆に慎重に配慮しながら、賛成者の見解も反対者の見解も生かしてゆきたいと思う。わたしはこの仕事に従事しているうちに、すでにかなりの高齢に達した(今月、わたしは六四歳を迎える)。そして思考する理性と実践的な理性の批判の正しさを確証するために、自然の形而上学と道徳の形而上学を構築する計画を立てているのであり、この計画を実現するためには、時間を節約しなければならないのである。本書のような著作には最初のうちは理解しがたいところがあるのは避けられないが、こうした分かりにくいところを解明したり、著作の全体を擁護したりする仕事については、本書の内容を会得した優れた方々の力に期待したいと考えるのである。
 そもそも哲学の論文であれば、細部にはつねに批判の余地があるものである(哲学の論文は数学の論文のように完全に武装して発表することはできないからである)。しかし本書の体系の構造そのものを統一のとれたものとして考察するならば、この体系の構造はいかなる危険にも直面するものではない。新しい体系が提示された際に、その全体を概観することのできるほど熟達した精神の持ち主は少ないものである。そもそもこうした精神の持ち主は、およそ革新というものを考察するには不向きな人々であって、そうしたことに興味を示す人はさらに少ないものである。
 またどんな著書でも、個々の部分をとりだして、全体の文脈から外れたところで比較するならば、矛盾していると思われるところを示せるものだ。[本書のように]とくに自由な形で議論を進めようとする書物では、こうした矛盾をみつけるのは、さらにたやすいことだろう。こうした矛盾は、他人の判断に頼る読者には、本書にとって不利な欠陥と思われるかもしれないが、本書の全体の理念を把握している読者には、矛盾とみえたものでも、すぐに解決できるはずである。
 いずれにしても、明確に確立された理論であれば、その理論にたいする作用や反作用は、当初は大きな危険をもたらしたとしても、時間の経過とともに、その理論の凹凸を均すのに役立つものなのである。だから公正で、鋭い洞察に恵まれ、ほんとうの意味での大衆性をそなえた人々が、そのための作業にたずさわってくれるならば、ごく短い期間のうちに、本書に必要とされている洗練をもたらしてくれることだろう。

V17n 修正点について
(注)ほんらいの意味で[初版と比較してこの第二版が]増加したところは、証明方法だけにかかわる部分であり、二七三ページにおいて、心理学的な観念論を新たに論駁し、外的な[事物の]直観の客観的な実在性について厳密な証明を示したところだけである(わたしはほかには証明しようがないと考えている)。形而上学の本質的な目的からみると、観念論は無害なものと考えられるかもしれない(実際には無害ではないのであるが)。しかし[外的な事物の直観の客観的な実在性については]わたしたちの外部にある事物の現実存在をたんなる信仰に依拠しなければならないとすれば、そしてそのことを疑い始めた人に納得のできる証明を行うことができないとすれば、それは哲学の醜聞スキャンダルであるだけでなく、人間の一般的な理性にとっても醜聞スキャンダルと言うべきことだろう(そもそもわたしたちは内的な感覚のすべての認識の素材を、外的な事物から受けとっているのである)。
 前記の二七三ページの三行目から六行目までの証明の表現がかなり分かりにくいので、この部分を次の文章に差し替えていただきたい。「この持続するものは、わたしのうちにある直観ではありえない。わたしの現実存在を規定するすべての根拠は、わたしの内部にみいだすことができるが、この根拠は[直観した]像にすぎないのであり、こうした像であるために、それとは異なる持続するものを必要とするのである。そして時間のうちにおけるわたしの現実存在は(この像は時間のうちで変動するのであるから)、こうした像の変動とこの持続的なものとの関係において規定することができるのである」。
 この証明にたいして、おそらく次のような反論が示されるに違いない。わたしが直接に意識しているものは、わたしの内部にあるものだけであるが、それは外的な事物についてのわたしの像にすぎない。だから[わたしが像をもつとしても]その像に対応する事物がわたしの外部に存在するかどうかは、まだ確定されていないのではないか、と。
 しかしわたしは自分の現実存在を、時間のうちで、内的な経験によって意識しているのである(だからわたしの現実存在が時間のうちで規定されうることを、同じく内的な経験によって、意識しているのである)。これはわたしがたんに自分で心に思い描いたわたしの像を意識していることだけを意味するのではないのであり、わたしの現実存在の経験的な意識を意味するものである。この経験的な意識は、わたしの外にある何か、しかもわたしの現実存在と結びついている何かとの関係によってしか、規定されることがないのである。
 だから時間におけるわたしの現実存在についてのこの意識は、わたしの外にある何ものかとの関係についての意識と同一のものとして結びついているのである。このように外的なものをわたしの内的な感覚能力と分かちがたく結びつけているものは経験であって[勝手に思い込んだ]仮構ではないし、感覚能力であって想像力ではないのである。なぜなら外的な感覚能力はすでに、わたしの外にある何か現実的なものと直観との関係なのであり、外的な感覚能力の実在性は、想像力の場合とは異なって、それがわたしの内的な経験と分かちがたく結びついていることだけに依拠しているのであり、内的な経験の可能性の条件そのものとなっているからである。
 わたしのすべての判断と、知性のすべての作用には、わたしは存在するという[直観の]像が伴うものであるが、この像にはわたしはみずからの現実存在を叡智的に意識するのである。もしもこの叡智的な意識と、叡智的な直観によるわたしの現実存在の規定を結びつけることができるのであれば、その規定のうちに、わたしの外にある何ものかとの関係についての意識が必然的に含まれている必要はないはずである。しかしこの叡智的な意識は[判断や知性の作用などに]先立つものであるが、内的な直観は(わたしはみずからの現実存在をこの直観のうちでしか規定できない)感覚的なものであって、時間という条件と結びついているのである。ところでこうした[わたしの現実存在の]規定とそして内的な経験そのものは、わたしの内部には存在せず、わたしの外部の何かに存在する〈持続的なもの〉に依存しているのであり、わたしはみずからをその〈持続的なもの〉との関係において考察しなければならないのである。だから外的な感覚能力の実在性は、内的な感覚能力の実在性と必然的に結びついているのであり、そのことによって経験一般は可能になるのである。だからわたしは自分の外部に、わたしの感覚能力とかかわる事物が存在することを確実なこととして意識するのであり、それはわたしが時間のうちで規定されるものとして現存するという意識と同じように、確実なのである。
 しかしわたしに与えられた直観の[像の]うちのどれに、わたしの外にある現実の客体が対応するのか、その客体が外的な感覚能力に属するものであって、想像力によって生みだされたものではないのかということは、経験一般を(内的な経験を含めて)想像力の働きと区別するための規則に基づいて、個々の事例ごとに区別しなければならない。そしてその際につねに、「外的な経験というものが実際に存在する」という命題を土台としなければならないのである。
 これには次のような指摘を加えることができよう。すなわち現実存在のうちの持続的なものについてわたしたちが心に描く像は、心のうちに持続的に存在する像とは異なるものだということである。〈持続的なもの〉の像は、わたしたちが思い描くすべての像と同じように、そして物質の像と同じように、変動しやすく、変動するものではあるが、それでも何らかの〈持続するもの〉と結びついているのである。だからその〈持続するもの〉は、わたしが思い描くいかなる像とも異なるものであって、外的な事物でなければならない。そしてこの外的な事物が現実存在することは、わたしの現実的な存在の規定のうちに必然的に含まれているのであり、この規定とともに、唯一の経験を構成するのである。この経験が、(部分的に)同時に外的なものでないとしたら、経験そのものが内的にも発生することはありえなかっただろう。しかしそれはどのようにして可能になるのだろうか。そのことについては、もはや説明することはできない。わたしたちが一般に時間のうちに不動なものとして存在するものをどのようにして思考するかを説明できないのと同じ理由によってである(この不動なものが変動するものと同時に存在するときに、変化という概念が生まれるのである)。

 ケーニヒスベルク 一七八七年四月

補遺

 序文(初版)

R01 理性の宿命
 人間の理性のある種の認識には、特別な宿命のようなものがある。理性は拒むことのできない問いに悩まされ続けているのである。この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、理性はそれに答えることができない。それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである。

R02 理性の闘争の場
 この苦境に陥ったのは、理性の責任ではない。理性が手始めに利用する原則は、経験において使用せざるをえない原則であり、しかも経験において十分に確証されているものである。そして理性はこの原則を使用しながら、ますます高みに上昇し(高みに上昇することは、理性の本性なのである)、遠くかけ離れた条件にまで到達するのである。
 しかしこのような形では問いそのものがなくなることはないので、人間の理性は自分の仕事に終わりがないことに気づく。そこで理性は、ありうるすべての経験的な使用を超越してはいるが、それでいて人間の常識的な理性でも了解することができるため、それほど疑わしいと思われないような原則に逃避する必要があると感じるのである。
 しかし理性はそのために曖昧さと矛盾のうちに陥ることになる。理性はどこかに誤謬がひそんでいるに違いないと推定することはできるのだが、それを発見することはできない。理性が使用している原則が、すべての経験の境界の外に出ているために、経験という〈試金石〉をもはや認めなくなるからである。この果てしない闘争の場こそ、形而上学と呼ばれるのである。

R03 形而上学の悲劇
 かつて形而上学は、すべての学の女王と呼ばれたこともあった。もしも意志することが行為することと同じであれば、形而上学はその[取り扱おうと意志する]対象がきわめて重要なものだっただけに、この[女王という]敬称に値したのである。しかし現代では形而上学にあらゆる種類の軽蔑を示すことが流行になっている。この老婦人は追放され、見捨てられ、ヘカベのように、嘆くのである──それまでは最高の権力をもち、大勢の婿や子供たちをしたがえて支配していたが、いまでは故郷を追われみすぼらしくも引きたてられてゆく(オウィディウスの『変身物語』)。

R04 形而上学の暗夜
 形而上学の支配は最初は独断論者によるもので専制的だった。しかしその立法にはまだ古代の野蛮な面影がそなわっていたため、いくたびかの内乱を経て、次第に完全な無秩序に堕落した。そして土地が安定して拓かれることを嫌う遊牧民のような懐疑主義者たちが、ときおり市民の統一を乱したのだった。しかし彼らは幸いなことに少人数だったので、独断論者たちが、たとえ一つの計画に意見がまとまることはなかったとしても、形而上学をふたたび改造し直す試みは、妨げられなかったのである。
 近代では、人間の知性についてのある種の自然学(高名なロックの理論である)によって、いったんはこれらの争いがすべて解決されてしまい、形而上学の要求の合法性[の否定]についての議論が決定されたかにみえたのである。そして形而上学は女王と自称するものの、通俗的な経験という卑しい民の生まれであるから、女王と名乗るのは僭越であると疑われても当然であるとされたのだが、こうした系譜はじつは偽造されたものだった。そこで形而上学はその要求を取り下げることなく、ふたたびすっかり古びて虫食いだらけの独断論に陥り、形而上学をそこから救い出そうとした人々の軽蔑的なまなざしのもとに置かれたのである。
 現代では(一説によると)あらゆる道が試みられたが、すべて無駄に終わったのであり、いまやこの学問を支配するのは、倦怠と、まったくの無関心である。これは学問における混沌カオスと暗夜の母であるが、[学者たちの]的はずれの熱心な営みのために、この学がかえって暗く、混乱し、使い道がなくなったのだとしても、いずれはこの学を作り直し、開明的なものにするための源泉に、あるいは少なくともその序曲になるのである。

R05 理性の法廷
 人間がその自然の本性のために、どうしても無関心ではいられない事柄についての研究[である形而上学]に、どれほど無関心を装ったとしても、無駄なことなのである。自分は形而上学には無関心であると装った人々が、学問的な言葉遣いを[わかりやすそうな]通俗的な調子に改めて、どれほど自分の正体をごまかそうとしたところで、何かについて考えようとすると、あれほどまでに軽蔑的な口調で語っていた形而上学のもとに、戻らざるをえないのである。
 ところが[このように人々が装った]無関心な様子が流行したことは、注目と省察に値する現象である。それというのもこの無関心が、さまざまな学問が開花するさなかで発生したものであり、そしてもしも手にいれることができるのであれば、万人が手に入れたいと願い、どうしても手に入れることを諦めきれない知識についての学に向けられたものだからである。
 この無関心は、軽率さから生まれたものではなく、もはや外見だけの学問ではごまかされることのない現代の成熟した判断力から生まれたものである(注)。この無関心は理性にたいして、あらゆる任務のうちでもっとも困難な自己認識の営みにふたたび着手することを、そしてそのために一つの法廷を設けることを求めるものなのである。この法廷の役割は、理性が妥当な要求を示す場合には理性を堅固なものとするが、根例のない越権を示す場合には、強権をもってではなく、理性の永遠で不変な法則によって、これを退けることにある。この法廷こそが、純粋理性批判である。

R05n 批判の時代
(注)現代の思考方法は底が浅いとか、根本的な学問が衰退していると嘆く声を耳にすることが多い。しかしわたしは、土台のしっかりした学問、すなわち数学や自然研究には、こうした非難はあてはまらないと思う。これらの学問は、以前から根本的な学であるという評価をうけていたし、自然研究はそれを凌駕しているほどだと思う。その他の種類の[学問の]認識方法においても、それぞれの原理に適切に手を加えれば、同じ[根本的な学間にふさわしい]精神が発揮されるようになるはずである。しかしこうした修正が行われない場合には、無関心と疑念のほうが、さらには厳しい批判のほうが、根本的な思考方法を示すものとなりかねない。
 わたしたちの時代はそもそも批判の時代であって、すべてのものが批判されるべきなのだ。一般に宗教はその神聖さによって、立法はその権威によって、批判を免れようとする。しかし批判を免れることでかえって、みずからに疑惑を招くことになり、真正な尊敬を要求できなくなりかねないのである。というのは理性は、自由で開かれた吟味に耐えることのできたものだけが、真正な尊敬をうけることを認めるものだからである。

R06 形而上学の批判
 わたしがここで考えている批判とは、書物や体系の批判ではなく、理性の能力全般についての批判である。いかなる経験ともかかわりなく、理性が獲得しようとしているすべての認識を、批判しようとするのである。この批判は、形而上学一般がそもそも可能なのか、それとも不可能なのか、形而上学の起源およびその範囲と境界はどのように規定されるかを、すべて原理に基づいて考察しようとする。

R07 批判の達成したこと
 わたしは、まだ残されている唯一の道であるこの[批判の]道を進むことを選んだ。理性はこれまで、経験にかかわりなく使用されたために、みずからと不和になっていたのであり、わたしは批判によってこうした錯誤を取り除く方法をみいだすことができたと自賛するものである。わたしは人間の理性の能力の欠如を口実として、理性が直面しているさまざまな問題を回避するようなことはしなかった。こうした問題のすべてを、原理にしたがってすべて列挙し、理性がみずからについて誤解しているところを発見した後に、理性が完全に満足できる形で、こうした問題を解決したのである。こうした問題の解決方法は、独断論に熱中するような好奇心の強い人々が期待していたようなものではなかったかもしれない。そもそもこの好奇心というものは、わたしにはとうてい理解できない魔力によらなければ、満足させることができないものである。しかしこれ[好奇心を満足させること]は人間の本性によって定められた理性の意図するところではない。哲学のはたすべき義務は、[好奇心を満たすことではなく]誤解のために生まれた幻影を取りのぞくことにあるのである。それによって人々から称賛され、愛好されている幻想が崩壊したとしても、それはやむをえないことだろう。
 この営みにおいてわたしが何よりも重視したのは、批判に手落ちがないようにすることだった。ここで解決されなかった形而上学の課題は、あるいは少なくとも解決のための手掛かりが示されなかった形而上学の課題は、一つもないと自負するものである。実際に純粋な理性は完全に統一されたものであるから、理性が示す原理が、理性の自然の本性によって課せられた問題を一つでも解くことができなかった場合には、その原理はすぐに捨てさってよいのである。[ある問題を解くことができなかった]その原理は、他の問題を解くことができるという十分な信頼をえることはできないだろうから。

R08 批判のプロジェクトの謙虚さ
 このように不遜なまでに高慢なわたしの言葉を読まれた読者の顔には、軽蔑をまじえた不快の表情が浮かんでいるのではないだろうか。しかしごく[大衆向けの〕通俗的な計画を立てながら、霊魂の単一性とか、世界の端緒の必然性を証明したと自称する著者たちの主張と比較すると、わたしのこの主張はごくつつましいものなのである。こうした著者たちは、人間の認識を、可能な経験の境界を超越して拡張すると主張するのであるが、わたしはこのようなことは、自分の能力の及ばないものであることを、謙虚に認めるからである。わたしが考察の対象とするのは、理性自身と理性の純粋な思考だけであって、自分の外部に、その詳細な知識をあちこち探し求める必要はないのである。というのも、わたしは自分の内部にこうした知識をみいだすからである。理性のすべての単純な働きが[わたしの内部において]完全に、そして体系的に列挙されうることは、普通の論理学が模範的な実例を示してくれるのである。疑問があるとすれば、それはわたしから経験のすべての素材と援助を取りさってしまうならば、理性だけでどれほどのことをなしうると期待できるかということだろう。

R09 内容からみた批判に必要な二つの特性
 個々の目的を実現するためには完全さが求められるし、すべての目的を実現するためには周到さが求められるのであり、これについてこれ以上は詳しく語る必要はないだろう。これは恣意的な配慮などというものではなく、わたしたちの批判的な探求の素材である認識そのものの本性が求めることなのである。

R10 形式からみた批判に必要な二つの特性
 また認識の形式について求められるのは、確実さと明瞭さという特性であるが、これは[批判のような]面倒な営みにたずさわろうとする著者に当然求められる本質的な要件というものだろう。

R11 確実さについて
 ところで[第一の要件である]この確実さについては、わたしはあらかじめ自分に次のように指示しておいた。この種の考察においては、自分の私見を述べることは決して許されないのであり、たんに見掛けだけでも仮説のように思われるすべての見解は〈禁制品〉である。こうした品はごく安価な値段でも売りにだしてはならず、発見された場合にはただちに差し押さえるべきである、と。アプリオリに確立されるべきすべての認識は、それが絶対に必然的なものとして認められることを望むと宣言しているからであり、そればかりかこの[絶対に必然的に妥当する]ことは、すべての必然的な(哲学的な)確実さの標準であり、模範であるべきアプリオリで純粋なすべての認識の規定なのである。
 わたしがこの著書で、こうした主張を実際に実現したかどうかは、読者の判断だけに委ねられる。著者の仕事はさまざまな根拠を提示することであり、この根拠が裁き手である読者にどのような効果を発揮したかを判定するのは、著者の仕事ではない。ただし本書のいくつかの箇所が、[読者に発揮すべき]効果を知らずに弱めたり、読者に不信の念をひきおこしたりすることのないように(たとえその箇所が主要な目的にかかわらないとしても)、著者がみずから注意しておくことは許されることだろう。本書の主要な目的について、読者の疑惑を招くことがあったり、その判断に影響を及ぼしたりすることがあってはならないので、それを未然に防ぎたいのである。

R12 「純粋な認識力の根拠づけ」の部分の重要性と読者への注意
 本書では、知性[=悟性]と名づけた能力を根本的に解明し、この能力を使用するためのさまざまな規則とその境界を規定する作業を行っているが、そのためには本書の超越論的な分析論の[第一篇 概念の分析論の]第二章、「純粋な知性概念の根拠づけ」[=純粋悟性概念の演繹」というタイトルをつけたところほど、重要な研究は考えられないのである。この研究はわたしに多大な苦労をもたらしたのであり、その苦労が報われないままでないことを願うものである。
 この純粋な知性概念の根拠づけの研究は、深いところに根差したものであって、次の二つの側面をそなえている。第一の側面は純粋な知性の対象にかかわるものであって、純粋な知性のアプリオリな概念が、客観的な妥当性をそなえていることを確証し、明確にすることを目的としたものである。その意味ではこの側面は、本書の本質的な目的にかかわる。第二の側面は、純粋な知性が主観とのあいだでどのような関係にあるかを考察するものであり、純粋な知性そのものを、その可能性と、純粋な知性が依拠しているさまざまな認識能力とに基づいて解明するものである。この解明は本書の主要な目的にとってきわめて重要なものではあるが、本書の主要な目的そのものではない。本書の主要な目的は、知性と理性が、あらゆる経験から離れて、何を認識できるのか、そしてどの程度まで認識できるのかという[客観的な妥当性の]問題であって、思考する能力がどのようにして可能になるかという[主観的な能力の]問題ではないからである。
 この第二の[思考する能力の]問題については、ある与えられた結果[思考]から、その原因[思考の能力]にさかのぼって考察することになるために、どうしても仮説のようにみえるものを含んでしまうのである(いずれ述べるように、実際には仮説ではないのだが)。その場合には、わたしには自分の私見を述べるのが許されるのと同じように、読者にも別の私見を述べるのが許されるべきだということになろう。そこでわたしはあらかじめ読者に注意を与えておかねばならない。もしも読者が[第二の主観的な問題にかかわる]主観的な根拠づけに、わたしが期待するほどは十分に納得できなかったとしても、本書の主要な目的である[第一の客観的な問題にかかわる]客観的な根拠づけは、その強みをまったく失わないのである。そのためには本書の九二ページから九三ページに述べたことで十分であろう。

R13 明瞭さについて
 さて最後に[第二の要件である]明瞭さについては、読者は概念による論証的な(論理的な)明瞭さを要求する権利があり、さらに直観による、すなわち実例の提示やその他の具体的な説明による直観的な(感性的な)明瞭さを要求する権利がある。第一の[論証的な]明晰さについては、わたしは十分に配慮した。それは本書のわたしの本質的な意図にかかわるものだったからである。しかし思いがけずそのために、第一の明晰さ、すなわちそれほど厳しいものではないが、やはり正当な[要求である直観的な]明瞭さが犠牲になってしまい、これに十分な配慮ができなくなったのである。
 わたしは本書の著述を進めながら、つねにこの問題をどうすべきかと悩みつづけた。実例や説明はいつでも必要なものだと思うし、最初の頃の草案には、ふさわしい場所にいれておいたのである。しかしわたしはすぐに本書の課題の大きさと、取りあげねばならない対象の多さに気づいた。そして無味乾燥な、まったくの学者的な記述だけでも、本書がかなりぶ厚い著作になることがわかったので、[わかりやすい]通俗的な見地から必要になる実例や説明をいれて、この著作をさらに膨大なものとするのは、望ましくないと考えたのである。それにこの著作はどうしたところで通俗的に利用するのにふさわしいものにはなりえないのであり、学問的な仕事に精通している読者であれば、そのようなかみ砕いた記述はそれほど必要としないものである。こうしたかみ砕いた記述はつねに好ましいものではあるが、本書の場合には目的に反したものとなりかねないのである。
 大修道院長のテラソンは、書物の大きさをそのページ数ではなく、それを理解するために必要な時間の長さで計るとすれば、多くの書物について、これほど[ベージ数からみて]短くなければ、[理解する時間は]もっと短くなったはずだと言えるだろうと、語ったことがある。しかし[本書のように]広範ではあるが、一つの原理に基づいてまとめあげられている思索による認識について分かりやすく説明するためには、まったく同じように次のようにも言えるはずである。多くの書物は、[実例や説明によって]あまりに明瞭にしようとしてなかったならばはるかに明瞭になっていたはずである、と。
 こうした補助手段はたしかに部分的には助けになるが、全体を理解するためには[読者の注意を]散漫にするものなのである。こうした補助手段があるために、全体をすばやく見通すことができなくなることがあるし、このように手段の[分かりやすさという]明るい色彩のために、全体の体系の構造や構成が塗りつぶされて、理解しがたくなってしまうことがある。ところが体系に統一があるかどうか、そしてその体系にどのような能力があるかを判定するためには、こうした構造や構成こそが何よりも重要なのである。

R14 形而上学の完成に向かって
 もしも読者が、[ある書物に]示された計画にしたがって、重要で偉大な事業を完全かつ永久的に実現できるという期待をもてたならば、読者はおそらく著者と協力したいという大きな誘惑を感じるものだろう。ところで本書で示そうとする概念にしたがって理解するかぎりでは、さまざまな学問のうちで形而上学こそは、[読者と著者が]わずかでも一致して協力するならば、近い将来において完成することが期待できる唯一の学問なのである。形而上学が完成したならば、後の世代の人々に残された仕事は、教育という目的で、自分たちに望ましい形で体系を整備するだけであって、それによって内容はいささかも増大することはないのである。
 というのも形而上学とは、純粋な理性によって与えられたわたしたちの財産のすべてを、体系的に組織することで作られた在庫目録にすぎないからである。わたしたちがここで何かを見落とすことなどはありえない。理性が全面的に自己のうちから生みだすものは(こうしたものに共通する原理がみいだされるならば)、隠されたままではありえず、理性によっておのずから明るみにだされるからである。
 この種の認識は[こうした原理のおかげで]完全な統一を作りだしているのであり、しかも純粋な概念によって統一されているものである。だからいかなる経験も、また特定の経験を生みだすとされている特別な直観すらも、こうした統一を拡張し、増大させるために、みずからの影響力をわずかでも行使しえないのである。こうした認識の統一こそが、形而上学を無条件に完璧なものとするのであり、さらに完璧であることを必然的なものとするのである。「君の住まいを眺めてみよ、持ち物がいかに簡素なものかが、わかるだろう」(ペルシウス)というわけである。

R15 残された課題
 わたしはそのような純粋な(思索に基づく)理性の体系を、いずれ『自然の形而上学』というタイトルの書物として発表したいと考えているが、その書物は本書と比較すると、対象の豊富さは半分ほどではあるが、内容は比較にならないほどに豊富なものとなるだろう。本書での批判はまず、このような[自然の]形而上学の源泉と、それが可能となる条件を示す必要があったし、雑草がはびこる地面を掃除して、平らに均す必要があったのである。これについては本書の読者にはまず裁判官としての忍耐力と公平さを期待したいし、さらには右のような体系を構築するために、援助者としての好意と助力を期待したいのである。この体系のために必要なすべての原理は[本書の]批判のなかに述べられているが、体系をさらに完全なものにするには、体系のうちに、いかなる派生的な概念も抜け落ちていてはならない。こうした派生的な概念の数は、アプリオリに見積もっておくことはできないのであって、順次探しだす必要がある。[本書の]批判においては、さまざまな概念の全体を総合する試みを完全になしとげけたのであるが、この体系においてはまだ分析する試みをやり終える必要がある。しかしこれはたやすいことであり、仕事というよりも、娯楽に近いものである。

R16 誤植の配置について
 印刷についていくつか注意しておくべきところがある。印刷の開始がかなり遅れたために、わたしはゲラの半分ほどしか、目を通すことができなかった。目を通したところにいくつか誤植を発見したが、三七九ベージの下から四行目の skeptisch[懐疑的に]という語は、正しくは spezifisch[種別的な]である。それを除くと意味が分からなくなるような誤植はない。また四二五~四六一ベージの「純粋理性の二律背反アンチノミー」のところは、表形式で記載した。つまり正命題の部分は左ベージ[本訳書では上半分]に、反命題の部分は右ページ[本訳書では下半分]にくるようにして、そのまま読みつづけられるようにした。正命題と反命題を容易に対照させながら読み進められるようにしたかったからである。

序論(初版)

 第一節 超越論的な哲学の理念

P01 経験の意味、アプリオリとアポステリオリ
 人間の知性が、感性によって与えられた感覚的ななまの素材に働きかけて作りだした第一の産物が、経験と呼ばれるものであることは、疑問の余地のないほどに明らかなことである。だから経験こそが、わたしたちに何かを教えてくれる最初のものである。わたしたちは経験しつづけることによって、新しいことをかぎりなく学ぶのである。だからこれから生まれてくる世代の人々の連綿とつづく生活において、この経験という土壌のもとで集められる知識に事欠くことはないだろう。
 しかしわたしたちの知性は、この経験という唯一の領域に閉じ込められてはいない。たしかに経験はわたしたちに、そこに何が存在するかを教えてくれるが、それが必然的に存在しなければならないことは教えてくれないし、ほかのありかたではなく、まさにそのように存在しなければならない理由も、教えてくれないのである。だから経験はわたしたちに、真の意味で普遍的なものを与えてくれることはない。そして人間の理性は、こうした普遍的な認識の方法を強く希求するものであるから、経験によって満足することはなく、むしろ経験によって刺激されるのである。
 このような普遍的な認識というものは、同時に内的な必然性という性格をそなえているものであり、経験に依存せずに、それだけで明晰で確実なものでなければならない。だからこうした認識は、アプリオリな認識と呼ばれる。これとは反対に、経験だけから借用される認識は、一般に呼ばれているように、アポステリオリにのみ認識されるとか、経験的にのみ認識されるというのである。

P02 アプリオリな認識の存在
 ところで、わたしたちの経験そのもののうちにも、じつはアプリオリな起源をそなえた認識が混じっていること、そしてこうした認識は、わたしたちが感覚能力で心に描いた像[表象]の全体的な関連を作りだす役割をはたしているだけであることは明らかであり、これはじつに驚くべきことなのである。というのは、感覚に属するもはのをわたしたちの経験からすべて取りのぞいたとしても、いくつかの根源的な概念と、こうした概念によって作りだされた判断がまだ残っているのであり、これらはまったくアプリオリなものであり、経験に依存せずに成立していたに違いないからである。わたしたちはこうした概念や判断によって、感覚に現れた対象について、たんなる経験によって教えられる以上のことを語ることができる(少なくとも語りうると考える)のである。このように語られたものには、真の普遍性と厳密な必然性が含まれていて、これは経験的な認識によってはえられないのである。

P03 経験の限界を超越する認識
 それだけではない。特定の認識のうちには、すべての可能な経験の〈場〉を離れようとするものがあり、こうした認識は経験のすべての限界を超えるところまで、わたしたちの判断の範囲を拡張しようとするようにみえる。そしてこうした認識はそのために、経験のうちには対応する対象がまったく存在しえない概念を利用するようになるのである。

P04 この種の認識の重要性
 この種の認識は、感覚的な世界を超えたものであって、経験が導きの糸を示すことも、誤りを正すこともできない認識である。そしてわたしたちの理性は、まさにこのような認識を探求しようとする。こうした探求は、その重要性から考えて、わたしたちの知性[=悟性]が現象の〈場〉で学びうるすべてのものから卓越した性格のものであり、その究極の目的も、はるかに崇高であると考えられる。そしてわたしたちはたとえ錯誤を犯す危険があるとしても、このような大切な探求のためにすべてを賭けようとするのであって、それが疑わしいという理由から、あるいはそれを軽視したり無視したりすることで、これを放棄することは決してないのである。

P05 理性の誤謬
 しかしわたしたちとしては、どのようにして獲得したのかも不明な認識と、どのようなものを起源としているかも不明な原則を信用して、経験の領域を離れるとすぐに、一つの建物の建設を始めるべきではないだろう(まだこの建造物の土台を、あらかじめ詳細な研究によって確かめることもしていないのだ)。むしろ次のように問い掛けるほうがもっと〈自然なこと〉のように思われるのだ。すなわち、知性はこのようなアプリオリな認識のいっさいをどのようにして獲得したのだろうか、このアプリオリな認識にはどのような範囲があり、妥当性があり、価値があるのだろうか、と。
 実際にこの〈自然なこと〉という言葉を〈正当に、そして理性的に行うこと〉という意味で解釈するならば、これほどに自然なことはないだろう。しかしこの言葉をふつうの意味で「ごく当然なことと]解釈するならば、この探求がこれほど長いあいだにわたって放置されてきたことほど、自然で明白なことはないのである。というのも、このアプリオリな認識に含まれる数学的な認識が、昔から確実なものとして信頼されてきたために、その他のアプリオリな認識までもが、[数学的な認識とは]まったく異なる性質のものでありうるにもかかわらず、[これと同じように確実なものとして信用されるはずだと]自分に都合のよいことを期待しているからである。
 さらにひとたび経験の圏域から超出してしまえば、経験によって反駁される心配はなくなる。自分の認識を拡張することの魅力は非常に大きなものであり、はっきりとした矛盾に直面しないかぎり、その拡張の営みを妨げうるものはない。そしてわたしたちが虚構を作りだす際に慎重に配慮しさえすれば、こうした矛盾に直面するのは避けられるのである(ただしそれが虚構であることに変わりはない)。数学という学問は、わたしたちが経験から独立して、アプリオリな認識をどこまで広げることができるかを、きわめて明瞭に示してくれる実例である。数学は、対象と認識が直観のうちに示される範囲にかぎって、対象と認識を取りあつかう。しかしこのことはすぐに忘れられてしまう。というのも、こうした直観はアプリオリに与えられうるので、たんなる純粋な概念とほとんど区別できなくなってしまうからである。
 このように数学の証明によって理性の威力に鼓舞されるため、[わたしたちはこの威力に心を奪われてしまうのであり、認識を]拡張しようとする衝動には、限界がなくなるのである。身軽な鳩は、空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気の抵抗のない真空の中であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれない。プラトンも同じように、感覚的な世界が知性にさまざまな障害を設けることを嫌って、イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の〈彼岸〉へと、純粋な知性の真空の中へと、飛びさったのだった。そしてプラトンは、その努力が彼の探求にいささかも寄与するものではないことには気づかなかったのである。[真空の中では]その上でみずからを支えたり、それに力を加えたりすることができるような、いわば土台となるいかなる抵抗もないために、知性を働かせることができなかったのである。
 しかし思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの〈宿命〉となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまな言い訳を考えだして、建物の土台は強固なものだと言い聞かせてみずからを慰めたり、後になってから点検を実行することは危険であると、拒んだりするものなのである。
 そしてわたしたちは建物を建設しているあいだも、[土台が適切なものかどうかについて]いかなる懸念も疑念も抱かずに、一見したところその土台がしっかりしたものであると、自己満足にふけるが、それには大きな理由がある。それは、わたしたちの理性の仕事の大きな部分、おそらく最大の部分は、わたしたちがすでに対象としている概念を分析することにあるためである。この概念の分析によってわたしたちはさまざまな認識を手にするが、こうした認識はこれらの概念において(まだ混乱した形ではあっても)すでに考えられていること[内容]を解明し、説明するものにすぎない。それでも形式という観点からみるかぎりは、こうした認識は新しい洞察として評価されるのである。しかしわたしたちのもっている概念は、その実質あるいは内容からみると、分析によって拡張されたわけではなく、たんに分解されたにすぎないのである。
 この分析という手続きは、真の意味でアプリオリな認識をもたらすものであり、確実で有益な進捗をもたらすものであるために、理性はみずから気づくことなく、まったく別の種類の主張をこっそりと持ち込むのである。そして理性はすでに与えられている概念に、まったく無縁なアプリオリな概念をつけ加える。しかし理性がこのようなことをする理由はわたしたちには理解できないし、それだけにその理由を問うことも思いつかないのである。だからまず、人間の二つの認識方法について区別することから始めよう。


分析的な判断と総合的な判断の違いについて

P06 二つの判断の定義
 主語と述語の関係について語っているすべての判断において、主語と述語の関係としては二種類の関係が可能である(ここでは肯定的な判断だけを検討する。後になって否定的な判断にこれを適用するのはたやすいことだからだ)。一つは述語Bが主語Aのうちにあり、Bという概念がこのAという概念のうちに(隠れた形で)すでに含まれている場合であり、もう一つはBという概念はまったくAという概念の外にあり、たんにこの概念に結びつけられているだけの場合である。最初の場合をわたしは分析的な判断と呼び、第二の場合を総合的な判断と呼ぶ。
 分析的な(肯定)判断とは、述語と主語が同一性の原理によって結びつけられる判断である。そして総合的な判断とは、述語と主語の結びつきを同一性の原理によって考えることができない判断である。第一の分析的な判断は、解明的な判断とも呼べるだろうし、第二の総合的な判断は拡張的な判断とも呼べるだろう。
 分析的な判断では、述語は主語の概念に新しいものを何もつけ加えず、たんに主語の概念を分析していくつかの部分的な概念に分解するだけである。そしてこの部分的な概念は、主語の概念において(混乱した形であっても)すでに考えられていたものなのである。これにたいして総合的な判断では、述語は主語の概念に[外から]つけ加えられるのであり、この述語は主語の概念のもとではまったく考えられていなかったものであり、主語の概念を分析しても、取りだすことができないものである。
 たとえば「すべての物体は広がり[=延長]をもつ」という命題を述べるとしよう。これは分析的な判断である。というのも、物体の概念と結びついている〈広がり〉という概念をみいだすためには、物体という主語と結びついている概念を超えて、外にでる必要はないのである。ただ物体の概念を分析するだけで、すなわちわたしがつねに物体の概念のもとで考えている多様なものを意識するだけで、〈広がり〉という述語がこの〈物体〉という主語のうちにみいだされるのである。だからこれは分析的な判断である。
 これにたいして「すべての物体は重さをもつ[重い]」という命題を述べるとしよう。この述語[重さ]は、たんなる物体一般の概念においてわたしが考えているものとは、まったく異なるものである。こうした述語をつけ加えることで、総合的な判断が生まれるのである。

P07 〈あるものX〉
 この考察から、次のことが明らかになる。第一に、分析的な判断によっては、わたしたちの認識はまったく拡張されないのである。ただわたしたちがすでに所有している概念が分解されて、わたし自身にとって分かりやすいものとなるだけである。第二に、総合的な判断を下す際には、わたしは主語の概念のほかに、何かあるもの(X)を所有していなければならない。知性が主語の概念のうちに含まれていないある述語を、この主語の概念に属するものとして認識しうるためには、知性はこの〈何かあるもの〉に依拠しなければならないのである。

P08 Xとしての経験
 経験的な判断または経験による判断の場合には、これについて困難な問題が生じることはない。この何かあるものXとは、わたしが概念Aによって思考する対象そのものについての十全な経験であって、概念Aはこの経験の一部にすぎないからである。というのも、わたしが物体一般という概念のうちにまだ〈重さ〉という述語を含めていなかったとしても、この概念は経験の一部であることによって、十全な経験を指し示しているからである。だからわたしはこの同じ経験のその他の部分も、十全な経験の一部としてつけ加えることができる。物体という概念には、さまざまな特徴が含まれている。たとえば広がりがあること、侵入することができない不可侵入性という性格をそなえていること、ある形状をもつことなどである。そしてわたしはこれらの特徴を利用することで、物体という概念を前もって分析して認識することができるのである。次にわたしは、この物体という概念を取りだしてきた[過去の]経験を振り返ることで、わたしの認識を〈拡張〉してみると、この〈重さ〉という概念がつねに前記の物体の特徴と結びついていたことが理解できるのである。だから概念の外にあるあのXとは、経験にほかならないのである。重さという述語Bを[物体という]概念Aと総合することができるのは、この経験が基礎となるからである。

P09 アプリオリな総合判断の謎
 しかしアプリオリな総合判断には、このような[経験という]補助手段がまったく欠如しているのである。わたしがAという概念に、Bという他の概念が結びついていることを認識するためには、Aという概念の外にでねばならないのだが、そのときにわたしは何に依拠しているのだろうか、この総合はどのようにして可能となるのだろうか。この場合にはわたしには、経験の〈場〉においてその根拠を探すという便利な方法を利用できないのである。
 たとえば次の命題について考えてみよう。「すべての生起するものにはその原因がある」。この〈生起するもの〉という概念においてわたしは、あるものが存在していること、そしてそのものが存在するためには、ある時間がすでに経過していることなどを考えることができ、そこから分析的な判断を引きだすことはできる。しかし〈原因〉という概念は、この〈生起するもの〉とはまったく異なることを示している。この概念は〈生起するもの〉という概念が描きだす像には、まったく含まれないのである。
 それではわたしはどうすれば、一般に〈生起するもの〉について、それとまったく異なったことを語ることができるのだろうか、そして〈生起するもの〉という概念にはまったく含まれていない原因という概念を、〈生起するもの〉に属するものとして認識することができるのだろうか。それでは知性が依拠するあの[あるもの]Xはいったいどのようなものだろうか。知性はこのXに依拠して、Aという概念の外にでて、しかもAという概念とは異質なある概念を、このAという概念と結びついたものとしてみいだすのである。
 それは経験ではありえない。[生起するものには原因があるという]前記の原則は、経験が作りだすことができるよりもいっそう大きな普遍性によって、それが必然的なものであることを表現しながら、まったくアプリオリに、たんなる概念だけによって、原因という第二の概念の像「表象]を、〈生起するもの〉という第一の概念につけ加えたのである。そしてわたしたちのアプリオリな認識による思考が成立するかどうかは、究極的にはこのようなアプリオリな総合[が成立するかどうか]に、すなわち原則が拡張されるかどうかに依拠しているのである。というのは分析的な判断はきわめて重要であり、必要なものではあるが、概念を明確にするにすぎない[のであり、重要なのはアプリオリな総合判断である]からである。ただしこれは[すなわち分析的な判断によって、このように概念を明確にすることは]総合的な判断を確実で拡張されたものにして、この新たな開拓地を確保するためには、必要なことなのである。

P10 総合判断の謎
 だからここにはある秘密が隠されているのである(注)。この秘密の謎を解かないかぎり、純粋な知性による認識の無限の領野において、確実で信頼できる進歩を実現することはできない。この謎を解くということは、しかるべき普遍性をもって、アプリオリな総合判断が可能であることの根拠を発見すること、それぞれの種類のアプリオリな総合判断を可能にする条件を洞察すること、それぞれの種類のアプリオリな総合判断の上位の類を構成する認識の全体について、その根源的な源泉と区分と領域と限界をみいだすことによって、一つの体系として規定すること、しかも簡略な輪郭線を描くだけではなく、どのように使用される場合にも過不足のないように、十全に規定することである。総合的な判断に固有の問題点については、ここではこの程度の考察でとめておくことにしよう。

P10n 過去の空しい試み
(注)昔の哲学者のうちの誰かが、この問題を提起することができていれば、現代にいたるまで[構築されてきた、独断論的な]純粋理性のあらゆる体系に、激しく抵抗することができたであろうし、[独断論的な体系を構築しようとする]多くの空しい試みが企てられることもなかっただろう。こうした企ては、そもそも何が問題になっているかを認識することもなく、場あたり的に行われてきたのである。

P11 超越論的な哲学の課題
 これまで述べてきたすべてのことから、純粋な理性批判に役立てることができる特別な学の理念が生みだされる。ところでみずからのうちに異質なものがまったく混入していない認識は、〈純粋認識〉と呼ばれる。そしてとくに、そのうちにいかなる経験も知覚も混入しておらず、まったくアプリオリに可能である認識を、端的に純粋な認識と呼ぶのである。さて理性とは、アプリオリな認識のための原理を与えることができる能力のことである。だから純粋な理性とは、あるものをまったくアプリオリに認識することのできる諸原理を含む理性である。純粋な理性の道具オルガノンというものがあるとすれば、それはこうした諸原理を総括するものであろう。これらの諸原理を利用することで、すべての純粋な認識をアプリオリに獲得することができ、こうした純粋な認識を実現することができるのである。そしてこうした道具オルガノンを詳細に適用することで、純粋理性の体系が作られることになるだろう。
 しかしこれは非常に骨の折れる仕事であるし、このようにして人間の認識を拡張することができるかどうか、拡張できるとすればどのような場合に拡張できるのかは、まだ確実なことではないのであるから、わたしたちはこれを、純粋理性と、その源泉および範囲を判定することだけを目指す、純粋理性の体系のための予備学プロペドイティクとみなすことができる。この予備学は学説ドクトリンではなく、たんに純粋理性の批判クリティックと呼ばれねばならない。そしてこの予備学はまったく消極的に利用されるものであり、人間の理性を拡張するためではなく、純化するためだけに役立つもの、理性が誤謬に陥るのを防ぐものとなろう。これだけでもわたしたちには大きな利益となるのである。
 わたしは、対象そのものを認識するのではなく、対象一般についてのわたしたちのアプリオリな諸概念を認識しようとする認識を、超越論的な認識と呼ぶ。このような諸概念の体系は、超越論的な哲学と呼ばれるべきであろう。しかしこの初期の段階においてこれを超越論的な哲学と呼ぶのは、ここでは誇大な呼びかたである。超越論的な哲学であれば、分析的な認識とアプリオリな総合認識を完全に含んでいなければならないが、ここで含めるには、本書の意図からして、あまりに範囲が広すぎるからである。わたしたちが分析することができるのは、アプリオリな総合の原理をその全体の範囲において洞察するために分析が不可欠で必要である場合だけだからである(そしてわたしたちがここで探求しているのは、アプリオリな総合の原理だけなのである)。
 わたしたちはこの研究を〈学説ドクトリン〉ではなく、超越論的な〈批判クリティック〉と呼ぶことができるだけである。それはこの学が認識そのものを拡張することではなく、認識の是正を目的としているからであり、すべてのアプリオリな認識に価値があるか、価値がないかを試す試金石となるべきだからである。わたしたちがいま試みているのは、このような研究なのである。この〈批判〉は、おそらくこうした一つの道具オルガノンを準備するものとなるだろうし、この道具がうまく作れないとしても、少なくとも純粋理性のための基準カノンを準備するものとなるだろう。そしてこの基準に基づいて、いつの日にか純粋理性の哲学の完全な体系を、分析的にも総合的にも記述できるようになるだろう。そしてこの体系の目的が、純粋理性の認識を拡張することにあるか、それをたんに制限することにあるかを問わないのである。
 この体系が可能であるということ、そしてこの体系は、その全体の完成を望めないほど大規模なものにはなりえないことは、次のことに基づいて、あらかじめ推測することができる。すなわちこの体系が対象とするのは、[人間の外部に存在する]事物の本性ではなく(それはほんらい無尽蔵なものである)、事物の本性について判断を下す[人間の内部の]知性[=悟性]であり、しかもこれがアプリオリに認識する場合にかぎられるからである。この知性はわたしたちの内部にあるもので、外部に探し求める必要はないから、その存在がわたしたちに隠されたものでありつづけることはできない。そしてどのように考えても、この知性の量はそれほどに大きなものではないから、完全に列挙し、その価値の有無にしたがって判定し、適切に評価することができるのである。


第二節 超越論的な哲学の区分

P12 超越論的な哲学と批判
 超越論的な哲学とは、ここではまだたんなる一つの理念であり、この学の理念のために、純粋理性批判はこの学のすべての設計を建築学的に、すなわち原理にもとづいて展開する必要がある。そしてこの学という建造物を構成するすべての部分の完全性と安全性を十分に保証する必要があるのである。
 ただし〈批判〉はみずから超越論的な哲学と名乗ることはない。それは批判が完全な体系であるためには、人間のアプリオリな認識全体の詳細な分析を含む必要があるからである。たしかにわたしたちの批判も、ここで述べているような純粋理性を構成するすべての根本概念を列挙する必要がある。しかし批判ではこうした根本概念そのものを詳細に分析することも、この概念から派生した概念を完全に評価することも差し控えるが、それは次の理由からみても、妥当なことなのである。まず第一に、[根本概念を分析するのではなく]総合する手続きの場合には、[その正当性についての]疑念が存在するのであり、批判の全体がこの疑念を解明するために行われるのであるが、分析の場合には[総合の手続きにみられるような]こうした疑念が向けられないから、[こうした十全な評価は]当初の目的に沿わないのである。第二に、このような[根本概念の]分析と[その派生概念の]導出の作業が完全に行われるための責任を負うということは、本書の企画の統一性を損ねるものであり、本書の目的からはこうした責任は免除されてしかるべきなのである。こうした[根本概念の]分析の十全性について、そしていずれ[超越論的な分析論で]提示するアプリオリな概念の導出の十全性については、総合のための詳細な原理としてこうしたアプリオリな概念が提示された後に、その本質的な目的に欠けるところがないことが保証されれば、すぐにでも確認できるのである。

P13 批判の課題
 こうして、純粋理性批判には、超越論的な哲学を構成するすべてのものが含まれることになる。だから純粋理性批判は超越論的な哲学の完全な理念ではあるが、まだこの学そのものではない。この批判で行われる分析の対象となるのは、アプリオリな総合認識を十全に判定するために必要な範囲にかぎられるからである。

P14 超越論的な哲学と道徳
 この学[超越論的な哲学]の区分を決定するためのもっとも重要な基準は、経験的なものを含んだ概念が入り込まないようにすることにある。あるいはこの基準は、アプリオリな認識が完全に純粋なものであるようにすることだと、言い換えることができる。このため道徳の最高原則と根本概念は、アプリオリな認識ではあるが、超越論的な哲学には含まれないのである。というのは、[こうした道徳の最高原則と根本概念を考察するためには]快と不快、欲求と心の傾き、自由な選択意志など、すべて経験的な起源をもつ概念を、そこで前提しておかなければならないからである。このため超越論的な哲学は、たんに思索するだけの理性の哲学的な理論ヴェルトヴァイスハイトである。すべての実践的なものは、それが原動力となるものを含む場合には感情に関係するのであり、感情は経験的な認識の源泉に含まれるものなのである。

P15 超越論的な哲学の区分
 一つの体系という一般的な観点にもとづいてこの学の区分を定めようとするならば、この学にはこれから示すように、第一に純粋理性の原理論を、第二に純粋理性の方法論を含める必要がある。それぞれの主要部門はさらに小さな部門に分割されるが、この分割のための根拠をここで示すことはできない。導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉は感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。
 そして感性にはアプリオリな像[=表象]が含まれているはずであり、このアプリオリな像によってわたしたちに対象が与えられるための諸条件が作りだされるのであるから、これは超越論的な哲学に含まれるものとなろう。こうして超越論的な感性論が、原理論の第一部門とならねばならないだろう。認識の対象は、ただ感性の条件のもとで与えられるのであり、その条件は、その対象が思考されるための[知性の]条件よりも前に考察しなければならないからである。

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